砂漠
二式中戦車は、ちょっと反則っぽい技術が。
独ソ戦が無いので、独ソ戦車の驚異的進化が有りません。
ドイツは、T-34を見て刺激は受けています。
ソ連は、T-34をベースにした自走砲などの開発をしています。
日本陸軍が砂漠に入ったのは、1943年2月だった。機動部隊が地中海沿岸を荒らし回った隙に、エル・アラメインまで進出していた。
戦力は歩兵3個連隊と機甲2個連隊に工兵大隊と補給大隊という、1個師団程度の小さなものだった。ただ、日本軍としてはあり得ない贅沢な編成でもあった。つまり、完全自動車化部隊である。トラックや乗用車の他は、一式装甲兵車と一式半装軌装甲車などで編成されていた。歩兵部隊には一式砲戦車も付随する。
大陸からの撤退で生産部門に余裕が出来、日英同盟予算として予算も割り振られたために実現した。
戦車は、試製二式中戦車チへである。が、全車という訳にもいかず、チ二が40両程配備されていた。
40両のチニだが実際はチハ改で、九七式中戦車を強化した一式中戦車チニの素案に準じている。ただ改造しすぎてほぼ一式中戦車で、チハ改というのはちょっととなり、これを持ってチ二とした。
九七式中戦車改 チ二
全長 5.7メートル
全幅 2.3メートル
全高 2.4メートル
自重 16.8トン
懸架装置 水平対向コイルスプリング+独立懸架
最高速度 42km/h(良路)
行動距離 220km
主砲 一式四七ミリ戦車砲 砲弾80発
機関銃 一式車載機関銃 2基 銃弾4000発
装甲 車体正面 50ミリ
側面 25ミリ
後面 20ミリ
上面 10ミリ
砲塔正面 75ミリ
側面 30ミリ
上面 10ミリ
エンジン 統制型一〇〇式空冷ⅣストロークV型12気筒ディーゼル
出力 240馬力
乗員 5名
特徴として、極めて一式中戦車に近い外観とエンジン換装により九七式中戦車よりも長い全長になってしまった。
車体は溶接構造でまとめられ、スッキリした外観である。あの力強いイボイボは無い。
実際に操縦系に油圧サーボ式を取り入れるなど、一式中戦車の構想を実現している。
一式砲戦車 ホイ
全長 7.3メートル
全幅 2.3メートル
全高 3.2メートル
自重 19.8トン
懸架装置 水平対向コイルスプリング+独立懸架
最高速度 38km/h(良路)
行動距離 210km
主砲 二式76ミリ戦車砲 砲弾50発
機関銃 一式車載機関銃 2基 銃弾4000発
装甲 車体正面 50ミリ
側面 25ミリ
後面 20ミリ
上面 10ミリ
戦闘室正面 75ミリ
側面 30ミリ
後面 3ミリ厚開閉扉
上面 開放
エンジン 統制型一〇〇式空冷ⅣストロークV型12気筒ディーゼル
出力 240馬力
乗員 5名
大変重い戦車砲をチハ改の車体に押し込んだもの。車体後方にカウンターウウェイトを仕込んだが、かなりのフロントヘビーで運動性は大変悪い。履帯幅がチハ改と同じであり、チハ改よりも履帯の耐久性が低い。接地圧もチハ改より高く、不整地、特に泥濘地での行動力は低い。
フロントの重量増加と、戦車砲の反動に対応するためにバネも硬くなり、乗り心地も悪くなった。
戦闘室後面は弾片防御程度の開閉式扉があるが、長大な機関部を持つ砲の後端が扉ギリギリで、装填は出来るが撃つと砲尾が後退して当たるため大抵は外されるか開放されている。
操縦系・機関ともチハ改と共通である。
配備開始後にタ弾(成形炸薬弾)の開発が進み、こんな長い砲はいらないのではと言う議論も出た。
配備後、反動を軽減するために砲口制退器を装備した。
味方歩兵からは頼もしい存在だが、乗員はたまったものではなかったという。
移動時の砲身と戦車砲機関部保護が問題になり、砲身支えを車体前面に装備している。
二式中戦車 チヘ
車体幅 2.75メートル
車高 2.85メートル
全長 7.3メートル
自重 32トン
懸架装置 水平対向コイルスプリング+独立懸架
最高速度 38km/h
航続距離 250km
主砲 一式76ミリ戦車砲1門 砲弾65発
機関銃 一式車載機関銃2基 銃弾3600発
装甲 車体前面 75ミリ
側面 30ミリ
後方 30ミリ
上面 15ミリ
砲塔正面 75ミリ+25ミリ
側面 50ミリ
後面 30ミリ
上面 15ミリ
エンジン 三菱統制型二式空冷4ストロークV型12気筒370馬力
乗員 5名
アフリカに持ち込まれたのは先行量産型で1942年夏から改良をしながら少数量産された。
重量が29トンより32トンまで増加している。これは砲塔を大型化したためで車体各部の補強も有り増えてしまった。理由は、弱点としてむき出しだった主砲機関部を砲塔内に収めるためである。砲塔内に収めた結果、仰角が小さくなった。が、数千メートル先を狙う訳では無し。せいぜい3000なら問題は無かった。
車体前面装甲板は1枚板で、傾斜角42度が45度に変更となっていた。そのためペリスコープは必須装備となった。のぞき窓では、従来よりも窓の位置が遠くなり視界が悪いためだ。
操縦員は、のぞき窓では無くペリスコープから前を見る。若干の不自然さに馴れてしまえばのぞき窓よりも視界が広く安全だ。
砲塔前面装甲は75ミリに25ミリの装甲板をボルトオンした。
懸架装置は水平対向コイルスプリング+独立懸架だが、大型転輪と片側2セットの使用で荷重に耐える。ただ、そろそろこの懸架装置の限界が近い。
履帯幅はチニの倍として、不整地での行動に問題は無い。
馬力が追いついていないので、やや鈍足だ。しかし乗り越え能力は問題無い。馬力だが、改良型エンジンでは400馬力以上出る予定なので今後は大丈夫だろう。
特筆すべきは、エンジンブロックだった。
国産では前例の無い大馬力が原因でトランスミッションとクラッチの故障が多い。従来の前輪起動ではミッションケースが狭い車内に在り、防御上弱点になる前面点検用ハッチを無くしたために車内でミッションケースをバラさなくてはいけない。
それに根を上げた整備員達からの突き上げで後輪起動とし、ミッションケースとクラッチをまとめた。全長が少し伸びた。
操作系に油圧サーボを採用しており、多少遠くなっても操作は可能だった。そのせいで今度はエンジンの整備がやりにくくなった。軽整備ならいいのだが、ちょっと難しいことをやろうとすると、エンジンが奥まってしまったためやりにくい。今度はエンジン整備がやりにくいと突き上げがあった。
どうしようか悩んでいる時に、アツタやハ40が調子が出ないので多数の発動機を予備に持って、交換しながら整備していると聞いた。
これだ!エンジンごと交換してしまえ。整備済みのエンジンとトランスミッションとクラッチをセットにしてエンジンブロックとし、不調になったり壊れたら整備済みのまともな奴と交換だ。
幸い何故か予算は増えた。予備のエンジンブロックを多数用意する程度は問題無い。
この方が実戦復帰も早そうだし、良さそうだ。
この機構になったのが1942年8月で、量産試作と言う形で試験的に量産が始まった。
この頃、砲塔大型化とエンジンブロック化で重量が増え全長も長くなった。
エル・アラメインに長8センチの咆吼が響いたのは、上陸後しばらくしてからだった。
敵戦車を圧倒できる予定で、敵主力戦車であるⅢ号戦車なら事実圧倒していた。Ⅳ号G型とⅢ号突撃砲と88ミリ高射砲が厄介だ。
Ⅳ号G型とⅢ号突撃砲に対しては互角の戦いだった。
チニ・九七式中戦車改は、短砲身のⅢ号戦車には互角以上に戦い、長砲身Ⅲ号だとやや不利。Ⅱ号戦車は圧倒していた。Ⅳ号戦車には、短砲身相手なら辛うじてと言うところだった。
この戦いで一式砲戦車は、対戦車だけではなく自走砲代わりにも使われた。大仰角は取れないものの射程6000メートルを確保しているためだった。機動力が悪く動けない一式砲戦車が、チ二やチホよりも総合的には活躍していた。
英日軍が、有力な航空支援を得てドイツアフリカ軍団とイタリア軍の抵抗を押し切り、エル・アラメインを抜いたのは1943年4月のことだった。
有力な航空支援とは、二航戦と五航戦の空母4隻だ。アレクサンドリアを拠点に地中海で行動を始めたのだ。マルタ島基地を潰し、トリポリも攻撃した。これにより、ドイツアフリカ軍団への補給は細くなってしまった。
次回更新 5月8日 05:00
イギリスは、アメリカが参加していない時期にマルタ島を失っています。
アレクサンドリアへの補給は喜望峰経由で時間と労力が掛かります。
独ソ戦が無いので独ソ戦車の驚異的進化が有りません。しかし、アフリカにはⅣ号G型が100両程度配備されています。Ⅲ号突撃砲も長砲身です。Ⅲ号戦車はヒトラーのわがままで60口径も有ります。