中二病の女の子に異世界に連れていかれる話
高校2年生の春。
クラス変えがあったとは言え、特に一緒のクラスになりたいお目当ての女子がいたわけでも、仲のいい大親友がいるわけでもない俺、佐藤優理からすればそれはなんでもないただの春なわけで。
進路は未定、部活はちょっと前に退部してしまって、バイトもしてないする気もない、勉強もさして出来るわけでもないやる気のない俺が、あの日の放課後なんとなく屋上に行ってみたら入り口の鍵が開いていたのはきっと何かの偶然で。
そこに学校で一番の美少女なんだが、言動がいつも電波的なことから“中二病乙姫”なんてあだ名で呼ばれている彼女がいたのもきっと、何かの偶然だったんだと思う。
いや、振り返ってみればそれは偶然じゃなくて運命だったのかもしれない。
扉の向こう、屋上の手すりにもたれかかるようにして景色を見ながらたそがれている“中二病乙姫”こと宮村乙姫がそこにいた。
綺麗な夕焼けを背景に、風で髪をなびかせている彼女の目鼻立ちの整った綺麗な横顔を見て、俺はなんだか漫画やアニメのワンシーンのような幻想的な雰囲気を感じてしまっていた。
「佐藤くん……?」
扉を開く音で俺が入ってきたことに気がついた宮村がこっちを振り返る。
その左腕には彼女の“中二病”を象徴するところの白くて長い包帯が巻かれていた。
「よ、よう。邪魔したか? あ、邪魔だったら俺どっかいくから……」
「だ、大丈夫! どこにも行かないで!」
宮村の顔が赤くなっているのは差し込む夕日のせいだろうか。
まあ屋上で一人たそがれているところにいきなり誰かが入ってきたら恥ずかしくなってしまうのもわかる気はする。
それよりもどうして宮村はこんなところに1人でいるのだろう。
まぁ俺も俺で、なんとなーく屋上からの風景でも見ながらボーっとしたいな、とか思ってここへ来ているわけだから人のことはとやかく言えないが。
「……宮村はどうして屋上に?」
このまま屋上から立ち去るのも、無言のまま肩を並べて過ごすのも気まずくなりそうなので俺はそう訪ねてみることにした。
宮村はしばしの逡巡の後、包帯の巻かれている左手で顔を覆うというカッコよくもちょっとイタい人に見えるポーズを決めながら口端をにやりと歪めてこう言った。
「クックック……ここは学校の中でも一番“魔素”の強い場所であり、異世界とこの世界を結ぶ“門”になりえる場所。ボクは異世界への扉を開くために毎日ここへ来ているのさっ……」
「……」
開いた口が塞がらないというのはこのことだろうか。
別に俺自身はそれをなんとも思わないが……。
彼女の今のような発言、そして1年中巻いている左腕の包帯なんかが、いわゆる中二病の人を揶揄するときに使われるネットスラングの「中二病乙」と名前の乙姫を組み合わせた例のあだ名の「中二病乙姫」の命名に繋がったのだろう。
「異世界への扉ね。まぁ行けるもんなら俺も異世界に行ってみたいけど」
宮村の言っていることは十中八九が中二病患者の特有であるところの“設定”や“妄想”の類の発言であることは分かっていたが、俺はそれを頭ごなしに否定して笑うのは違う気がしてなんとなく話を合わせてみることにした。
まぁ学年一の美少女(顔だけは)と名高い宮村と俺は、この春初めて同じクラスになったばかりで今まで何の接点も持たなかったので、彼女が実際のところどんな人間なのかにも少し興味があった。
平たく言えばめっちゃ可愛い女子とお話できるのが嫌な男子なんていないってわけだ。
「えっ!? 佐藤くんも異世界に行きたいの!? 私と一緒だよ! 一緒に行こうよっ!」
なぜかめちゃくちゃ食いつかれた。
ところで宮村さん、興奮して俺の手を思いっきり握ってるんだが……あと顔が近い!
ていうか近くで見るとやっぱめちゃくちゃ可愛いな……言ってることもめちゃくちゃだけど。
「行きたいというか、まぁ興味があるくらいなんだが……」
「佐藤くん」
「はい」
宮村は先ほどよりも強くぎゅっと俺の両手を握りしめて、らんらんと目を輝かせながら次にこう言った。
「私は異世界への入り口を知ってるの。だから今夜、一緒に異世界に行こう」
「……」
それから俺は異世界異世界と、すれ違う人に聞かれたらつい恥ずかしくなってしまうほど大きな声で嬉しそうにはしゃぐ宮村に手を引かれるまま、学校を飛び出して電車に乗った。
1時間後。
「……宮村、どうして俺はお前の家にいるんだ?」
「どうしてって……私の家に異世界への入り口があるからだよ?」
俺と宮村は学校から電車で4駅ほど先の駅前にあるマンションの一室にいた。
宮村よ、確かに俺は異世界に行くと言ったかもしれんが、家に行くとは一言も言ってないんだが……。
間取りから言えば2Kの一室。中央のテーブルに向かいあうように俺たちが座っているリビング兼宮村の私室であるだろう場所は綺麗でいい匂いのするところだった。
あまり物色するのは失礼だろうと思って横目でちらちらと見るぶんには、デスクと本棚とテレビを始めとしたまあいたって普通の部屋の内装である。ベッドがないところを鑑みるに、きっと奥の部屋が寝室なのだろう。
「宮村って一人暮らしなのか」
「そうだけど……あっ! そういうつもりで家に呼んだわけじゃないからっ、だから、あのっ、ヘンなことはしないからねっ!」
宮村はあわあわと手を振りながら赤くなってしまう。いやヘンなことって別に俺もそういうつもりで来たわけではないんだけど…………本当だよ?
「まだ18時だし……そうだ! ゲームしようよ!」
そう言って宮村はコントローラーを俺に渡してきた。ここでゲームをチョイスするあたり彼女は意外とインドア派なのだろうか。
「ホラクエは2人じゃできないから……あっ、これやろうよ。スマシス!」
スマシス……はて何のゲームだろう。
「スマシスやったことない?大乱闘スマッシュシスターズっていう格ゲーなんだけど」
やったことないな。壮大な姉妹喧嘩ゲームに聞こえなくもないがどんな格闘ゲームなんだろうか。
それから俺たちは30分ほど可愛らしい女の子キャラの戦いに興じていたが、俺が全く宮村に勝てずに飽きてやめてしまった。
だってジャンプしてステージに復帰しようとする俺のことを、空中で宮村のキャラが追撃してボコボコにしてくるんだもん、あんなの勝てるわけねーよ。
しかしそんな雑魚初心者の俺が着地狩りに泣いている間も宮村は
「クックックッ……やはりボクの使うピーチは最強っ! 死ねえぇぇええええっ!」
と終始ご満悦の様子だった。まぁ宮村が楽しそうだったからいいか。
「意外とゲームとかするんだな」
宮村から差し出されたお茶を啜りながら何気なく聞いてみる。どうしてだろう、宮村みたいに可愛い女の子はゲームなんかしないんじゃないかという謎の先入観があった。
「うんっ! ゲームもするし、漫画も見るし、小説も読むしアニメも大好きだよ! そうそうおススメの小説があってね……」
宮村は嬉しそうにそう言いながら、本棚にずらりと並べられているライトノベルの一冊を手に取り俺へ差し出してきた。
「RE:RE:∞から始める異世界生活……面白いのかこれ」
「もうめっちゃ面白いから絶対に読んで! 感動するよ!泣けるから! そうそう私は双子の妹の方が推しでね、この子がすっごい可愛いんだけど負けヒロインなんだよね。だけどだけど、メインヒロインのレミリアたんもすーっごくいい子で……」
宮村は目をキラッキラに輝かせながらマシンガントークを続ける。
どうしてだろう、言ってることの8割近くは俺が理解できない単語で並べられているはずなのに、こうも嬉しそうに楽しそうに自分の好きな趣味のことを話す彼女の姿を、不覚にも可愛いと思ってしまうのは。
「本棚を見る限りだと異世界転生系……?の小説が好きみたいだな」
宮村の本棚に並んでいるライトノベルのタイトルのほとんどに「異世界転生」の文言が散見して見受けられた。どうでもいいがやたらタイトルが長い作品が多いのは気のせいか。
俺は並んでいる本の中でも一際長いタイトルの一冊を手に取ってみる。
「トラックに跳ねられて異世界に転生した俺は前世の知識を使いSランクパーティーに入り覚醒した後チートスキルを使って無双する~あれ?また俺なんかやっちゃいましたか?~……参考までに聞くけどこれはどんな話なんだ?」
「それもめーっちゃ面白いのっ! 詳しくはネタバレになるから言えないんだけどね、前世で引きこもりのニートだった主人公が死んで異世界に転生することになっちゃって……」
……また宮村の早口トークが始まった。
俺はこういう異世界転生系(?)のライトノベルは読んだことすらなくて、どちらかと言えばSFやミステリーが好きなんだが、こうもその魅力を熱弁されると多少の興味も湧いてくる。
「……前世では辛いことがあって引きこもりになっちゃった主人公でも、異世界に転生したらすーっごい強くてモテモテなの! あ、そうそうこれはギルドの受付のお姉さんがサブヒロインなんだけどこの子もすごく可愛くてねっ……」
さっきからやたらと女性キャラをピックアップして紹介してくるが、宮村は物語に出てくる可愛い女の子に萌えるクチなのだろうか。
しかし現実では宮村自身もそれこそ物語に出てくるようなかなりの美少女なわけで、変なあだ名こそつけられてはいるがいわゆる宮村推しの男子は結構多かったりする。
かくいう俺も宮村推しとまではいかないが、学年一の美少女である彼女を目の保養くらいには思っていたわけで。
中身が電波的というのはよくよく噂話で聞いていたから話しかけたことは一度もなかったのだが。
そもそも宮村はクラスでそんなに喋る方じゃない。
特定のグループに入っているわけではないが決してイジめられたりしているわけでもなく、
1年の時に彼女が誰かに命名された中二病乙姫という珍妙なあだ名が一人歩きしていて、
2年になった俺たちクラスメイトも皆どういう風に接すればいいのか分かりかねているような感じの少し浮いた存在で。
だからこうして宮村のプライベートな一面を見せられている今、俺は奇妙な背徳感にも似た優越感を感じていた。
学校一の美少女と二人きりの時間、嬉しくなっちゃうのもわかるだろ?
「……私も死んだら異世界に転生できるのかな」
それはぽつりと呟くような声量で、宮村の言葉をさっきから横流し気味に聞いていた俺にもしかしはっきりと聞こえた。
視線を移せば宮村の表情は先ほどまでの楽しそうなものから一変して、どこか高いところから世界を俯瞰するような、ニヒルと言ってもいいような寂しさや悲しさを含ませたものになっていた。
ーーこれも宮村のいつもの電波的、中二病的発言なのだろうか。
そんな風にも思えた、しかしこの時の俺は彼女の横顔を見て、きっとそれが違うということを強く確信していた。
「異世界への入り口を宮村は知ってるんだろ。まさか一緒に死んで異世界に行こうなんて言わないよな」
冗談めかして、だが「死」という言葉を強く否定する意味も込めて俺はそう言った。
上手く言えないが、宮村に秘められた闇みたいなものを垣間見た気がした。
「……そ、そう! ボクは異世界への入り口を知っている……クックックッ、丑三つ時になればボクのこの左腕に封印されし魔力は解放され、奥の寝室から異世界への扉が繋がるのさっ!」
「丑三つ時って夜中の2時まで俺はここにいるのか!?」
「あ、明日は土曜日だからいいのっ! そのくらい夜更けにならないと魔力が足りないのっ!」
ぽかすかと俺の胸を叩く宮村からはさっき見えた気がした闇の影はもう跡形もなくなっていて。
しかし俺の直感は確かにこうも告げていた、彼女はきっと何かを隠していると。
それは果たして一体何なのだろうかと考えていると、ぐぅ。とあまりにも間の抜けた音が俺と宮村の間に流れる空気を一気に弛緩したものへと変えた。
「アハハハハ……お腹すいたね?」
「たしかに腹減ったな……なんか食べに行くか?」
時計を見れば現在の時刻は19時。
窓から見るに外はすっかり暗くなっているし、本当に夜中までここにいるかどうかはまた別の話だとしても、一緒に夜ご飯くらいは食べてもいいだろう。
なんだか宮村に流されるまま物事が進んでいる気もするが、それはそれでなんというか非日常を感じて悪い気はしなかった。
「んー家から出るのめんどくさいしなぁ……あっ! うーばーしようよ! うーばー!」
そう言って宮村はいそいそとスマホを取り出してアプリを起動させた。
ちなみに彼女の言う“うーばー”とは飲食の宅配サービスの名称である、簡単に言えば出前。アプリが入っていることから考えるに常習犯とみた。
「佐藤くんなにか食べたいものある?……あっ! 私お寿司食べたい! 回転ずしも配達してくれるんだよ!」
俺の返事も聞かずに宮村は「おっすしー♪」と鼻歌を歌いながらスマホでメニューを吟味し始めた。
いや、俺もお寿司は好きだから別にいいんだけどさ。
それから1時間も立たぬ間に配達員さんの手によって宮村宅にはお寿司が届けられた。全くスマホ一台で便利な世の中になったものである。
俺と宮村は各自好きなネタを注文していて、俺は当たり障りのないものをバランスよく10皿ほど頼んでいたのだが……。
「って宮村の頼んだやつ、サーモンといくらしかないじゃねえか」
「だってスシラーのサーモンすごく美味しいんだもん! 炙りサーモンでしょ、オニオンサーモンでしょ、あとサーモンカルパッチョに……」
宮村の折の中は見事にオレンジ色の握りと赤の軍艦で埋め尽くされていた。ちなみにいくらは鮭の卵なので宮村は実質鮭しか食べないことになる、とんだ偏食家もいたもんだ。
「子供のころの夢じゃなかった?お寿司屋さんに行った時に好きなネタだけぶわーって並べるの」
「まぁ確かに俺も子供のころはやたらとマグロだけ食べてた気がするから分からなくもないな」
「そうそう! そんな風に好きなものだけ食べてたらお母さんから怒られちゃって……」
そこで宮村はそれ以上の言葉を続けることをやめた。つっかえたと言う方が正しいような感じだった。
「冷めちゃうし早く食べよっか……ってお寿司は冷たいから最初から冷めてるね、ハハハ」
取り繕うように笑いながらそう言う宮村の表情が、どこか悲し気なものに見えたのはきっと俺の気のせいなんかじゃなかったはずだ。
それから俺たちはテーブルを囲んで食事をとった。
テレビから流れる音を後ろに聞きながら、やはり宮村の好きなアニメや漫画や小説の話に相槌を打ちつつ、俺は一体どうして学校一の美少女とこうして食卓を囲んでいるのだろうと考える。
宮村に引っ張られるまま学校を飛び出し、こうして家にお邪魔することになり、あまつさえ一緒に食事をして……。
俺たちは付き合っているわけでもないのに宮村は一体何を考えているのだろうか。
『私は異世界への入り口を知っている』
宮村は屋上で俺にそう言った。
その言葉が文字通りの意味ではないことなど現実問題として理解していたつもりだが、こうして宮村と過ごす時間は確かに俺からすれば非日常の体験で、それはまるで異世界に連れてこられたような感覚で……。
目の前でコロコロと表情を変えながら話す宮村を見てるのはなんだか俺も楽しくて。
だからこそどうしてだろう、時折宮村がはっきりと見せる寂しさや悲しさといった表情が目についてそれが気になってしまうのは。
ーーあぁ、俺は宮村のことが気になるんだ。
これを好意と呼ぶのか、はたまた恋愛感情と名付けることができるのかはわからない、だけどはっきりとわかることがある。
ただ宮村には楽しそうに笑っていてほしい。そう強く願ってしまう自分がいた。
中二病乙姫なんてあだ名で呼ばれているが、彼女はゲームが好きでお寿司が好きな、どこにでもいるただの女の子なんだ。
なんて一人もの思いに耽っている俺の思考は宮村の次の一言によって現実へと引き戻された。
「お、お風呂。佐藤くん先に入っていいよ……」
「お、お風呂!? いや俺は別に泊まるつもりじゃ……着替えも持ってきてないし」
「大きいサイズのジャージとTシャツ持ってるから貸してあげる! だ、だから先に入ってきて!」
「お、おう……じゃあそれならお先に……?」
ってそれでいいのか俺! これじゃあ本当に宮村は今日この家に俺を泊めるつもりで……?
ちらりと宮村の表情を窺ってみると小さな顔を真っ赤にして俯いてしまっていた。
どうやら彼女は本当に丑三つ時であるところの夜中の2時まで俺を引き留めて一緒に異世界に行くつもりらしい……いいのか、それ。
流れで返事をしてしまった手前、俺は今更後にも引けず、はやくはやくと宮村に背中を押されて風呂へ入った。
シャンプーの匂いが宮村のいい匂いの正体なんだ、なんてどうでもいいことに気が付いたりして。
俺はゆっくりと浴槽につかるのはそれはそれで厚かましいような、変態だと勘違いされたりしても困るなとか考えながらも早々に風呂を済ませて、宮村が用意してくれたジャージとTシャツに着替えてリビングへと戻った。
「ふ、風呂ありがとう。宮村も入ってこいよ」
「うん、私お風呂長いんだけど……あんまり部屋の中は見ないでね」
「お、おう……テレビでも見ながら待ってるよ」
そんなやり取りの後、カチャリという音を残して宮村は扉の向こうへと消えた。
1人手持無沙汰になってしまった俺は言われた通り部屋を物色するような無粋なことはせず、ただテレビとスマホに視線を往復させていた。
……しかしこちらも思春期の男子高校生。意識するなという方が無理な話で、シャワーの音が微かにこちらに届いてくるや、俺がさっきまでいた場所に宮村は今産まれたままの一糸まとわぬ姿でいるという事実に妄想が……。
「……ん?」
脳内の宮村の裸の映像(俺の妄想)はデスクの上に飾られている一枚の写真に微かな違和感を感じたことでどこかへと消えてしまった。
「東小学校第78回卒業式……」
学校の校門を背景に2人の女性が映っている写真。
それは小学生の時の宮村と思われるとても可愛らしい女の子と、隣にはこれまた宮村によく似ている母親だろう綺麗な女性が一緒に笑顔でピースサインをしているところだった。
察するにこれは宮村が小学校の卒業式の時に撮った1枚、問題はなぜこんなありふれた写真に俺が違和感を覚えたかというところにある。
デスクの上には他に飾られている写真はない、つまりこれは宮村自身が選んだ思い出に残る1枚ということだろう。じゃあどうしてそこに一緒に映っているのが母親しかいないんだ?
宮村は現在1人暮らしである。高校進学と同時に親元を離れたと考えてもなんらおかしくはない、家族との写真が思い出というのも十二分に分かる。であれば普通は父親も含めた3人で映っているものを選ぶのではないか……。
こんなものは俺のただの杞憂な気もする、たまたま選んだ写真に父親が映っていなかった理由なんていくらでもある。
しかし先ほどの会話を思い出す。お母さんとの子供のころの話題になった際に宮村が見せた取り繕うように笑う悲し気な横顔……あれは偶然なのだろうか。
「遅くなっちゃった。佐藤くん……?」
振り返った先には淡い水色のパジャマを着た、しっとりと濡れた髪に湯上りの血色のいい健康的な肌をさらけ出す宮村が……ってどうしてこいつは風呂上りでも腕に包帯を巻いているんだ。
そんな普段の制服姿とは違う姿の宮村の視線の先にはデスクの上に飾られた写真があった。体の向きから俺がそれを見ていたことはバレてしまっているだろう。
「いや、宮村は小学生の時から可愛いんだなって思ってさ……ハハハ」
「か、可愛い!? え、ほんとに!? ……って恥ずかしいから写真見ないでっ!」
そう言って宮村はデスクの上の写真を引き出しへしまってしまう。まあ子供のころの写真なんてあんまり他人に見せて気持ちのいいものじゃないからな、ジロジロ見てしまってすまん。
心の中で俺がそう詫びていると、宮村はキッチンがある方の部屋から大きめサイズのジュースとコップといくつかのスナック菓子を持ってきてテーブルに広げ始めた、小さなパーティーでも始めようかというような装いだ。
「今から映画観賞会を始めます」
ニコニコと心底嬉しそうに笑う宮村は、次にノートPCを持ってきてケーブルでテレビに繋いだ後、表示されたデスクトップから動画配信サービスのアプリを起動した、ちなみに俺も登録してるやつだ。
「ネトフラの中で見られるのになっちゃうけど……佐藤くん見たい映画ある?」
「んー……俺はあんまり映画に詳しくないからな、逆に宮村の好きなやつ教えてくれないか?」
「じゃあ私が好きなやつにしちゃうよ?面白くなかったらゴメンね」
宮村の好きな映画、本棚に並んでいる本から察するにきっと異世界的ファンタジー的アニメ映画だろう、などど俺は当たりを付けていたのだが、再生された映画は意外にも俺でも名前くらいは知ってる有名な監督の少し古い作品だった。
アニメ映画ではあるものの、現実世界を舞台にして写実的なタッチで二人の男女の恋心とすれ違いを描いた短編恋愛映画。宮村が語ってくれたあらすじを簡単に纏めるとそういう作品らしい。
「あっ!」
「どうした?」
急に宮村が再生を停止して立ち上がった、トイレにでも行くのだろうか。
「映画を見るときはできるだけお部屋を暗くして見ましょう」
「……逆じゃないか?」
「暗い方が映画館みたいな雰囲気が出ていいのっ!」
そういうわけで宮村は部屋の電気を暗くしてしまう。
まあ家主は宮村なので俺には否定する権利なんて無いが、こんな暗い部屋に若い男女が二人きりって……ねえ?
とかなんとか考えながらも雰囲気が出たのは事実で、テレビから漏れる薄い明かりだけがソファに横並びで座る俺たちを照らしていた。
まあ邪なことは考えずに映画に集中するとしよう、俺も割と映画は好きだからな。
画面には綺麗な桜の花びらが落ちていく映像が流れ出す。それはアニメーションなのに本当に美しい景色だと思わせるような美麗なタッチだった。
この作品は桜の花の落ちるスピードがテーマなんだよ、と宮村が先ほど嬉しそうに語っていたことを思い出す。
俺はちら、と横目でこっそり宮村を見やる。
やはり整った顔立ち、しかし風呂上りということで素のままの顔であり、もともと童顔な彼女の可愛らしさと幼さが更に強調されているような印象を受ける……あとめっちゃいい匂いする。
「私ね、この映画の最後が好きなんだ」
呟くように、一人ごちるように宮村はそう言った。宮村オススメの映画、果たしてどんな最後なのだろうか。
それから俺たちは言葉を交わすことなく映画を鑑賞していた。
時々俺は宮村の横顔を盗み見ていたが、集中して映画の世界に浸っている彼女の表情にはテレビの薄明かりに照らされて、普段の彼女の印象とは180度違う切なさのようなものを感じさせた。
そして大体1時間くらい、普通の映画の半分ほどの時間で上映は終わった。
流れていくエンドロールと悲壮さを感じさせるBGMに、俺は筆舌に尽くしがたいなんともいえない感覚を味わっていた。
確かにいい作品だったと思う。10年以上も前の映画なのにすごく絵が綺麗で、話は脱線せずにひたすら少年少女が思春期から大人になるにつれての心の移り変わりを描いていたとおもう。だが
「二人は……結ばれないで終わるんだな」
それはいわゆるバッドエンドで終わる作品だった。
お互いに初恋の相手だった小学生の主人公とヒロイン。
しかし2人は大人になるにつれて時間とともに変わっていき、大人になっても初恋相手のヒロインが忘れられない主人公と、主人公とは違う相手と結婚したヒロインとの離別で物語は幕を閉じる。
俺なりの感想を簡単に述べるとするなら、ただ悲しい作品だった。それよりも驚いたのはこんなにも悲しい作品の最後が好きだと言っていた宮村の感性だった。
別にそれ自体は悪いことでも何でもない、映画の批評なんて個人の自由だと思う。だけど異世界的エンタメ小説が好きだと声高らかに語っていた宮村からは想像もできない一面だった。
「俺はこれを見て悲しい気持ちになったんだが、宮村はこの映画の最後のどういうところが好きなんだ?」
宮村は少し悩むような素振りを見せて、好きなところは色々あるけどね、と前置きをしてから
「結ばれない二人を見てるとね、人生ってそんな簡単にハッピーエンドにならないって思えるところかな」
それは何かを達観しているかのように、あるいは何かを諦めてしまっているかのように
「理不尽なのも含めて、人生だもんね」
まるで俺じゃないどこか遠くの誰かに語りかけるように宮村はそう言った。
いつもの中二病的電波的な、異世界だ封印されし魔力だとトンチンカンなことを言う宮村と、悲しいバッドエンドが好きだという宮村。
俺はその意外な二面性に、だけどそんな彼女のミステリアスな一面にも間違いなくどこか惹かれてしまっているのだと思う。
だから宮村が「そろそろ寝よっか」と俺のTシャツの裾をきゅっと握ってきたときも、映画が終わった後のノスタルジックな雰囲気に後押しされるように俺はただ無言で寝室への道のりをともにしてしまっていた。
シャツの裾を引かれながら入った寝室には人間2人が寝ても十分なサイズのベッドが置いてあり、神秘さのようなものすら感じさせるその場所からは、果たして俺は本当にここに入ってしまってよかったのだろうかと自責の念を抱かせる。
宮村は確かに今夜一緒に異世界に行こうと言った。この寝室は俺からすれば十分日常からかけ離れた異世界であり……まさかそういう意味で宮村はあんなことを言ったんだろうか。
「その……いっしょに寝ないと異世界への入り口は開かないの。だから……」
薄暗い寝室の中、ベッドの上のインテリアの明かりにじんわりと照らされる宮村の表情からははっきりとした恥じらいを感じ取れた。
異世界への入り口が開かないなら……しょうがないよな?
どこか免罪符のような言い訳がましい理屈で無理矢理自分を納得させて、俺は言われた通りにベッドに入った。
あまり近くなりすぎないように、宮村に背を向ける形で俺はベッドに入って横になる。自分の心臓の音がさっきからやかましい。
俺も宮村も互いに言葉を発さないまま、やがて沈黙だけが空間を支配した。
視界が暗いせいで五感が研ぎ澄まさていく。
宮村の息遣いがはっきりとこちらへ伝わり、彼女から発せられる甘い香りに嗅覚は支配され、理性が吹っ飛んで変なことをしないように俺はシーツをぎゅっと握りしめてしまっていた。
「……佐藤くんの名前って可愛いよね」
沈黙は宮村のその一言によって破られる。しかし俺は同時に謎の安心感も覚えていた、何かしら会話をしていた方がヘンなことを考えなくて済むからな。
「まあよく言われるよ、優理ちゃんなんて子供のころによくからかわれてたな」
「あ、ごめんね。そういうつもりで言ったわけじゃないの……私は好きだから、優理……」
ドクン、と心臓が跳ねた。
決して宮村は俺に対して好きだと告白したのではなく、俺の名前が好きだと言っただけに過ぎない。
理屈ではそうわかっていても宮村から好きだと告白されたときの気持ちを想像してしまっていた。
「私はね、自分の名前あんまり好きじゃない」
「俺は……好きだぞ、乙姫。素敵な名前だと思う」
浦島太郎のおとぎ話に登場する、竜宮城にいるとされる美しい姫の名。異郷の地の姫という意味では、その内面も含めて実に宮村らしいと言える。
「そっか、嬉しい」
そう呟いた宮村は俺のTシャツを背中からちょこんと弱々しく引っ張って次にこう言った。
「……こっちむいて。ぎゅってしてほしい」
余りにもパンチの聞きすぎたその台詞に、俺は全身の産毛が逆立つような感覚に襲われた。心臓の音がドクンドクンと一段高く鳴り響き、冷や汗をかいている気すらする。
……いいのか?俺たちって付き合ってるわけじゃないんだぞ。
内なる自分がそう語りかけてくるが、宮村本人がそうして欲しいと言ってるんだし、ここまできといて雰囲気を壊すような真似もできないだろう、と瞬時に脳内会議を終えた俺は宮村の方へと体を向ける。
「……これでいいか」
不格好なのは百も承知で、出来る限りスマートに慣れてる風を演出しながら俺は宮村のことを抱きしめた。背中に回している俺の手汗で彼女のパジャマを汚してしまわないだろうかと変な心配が頭をよぎる。
力を入れれば折れてしまうのではないかと錯覚させるほどに抱きしめた宮村の体は華奢で、骨ばった肩甲骨の感触と、しかし確かな柔らかさを俺は両の手のひらと全身を通して感じていた。
当の宮村はと言えば俺の胸に顔を埋めてしまっていて、残念ながらその表情は俺には分からない。まあ直視できるほどの勇気が俺にあるわけないから丁度いい気もするが。
「佐藤くんの匂いがするね」
彼女の言葉に呼応するかのようにまたドクンと心臓が跳ねる。
宮村の手が俺の背中に回されて、こう密着していると今の俺の心臓の音は絶対彼女に伝わってしまったんだと思い、一段と恥ずかしくなった。
それからまたしても沈黙のままに、長いような短いような時間が過ぎていく。
しかしそれは決して居心地の悪いものではなく、宮村の体温を感じている俺からすればあまりにも心地の良い時間だった。
そろそろ彼女の言っていた丑三つ時に差し掛かるのだろうか、まさか本当にこの寝室から異世界への扉が繋がったりなんてしないだろうな、などと考えていると宮村はぽつりと俺の胸の中で一言こういった。
「今日はごめんね佐藤くん」
「ごめんって、何も謝ることなんてないだろ。それに宮村と一緒に居る時間は楽しいからな、むしろ俺が感謝したいくらいだ」
それはお世辞でも何でもなく、俺の心からの言葉だった。何だかんだで俺はここまで全く嫌な思いなんてしていない、宮村と過ごす時間は本当に心の底から楽しいと思えた。
……欲を言うのなら、これからも一緒にいたい。なんてことを考えてしまうほどには。
「私もね……佐藤くんと一緒にいる時間はすごく楽しい。もっと早く話しかけてればよかった」
これは彼女なりのお世辞なのだろうか、なんてひねくれたことも一瞬考えたが、雰囲気に呑まれてしまっている自分がいるのもまた事実だった。
頭の悪い表現にはなるが……すげーいい雰囲気だと思う。俺が彼女に抱いている気持ちを伝えてしまってもいいのだろうかと思ってしまうほどに。
そして宮村はずっと埋めていた俺の胸から顔を上げて、上目遣いに俺のことを見上げてこう言った。
「佐藤くん……私のぜんぶ、見てくれる?」
「……!」
それは捉えようによってはいやらしい意味にも聞こえてしまうだろう。しかし宮村の言う全部がそういう意味ではないことを俺ははっきりと分かっていた。
なぜなら宮村の綺麗な瞳から、大粒の涙が流れていたからだ。
『理不尽なのも含めて、人生だもんね』
宮村の言葉が脳内で蘇る、そう思わせてしまうような“何か”が宮村にはあったのだ。
ここまで俺が彼女と過ごした時間、そこで垣間見てきた彼女が抱えている闇。
宮村のいう全部とは、彼女が俺にひた隠しにしてきたであろう、彼女が抱える負の自分の姿。
……俺だって男だ。そもそも言われるがままに着いてきてこんな風に同じベッドで寝てしまっているが、好意のない相手にそんなことはしない。
そしてそれは俺自身もちろんそうであるし、きっと宮村もそうだと思う。だからこそまずはっきりさせないといけないことがある。
真剣に話をしようとしている相手には自分だって真剣に向き合う、気持ちをさらけ出す。そうだろ?
「俺は宮村が好きだ。だから気になるんだ、宮村が俺に隠してること、今までの宮村を作った過去、辛いかもしれないがどんな宮村だったとしても俺は大好きだ。だから話してくれるか?」
「……っ!」
できるだけ一方的な物言いにならないよう、しかし自分の等身大の気持ちがはっきりと伝わるように選んだ言葉で俺がそう言うと、宮村はまるで蓋が外れてしまったかのように大声で泣きじゃくった。
今宮村がどんな気持ちで俺の告白を聞いていたのかはわからない。だけど俺はこれから宮村が話すことはどんなことでも受け止めようと思う。
それからしばらく宮村は俺の胸の中で、時折嗚咽を漏らして泣いていたが次第にそれは収まっていき、そして宮村は俺から少し距離を開けて左腕をこちらに差し出した。
学校にいるときも、家に帰ってからも、風呂上りにも、そしてベッドに入ってからも外れることの無かった長い包帯が巻かれている宮村の左腕。
宮村はこの左腕に魔力が封印されていると言っていた、確か学校でもそんなことを言っていたような気がする。
「嫌な気持ちにさせたらごめんね。でも佐藤くんには見てほしい」
そして宮村はまるで何かの封印を解き放つように、ゆっくりゆっくりと右手で包帯をほどいていく。
やがて包帯はベッドにパタリと落ちて、むき出しになったその細い手首の裏側に、宮村の言うぜんぶがあった。
【SIDE 乙姫】
『……あんたなんていなければよかったのに』
それは私にとって、初めて大好きな人からはっきりと拒絶された瞬間の言葉。
私はあれ以来私のことが好きになれない、大嫌いで、嫌で嫌でたまらない。
そしてその言葉は高校二年生になった今でもまるで呪いのように私の頭から離れてくれないのだ。
私がまだ3歳の時にお母さんは離婚した。
物心ついたときには私の家に父親なんていないのだということを私は理解していたし、お母さんは事あるごとにそれを私にごめんねと謝ってきたことをよく覚えている。
乙姫は絶対に乙姫のことを大切にしてくれる誰かと幸せになってね、と。
お母さんは女手一つで私のことを一生懸命に育ててくれた。
不自由なんて何一つしたことがなかったし、お母さんは自分で立ち上げたアパレルブランドの社長をしていることもあってむしろ経済的には裕福なくらいで。
不自由と言えば仕事で忙しいお母さんになかなか甘える暇がなかったことくらいだろう。
私が中学二年生になったとき、お母さんの仕事がようやく一段落つくことになった。
やっと後任の人材が育ってくれて、仕事量が大幅に減らせる見込みがたったとお母さんは嬉しそうに語っていた。
『お母さん、もう一回恋愛してもいいかな』
だからお母さんがどこか悲しそうにそう言った時、私はそれを全く嫌だなんて思わず、むしろ応援するよと笑顔で答えた。
母親といってもお母さんはまだ30代で、とっても若々しくて綺麗で、20代の貴重な時間の全てを幼い私に捧げてくれた。
片親だからって金銭的に不自由な想いは絶対にさせたくない、と言ってがむしゃらに働いて、遠慮しないで行きたい高校と大学に行っていいんだよといつも私に笑顔でそう言ってくれた。
そんな風に私のために頑張ってくれたお母さんのことを私は良く知っている。だからこそそんなお母さんに1人の女性として幸せを掴んでほしいと思っていた。
私だってもうすぐ高校生になる。
バイトだってできるようになるし、年齢的には結婚だって出来る歳になるのだからいつまでも子供じゃない。
お母さんにだってお母さんじゃない時間をプレゼントしてあげたいと、心の底からそう思っていた。
そんなある日のことだった。珍しく帰ってくるのが遅かったお母さんはひどくお酒に酔っているようだった。
それからお母さんは家の中のリビングで一人声を上げて泣き始めて、私はその理由が全く分からずにどうしていいのか分かりかねている時だった。
『……あんたなんていなければよかったのに』
お酒の匂いが充満するリビングでお母さんがそう言ったのを、私は今でもはっきりと覚えてしまっている。
『お、お母さん……?』
『あんたのために私は色んなことを我慢してきたの! 遅くまで働いて、どんなに一生懸命育児も仕事も頑張っても誰も褒めてなんてくれないの! ねぇ私そんなに悪いことした? 離婚して子供がいることはそんなにダメなことなの!?』
その時のお母さんの私を見る目はまるで何かを呪っているかのようで、私はこんなにも恐ろしい顔をするお母さんを見たのは産まれて初めてだった。
『バツイチで子持ちの女なんていらないって……あの人にはっきりそう言われたのっ!』
お母さんが叫ぶように大声でそう言い放ったとき、私はお母さんに何があったのかを悟った。
私のせいで、お母さんの恋が成就することはなかったのだ。私のせいで、お母さんは二度も愛する誰かと離れなければいけなくなったのだ。
『……ごめんなさい』
ごめんなさい。半狂乱のような状態のお母さんに対して私はただそう謝ることしかできなかった。
私のせいでお母さんに不自由な想いをさせてごめんなさい、やりたいことをさせてあげられなくてごめんなさい、一人の女性としての幸せをあげられなくてごめんなさい、産まれてきてごめんなさい……お母さん。
謝る言葉以外を口にすることができない私は、ただ涙を流しながら、まるで機械のようにごめんなさいと繰り返すことしかできなかった。
そして私とお母さんの間からは会話が消えた。
お母さんを避けるようになった私は、学校以外の時間のほとんどを自分の部屋で過ごすようになり、受験勉強の現実逃避先として創作物の世界にのめり込んでいった。
ゲーム、アニメ、漫画、小説……誰かが作ったフィクションの世界の中は、現実のことを考えると辛くて泣いてしまいそうになる私が唯一頭を空っぽにできる場所だった。
そんな創作物の中でも私が特に好んだのは、主人公がある日突然の死をきっかけにして異世界に転生してしまうという内容のものだった。
いわゆる異世界転生系の作品に出てくる多くの主人公たちに共通するもの。それは色んな理由で人生を挫折した人が、異世界に転生すると同時に前世の闇を払うように目覚ましく活躍していくこと。
引きこもりでニート、そんな主人公の前世の姿が部屋にこもってお母さんと向き合おうとしない私の姿に重なった。
選ばれた存在、隠された魔力、主人公だけが持つ現代知識……そんなものに憧れを抱いてしまうのはおかしいことだろうか。
私だって、ある日異世界に転生して、ストレスフルの“主人公”になれるんじゃないかと夢見てしまうのはいけないことなのだろうか。
それが真っ当な10代の女子の思考じゃないことくらいは私にだって分かっていた。
だけど襲い掛かってくる現実が、受験勉強が、進路が、自分の将来が、そしてお母さんのことが……。
思考を続けていると脳はやがてそれを放棄したがってくる、現実世界で何もしないでいると強迫観念のように私の頭の中にはあの時の言葉が響く。
『……あんたなんていなければよかったのに』
その呪縛から逃れてしまいたくて、ここじゃないどこかに行きたくて、それはやっぱり小説の中で見た剣と魔法の世界がよくて、異世界に行くためには物語の主人公みたいに突然トラックに跳ねられるのを待つしかなくて。
……待っていられるはずなんて無かった、もう限界だった。あのお母さんの私を呪うような眼差しは悪い夢だと信じてしまいたくて、それが現実の出来事なら私はどうすればいいのかがわからなくて。
ここじゃない異世界への憧れは、曲解を重ねた私にとってやがて死への憧れと同義になり、トラックに跳ねられることも、通り魔に襲われることもできない私が唯一自分からできた行動は、刃物で自分の手首を切ることだった。
そんなことをしても死ねないことなんて重々理解はしていて。だけど刃物を持って自分を傷つけるという体験に私はその時酷く興奮と達成感を覚えて、そして白い手首から流れていく血をみて自分に流れる血は想像していたよりもどす黒いな、なんてことを思ったりした。
最初はただそれだけで良かった。正直に言えば手首を切ったことでなんだかすっきりした気持ちにもなれた。
それと同時に私は酷い自己憐憫を抱いた、私は何でこんなことをしているのだろうと。
手首を切ったところで現実で生きることを放棄して異世界に転生することなどできるはずがない、そして死ぬ勇気も持てない中途半端な自分がもっと嫌いになった。
傷跡は大きな形となって私の左の手首と心に残った。血は止まっても、刃物で傷つけたミミズがはったような跡が消えることはなくて、私はその跡を他人に見られたくなくて大きな包帯を常に左腕に巻くようになった。
お母さんは私の左腕にもきっと気が付いていただろう、だけど私たちの間にはやっぱり会話が存在しなかった。
そして家から遠くの、最初の志望校よりも偏差値をかなり下げた高校に私は合格した。
選んだ理由は私の左腕の包帯をリストカットのせいだと噂している中学の同級生に会いたくなかったのと、実家を出て一人暮らしをしたかったからだった。
一人暮らしの件に関しては流石にお母さんの許可が必要だったけど、お母さんは二つ返事でそれを了承してくれた。結局それでも金銭的には親を頼ることしかできない子供な自分が私はもっと嫌いになった。
そして高校への入学を果たした私が最初にやらなければいけなかったのは、嫌でも目立ってしまう左腕の包帯についてのクラスメイトの質問にどう答えるかということだった。
自傷の跡があることを誰にも知られたくはない。だけどどんなにファンデーションを塗っても誤魔化しの利かないその傷跡を隠すために私が思いついたのは、包帯を巻いていることそのものを周囲に正当化してしまうことだった。
常に腕に包帯を巻いていてもおかしくないように、私はある“設定”を作って、いつもの私とは違う“私”を創り上げた。
『クックックッ、ボクのこの左腕には強大な魔力が封印されている……その封印が解き放たれるとき、異世界への扉が開くのさっ……!』
私は道化のように笑っておどけながら、質問を浴びせてくるクラスメイトに対して、さも頭のおかしな女の子を演出してみせた。
誰にも干渉してほしくなかった。もう何度も何度も同じ質問に答えるのがおっくうで、だから“中二病乙姫”なんて変なあだ名をつけられた私を奇異な目で見る人間が増えたことはむしろ好都合だった。
そんな私はいつしか1人でゆっくりできる場所を求めて屋上へ通うことが増えた。
飛び降りて死んでしまえば、もしかしたら本当に異世界に転生できるんじゃないかなんて淡い期待を抱いたりもして、だけど怖がりな私はそれを行動に移すこともできなくて、ただ高いところから下界を見下ろして、感傷に浸れるその場所に密かな悦を得ていた。
そんな私が、まるで物語に出てくる主人公のような彼の姿をグラウンドの中に見つけたのはきっと偶然だったんだと思う。
佐藤優理くん。隣のクラスの男子で、スポーツ推薦でここへ入学してきた、1年生にして野球部のエースを務めるまるで物語の主人公のような人。
私が彼を見つけたのはちょうど野球部がグラウンドで紅白戦をしている最中のことで。
身長が高くて細身な彼の投球フォームは本当に格好良くて、3年生の先輩を速球で次から次に三振に取っているにも関わらず、喜ぶ素振りも見せずにクールなままで。
その真剣な表情を近くで見てみたくて、わざわざグラウンドまで見に行ったこともある。近くで見る佐藤くんの姿は本当に眩しかった。
うちの高校は甲子園の常連というほどでもないけれど、過去に出場したこともあるし去年も地区大会のベスト4まで進出したくらいには強い。
それなのにそんな環境でこの間まで中学生だった子が先輩たちを差し置いて背番号1番を手に入れている。
そんな漫画の主人公みたいな佐藤くんに、私は憧れのような気持ちを抱いていた。
願っても異世界転生する主人公になんてなれない私と、まるで野球漫画の主人公の佐藤くん。
相容れることはないけれど、遠くから眺めているのは自由だと思っていつの日か私は彼の姿をグラウンドの見える屋上から探してしまうようになっていた。
彼が全ての試合を1人で投げ切った甲子園の地区予選はテレビの前でずっと応援していたし、準決勝で負けてしまったときは、なぜか私が泣いてしまったりもしたっけ。
だからそんな佐藤くんと、2年になって同じクラスになれたと知った時はすごくすごく嬉しかった。だけど佐藤くんは進級と同時に野球を辞めてしまっていた。
噂で聞いた話によると、肘を壊してしまって投手として続けていくことが絶望的なんだそうで、そんな話を聞いた私は悲しいことになぜか親近感を覚えてしまっていた。
あんなにもスポットライトを浴びて眩しく見える彼でも、理不尽によって挫折を味わうことがあるんだと、彼も“こっち側”の人間なのかなと、本当に自分でも嫌な人間だと思うけどしかし安心感のようなものを感じてしまっている私がそこにはいた。
そして今日の屋上で、扉が開く音がして振り返った先に佐藤くんの姿を見つけたときは、運命ってあるのかなって、私は不覚にもそんなことを考えてしまっていた。
『佐藤くん……?』
『よ、よう。邪魔したか? あ、邪魔だったら俺どっかいくから……』
『だ、大丈夫! どこにも行かないで!』
思わず引き留めちゃった……だけどこんな機会二度とないよね。どうして名前を知ってるんだとか思われてないかな。
『……宮村はどうして屋上に?』
『クックック……ここは学校の中でも一番“魔素”の強い場所であり、異世界とこの世界を結ぶ“門”になりえる場所。ボクは異世界への扉を開くために毎日ここへ来ているのさっ……』
バカバカバカ! 私のバカ! いつもの癖で佐藤くんの前なのに中二病キャラが出ちゃった……お願い佐藤くん、変な子だって思わないで……。
そんな風に私は後悔していたけど佐藤くんの口から出てきたのは意外過ぎる返答で。
『異世界への扉ね、まぁ行けるもんなら俺も異世界に行ってみたいけど』
『えっ!? 佐藤くんも異世界に行きたいの!? 私と一緒だよ! 一緒に行こうよっ』
私は興奮して思わず佐藤くんの両手を握りしめてしまっていた。
佐藤くんも私と同じように異世界に憧れを抱いてるのかと考えたらすごく嬉しくなってしまって、そしてこれは本当に運命なんだって思って。
このキャラ設定で良かった……なんて喜びながら、私はこのチャンスを逃すわけにはいかないと思って勢いでこんなことまで言ってしまったのだ。
『私は異世界への入り口を知ってるの。だから今夜、一緒に異世界に行こう』
もう引っ込みがつかなくなった私は、異世界に行きたいと言ってくれた佐藤くんを引き留めるためにあることないこと言い始めてしまった、虚言癖もいいところだと思う。
『……宮村、なんで俺はお前の家にいるんだ?』
『なんでって……私の家に異世界への入り口があるからだよ?』
だけど佐藤くんは振り回している私に対して嫌な顔一つせず、ただ私の突拍子もない嘘を受け入れてくれた。
本当に彼は優しい人だなと思った。
『ていうか宮村は一人暮らしなのか』
『そうだけど……あっ! そういうつもりで家に呼んだわけじゃないからっ、だから、あのっ、ヘンなことはしないからねっ!』
これは半分嘘だ。佐藤くんとならそういうことになってもいいかなって思ってしまっている自分がいる。
『宮村ってゲームとかするんだな』
『うんっ! ゲームもするし、漫画も見るし、小説も読むしアニメも大好きだよ! そうそうおススメの小説があってね……』
めちゃくちゃ語ってしまった……絶対こんな趣味持ってる女の子はおかしいって思ってるよね佐藤くん……。
『参考までに聞くけどこれはどんな話なんだ?』
だけど佐藤くんはクラスのみんなが私に向けるものとは違う優しいまなざしで私のことを見てくれて、否定を一切せずに私の話をただ聞いてくれた。
趣味の話を他人に共有した経験のない私からすれば、まるで自分の一部を佐藤くんが受け入れてくれた気がしてすごく嬉しかった。
『前世では辛いことがあって引きこもりになっちゃった主人公でも、異世界に転生したらすーっごい強くてモテモテなの!』
自分で言ってて本当に羨ましいシステムだと思う。だから私はつい無意識のうちにこんなことを言ってしまったんだと思う。
『……私も死んだら異世界に転生できるのかな』
『異世界への入り口を宮村は知ってるんだろ。まさか一緒に死んで異世界に行こうなんて言わないよな』
佐藤くんが言葉の裏で私に「死ぬな」って言ってるような気がしてドキッとした。
『……そ、そう! ボクは異世界への入り口を知っている……クックックッ、丑三つ時になればボクのこの左腕に封印されし魔力は解放され、奥の寝室から異世界への扉が繋がるのさっ!』
……どうして私は寝室に異世界への扉があるなんて設定を作ってしまっているんだろう。なんていうかそれってもう佐藤くんと夜も一緒に過ごしたいって願望がダダ洩れだよね……。
『って宮村の頼んだやつ、サーモンといくらしかないじゃねえか』
『そうそう! そんな風に好きなものだけ食べてたらお母さんから怒られちゃって……』
子供のころお母さんによくスシラーに連れていってもらったことを思い出した。
サーモンといくらばっかり頼んでる私はよく怒られてたっけ、またお母さんと一緒に笑ってご飯が食べられる日は来るのかな。
『いや、宮村は小学生の時から可愛いんだなって思ってさ……ハハハ』
『か、可愛い!? え、ほんとに!? ……って恥ずかしいから写真見ないでっ!』
佐藤くんが私のこと可愛いって言ってくれた……。だけど悲しいかな、写真の私は小学生で、どうせ言うなら今の私に向かって言ってくれればいいのに。
写真に映っている小学生のころの私とお母さんは本当に楽しそうで、どうしてあんなことになっちゃったんだろうって、すごく悲しい気持ちになった。
『んー……俺はあんまり映画に詳しくないからな、逆に宮村の好きなやつ教えてくれないか?』
『じゃあ私が好きなやつにしちゃうよ?面白くなかったらゴメンね』
お母さんのことを思い出したら悲しくなって、だから感傷に浸りたくなってしまった私はあえて悲しい結末を迎える映画を選んだ。
中学生のときに何度も一人で見ては、感傷に浸る時間を過ごしたこの映画を。
好きな人と一緒に見る映画にそんなものをチョイスしてしまう私は相当ひねくれていると思う。だけどどうしてだろう、彼には私の好きなものを共有してしまいたいと思ってしまう。
趣味を通して、私の好きなものを通して彼に私という人間を知って、受け入れてほしい。
佐藤くんに対して私はそんなことまでもを求めてしまう。そして優しい佐藤くんはきっと私のことは一切否定せずに受け入れてくれるんじゃないかってそんな予感が私にはあった。
『俺はこれを見て悲しい気持ちになったんだが……宮村はこの映画の最後のどういうところが好きなんだ?』
『結ばれない二人を見てるとね、人生ってそんな簡単にハッピーエンドにならないって思えるところかな。理不尽なのも含めて、人生だもんね』
本当にそうだと思う。だから私の佐藤くんに対する気持ちだって簡単には報われない……そうだよね。
私は本当にネガティブな思想の持主だなと思う。だけど佐藤くん、私はこんな私をあなたに受け入れてほしいと思ってしまうの。
『その……いっしょに寝ないと異世界への入り口は開かないの。だから……』
本当にベッドまで来ちゃった……。
こんな言い方は本当にずるいと思う。だけどここまで来たら何も考えずに一緒に眠ってしまいたい、どうして私は男の子を相手にこんなことを言ってしまってるんだろう。
佐藤くんが急に襲ってきたりしたら私は一体どうすればいいんだろう、それはそれで受け入れてしまっていいのかな、なんて想像までしてしまって、だけど優しい彼が一緒のベッドに入ってくれているのがとても嬉しくて。
『佐藤くんの名前って可愛いよね』
『まあよく言われるよ……優理ちゃんなんて子供のころによくからかわれてたな』
『あ、ごめんね。そういうつもりで言ったわけじゃないの……私は好きだから、優理……』
我ながら卑怯な言い方をしたと思う。会話の流れ的には名前のことを言っているように見せかけて、その実面と向かって言うことができない私の気持ちを表している。
『俺は……好きだぞ、乙姫。素敵な名前だと思う』
嬉しすぎてニヤニヤを抑えるので必死だった。
佐藤くんは今私に背中を向けているから決して分からないだろうけど、私は嬉しさと恥ずかしさで口角が上がりきってしまって顔が真っ赤になっていることだろう。
『……こっちむいて。ぎゅってしてほしい』
好きだと言ってくれたのは名前のことなのに、私はまるで彼のその言葉が私そのものを好きだと言ってくれたかのように錯覚してしまって。
彼に対する愛しさでいっぱいになってしまって、彼に甘えたくて、ソワソワするこの胸の感覚を彼にぎゅっと抱きしめてもらうことで落ち着かせたかった。
『……これでいいか』
少し不格好な抱きしめ方になぜだか私はすごく安心してしまった。他の女性の影を感じさせないからだろう。
不格好だけど佐藤くんはとても優しく抱きしめてくれて、体の全部で佐藤くんを感じながら私はまるで彼が自分の全てを受け入れてくれているような気がした。
それから次に私は彼に対する罪悪感で心がいっぱいになった。異世界へ連れていくなんて、まるで騙すように彼をここへ連れてきてしまったこと。
そして今までの佐藤くんの態度から、私はきっと彼が私のことを受け入れてくれようとしてくれていると感じていて、同時に彼に隠してしまっている決して消えない私の過去に思い当たった。
『今日はごめんね佐藤くん』
『ごめんって、何も謝ることなんてないだろ。それに宮村と一緒に居る時間は楽しいから、むしろ俺が感謝したいくらいだ』
……佐藤くんは、私と一緒にいる時間を楽しいと思ってくれているんだ。嬉しいよ、だけど怖いの。
ねえ、佐藤くんは私の左腕の醜い傷跡を見ても、同じことを思ってくれる?
『私もね……佐藤くんと一緒にいる時間はすごく楽しい。もっと早く話しかけてればよかった』
佐藤くんとこれからも一緒にいたい。そしてそれは今のベッドの中の私たちみたいな曖昧な関係じゃなくて、きちんと名前で呼び合える関係がいい。
だけどこの傷跡のことを隠したままじゃその先には進めない。
怖い、怖いよ佐藤くん。私が自分で自分を傷つけるような、馬鹿な女だって知っても私のことを受け入れてくれる?
お母さんみたいにまた誰かに拒絶されるのが怖い、だけど私は佐藤くんのことがどうしようもないくらいに好きだ。
佐藤くんと過ごした今日1日は私からすれば非日常で、それはまるで異世界に連れてこられたような感覚で……。
私は異世界への入り口なんて知らない。だけど
『佐藤くん……私のぜんぶ、みてくれる?』
私のことを受け入れて。そして連れて行ってほしい、私の知らない世界へ。
『俺は宮村が好きだ。だから気になるんだ、宮村が俺に隠してること、今までの宮村を作った過去、辛いかもしれないがどんな宮村だったとしても俺は大好きだ。だから話してくれるか?』
涙が止まらない。どうしてだろう、好きだと言われて嬉しいはずなのに、次から次に涙が溢れてくる。
佐藤くんは本当に優しい。こんな私のことを好きだと言ってくれる。
この左腕の傷を見せるのは怖くて恥ずかしい、だけどもしもこれさえ受け入れてくれるのなら、彼はきっと私にとってかけがえない大切な存在へと昇華するだろう。
どんな宮村だったとしても大好きだ。佐藤くんのその言葉を信じたい。だから……どうか。
『嫌な気持ちにさせたらごめんね。でも佐藤くんには見てほしい』
佐藤くんの真剣な表情を見て決心のついた私は、あの日からずっと外すことのなかった左腕の包帯をゆっくりとほどいていった。
【SIDE 優理】
そこにあったのは紛れもない宮村の自傷の跡だった。
宮村はその腕の傷跡に触れつつ、言葉を選びながら、時に嗚咽を漏らしながらも過去の自分のことを、どうしてこの傷がつくことになったのかの過程を正直に俺に話してくれた。
無残な傷跡に、宮村の悲しい過去に対して俺は直視するのを少し躊躇いそうになったが、しかしそれを真っすぐに見つめて宮村の話を聞いていた。
どんな宮村でも大好きだと、受け止めると、受け入れると俺は彼女に約束した。ここから目を背けてしまうのはその約束を否定することに繋がってしまうと思った。
この傷跡を見せるのに、彼女は果たしてどれだけの勇気を振り絞ってくれたのだろう。その行動だけで、俺は宮村が俺に求めているであろうことが分かった気がした。
「辛かったんだな……なんて簡単な物言いをするつもりはないよ。だけど宮村、俺にそのことを教えてくれてありがとう」
そう、自分の中の負の部分を決して他人には知られたくないからこそ、彼女は自分で自分を守るために中二病の新しい自分を創り出していた。
それを俺に見せるということは、教えるということはすなわち俺とは他人でいたくないということに他ならないじゃないか。
「……ごめんなさい」
宮村は項垂れながらそう言った。それはまるで俺にではなく、過去の自分と遠く離れた母親に向けて言っているかのようだった。
「謝ることなんて何もないよ。これは宮村のぜんぶじゃないか」
そうだ、この傷跡も含めて宮村のぜんぶなんだ。
だから宮村には、例えどんな過去があったとしても自分で自分を受け入れてあげてほしい。
「私っ……自分のことが嫌で嫌でたまらなくてっ……大嫌いでっ!」
自分で自分を受け入れる、それは決して簡単なことなんかじゃない。それが出来るのであれば、自分のことが嫌いになる人なんていない。
「あぁ……大丈夫だよ宮村。自分のことが嫌いでもいいんだ……だけど」
だから俺にできることは、彼女に“理由”を与えてあげることなんだ。
「俺が大好きな宮村のことを、これから少しずつ受け入れてあげてみてくれないか。宮村が好きでいてくれる俺が大好きな宮村だからさ」
自惚れのようなことを言っていると思う、だけど理にはかなっている。
自分の好きな人が好きな人を好きになってくれと、俺はそう言っているのだ。そしてこの道理は、宮村が俺のことを好きでいてくれるほどに否定はできない。
「佐藤くんっ……」
宮村は再び綺麗な瞳に涙をいっぱい浮かべて、そして縋るように俺のことを抱きしめてくる。俺はそんな彼女のことをできるだけ優しく抱きしめ返した。
「私……頑張ってみる。佐藤くんが好きな私を好きになれるように、頑張ってみるから……」
左腕の傷跡がすぐには消えないように、きっとすぐにそうすることはできないだろう。だけど抱きしめている宮村からは確かな決意を感じた。
彼女は大好きな人に拒絶されてしまったことに深く傷ついてしまった。俺なんかがその代わりを簡単に務められるとは思わない、だけど
「俺が宮村の居場所になるよ。例えどんなことがあったとしても絶対どこにも行かない。だから一緒にこの世界で生きていこう」
せめて彼女が安らぐことのできる居場所になってあげたい。
できるのなら、もう二度と彼女が自分自身を嫌いになることのないように、そして彼女がこの世界じゃない異世界に転生したいとなんか思わないように。
それから沈黙のままに見つめ合っていた俺たちは、どちらからともなくキスをした。
『あのキスの前と後とでは、世界の何もかもが変わってしまったような気がした』
宮村と一緒に見た映画の主人公は、劇中でそんな台詞を口にしていた。
俺も正しくそうだと思う。振り返ってみればあのとき確かに、宮村は俺を今までとは違う世界の入り口へと連れて行ってくれたのだ。
それからのことを少しだけ語ろうと思う。
俺と宮村は晴れて正式に付き合うことになり、名前で呼び合うようになった。
乙姫。最初は恥ずかしく感じたその呼び方にも今では十分に慣れてしまっている。
乙姫が自分の過去に向き合ったように、俺もまずは野球と向き合うことにした。
壊してしまった肘は例え手術に成功したとしても、高校生のうちに投手として再起できることはない。
小学生の時からずっとマウンドに立ってきた俺にとって、それは急に誰かから居場所を奪い取られるような理不尽の塊だった。
だから一度は野球そのものから目を背けてしまった俺は部活を退部していたのだが、やはり心残りがあったのは確かで。
乙姫に後押しされるように俺は野球部へと再入部を果たし、一塁手と代打という新しい居場所を獲得した。
四季は巡っていき、部活はもちろん、だけどそれ以外の時間のほとんどを俺は乙姫と一緒に過ごした。
俺の高校生活の隣にはいつも乙姫がいてくれて、喧嘩することもほとんどないままに俺たちは高校を卒業した。
お互いに同じ文系の大学に進学すると同時に俺たちは同棲を始めることにした。
もちろん同棲を始めるのであれば未成年の乙姫なのだから親御さんに許可を貰わねばならない、それを理由にして乙姫と乙姫のお母さんは実に3年ぶりの再会を果たしていた。
乙姫自身もお母さんと向き合うことを決意させるのに3年という決して短くない時間がかかって、それでも乙姫がお母さんの言葉によって傷ついてしまった過去は一生消えることはなくて。
だから最初に二人が再会を果たしたときも、お母さんはただ乙姫にごめんね、と謝るばかりで簡単には二人が心からの和解なんてできるはずもなくて。
それでもその再会そのものに、乙姫の成長した証はあった。過去と向き合うことから、乙姫は決して逃げなかった。
二人が本当の意味でその距離を再び縮めることができたのは、俺たちの結婚式の時だったと思う。
大学卒業とお互いの就職から3年目、25歳の時に俺たちは結婚式をあげた。
ウェディングドレスを着た乙姫はとても綺麗で、本当に名前通りのお姫様のようだった。
『お母さん、私のことを産んでくれて本当にありがとう。お母さんと私の心がすれ違ってしまうこともあったけど、私は今本当に幸せです』
披露宴で乙姫が読んだお母さんへの手紙の内容の中には、ただただ感謝と愛を告げる言葉しかなくて。
だから式が終わった後にお互い号泣しながら抱き合う母娘を見て、俺まで涙が止まらなかった。
振り返ってみて改めて思う、乙姫と出会う前と出会った後では流れる時間のスピードが違いすぎると、まるで違う世界のようだと。
何をしていても時間が足りない、3ヶ月後には女の子だって産まれる予定だ。
あれからというもの、乙姫は自分の好きな趣味はそのままに、俺への布教活動の手を緩めることはなく、おかげで俺まで異世界転生系の小説の類が好きになってしまっていた。
「優理くーん?ケータイ鳴ってるよー!」
乙姫が俺を呼ぶ声がする、おそらく会社からだろう。……休日出勤はせんぞ、休みの日はせっかく一日彼女と過ごせるんだから。
まあだけども、剣と魔法の異世界には例え行けたとしても俺にはまだいいかなと思ってしまう。
だってこの世界には、一生かけて守らないといけない大切なお姫様がいるからな。
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