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泳げるライオンと死なないネズミ

furry研究会の部誌9号に寄稿したものです。

自死についての内容を含みます。

 ライオンは泳げない。

 ライオンだから泳げなくて、ライオンだから泳がなくてよい。泳げなくて泳がないことがライオンだった。ライオンは水が苦手だった。

 泳げないことが何の恥にもなりはしなかった、だってライオンとはそういうものだからだ。


 泳げない奴らは群れを作っていた。それはみんな泳げない連中で、開き直って踏ん反り返ってプールの授業をフケるような──群れの外部もそれを認めるような群れだった。


 ライオンはライオンとして生きてきたからこそ泳げなかった。これはひとつの事実である。それからもうひとつ、どこの群れにも属してないようなボッチのあのネズミは、ネズミなのにどうにも泳ぎが上手だった。これもまた事実で、ライオンはその事実をほとんど偶然に知ることになった。


「おい」

 放課後にそのライオンは、そのネズミを廊下でとっ捕まえて、声をかけていた。

 その日は水泳の授業がなかったためにサボりが許容される余地も同時になく、ただ気だるく学びつづけただけの一日であった。その暮れに差し掛かる時間帯のことである。

「お前、名前なんつーんだっけ?」

「え」

「名前だよ」

「えっと、浦上。浦上高雄(うらがみたかお)……君は」

「あー、俺は桂和樹(かつらかずき)。和樹でいい」

「その……桂、くんはどうして僕に?」

 名前で呼ぶ気安い関係であろうぜと暗に伝える和樹の言葉を、高雄は平気で無視してきた。それがネズミらしき臆病さ、保身の堅さでもあった。

 それも構わずに和樹は話を続ける。

「高雄、お前水泳うまいんだな」

「うまいというか、いや、別に……そうだな。うん。嫌いではないよ、水泳……それが何……?」

「やっぱ、だよな!」

「な、なんで桂くんはそんなこと知ってるの。桂くんって、いつも授業……」

「俺はアレだよ。種族的に泳げねーから、水泳サボり組だけどよ。高雄お前、昨日スポーツセンターいたろ。で、見たんだよ。めっちゃ泳いでたなお前」

 そう、それは時間を巻き戻した、ちょうど昨日の放課後のこと。桂は自宅の近所のスポーツセンター内にあるジムに通っていて、昨日もそうしていた、単なる日常の一環の出来事であったはずなのだ。

 いつもと違ったのは、彼がプールの方に目を向けたことだった。

「ごめんなさい……」

「は? 何謝ってんだ、意味わかんねー!」

「だだだだって、僕、そんな渡せるものとか……ないし……」

「……あのさー、別にカツアゲとかじゃないんだわ。ちょっとお願いがあるだけなんだけど」

「う、うん、なにかな……」

「俺に泳ぎ教えてほしいんだよ」

「……?」

 不意をつかれてキョトンとフリーズする高雄。ふざけた齧歯のツラを晒した高雄の、華奢な肩をグッと掴んで和樹は揺さぶった。無理矢理高雄の意識を此岸に呼び戻して、和樹は怒涛の頼み込みを始める。

「だーかーらー、高雄うまいだろ水泳。俺はヘタクソなの水泳。教えてくれよ、頼むー!」

「えと、何言ってんのか、よくわかんない。何で僕なの。その、スイミングスクールとか、そういうんじゃだめ?」

「クソ金かかんだろそれ」

「えぇ……僕にはタダで……?」

「アイスおごる」

「なんでアイス……」

 自分より身体が横にも縦にもでかい肉食獣にぐわんぐわん揺さぶられながら、朦朧とした頭で高雄はそれでも疑問に思う。今自分が呑み込まれている状況、目の前で暴れる和樹と、学校で自分がこんなに誰かと長く話していること、高雄が水泳をすることを和樹が知っていること、そもそも和樹がどういうやつなのかに至るまで。それから、泳げないライオンであるはずの和樹が、こんなにも──

「……なんなの。何が君をそこまでさせるの? なんで君は、泳ぎたいの?」

 ライオンなのに。

「言ったろ」

 和樹は高雄の肩から手を外して、代わりに自分の腰に当てた。とびきりのキメ顔の類いをして、そして愚かしくも高らかにこう宣言するのだった。

「俺は泳げるライオンになりてぇんだよ」

 言い方だけは立派でいて、全く質問の答えになっていない──と高雄は頭を悩ませる。それでも和樹は堂々とし続けていた。その志が何か賞賛されるべき素晴らしいものだとでも言うように誇っていた。

 そんな様子を見て、高雄は彼の依頼を受けることにした。納得したわけでも、彼を認めたわけでもない。これは根負けというものだ。何を言っても和樹は聞いてくれないという気がした。

「……じゃあ、わかった。僕でよければ、うまくいくかわかんないけど……明日の放課後、どうかな」

「おう! 助かる! マジサンキューありがとありがと! よろしくな!」

「そうだね、そ、そうだね。うん。じゃあ、僕、先プールいるからさ。勝手に来て、ね」

「オッケー、すぐ行くわ。にしても高雄よぉ、もしかして俺と結構近くに住んでんのな。最寄駅どこ?」

「う、うーん、鷹村駅……」

「あ、やっぱしおんなじだわ。何で今まで気づかなかったんだろーな。これからは一緒に帰るか」

「それは……遠慮しとく。あー、じゃ、じゃあ、僕今日は家、帰るから。明日ね。また。うん」

「あ? おうっ! またなー?」

 話を早いところで切り上げて、高雄は逃げるように去っていく。高雄のビクビクした態度を意にも介さない和樹は、高雄に向かって朗らかに手を振っていた。

 高雄はちらりと振り返ってそんな和樹の様子を一瞥し、またすぐに逃げ出していく。予想だにしなかった事態に対して、もしかしたら自分が何か大変なことをしでかしてしまったのではないかという不安。それでもどうせ、本当に彼がプールに来るわけがないだろうという予感。を、抱えてただ小走りに駆けていった。高雄の日常が壊れる音が、少しした。


 *


 昨日和樹がスポーツセンターで、どうしてわざわざプールに目をやったのか。理由なんてない、単なる思いつきの行為だったかもしれない。むしろ視界の端に、クラスメイトのネズミがいたからこそ見てしまったのかもしれない。正しいところなんて和樹自身に分からない。その程度の無意識の心の働きのために彼は、日常の外に出ようとしていた。


 ガラス張りの天井から降り注ぐ光の梯子が、水面に蠢く鱗のような輝く粒を無数に生み出して、それを静かに静かに割くように一匹のいきものが通過した。最低限の飛沫だけをあげて、水面の粒をランダムに攪拌し、水を掻こうと持ち上げる手は力強くも滑らかなので大波のようだった。短い尻尾は水着から飛び出して、泳ぐ身体の動きに合わせて帆船のようにゆらりと進んでいく。水に触れたらたちまち朽ちてしまいそうなはずの土色のいきものは、速く、しなやかに泳いでいた。それはネズミだった。浦上高雄だったのだ。


 ライオンは水を忌避するいきものだ。和樹も幼い頃からそう教わっていたし、体感としても水は苦手だった。うっかり溺れ死んでしまえば後の祭りなのだからと、そもそも水に浸かる行為すら避けている。風呂はシャワーで済ませるし、海では砂浜で遊ぶし、水泳の授業には出なかった。それが百獣の王たるライオンの健気な生存戦略だった。


 ネズミは……ネズミはどうだろう。ネズミは泳ぐいきものだろうか。泳げるのかもしれない。ネズミのようないきものは、特に追い詰められたときなんかには馬鹿力を発揮すると言われるし。それでもやはり、ライオン同様泳ぐことを好まないのかもしれない。それでもネズミの中のある一匹は、浦上高雄は泳ぐいきものである。彼にとって泳ぐことは日常の一部である。ただそれだけの話であったはずなのだ。


 高雄にとって日常であったはずのものは、和樹にとっては非日常である。

 非日常に当たったときにいきものは、何を感じるだろうか。恐怖か、嫌悪か、興味か、それとも無関心か。──和樹があのとき感じたのは、紛れもない憧れの感情だった。泳ぐ高雄の姿を見て、「美しい」と思った。それ以上分解して解釈できない、理屈抜きの感情が和樹の全身を駆け巡って、本能に反する欲求すら呼び起こしてみせた。

 泳げるライオンになりたい。


 *


「……ほんとに来たんだ」

「たりめーだろ、約束したんだからよ」

 学校が終わってすぐに、和樹は高雄を捕まえようとした──が、持ち前の俊敏さで高雄は逃げた。こういうのだからアイツは泳ぎもうまいんだろうか、と和樹は思った。

 友達に声をかけられたり、プールの利用方法が分からなかったり、水への恐れで乱れた呼吸を落ち着けたり。まず水着を買うことから始めたばかり和樹は、更衣室でも慣れない着衣にすらもたついていた。

 そうこうして和樹がようやくプールサイドに躍り出たときには既に、高雄は一泳ぎしている最中だった。遠目にも、あそこのレーンで泳いでいるのが高雄であるのだと和樹には分かった。あれほど美しいフォームで泳ぐのは高雄に違いないと考えたのだ。事実、その予想は間違っていなかった。じきに水の中から濡れそぼつネズミが上がってきたのだから。

「やっぱすげーな、お前」

「別にすごくない。もっとすごいひと、いるし」

「でもすげーだろ。そんな体でさ」

 和樹には、身体がそれなりに大きいのだという自負があった。力自慢の肉食獣として、全身に筋肉が大きく張り出し、身長も高いので大黒柱のような体格で。当然、泳ぐこと以外の運動にかけては自信がある。オスのライオンに特有のタテガミだって、和樹を大きく見せるのに実際に役立ってすらいた。

 高雄はそんな和樹とはまったく対照的だった。引き締まった、と表現するにも首を傾げるような、貧相な体格。骨張るとまでは言わないにも短い腕や足は細く、おまけに彼は背が低かった。成長期のライオンと並んでみればよく分かる。そういうネズミの体型をしていた。

 和樹は自分と比べて、そんな高雄を観察する。

「……見るのやめて。いい気分しないから」

「あー、すまん。ま、いいや、それは。とりあえず泳ぎ教えてくれよ」

「……」

 いったい何からやるべきかと高雄は思考を巡らせる。自分は何から始めたか。まず和樹は何ができるのか。

「あー、水泳の経験は」

「ない! いちどもない!」

「ええ……。じゃ、じゃあ、水に顔付けられる?」

「無理!」

「うん、わかった……えーっと、そこからやろう」

「おうっ!」

「あっちでね」

 高雄が指さしたのは子供用の浅いプールだった。高雄が利用する大きくて陽の差し込む、海のようなプールではなく、施設の端っこに追いやられた水たまりみたいなプール。

 む、と眉をひそめて和樹は一瞬躊躇うが──しかし泳げるようになるためだ。覚悟してプールに足先から恐る恐る沈み込んでいく。

 ぬるい水が体毛をたちまち侵して、圧迫されるような鈍い不快感を覚える。ぞわぞわ襲い来る嫌な感じに耐えてようやくプールに浸かった和樹だが、水深は彼の腰の少し下程度しかない。高雄にとってはそれでも臍くらいの深さなのだった。

「高雄よぉ、お前あっちのでかいプールで足着くのかよ」

「ぎりぎり」

「うわ、嫌すぎギリギリとか。俺これでも、今もう既にヤバいんだけど……」

 水を吸って重たくなった体毛と、そしてそんな体毛に覆われた肌に吸い付く水着とが、身体の自由をこれ以上なく奪う。気を抜けば水に飲みこまれて溺死するのではないかという恐怖が和樹の脳裏によぎる。

「高雄、水怖くないのかよ」

「それは──」

 高雄は、自分の影が落ちた、暗く黒く透明な水面を見下して黙りこくる。静かに揺らめくそれを見つめながら、彼はやがて小さく零した。

「──全く怖くない、わけじゃない……けど……」

「けど?」

「怖がってたら、終われない。……怖がらないようにならなきゃ、ずっとそのままだし」

「んー? んー。まあ、分からんけど分かった。高雄も色々頑張ってるってこっちゃな」

 高雄も本当は、自分と同じように水が怖いらしい──ということが、不明瞭なやり取りから和樹が得られた唯一の情報であったし、質問に対する十全な回答でもあった。

 和樹にとって大切なことは、やっぱり自分以外の奴も水は苦手なのだという薄い納得感だけだ。だからこそかえって、なぜ高雄は泳ぎが上手いのかについての不思議は深まるばかりだった。

 和樹はそんな単純な思考をもって、「水に浸かる自分」を少しずつ日常の中に埋め込んでいく。話しているうちに、体の不快感は無意識に追いやられていった。

「僕のことはいいよ、どうでも。……練習するんでしょ」

「そうだったわ」

「水に顔付ける練習からね」

「質問。眼も水中で開けなきゃダメか?」

「そういえば、ゴーグル持ってないの」

「あーなるほど、そういうのあるなあ! こういうとき使うんか!」

「……今度もってきてね。できれば。眼は開けなくていいから」

「お、おーし。わかったやるぜ」

 まだ緊張はあるが、こうなればもう勢い任せだ。恐れを振り切る速度で和樹は、プールの中にしゃがみ込む。鼻を摘んで、口と目は固く結んだ。ばしゃんという衝撃が、水の中でもぼやけた音として伝わった。突然に浴びた水は少しだけ、温度が低いように感じた。顔にほどよく冷たい水を浴びたようで、気持ちよさもあった。

 ……それでもまだ不快感は強い。口や鼻や目や耳や、体中の穴という穴に水が押し寄せる。体内に入り込んでやろうと勢い付けて、うねって、流れ込んでくる。体と水圧がせめぎ合っているのが感覚として分かる。

 二酸化炭素を漏らせば、そこから水が滑り込んできそうなのが怖い。和樹は、酸素のない、目を閉じていて光もない世界の真っ只中。持ち堪えることおよそ五秒。その後に、暴れながら水中から脱出した。息を切らす。

「はぁ、はぁ、はぁーっ。し、しんど。やっば……キツ……」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃねえ!」

「……やめる?」

「やめ、ない……っ! も一回!」

 またしても和樹はばしゃりとしゃがみ込む。暗闇の中、今度は七秒。ぜぇぜぇ言いながら顔を出す。それからまたしゃがみ込む。十秒。もう限界だというような顔をしながら立ち上がる。

「うへぇ、えっほ、ほえぇ……。……おし! 今日はもう無理!」

「うん……お疲れ様……?」

 水中から出てきた和樹はその勢いのまま、淵に手をかけてプール自体からも脱出する。解放されて陸の世界に戻った和樹はスッキリとした面持ちだった。まだちょっと潜っただけなのに……と高雄の呆れも他所に、和樹は妙に晴れやかなのだった。

「よし! 帰ろうぜ!」

 プールサイドに立ったまま、子供用プールに残された高雄に向かって和樹は高らかに提案する。

「え……嫌だけど」

「俺今日はもう無理だわ! 高雄はまだいけんの?」

「桂くんは、帰ったらいいんじゃないの。僕はまだ泳ぐから……」

「じゃあ外で待ってるわ。俺んこと気にしないでいっからさ!」

 和樹は手を振りながら、もう水なんか見たくないというふうにスタコラとプールサイドを早足で駆けていく。残された高雄の体は未だに水の中。傍には海のようなプール。


「……なんなの、あいつ」


 そう呟く高雄の心はしかし、和樹のことよりもプールに向かっていた。放課後の陽はさらに落ちて、光差すプールもまた徐々に暗澹が揺らめくのみになっている。それがよかった。高雄にとっては、吸い込まれそうなくらい美しくて暗い水面だった。


 子供用プールから上がって二十五メートルのその暗澹へ。静かに足から滑り込んで、高雄は水に溶けていく。そのまま溶けきって消えてしまいそうなほど、ただ静かに、静かに、静かに。水中では幾らかの感覚が消えて、目を閉じれば本当に暗闇で、臨死体験をしているような気分さえする。


 ()()()()だった。高雄の心はいつでも緩やかに死に向かっていた。それはちょうど、ライオンが水を本能的に嫌うのと同じように──高雄は本能的に死にたがっていた。それが心の求める暗闇の中の日常の、最後に行き着くべき場所だった。


 *


「おっす。おつかれぃ!」

「うわ嘘。まだいたの」

 小一時間高雄が泳いだのち、夜のスポーツセンターの広間に、和樹は残っていた。

「アイスおごるって言ったろ。そこの自販機でいいか?」

「いいのに、そんな」

「いーからいーから。俺キャラメルっ。高雄は?」

「……じゃあ、チョコミント」

「ほーん、マジか。俺さぁ、ここのアイスはコーンのやつしか食べないのよ。ほら棒のやつあんじゃん、チョコミントもそうだけどさ、アレ食べてる途中でどうしてもアイス折れちまって……んで、縁起悪いからコーンの方にしてる。最後まで折れないからコーン。よくね?」

「知らない。ここのアイス全然食べたことない。一、二回とかしか」

 アイスが折れるって、食べ方が下手くそなだけなんじゃないのかな──と思っても口にしなかった。代わりにアイスを口に突っ込んだ。プール終わりに食べるアイスは、そのとき以外の全てのときに食べるアイスとは違う味がする。水でふやけた体に、体温で溶けるアイスが沁みていく。高雄にとっては懐かしい味。ちょうど、一、二回しか食べたことのない味。プールの後にアイス食べようだなんて、自分ひとりじゃ思いつかないからだ。たとえば、母親がプールに連れてきてくれたときくらいにしか、経験のないことだった。だから一、二回きりで、それ以後が無かった。

「つか高雄、門限とか大丈夫なの。俺はいいけど」

「別に……親、帰り遅いし。家いてもひとりだし」

「父さんも母さんもいねーの? きょうだいも? ひとりっ子?」

「……言う必要ない」

「あー、なんか触れない方がいいヤツ?」

「……まあ」

「ごめんごめん。んで、どうするこの後? メシ行く?」

「切り替え早……でもさ、ご飯は別に、奢りではないわけでしょ」

「そっ、それは……うーん……持ち合わせ足んねえかも!」

「僕もない。から、今日は帰る」

「おい、ちょ、ま──」

「……次も、君がちゃんと練習来るなら、そのときなら、一緒にご飯でも、いい……かも」

 それから和樹が何か言ったかもしれないが、無視して高雄は行った。昨日高雄と初めて話したあとみたいに、また自分から去っていった。それでも心持ちは昨日とは違う。放課後こんなふうにして、誰かと過ごしたのがいったい何時ぶりだったのかが思い出せなかった。

 自分のこと、彼のこと、何も思わないわけじゃないけど、何に対してのものかも分からずに、うまく言葉にならなくて、意味不明な感情が心を満たして息が詰まる。苦しいから、ただ今日の水のことを思い出している。暗い水。スポーツセンターから出た外の街ももう暗くて、家に帰れば誰もいないから暗い。

 それで良いと思える。暗いのが、暗くなるまでひとりで過ごすのが、高雄の日常だったから。

 和樹と過ごす時間は、暗闇だろうか。


 *


 夏の昼間はどうしようもなく暑くて、溶ける前に焦がされて灰になってしまいそうだった。スポーツセンターならまだしも、そんな中で屋外のプールに入るのは流石に理解が及ばない。俺たちみたいにこうして、理由をつけてサボればいいのに、とすら和樹は考えている。

 教室からは学校のプールが遠くに見えていた。そこで泳ぐどんないきものも、豆粒に等しいくらい小さく。

「そういや和樹さあ」

「んー」

「最近放課後なにしてんの」

「な、な。わかる。最近和樹ヘン」

「あー、泳ぎの練習」

「は?」

「なんそれ」

「泳ぎって、水泳? プール?」

 水泳サボり組の友達ふたりにそんな話をしてもそりゃあ総ツッコミだろうな、とは前々から思っていた。

 結局和樹は、高雄に縋り続けて、ふたりだけの水泳教室を続行していた。顔を付けるだけのことから始まって、今度は水の中で息を吐くとか、水に浮かんでみるだとか(これが特に大変だった)、ケノビとやらの練習、ビートバンを使ってバタアシしてイキツギして、覚束ないなりに仕組みは頭に入ってきた、はずだ。まだまだ水の中では体が重いけれど。そうして一ヶ月くらいは経ったか。それでもまだ夏なのだった。

「水泳だよプールだよ。悪いか」

「いや悪いとかじゃなくて、大丈夫なん?」

「大丈夫ではねーかも。ヤバい」

「じゃなんで今サボってんの?」

「見ろよアレ、二十五メートルとか無理だろ、泳げるかっつーの」

 それでも友達から返ってくるのは意外と、興味津々な反応や本気の心配の声だったりした。和樹はそれに少しだけ安心する。

「にしても、なんでんな急なわけよ?」

「急に思い立ったからなぁ、しゃーねーだろ」

「ひとりで練習してんの? 危なくねー?」

「流石にひとりじゃない。アイツとやってんだ、ほら高雄。うちのクラスの」

「誰、高雄」

「ほらあれ、ネズミのやつだろ。浦上高雄」

「あいつか。……なんであいつ?」

「高雄は泳ぎがうまい。めっちゃうまい」

「へー、しらね。つかネズミって泳げんだ? 俺ら側じゃないわけ?」

「……浦上は、あいつネズミはネズミだけど。ネズミにも色々いんだよ、泳げる種類のネズミだあいつ」

「そんなんいんだ」

「うん、いる。多分だけど浦上は、レミングなんじゃねーかな。こっちだとあんま見ないからあれだけど」

「へー、しらね。よく知ってんなー。和樹は知ってたか? その、浦上がレミング? だって」

「いや全然知らんかった。レミングってどんなん」

「泳げるネズミ」

「お前もそんだけしか知らんな、さては」

「はー、泳げるネズミ、なぁ。……お前はさ、ネコだから水が嫌いで泳げない、だろ」

「おう」

 友達が答えた。

「お前もゴリラだから泳げない?」

「うん、まあ無理」

 もうひとりの友達が答えた。

「そんで俺は……ライオン。ライオンは、泳げ……ない?」

 和樹は自分に問いかけた。

「たぶん」

「一般的にはそう」

 友達が代わりにそう答えて、それから和樹は、

「……でも俺は、泳げるライオンになりてーんだよな」

 畢竟心に浮かぶのはそればかりだった。だから本心に違いなかった。あの日、高雄の泳ぐさまに惚れ込んだときから、自分もそうなりたくなったというだけのこと。

「じゃ、がんばれば」

「無茶すんなよなー」

 耳をすませば、バタアシ、の音が聞こえる気がする。高雄は今ごろ授業に出て、あの光差すプールで泳いでいるのだろうか。夏休み前最後のプールの授業だ。夏休みはもう、明日から。


 *


「おっす先生。今日は何すんの」

「その先生ってやめて。今日は、そろそろちゃんと泳いでみようかなって」

 とか言いつつ先生しぐさが妙に板についてきたことを高雄は、軽く恥じた。

 高雄が和樹に無理矢理巻き込まれたこんな水泳教室も、意外と続いたもので一ヶ月になる。そうなればふたりの関係も少しずつは柔和になるもので、共にいる時間だって伸びていた。夏休みに時間を割くほどに。終わった後に夕飯を食べて帰ることもしばしばで、おまけにアイスも食べて、だからふたりは概ね友達と言ってもいいくらいの関係性ではあるのだろう。

 なんにせよふたりは今もこうしてスポーツセンター内のプールにいるのだった。その日はもう陽が落ちかけていて、プール全体が特別に暗かった。

「おお、ついにガチ泳ぎ……!」

「危ないから僕がついてるけど、基礎はできてきたと思うし。とりあえず、やってみる?」

「やるやる」

「じゃあ僕が体支えておくから。それで少し、泳いでみよう」

 平日のプールには客が少なくて、ふたりだけで一レーンを独占して使えるのはいいことだった。練習が捗ったし、そのおかげで和樹の学習もうまくいったことと思う。

 いつも通り泳ぎのうまい高雄と、自信が徐々についてきた和樹。案外それなら、二十五メートルも早いうちに泳げるのかもしれないな──と期待を抱きつつ、和樹はプールの始点に体を合わせた。高雄に教わったように水平に浮かんで、壁をトンと蹴って発進する。高雄は横泳ぎで和樹に並走して、腹の下に手を添えるようにして軽く支える。

 進む。進む。自分の体が船になったみたいに。水をかき回す手はオールかスクリューか。背面では飛沫を上げて確かに進む。息継ぎに顔を上げる。目に僅かな薄い光が差し込む。いける、と思った。

 ──同じ動きを何セットか繰り返したころ。一度の呼吸で取り込む空気の量が減った。呼吸に気を取られて手足が暴れる。そうなれば崩壊は早かった。

 リズムが乱れる。半身が水中に飲まれる。進みが悪くなって、


「──、──!」


 耳の中が水で満たされたので、高雄の言葉が聞こえない。

 沈む。さらに沈む。

 水の暗闇に明るいものが唯一見える。

 高雄だ。

 和樹は死に物狂いで高雄の体にしがみつく。

 それが間違いだった。和樹の大きな体を、高雄が支え切れるわけない。

 高雄も水の中に引き摺り込まれる。ふたりで溺れる。

 和樹なら足が着くはずの水深なのに、慌ててしまって、滑る。底なしの暗闇で身動きが取れない。

 暗闇の中で唯一明るい高雄を和樹は見る。

 高雄は、取り乱している和樹とは違って静かで、静かで、静かで──、


 それから、少しだけ、彼は安堵するかのように──微笑んでいるかのように見えた。


 ──。────。


 塩素混じりの水を飲んだ喉はひりついたみたいな違和感を持っていて、体調が戻った後も、監視員の優しい説教もあまり和樹の頭に入らなかった。

 高雄の監督責任が責められるべきなのか、それともふたりは対等な友達なのか。ちらと横目で、和樹は高雄を見た。彼も説教はちゃんと聞けていないようで、その目は暗闇だった。強いショックを受けたのか、虚ろな顔をして。

「……高雄?」

 厳重な注意から解放されて、彼らがいつもアイスを食べていたはずの広間で、高雄はまだ虚ろだった。

「俺も、今度から気ぃつけるし。危ない目合わせてごめんな。また、今度から水泳教えてな、最初からさ、な?」

「僕、もう、ここへは来ない」

「……だよな。マジごめん。俺のせいで、高雄まで……」

「僕じゃない。桂くんのことだよ……ほんとに、君も……なんとも思わなかったの?」

「何の話してんだよ? 俺が高雄を巻き込んで、そんで……」

「違うんだよ」

「何が」

「僕、きっとああなることを望んでた。桂くんのこと、殺そうとしたようなものなのに」

「……は? 意味わかんね……」

「だから、さよなら。桂くんも、もう来なくていいから」

「ま、待てって! 俺まだ泳げるようになってない!」

「ライオンが……泳げるわけない。知ってるでしょ? 諦めてよ」

「だーかーらー、ちょっとまっ、」

「君は泳げないし、僕は死のうとするし。……いいことなんていっこもない。……じゃあね」

 遮って、高雄は告げる。

「高雄、おいっ!」

 すぐさま高雄は走って逃げ出した。アイスも食べないで、夕食にも出かけないで、和樹を残して。

 追いかける気が起きなかった。和樹には何も分からなくて、しかし何もかもが暗闇に消える。


 それでも和樹は次の日また、プールに来た。その次の日も、そのまた次も。高雄は一度だって現れなかった。終わり行く夏休みの何処にも、高雄を見つけることができなかった。


 *


 ──高雄が初めて自分からプールに行ったのは、母と姉を失くした少し後のことだ。そのころ小学生だった。こんなときにプールに行きたいだなんて言っても父親は許してくれなかっただろうから、勝手にひとりで。

 姉が溺れて、母がそれを助けに行って、そしてふたりとも溺死した、あの日のプールは暗かった。事故の理由は、なんてことない。誰だって不意に何かにけっ躓いてしまうようなことはあるし、それが最悪の形として死に繋がることもある。姉もまだその時子供だったから、尚更だ。その時の、暗闇の中に大切なひとが飲み込まれていく様は、今も頭に焼き付いて、忘れ去られることが無い。

 音も光もすべてを閉じ込める大きな大きな蓋みたいな天井がそのプールにはあって、その下で、水は深く深く暗い色をしている。その中心に、歪な波が立った。ばちゃばちゃと強い力が闇の真ん中で暴れて、水面の粒をランダムに攪拌し、奇妙なことに闇からいくつも光が飛び散ってきらめいていた。虚弱な土色のいきものが、そこで体の勢いに任せて暴れまわっている。それははじめ高雄の姉で、のちに姉と母のふたりだった。


 ネズミにも泳げる奴と泳げない奴がいて、レミングは前者だ。泳げるネズミは勇敢にも溺れた我が子を助けに向かう。高雄は昔、どこかで聞いたさがない偏見のことを思い出す。ネズミという生き物たちはそもそもきっとどうしても泳げないはずなのに、自分から水に飛び込む愚かな、自殺願望を持ったネズミがいるらしい。それがレミングというらしい。泳げる能力についての認知が進んでおらず、レミングは、社会でそういうふうに見られることがあった。でも、だって、あながちそれも間違ってはいないんじゃないか。()()()()()()()()()()


 あの日、何もできない幼い高雄に降りかかる水飛沫は綺麗だった。自分も水の中で、あんなふうに綺麗で大きな飛沫を上げることができるのかもしれない。やがて飛沫もまた再び闇に消えて、そして自分も同様に闇の、中へ。そんなきらめきを放ち、やがてはそれも見えなくなり、そしたら姉や母のいる安寧がずっと底の方にある。


 高雄はネズミだった。自ら水に飛び込むネズミ、レミングというネズミ。()()()()()()レミングという命、は、やがて闇の中に抵抗すらせず吞み込まれていく。

 いつかの光景は恐ろしくて幻想的で美しくて、憧れに値するものだった。その感情もまた、今でも変わらない。理屈なんか求めるべくもない。大切な家族を引きずり込んだその死の匂いのする闇が、ひどく安寧を抱え込んだものに思えて仕方がなかった。

 自分もそうなりたかった。少年だった高雄の原点がそれだった。だからプールに行った。夕方の暗いプール。暗い水面。暗闇そのもの。そこに呑まれてこの世から消えることに無性に惹かれた。そして飛び込んだ。飛沫が上がった。

 体中の穴という穴に水が滑り込んできて、苦しいけど、内も外も暗闇に溶け込んでしまえると思えば悪くなかった。そのまま溺れてしまえたらいいと本気で考えていた、のに。

 押し寄せる水は、高雄の体を運んでいた。水が勝手に体を動かしていた。脚を持ち上げてバタ足を、腕を持ち上げて水をかき、頭を持ち上げて息を吸う。水の導くままに、体が勝手に泳いでいた。高雄はそうして、レミングというネズミとして、泳げるいきものだった。それは彼がレミングとして暗闇に沈む死を望むのと全く同じ次元で、彼の本能だった。

 高雄は今も泳ぎ続けている。本能が導くままに水に乗って、本能が要求するままにいつか悲劇的に事故に遭って死ぬことを期待して、今も泳いでいる。その二つの本能が決定的に矛盾していることも分かっていて知らないふりをしている。何も考えないで泳いでいる。


 そうして和樹とふたりの、あの事故以来、高雄は水泳をやめた。


 *


 和樹が高雄と再会できたのは、秋の授業が始まってからの学校でのことだった。

 和樹が何度連絡しても未読無視された。和樹がどれだけ肩を揺さぶっても高雄は反応を示さずに無視した。どれほど頼み込んでも聞かないふりをした。精一杯にらみつけても目を逸らしてきた。だから無理矢理腕でもなんでも引っ張って連れていくしかなかった。

 そうしてふたりは、もう一度だけスポーツセンターのプールサイドにいた。和樹は水着に着替えていて、高雄は水着には着替えないで、その場に座り込んで俯く。

「腕。……痛いんだけど」

「お前が何も言わないのが悪いんだろ」

 準備体操をして、ゴーグルをパチンと弾いて、和樹は入水する。

「高雄。俺、今から二十五メートル泳ぐ」

「……無理」

「できるさ」

「だって、君は、ライオンなのに」

「俺はもう、泳げるライオンなんだ」

「そういう問題じゃない、だってライオンは──」

「俺が、ちゃんと泳ぎ切れたらさ。また一緒にプール来てくれよ。もっと泳ぎ教えてくれ。あと、俺のこと和樹って呼べ。これ約束な」

「多いよ、要望……」

「簡単なことだろ。じゃ、ちゃんと見とけよ」

「……死んでもしらない」

 高雄の言葉を置き去りにして和樹は飛び立った。前とは違う、助けすらなしにひとりの和樹が暗い水の中を進んでいく。

 押し寄せる水は、和樹にとっては変わらず障害でしかなかった。全身が水に嫌悪感を示してキュッと締まる。喉が狭まる感覚がする。息継ぎをしても苦しいものは苦しい。それでも心だけは、体の動きに抵抗していた。水の中にいたい。水に溶け込みたい。水と仲良くなりたい。ライオンとしての本能に真っ向から歯向かうような、体の機能が許さないことでさえ、純粋で理屈抜きの憧れではねのけたい。

 動きが乱れて体が沈みかける。水が重たくて手や脚で押すのに異常な力がかかった。息継ぎに失敗した。顔が水面から出なかった。それでも止めるわけにはいかなかった。ばしゃばしゃと大きな音と飛沫を立てて、和樹は進んでいく。

 和樹を追うようにして、思わず高雄は立ち上がった。沈みかけの彼を見ていると、心が熱くも冷たくもざわめいて、ただ座って見てはいられなかった。ふらついた足取りでプールサイドを歩いて、和樹についていく。

「やめてよ……ほんとに死んじゃう……」

 そんな咄嗟のつぶやきはやはり、一心不乱に泳ぐ和樹には届かないのだろう。

 ……なぜなのか。あれほど焦がれた、水に沈んで死にゆく様を、高雄は今こうして改めて見る。怖い。ただ怖い。和樹が泳いでいるのが怖い。

 高雄はきっと、ネズミだから死にたがった。母も姉もそうだったに違いない。本能に従って泳いで、そして死にたがっていたのだから何も問題はない。和樹はライオンだ。だから和樹は泳ぎたいわけがない。死にたいわけがない。和樹はどうしようもなく本能に逆らっていて、高雄にはそれが怖かった。そんなことが実現できるはずもないからだ。

 暗い水面に白波を立てて和樹は進んでいく。荒れ狂う波のように暗闇をぐちゃぐちゃに引き裂いていく。何の泳ぎをしていたのかすら分からない泳法、ただ生きて二十五メートルを移動しきることだけを目指した我武者羅な動きは、そして──壁に到達した。プールの対岸の端。ゴールだった。

「はーっ、はーっ……ごほっ、はぁっ、はぁ……」

 そこでは高雄が待っていた。沈みかけの夕陽を背負っていたから、彼が目に涙を溜めていることは、和樹には伝わらなかった。

「……な、見たろ。俺は、泳げるライオンなんだって」

「へたくそ。全然、へたくそ」

「だったらもっと教えてくれよ。約束守れよな!」

「……なんで、なんで、そこまでするの」

「ライオンなのに泳げたら、だって絶対カッコいいだろ」

「そ、そんなの……!」

「あんな、俺はさ。泳いでる高雄がかっこいいなと思って、それに憧れて、さ」

「……そん、なの」

 同じだ。偶然見てしまったものに焦がれて、訳も分からず憧れて。少年の日の高雄とまるっきり同じ。

「だからもっと一緒に泳ぎたいんだ。寂しいだろ、泳げる友達、他にあんまいないんだわ」

「危ないよ。無理だよ……全然。だめだ、そんなの危ないに決まってる。僕はいい、けど、桂くんはだめで……」

「な、高雄。高雄がなに考えてんのかとか、何があったのか、俺には分からんけど」

 和樹は笑う。口角を釣り上げて、牙がむき出しで、びしょぬれのタテガミがオバケみたいに顔にのしかかっていた。しかし高雄には何にも恐ろしいところのない笑顔だった。陽のように明るい笑顔だ。

「俺はもう簡単には溺れ死なないようになったんだ。お前なんかに殺される俺じゃないんだぜ」

「……まだ、全然足りないよ、それじゃ全然。もっともっと練習しないと……じゃないと、僕……」

 和樹の笑顔を見て、高雄はようやく納得した。

 自分がずっとひとりだったのは──友達を作らなかったのはきっと、本当は、怖かったからなのだと。暗闇の中をどこまでもひとりで泳げる高雄を溺れさせてくれるのは、自分ではない誰かだけだった。いざそうなれば微笑んで受け入れたし、生き残った後にはそんな自分を恨んだりもして。泳ぎ続ける自分と、死へ向かう自分と、二つの本能が頭の中でぐるぐるまわって、せめぎあって、それでも。

 ──そっか、僕は今。

「……僕も、もっと泳ぎたい。泳ぐのって、すごく好き」

 それだけのためでも、きっと僕は泳いで行けたのに。

「じゃ、着替えてこいよ。どうせいつも持ってんだろ。水着」

「うん。……プール行かなくても、ずっと持ってた。ほんとはね」

 高雄ははにかんで、暗いプールを背に更衣室に戻っていく。そうして直にまた、暗いプールと向き合う。だけど今は和樹が隣にいる。

 ……どっちの本能も正真正銘本物で、でも今は、ただ泳ぎたかった。生きている限りどこまでも。泳げるライオンが友達にいるのなら、気の済むまで泳いでいられるのかもしれない。死にたい気持ちにも打ち勝てるのかもしれない。──あるいは不意にまた、死にたくなるのかもしれない、けど。

「ごめんね……桂くん。これからまた──」

「桂じゃない、和樹。かーずーきー。これも約束したろさっき」

「……そうだった。えと、あー、か、和樹くん。これから、また……よろしく……」

「ん! もちろんだぜ! なー、高雄!」

 釣瓶落としの秋の陽で、外はとっくに暗くって、街灯しか便りのない街は寂しい。それでもあるいは、プールの後にふたりが目指す夕飯のありかは明るい場所かもしれない。多分、どちらでもいい。どう進んでもふたりは歩いていける。泳いでいける。ふたりで過ごす新しい日常が始まって。

 周りがどんなに暗くても、明るくても、どこでも、どこへでも。すぐ隣にいる友達の姿くらいはきっと、確かに見えるのだろうから。


ネズミとライオンの獣人が好きだったのでそれを出したかった。

レミングは前々から何かのネタに使いたいと思ってたので、使いました。

レミングの持つイメージや生態を理解していないと作品が多分理解できないという謎のハードルの高さをしています。反省。


初期案のタイトルは「泳げないライオンと死にたいネズミ」だったんですが、さすがにもっと明るいほうがいいか……と思ってこの形に。タイトルを変えたおかげで話の内容もポジティブ方面に軌道修正がかかってたような気がします。


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