3話
「――――」 「――――」
「――――」 「――――」
ベッドの寝転がっていたオレはいつの間にか寝ていた。ドアの向こうから聞こえる話し声で目が覚める。
怠い体を起こして、ドアの方に目をやると、壁に空いたご飯のトレイを置くスリット越しに少女と目が合った。彼女もオレに気づいたようで、目を見開いた後、ドアの方にかけていった。
目元が記憶の中の妹に似ていた。でも、記憶の妹と少し違うようにも感じた。
こんこんと、控えめにノックがされて、ドアが少し開かれた。
「阿木さん、お休みのところごめんなさい。起こしたかな? いま、あなたのお父さんと妹さんが来られているけど、会いますか? 」
「あ、はい。会います」
ドアの隙間から顔をのぞかせた看護師さんの提案にオレは頷いた。
それから一度ドアが閉められてから再び開かれて入ってきたのは、父さんだった。
ガタイのいい図体に似合わない恐々と伺うような様子で中に入ってきた。
仕事終わりか、抜けてきたのだろう工場の作業着姿だった。記憶の父さんからあんまり変わってないが、少し髪に白髪が混じって、顔にも新しく皺ができたような気がする。
「……直斗」
「久しぶり、父さん」
オレと対峙して口籠る父さんに、オレから先に声をかけた。
本当に久しぶりの再会だった。
父さんは、オレの声を聞くと、おもむろに距離を詰めてきて抱きしめてきた。
作業着からするオイルと父さんの整髪料の匂いに、懐かしさがこみあげる。
母さんの時と違い、父さんの抱擁は、密着しつつも壊れものに触れるような力だった。背中を何度も大きな手が撫でた。
「よく戻ってきた。頑張ったなぁ、直斗」
父さんは、何度も同じ言葉を鼻声で繰り返した。
父さんは、泣いていた。
「ごめん。心配かけて」
「いいんだ。お前が戻ってきてくれたなら、それで、本当に……」
きっとそれは、俺が正気に戻ってきたことに対する言葉なのだろう。
それでもオレは、ここへ戻ってこられてよかったとその言葉を聞いて思えた。
父さんは、ひとしきりオレを抱擁した後、気持ちを落ち着かせるためにハンカチで顔を押さえながら、一度病室を出て行った。
その後ろ姿をオレは、感慨深げに見送る。
自分のことで、普段は口数の少ない父さんがここまで感情をあらわにするとは思わなかった。
そんなことを思っていると、ドアが少し開かれる。そこから覗くのは、さっき壁のスリット越しに見えた目と同じだった。
「何やってんだ。陽菜」
――バン!
声をかけたら、ドアを結構な勢いで閉められた。鳴り響いた音に苦笑いが浮かぶ。
少し間が空いてから、またドアが僅かに開かれた。
「……お兄ちゃん、よね? 」
「そうだよ」
そう答えたら、やっと妹の陽菜は、部屋の中へと入ってきた。
青い制服を着た妹は、母さんや父さんよりも記憶の姿から大きく変わっていた。
身長がさらに伸び、短かった髪が肩に広がるくらいにまで伸び、顔から幼さが抜けていた。カワイイからキレイへと変わったという印象だ。記憶の同級生よりも先輩に感じる。
いや、実際に3年が経過していたのだから、中3から高2になった妹は、高1の時の同級生よりも先輩に見えるのは当然か。
「久しぶり、陽菜」
「……うん、久しぶり」
陽菜は、緊張しているようでキョロキョロと視線を周りに向けて、オレと目を合わせないようにしていた。会話が止まってしまったので、オレから話を振った。
「母さんから聞いたけど、事故からもう3年経ってるんだな。その制服、うちの高校だよな。無事に受かったんだな。おめでとう」
「あっ、うん。ありがとう」
「部活は、吹奏楽部を続けてるのか? 」
「ううん、もうやってない」
「そうか。今は何の部活やってるんだ? 」
「部活はやってない。けど、読者モデルをちょっとしてたりする、かな」
「読者モデル!? えっ、モデルしてるのか。すごいな」
「そんな大したことじゃないよ。スカウトしてくれた雑誌でたまに声かけてもらってるだけだから」
改めて、陽菜の容姿を見るが記憶の中の中学の頃と比べても磨きがかかった容姿は、確かにモデル向きなのかもしれない。
「そっか。陽菜はすごいな」
「……お兄ちゃんだって、すごいよ。こうしてお兄ちゃんが話せるようになったのは奇跡だってみんな言ってたよ」
奇跡か……
そもそも女神さまに選ばれなければ、こんな目に合わなかったと思うと、皮肉が効いてるなと思ってしまう。だが、あっちで無事に役目を果たしたからこそ、帰ってこれたと考えると、この奇跡は自分が掴み取ったものだといえる。
二度と会えないかと思った家族とこうして会えたのだから、それは本当に奇跡なのだろう。
「お兄ちゃん……」
勝手に瞳から溢れてきた涙をオレは袖で拭った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
あれから、少しして落ち着いた父さんが戻ってきて、言葉を交わしていると面会が終わった。
別れ際に陽菜から「退院したらダイエット付き合うよ」とオレの贅肉まみれの身体を見ながら言われた。ちょっと心にきた。
家族の面会の後は夕食だった。
メニューは、おかゆ、味噌汁、ほうれん草とひじきの白和えに、南京と里芋のそぼろ煮だった。デザートととして、ヨーグルトが入ってた。
白和えは、ねっとりとした豆腐が濃厚で3年ぶりに味わう風味に自然と笑みが零れた。和食を食べているという気持ちが帰ってきたという実感を強くさせて、薄い味付けなのに鮮烈に感じられる。そぼろ煮も、甘辛く煮詰められていて、南京のねっとりとした甘さが素晴らしい。根菜の煮物料理なんて手のかかるものは、異世界でも久しく食べていなかった。
あと、ヨーグルト。
これは、異世界でも口にしたことがあった。発生した歪みの対処のために現地の狩猟民族と共同戦線を張ったことがあった。その時に、家畜の胃袋から作ったというヨーグルトを口にした。あれと比べると獣臭さがなく、酸味が少ない。何より、砂糖が入ってるから甘い。
この料理を食べるために戦ってきたといっても過言ではないかもしれない。
食事が終わった後にそんな満足感に満たされた。
食事は大事だ。戦いに明け暮れ、歪みから生まれる化け物の波が減った時に元の味もわからない塩漬け肉を人外の咬筋力で嚙み切って、カチコチの固焼きビスケットなパンを嚙み砕き、酸味と渋みの強いワインで流し込む。それで終わりだった。
戦場じゃ、清潔な水なんてない。魔法で生み出す水があれば、化け物を倒すために回すか、傷ついた味方を癒すために使われる。自分自身、湯水の如く溢れる魔力だって有限で、戦場を維持するためには少しでもそこに回さなければならなかった。だから汚水の代わりにワインを飲む。アルコールなんて毒素は女神からもらった体には効かないが、水の代わりに飲むためだけにアルコール発酵させたワインの味はどうしようもなかった。
強烈な塩味と雑味と酸味と渋味だけの食事は、戦いは続けれても心が死ぬ。まさにあれは戦い続けるためだけの餌だったといえる。
戦いは終わった。
世界の危機だった歪みは治まり、女神が終結したと認めた。
だが、歪みから生じた化け物の残党はまだ世界に散ったままだろう。
戦場となって荒れ果てた場所は、すぐに元通りにはならないだろう。戦場で消費した人員に物資を立て直すにも時間がかかるだろう。
セドリックたちが、あの世界の兵士たちがこのような満ち足りた食事ができるのは一体いつになるのだろうか。
確かに帰りたかった。日本食は恋しかったし、家族には会いたかったし、元の平和な学生生活に戻りたかった。
だけど、もう少し彼らといたかった。
せめて、もう一度まともな料理を食卓を囲って一緒に食べたかったなぁ。
「阿木さん、ご飯は終わりましたか? 」
「あ、はーい。ご馳走様でした。そっちに食器持っていきますね」
物思いに耽っていると、男性の看護師が様子を見に来たので、食べ終えた食器を壁にできたスリットにトレイを返却する。そして、そこに置いてある薬を水と一緒に飲む。
「うん、きちんと飲めましたね。ところで阿木さん、今日は調子がいいですし、シャワーを浴びてみますか? 」
「浴びます! シャワー浴びたいです! 」
「うん、わかった。じゃあ、すぐ準備するから、気持ちを落ち着かせて待っててね」
シャワーが浴びれると聞いて、食い気味に答えたら看護師には苦笑された。恥ずかしい。
しかし、シャワーか。
この部屋にはそんな設備はないから、別室か。
何週間ぶりだろうか。贅沢を言えば、帰ってきたんだし、お風呂に浸かりたかった。
だけど、ベッドに拘束されてたような意思疎通のできなかった患者がお風呂に入れてたとは思えない。実際、髪とかべたつきが気になる。シャワーも普段使えてたわけではないみたいだし、布とかで体を拭うくらいしかできてなかったんじゃないだろうか。
本当に生活の質も体の質も社会的信用も下げるような杜撰なフォローで、女神に対しては文句が募るばかりだ。
「阿木さん、シャワーの準備ができました。気持ちは落ち着いたかな」
女神に再会した時の文句を考えていたら、看護師が戻ってきた。彼が持っているのは、バスタオルと服、オレの着替えか。
「あ、準備ありがとうございます。はい、落ち着いてます」
「うん、大丈夫そうだね。じゃあ、シャワー室まで案内するから一緒に行こうか」
「はい! 」
部屋の外は、真新しい清潔感と温かみのある病院らしい廊下だった。
どうやら自分の部屋の隣は、看護師が事務仕事や待機している事務室みたいだ。
しかもこの廊下の先には、自分の部屋以外だともう1室しかなくて、突き当りがシャワー室だった。
これ閉鎖病棟とかいう病室の中でも特別監視が必要な患者対応じゃないか?
とか思っていたが、シャワーのために服を脱いで合点がいった。
見るに堪えない贅肉には、ベルト状の青あざをはじめに、胸や腕、背中の各所には自分でえぐったようなひっかき傷、顔もよく見たらえぐったような傷が増えていた。恐らく、搔きむしったり暴れてついた自傷の跡だ。
誰も口にしていないが、オレが還ってくるまで意思疎通が困難で、ベッドにガチガチに拘束されてるのが日常茶飯事だったのなら、他傷もしていたのかもしれない。
入室してくる時の陽菜の反応も思い出してみると、合点がいく。そう考えると、病院側の対応も妥当だと思える。むしろ、そんなオレに対して、看護師さんたちの対応はとても丁寧だった。意識が戻ったことを考慮に入れても、職業意識の高い真摯な方たちだと思う。
しかし、手首についたベルトの傷が染みるな。
「……ここはひとつ試してみるか」
想起する。
胸の奥にある魂から流れるプラーナを肺の中の大気から取り込んだエーテルと混ぜ合わせて、魔法を行使するためのマナを練り出す。
うん。ちょっと体が違うせいか、どの力も動かしにくいが、マナを作れた。
魂由来の力だからか、プラーナの量は前と変わらない。
むしろ、前よりも底が見えない感じがある。ただ、体に慣れなければ、一度に出力して扱える力の量は以前とは比べ物にならないくらい小規模になりそうだ。
だが、戦場を薙ぎ払う広域魔法なんてこの現代で使うとも思えない。
「――この身に刻まれた傷を癒せ」
今、練り出したマナで周囲のエーテルにも干渉して、自分に対して治癒魔法を行使する。
体の各所に感じていた疼く痛みが、すっと消える。手首を見ると、まるまるとした贅肉にできていた青痣混じりの擦り傷が消えていた。
やはり、贅肉は消えないか。
体の損傷である傷と違って、エネルギー源になる脂肪を溜め込んだ贅肉は、治癒魔法で治す異常とは捉えられないのだろう。
地道に頑張るか。そう思いながら、久しぶりの熱いシャワーを堪能し、体の垢を洗い落として、さっぱりホカホカになった。
あぁ、早くお風呂に浸かれるようになりたいものだ。
着替えを済ませ、待機してた看護師に声をかけながらオレはしみじみそう思った。