15話 エリザベートはヴァンに街並みを紹介しつつ家へ向かう
ラングドックの城塞都市アイガス・モルタスは首都パリから馬の旅で1ヶ月。教皇庁の座すアヴィニョンからは南東へ徒歩で1日、プロヴァンス伯領マルセイユからは西へ徒歩で一昼夜に位置する。野盗に襲われたり、ぬかるみにはまったりしなければ、だが――。
周辺の気候は温暖で葡萄やオリーブがよく育ち、都市の南には塩湖があり製塩業も盛んである。
東のカマルグ湿地帯に多数生息する馬は労働力として重要な役割を果たす。北や西には羊や牛の放牧に適した山や牧草地が広がる。
都市は運河を通じて地中海に接続しており、海外に繋がるフランス王国唯一の貿易港として、西方や南方大陸との交易により莫大な利益をもたらしている。港には地中海沿岸国から多様な船が集まっており、香辛料や絹織物や宝石などの高級品が積まれている。
四方を城壁で囲まれた長方形の街は、大路と小路が東西南北に走り、38の区に3000人が暮らす。活気にあふれた商売の声が途切れない賑やかな街だ。
エリザベートは初めて都市を歩くヴァンのために、華やかなエミール・ゾラ大通りの市場を通って家へ向かう。何処を見ても人であふれていて、ヴァンが迷子にならないように気を配る必要があった。ヴァンはキョロキョロと視線を周囲に向けて落ちつきがない。
「うわあ、凄い……」
エリザベートは自分が初めて都市を見たときのことを思いだしながら、ヴァンと同じ景色を眺める。
エミール・ゾラ大通りは広場と呼んで差し障りのない幅広の道で、北側の城壁に接しており、その手前の日陰にはゴザを敷いて物を売る者がいる。反対側は屋根付き店舗が並び客がひっきりなしに出入りする。
連なる建物の高さはまちまちだが、いずれも2階建て。限られた土地を有効活用するために隣の家と壁を共有しているため、隙間はない。
表の壁面は石材が剥きだしの物もあれば、積まれた石に赤みがかった白色のモルタルが塗られている物もある。モルタルの表面に煉瓦の絵を描き、煉瓦造りのように見せかけた建物もある。多くの建物が石畳の路地に面した1階に工房や商店を持ち、2階が居住空間になっている。
「葡萄酒を入荷したよ! プロヴァンスの赤だよ!」
壺を抱えた女が路地を行く人々に声を掛けている。アイガス・モルタスには葡萄酒を提供することを目的とした、座席を有する店は存在しない。葡萄酒の呼び売り商人から1杯のみ買うか、葡萄酒商から瓶や壺単位で購入するのが一般的だ。
右手の商店では軒先の台に魚介類を並べて売る男と、その客がいる。少し視線を上げれば1階の上に青銅細工の看板があり、魚が描かれている。魚屋に意識を奪われていると、目の前を若い男が声を張りながら通り抜けていく。
「水汲みです。御用の方はお呼びください。水瓶1杯につき1ドゥニエです! 小さい瓶ならデミ・ドゥニエで承ります!」
他にも周囲は何処へ視線を向ければいいのか分からない程、音と声があふれている。
「モンペリエから毛織物が届いたよ。この鮮やかな緋色、見ていってくれ!」
「おい小僧、やっとこの持ち方がなってない。こうだ!」
「籠1杯のプラムが3ドゥニエだよ。早い者勝ちだよ!」
「魚のフライ。1つ1ドゥニエ。どうだい。朝食を食べ損ねた人はいないかい?」
「木炭は要らんかい? 質のいい木炭だよ。今日を逃すと、次の仕入れはいつか分からないよ」
「オリーブで作った蝋燭だよ! 蜜蝋より安くて長持ちだよ!」
笛を吹く音や樽を手で叩く音に負けじと、客を誘う大声がふたりを包もうと腕を伸ばしてくる。工房からは工具で金属を打つ音と、親方が徒弟を怒鳴る声が飛びだしてくる。
「ここはねー。私やヴァンのおじいちゃんが生まれたくらいの時代に、フランスの王様が貿易港が欲しく造らせた街なの。あっちこっちから物が集まってくるから、色んなものがあるのよ」
「は、はい……」
「あー。街の光景に驚いて声も出ないか」
「今日は、市かお祭りなんですか?」
「んー。普通の日だよ」
「え? 普通の日でこんなにも賑やかなんですか?」
「運河で繋がっているから海が遠くて分かりにくいけど、ここ港町だから常に活気あるわよ。ほら。魚のフライを売っているでしょ? 風が南から吹いてくるときとか、たまーに海の匂いがするから港町だって思いだせるかな。三時課の鐘が鳴ってから晩鐘が鳴り終わるまで、音や声が途切れることはないから」
「す、凄いですね。耳がおかしくなりそうです……」
「心配は要らないわよ。私の声には癒やし効果があるんだから。ね?」
「は、はい」
ヴァンの表情が綻ぶ。
「ほら。港の豚」
エリザベートは笑いながら、少し先にいた豚を指さす。豚porcと港portの発音が同じ(末尾の子音を発音しないため同じ発音になる)という言葉遊びだったのだが、ヴァンには通じず、笑いもしない。
冗談が滑ったエリザベートは恥ずかしさの裏返しでヴァンに逆恨みの目を向けるが、彼は気づきもせずに、街の至る所に好奇の視線を彷徨わせている。