1話
気がついた時、天を見上げていた。
見渡す限り空を覆っていた厚い黒雲が大きく裂けていた。
その隙間から差す光芒が粉塵の舞う戦場を照らしていた。
それはまるで俺たちの勝利を祝福する女神の福音のようだった。
しばらく天を見上げたまま呆けていると、ガシャガシャと金属鎧が奏でる音が聞こえてくる。
「ナオト! 生きていたかっ! 」
その音と一緒に仲間のセドリックの声がした。
身体に力が入らないなりに、視線だけを声の方へと向けると元は豪奢だった鎧をボロボロにしたセドリックがこちらへと駆け寄ってきていた。その背後には、フランクリンに肩を借りているバレットとアンの姿もあった。
「流石」
「へっ、あんなでけぇ歪みの中に飛び込んでって無事たぁ流石、救世主さまだな。俺はてっきりおっちんじまったかと思ったぜ」
アンが俺の顔を見るなり、言葉少なく呟いた。フランクリンの肩を借りながらやってきたバレットが俺を見て、哄笑する。口は悪いが、その顔は晴れやかそうだった。
「バレット、不敬ですよ。それに、そんなに笑っていると傷口が開いて死にますよ。止血しかしていないのですから」
「うるせぇ。ここで笑わなきゃ、いつ笑うってんだよ! 俺たちは勝ったんだぞ。世界の破滅を止めたんだぞ! 」
フランクリンの小言を一蹴して、バレッドは声を張り上げる。
それを聞いて、ああ、ほんとに終わったんだな。と、実感する。
「ああ、そうだ。戦いは終わった。ナオト! 凱旋だ! 約束通り、まずは私の国の王都で凱旋をするぞ! お前には、俺の隣に立ってもらうぞ」
凱旋か……確か、そんな約束を前にしたな。
「……それは無理だな。俺の役目は終わった」
「……っ! 何を言っているんだナオト! 凱旋もせずに終われるものか! まだ終わってないぞ! お前なしの凱旋で誰が納得するというのだ! 」
いいや、終わりだ。
少なくとも、女神はもう終わったと判断をしたのだろう。
「ナオト、薄くなってる」
「おお、女神よ。我らが彼を称える暇すら与えてはくれぬのですか」
傍にしゃがんだアンが俺の身体を見て呟き、フランクリンが目を伏せて頭を振る。
こうして、最後に仲間と言葉を交わせているのが女神の温情なのだろう。
五感も曖昧になってきた。
ぼやけた視界でセドリックが何か叫んでいるのが見えるが、もう何を言っているのかわからない。
本当にもう最後なのだろう。
ならば、一方的にでも別れの言葉を彼らには伝えておくべきだろう。
「……セドリック、お前はきっといい王になるよ」
「フランクリン、お前は立派な神官だよ。心を救える立派な神官さまだ」
「バレッド、酒と女はほどほどにな」
「アン、お前はちゃんと食べてしっかり寝るんだぞ」
そして、女神様。約束は果たしましたからね……
『ええ、ナオト。よくぞ使命を果たしました。あなたとの最初の約定に従い、あなたを元いた場所へと還します。あなたのお陰で、この世界は救われました。ありがとうナオト』
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
気が付くと、オレはベッドで寝ていた。
仲間たちに別れを告げた後に女神様の声がした気がする。
しかし、ここはどこだろうか。
「んんっ? なんだ、これっ」
ベッドの中で身動ぎをしようとして、自分の手足が何かでキツく固定されているのに気付いた。
拘束を解こうと四肢に力を込めるがビクともしない。腹にもベルトのようなものが巻かれており、上半身を起こすことすらできなかった。
「くそっ、なんで引き千切れないんだ」
まるで独房のような殺風景な部屋で囚人のようにガッチガチにベッドに拘束されていては、動揺するなというのが無理だった。
今まで女神に与えられた体を拘束する術なんてなかった筈だ。
なにより、目覚めた時から感じていた便意が決壊寸前だった。
状況把握を放棄してでも自分の尊厳のためになりふり構っている状況でもなかった。
「ちょっと誰か! 誰かいませんか!? 漏れそうなんですけど! 漏れるんですけど!! 誰か来て、早く! 漏れる!! 」
いるであろう自分を拘束している人に向けて、懸命に叫んだ。自分の尊厳の瀬戸際ともあって、俺は必死だった。
俺の必死の声が部屋の外にも届いたようで、部屋の外から複数の足音が近づいてきて部屋の扉が開かれた。
入ってきたのは、看護服を着た3人の男女だった。
「阿木さん、どうしましたか? 」
「トイレに、行かせてください……漏れそう……! 」
女性の1人からの質問に懇願するように答えたら、何故か全員がぎょっとした反応を返した。
息を呑んだり、目を見開くなど大げさに思える驚いた反応を三者三様に見せて固まる。
何に驚いているのかはわからないが、そんな反応をする前に動いてほしかった。
「すみませんが、ほんとうに、もう限界でっ……! 」
「わ、わかりました。では、今から阿木さんの手足の拘束具を取るので暴れたりせず、大人しくしてください」
「わかり、ました。早く、お願いします」
男性の言葉を了承すると、3人の手によって拘束具が速やかに外された。手足を解放され、腹部が圧迫していたベルトが外されると、若干便意が引いて、余裕が生まれた。
「ありがとうございます。それで、トイレはどこですかね」
「トイレはそこでお願いします」
酷く重たく感じる体を起こしてトイレの場所を尋ねると、看護師の1人が部屋の隅に設置してある金属製の洋式トイレを指さした。
何故か見守ろうとする看護師たちに平身低頭でお願いして退出してもらって、用を足した。
「一体どういう状況なんだこれ……日本に帰ってきたんだよな? 」
ズボンを下ろした時に気づいたオムツを履いていることはひとまず忘れて、自分の置かれた異常な状況の把握に努める。便座に腰かけたまま、今一度部屋を見渡す。
「病院っぽく見えるが、なんか隔離されてないか? 」
部屋は、全面コンクリートで、パステルカラーの緑や水色が単色で壁に塗られている。
ベッドは、手すり付きで両手足とお腹を拘束するベルトが付属している。
部屋の隅には洗面所がある。窓はなく、天井に埋め込まれた蛍光灯が1組だけ。
ドアは鉄製で、ドアに面した壁は郵便ポストのような大き目の穴が空いていて、そこに空の食器が乗ったトレイが置かれていた。
「それにこの体……」
自分の体に視線を落とす。その姿は、異世界で救世主として活躍していた時とは違う。女神から世界を救うための力として与えられた肉体ではなく、自分の生来の肉体、のはずである。
「太ってるよな、これ」
視線を下に落とすと、服を下から押し上げる腹肉が目につく。贅肉という言葉から縁遠かったオレは、神妙な顔で自分の体についた脂肪を揉む。脂肪の下は碌に筋肉がついておらず、腕に力を入れても力こぶは生まれなかった。
中学時代にサッカーで走り込んで絞った体は見る影もなく、異世界で救世主してた時の筋肉隆々とは雲泥の差だった。
「樽腹のドワーフだってもっとマシな体つきしてるぞ」
異世界の時だって恵まれた体に胡坐を掻かず、鍛錬を怠らなかった。そんな自分の体がこんなにも情けない姿になっていることに、怒りを通り越して、笑いたくなるおかしな気分だった。
――コンコン
物思いに耽っていると、ドアをノックする音で現実に引き戻された。
「阿木さん、もう終わりましたか? 」
「あ、もう終わります。ちょっと待ってください」
先程入ってきた男性の看護師の声に返事を返しつつ、床に置かれたトイレットペーパーを手に取った。
「まぁ、いいさ。やっと平和な日本に戻ってきたんだ。脂肪を落とす時間はたっぷりとあるか」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
用を済ませた後、水を流そうとしたら、どこにもレバーがなかった。探してたら看護師さんが外から操作して、水を流してくれた。用を足すことすら管理されてるとは、想像以上に厳重に隔離されているな。
オレ自身は、女性の看護師に促されてベッドの縁に腰かけた。そして、ボードを片手に持った女性の看護師から質疑を受けることになった。
「阿木さん、これからいくつか質問をしますので、自分がわかる範囲で、答えてください」
「えっと、はい」
「では、お名前を教えてください」
「阿木 直斗です」
「何歳ですか? 」
「25……じゃなくて、えーっと、今は何年ですか? 」
「阿木さんが自覚している年齢でいいので教えてください」
地球と異世界との時差の可能性に気づいて尋ねたが、看護師から遠回しに断られて、眉を寄せる。単純に異世界で過ごした年月を足せば、年齢は25歳となる。しかし、異世界に行ってから、地球でそう時間が経過していないなら、16歳前後になる。
この太った肉体から年齢を推測するのは難しい。
「16、ですかね? 」
悩んだ末に異世界に行った年の年齢を答えた。女性の看護師は、それを否定も肯定もすることもなく、淡々と回答を記録した。
「はい。次に、阿木さんの家族構成を教えてください。できれば、ご家族の年齢と職業もお答えください」
「えーと、父母と妹の4人家族です。父は48歳、母は45歳で工業製品の製造業をしてます。妹は中学3年生の14歳です」
「はい。阿木さんはここがどこだか知っていますか?」
「いいえ」
「どうしてここにいるのかは覚えていますか?」
「いいえ」
「ここにくるまでの最後の記憶はどこですか? 」
ここで目覚める最後の記憶と聞かれて、異世界で仲間に別れの言葉を告げた瞬間を思い出す。しかし、こんな夢物語の話をするのはどうかと思って、異世界に行った時の方を思い出す
「えっと……学校に行くために家を出て通学路を自転車で走っていたところまです」
「それはいつの頃ですか?」
「2016年の5月くらいでした。日付までは覚えてません」
「はい。それでは……」
看護師は、その後も質疑を続け、オレの回答をカリカリとボードの用紙に記録していった。
「――はい。質問は以上となります。お疲れさまでした」
しばらく続いた質疑が終わると、ほっと安堵の息が漏れた。
別に疑われているなどではないが、まるで回答の正否よりも内容が重要なようであり、自分の心を観察されているようだった。異世界に行っていたという隠し事があるだけに、自分の答えに問題はなかったかドキドキであった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
質疑が終わると、看護師と入れ替わりで、食事がトレイに乗って運ばれてきた。トレイは、壁に空いた口の上に置かれた。オレは、近寄って食事を持ってきた看護師に壁越しに声をかけた。
「昼食ですか? 」
「はい。お一人で食べられますか? 」
「はい、一人で大丈夫です。ありがとうございます」
「わかりました。それでは、食後に飲んでもらうお薬をここに置いておくので、食事が終わったら飲んでください」
「わかりました」
持ってきてくれた看護師に礼を言い、トイレを持ち上げる。どこか机の上にでも置いて食べようかと部屋の中を見ますが、この部屋にはトレイを置いて食べれるような場所はなかった。仕方なしに阿木は、ベッドに腰かけて膝の上にトレイを乗せた。
食事は、おかゆに、豆腐、サラダ、肉じゃがで、デザートにバナナがついていた。
「おぉ……! 」
蛍光灯の光でキラキラと輝く白濁したおかゆに、感嘆の声が漏れた。
そして、豆腐、肉じゃがと視線を移し、急くようにトレイの上の箸を探すが、見つからなかった。代わりに見つかったのは、樹脂製のスプーンだった。阿木は、箸がないことを疑問に思うが、そんなことよりも目の前の久しぶりの和食が最優先だったため、疑問は棚に上げて、スプーンを握った。
そして、おかゆを掬って口へと運んだ。
生温いおかゆがとろりと口の中で広がる。口をもごもごとすると、柔らかくなったお米が舌と歯によってすり潰されて、ふわりと米の甘みが香った。
「うまい……」
恐らくほとんど塩が振られていないお米は、戦場下で塩を舐めているような干し肉などと比べ、無味に近いほどの薄味だったが、阿木にはお米の甘みが強く感じられた。
次に手をつけた肉じゃがは、じゃがいもの芯まで味が染みており、久しぶりの醤油の風味に味わいながらもおかゆと一緒に、口の中に掻きこむ。レタス、プチトマト、キュウリのサラダは、えぐみがほとんど感じないことに驚き、プチトマトの酸味と甘みを懐かしむように目を細めた。醤油が見当たらず、そのまま食べた豆腐は、久しぶりに食べた味であり、こんな味だったなとまた目を細めた。
そして、最後に一切れのバナナを口にし、そのねっとりとした甘みにうっとりとした。
異世界で駆け抜けた戦場に熟した果物が手に入る機会はめったになく、特に最終決戦となった戦いは、今までで最大規模だった。世界の歪みから際限なく湧く化け物たちを相手に半年という長期に渡った戦いであり、実に半年ぶりの甘味だった。
「――ごちそうさまでした」
しばらくバナナの余韻に浸った後、手を合わせて感謝を捧げる。食べ終わったトレイを壁の口へと戻した。代わりに、看護師に言われていたカプセル状の薬が入ったコップを持ち、一緒に置かれていたペットボトルの水で薬を飲んだ。
言われたまま飲んだが、何の薬だろうか? こんな部屋で拘束されていたことだし、鎮静剤の類か?
食事は、若い男性からしたら少ない量だったが、十分に満足感を覚えていた。これは、久しぶりの和食を味わえたこともあるだろうが、単純に胃が小さくなっているように感じた。そのことから、それなりに長期間、この状況が続いているのではないかと推測できる。
しかし、それだとこのだらしない肉体が説明できないな
意識が戻った時にベッドに拘束されていたことを考えると、運動量の低下が原因のように思うが、それにしたって食事量に対して、太り過ぎなように感じる。飲んでいる薬の副作用も考えられるが、異世界に行っている間のこちらでの記憶がないので何が原因なのかは、わからなかった。
「太った理由も、どうしてこんなところにいるのかも、ここの人に聞けばわかるか」
どういった経緯でここに隔離され、薬の投与がされているのかを知らないが、こうして異世界から意識が戻ってきたことで、そういった状況が改善すればいいなと希望的観測を抱く。
やっと帰ってこれたというのに、病院に一人隔離されて薬漬けという生活は、いくら命のやり取りがない生活といっても勘弁したいものだった。
「―ぅ―。――」
ベッドに横になり、真っ白な天井を眺めながら、そんなことを考えていると、遠くから聞こえる聞き覚えのある懐かしい女性の声を拾った。誰の声だったか……と、記憶の中を探っていると、控えめなノックがされて、ドアが開かれた。
入ってきたのは、くたびれたワイシャツ姿の中年くらいの女性であり、オレの見知った女性だった。
「母さん? 」
記憶の中の母さんよりも皺が増え、白髪が混じり、老けたように見えるが、その女性は阿木の母親であった。
母さんは、息子がベッドから身を起こし、自分を呼んだというありふれた現実を前にして、まるで白昼夢を見たかのように声をつまらせていた。そして、一拍置いてから手に持っていた荷物を取り落とし、両手を口に当てて、溢れだしそうになる想いを押し留めた。
「……直斗なの? 本当に、私の直斗なの? 」
「ああ、俺は母さんの息子だよ」
その言葉で、決壊寸前だった母さんの涙腺は決壊し、目から大粒の涙を流しながら、駆け寄り、抱きしめてきた。
「ずっと待ってた……ッ! 本当の直斗が戻ってくるのを、ずっと待ってたわ。おかえりなさい。おかえりなさい、直斗」
もう離さないと、オレをかき抱く母さんの抱擁は、その場に繋ぎ止めようとするかのように力強かった。
「――ただいま、母さん」
オレもまた、9年ぶりの母の温もりを確かめるように抱きしめ返した。