第二十話
初めは小さな音だった。
耳元を小さな羽虫が通った時のような、決して聞き逃してもおかしくないほどの些細な音。
それが、きんと脳内に届いたかと思えば、ふいに何事も無かったかのように消えた。
きっと音を耳にしたものの誰もが、聞き間違えか、と小首をかしげたに違いない。しかし、
「……なんだ?」
黄金の甲冑を身に着けた騎士——ゴルドはその奇妙な感覚に戸惑いを覚えていた。
障壁を展開する女、アザミとの戦闘の最中のことだった。
大剣を阻む壁を粉砕し、標的の首も後わずかというところ。突如、窓際にいたもう一人の女が叫んだ。特段、脅威として認識しなかったため構わず攻撃を続けたが。
だが、それからだ。
あの音。あの妙な音が頭の中を通り過ぎた瞬間から、何かがおかしい。
具体的には、体がコントロールできずにいた。いや、ある程度は自身の制御下にあったのだが、現在進行形で状態が悪化してきている。
彼の体は今、硬直状態にあった。
大剣の切っ先はアザミの喉元の直前で停止している。まるで、石像のように固まってしまっている。
加えて、のどに異変を感じた。
何か得体の知れない声にそそのかされるように、無性に喉を掻きたくてしょうがない。
気が付けば大剣は両手からするりと抜け落ちていた。自由になった両手は代わりに喉元めがけて動き出す。
それを意志の力だけで制したゴルドは、この現象の答えを探るべく、視線を室内に巡らせた。
そして、すぐにそれを知った。
「……しくじったか」
対峙するアザミの後方、守られる形で弱弱しく立つ少女の口元に笛のようなものが見えた。
それが霊魂器であること。何より、尋常ならざる気配から件の大量殺戮を行った張本人であることを悟り、ゴルドは兜の中で渋面する。
「それが噂の霊魂器か。どれほど大仰な見た目をしているのかと考えたが、まさか笛とは思わなんだな」
「気が付いても、もう遅いわよ。あんたは既にあの音色を聴いた。許してしまった。じきに呪いが体内を埋め尽くし、自ら死に至るでしょうね」
つい先ほどまで息を荒げていたアザミが、したり顔で言ってみせた。
彼女はおぼつかない足取りながらも立ち上がると、直立したゴルドに歩み寄る。
「さて、もう勝ちは決まったわけだけど……。あんたには散々コケにされたからね。今度はこっちの番ってもんよ」
「アザミさん! そこまでしなくても!」
窓際にいるサキが吠えるように制すが、アザミは気にも留めなかった。
「るっさいわね、いいでしょ別に。こいつは念入りに止めを刺しておかないと後が怖いもの。それにほら、見なさい」
アザミはあきれ果てたような面もちをしながら、目先の騎士を指さす。
見れば、先ほどまで弱弱しい抵抗をみせていた黄金の騎士は今、再び大剣を握ろうともがいているではないか。
「……嘘、呪いが効いていないの?」
「いや、そうじゃない。今まで笛の音色を聞いた奴らは自分の喉を搔きむしって死んだけど、こいつはそれに抵抗できるのよ。けど、それも時間の問題といったところね」
アザミは腕にはめたブレスレット型の霊魂器に触れると、冷めた表情でサキを見やった。
「だからこそ、こいつは確実に息の根を止める。まさか異論は、ないわよね?」
サキの返答を待たずして、霊魂器の能力が発動された。
もがく騎士の両脇に障壁が展開され、今すぐにでも対象をすりつぶす準備が整う。
防御としてのイメージが強いアザミの霊魂器だが、このように壁を攻撃手段として使うこともしばしばあった。ただ、バリエーションが豊富でないのが欠点なのだが。
今、彼女は死刑を執行する刑務官のごとく、止めの一撃を与えようとするのだが。
それは、一つの発砲音によって中断を余儀なくされた。
「——っ! なによ、もうっ」
つんざくような音が耳朶を打つと同時、すくみ上ったアザミの視界の先では、展開されていたはずの障壁が消滅していた。
また、それだけではない。
先ほどまで、部屋の中にいたのは確かに三人だった。それは、サキ、アザミ、対峙するゴルドの共通認識であった。
しかし、今。月明かりだけが差し込む半壊した室内に、もう一人の影が加わっていた。
「……全く、あなたらしくもない」
室内の中央、三人の視線を引く位置には銀髪の少女が一人。
蜃気楼のごとく、亡霊のごとく、凛とした面もちのミオが拳銃を片手に佇んでいた。




