12話 少年にパンを振る舞う
「狼め、人のいる領域への侵入は恐ろしいとみえる」
兵士はエリザベートがいることに軽く驚いてから少年に「無事か」と声をかける。
少年が喘ぎながらも辛うじて「はい」と答えると、兵は「見ない顔だな。その辺で待っていろ」と言い残し、狼を警戒するために再び城門の外へ体を向けた。
兵士が背中越しに「エリザベート嬢、怪我は?」と尋ねてくる。
「暗い所から急に明るい所に出て目が眩んだだけ。平気よ」
「そうか。少しの間、そいつの世話を頼む」
「分かったわ。じゃ、君。その辺に行きましょ」
エリザベートは息を整えると、少年の掴んだままの手首を引いて、都市側に入る。
「ほら、これでもう安心だ。狼は城門の中には入ってこないから」
「はあはあ……。あり、がとう、ござ……います……」
「お礼はあとで兵隊さんに言って。ボサボサの前髪で目元が隠れていて何も見えなかった? 私は何もしていないよ」
「いえ……。泉に現れるという精霊が手を差し伸べてくださったのかと……思いました……」
「お。君ぃ。それはつまり、とても美しい女性を見たということね。うん。君の目はしっかりと見えているようね」
ぐぅぅぅっと少年の腹が鳴った。狼から逃れて安堵したところに、エリザベートが手に持つパニエから香ばしい匂いがしたから、気が緩んだのだろう。
「君、お腹空いているんだ。ちょっと待ってて」
エリザベートは少年を残して門下路を通り、外を警戒する兵士の背中に声をかける。
「兵士様。もし未使用のナイフをお持ちでしたら貸してくださらない? 今の人、お腹を空かせているの。パンを切ってあげたいのよ」
「ん? ああ。俺の髭を剃っただけだから、問題ないだろう」
「今この場では問題ないけど、私的には問題ありかな。髭を剃るなら、うちに来てよ」
兵士は腰からナイフを抜き、エリザベートに柄を向ける。
「俺はガキの頃からリュネさんのところの世話になってるからなあ」
「子供の頃は髭なんて生えてないでしょ」
「そりゃそうだ。ほら。籠を持ってやるよ」
「ありがとうございます」
兵士が気を利かせてくれたので、エリザベートはパニエを渡して持ってもらう。
丸パンに掛けてある布をめくり、聖句を唱える。
「父と子と精霊の御名によって」
ナイフでパンの表面に十字の傷を付け祝福した。この地方に伝わる風習である。
「ありがとうございます。兵士様」
「うむ。どういたしまして」
エリザベートは兵士にナイフを返すと、都市の中に小走りで戻る。
「はーい。お待たせ」
エリザベートがパンを端から一切れ手で千切ると、小麦色の皮の中で、白い中身がふわりと広がる。エリザベートはパンの端を少年に手渡す。
「はい。どうぞ、召し上がれ。焼きたてだからまだ暖かいよ。私が祝福したから美味しさ100倍」
「あ、ありがとうございます。……これは、いったいなんですか?」
「ん? ただの何もつけていないパンだけど?」
「……パン? これが?」
(んー。白いパンを食べたことのない子かあ。大麦とライ麦の硬い黒パンしか知らないのかな)
エリザベートは少年を観察する。少年は小柄なエリザベートよりも頭半分、背が低く、随分と若そうだ。パンを大事そうに持った手はよく日焼けしていて、農作業で酷使してきたであろう指は節くれだっている。
少年は最初の一口だけ慎重に囓ると、残りは一気に口の中に押しこんだ。
長い前髪の下で少年の目が輝いた。
(わっ。可愛い)
エリザベートはパンをもう一切れ千切って少年に渡す。あっと言う間に、少年の胃袋に消えた。エリザベートは楽しくなってきたので、次々とパンを千切って渡す。最終的に少年はエリザベートが数日かけて食べる予定だったパンをすべて、胃に収めた。
「わお。見事な食べっぷりだ」
「す、すみません。美味しすぎて、思わず食べ過ぎてしまいました……」
「ん。別にいいわよ。パンは空腹の人に与えられるべきものだからね。喉が渇いたでしょ? 君の食べっぷりを見ていたら葡萄酒をご馳走したくなっちゃった。ただ、都市に来たばかりの人を連れていったらいけないのよね……」
エリザベートが少年を観察していたように、彼もまた人心地ついたらしく彼女を観察してきた。やがてふたりの目が真っ直ぐ重なる。少年の瞳は真っ黒で深い。
エリザベートが、鏡に映る私の瞳は青色だったわね、と思っていると少年は頬を赤くして視線を逸らした。
その仕草が面白くて、つい、からかいたくなったエリザベートは、唇に人差し指を当てると、首を傾げて微笑む。
「私が美人すぎて見とれちゃった? 都会の女は村の女より綺麗?」
「は、はい。驚きました……」
エリザベートは細く白い人差し指を少年の眉間に突きつける。
「残念。違うのよねえ。綺麗なのは、私だからよ」
「……」
「分かるわ。本当に美しいものを目の当たりにしたとき、人は言葉を失うの」
「……は、はい」
「声が小さい。私の美貌を褒め称える声は、もっと大きくしてもいいのよ?」
少年が返事に窮していると、ちょうど都市内に戻ってきた兵士が小さく噴きだした。
少年は弾けたように兵士を向き、慌てた様子で頭を下げる。
「あ、ありがとうございました《メルセス・デ・ト・コール》。川で水を飲んでいたら狼に追われて……」
「気にするな。お前さんのおかげで豚を追い返すよりよほど有意義な仕事ができたよ」
気さくな門番が顎で示す先では、放し飼いの豚が石畳の路上にある何かを囓っていた。全身に毛が生えており鼻が長く額が狭く、イノシシを家畜化した種である。彼らはなんでも食べるので、汚物を路上に捨てるような街でも豚を放しておけば清潔になる。
鼻先で石畳の隙間をつついていた豚は何かに気づいたらしく、顔を上げると短い足で走り去った。
食事中の豚を追い払ってしまったのはマリウスだ。エリザベートの姿に気づき、早足で近づいてくる。
エリザベートは狼騒動のせいで、彼のことをすっかり忘れていた。
「げ……」
「おい。エリザベート。夜警は今日からだ。理髪同職組合から除名されたくなかったら――」
エリザベートは、ふと、気づいた。
夜警に男を出せば、理髪同職組合から文句を言われる筋合いはない。エリザベートの隣には、間違いなく自分に恩義を感じているであろう少年がいる。身なりからして行商人でも巡礼者でもない。
着の身着のまま、財産も何もなく故郷を飛びだしてきた、アイガス・モルタスへの移住希望だろう。
彼を雇って夜警に参加させれば良いのでは?




