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約束の花

作者: 津路 志士朗

 家主が覆いを掛けてくれるので、洞の中にまで冷たい雪風が吹き込むことはなく、娘たちの体温で巣の中は温かい。しかし、一歩でもこの巣を離れれば、シンと冷え切った空気が瞬く間に体温を奪い去っていくだろう。


 それでも時折、暖かな光が洞の中に差し込むようになってきた。

 斥候に出た新しい娘が僅かな蜜と共に、外の情報を持ち帰ってくる。巣に戻る途中、霊体の毛むくじゃらが2匹、何処からか現れて、楽しげに追走してきたという。

 遠い祖母の時代からの付き合いである太古の魔狼たちは、相変わらず健在であるようだ。


 もうすぐ、春が来る。支度をしなければならない。卵を生み、育て、その時が来ても、何の滞りもなく仕事が出来るように準備しなければ。

 あの人に会えるのが待ち遠しい。

 人の姿をした蒼い目のあの人は、今年も約束の場所へ連れて行ってくれるだろうか。



 自分が常ならぬ存在と化している自覚は有る。世代を超え、永くあの人の側にいるせいか。それとも、あの花の蜜を口にしている為か。どちらが原因なのか、どちらともであるのか、それは分からない。また、それが何処まで他と自分を各別させたのかも、分からない。

 祖母から母へ、そして私へと伝えられたこの記憶が、他の者たちにも同様に伝わっているのか。それとも、私だけなのか。


 ただ、それは確かに私の内に有る。記憶の中の、もう一人の私。

 正確には遠い祖母の誰かの記憶なのであろうけれど、あまりにも深いところに根付いているので、自身の記憶と区別がつかない。



 私は、ずっと待っていた。居なくなった友達のことを。

 待って、待って、待って、寂しくて。その想いを娘に引き継いでしまうほどに切なくて。

 私には泣くことも、嘆くことも出来なかったけれど、どれだけ忙しなくても、作業の中に埋もれることのない記憶。消えてしまえと願っても、薄れることのない妄念。

 本来の私達にはないはずの感覚に、狂ってしまいそうになっていた時、あの人は私を迎えに来てくれたのだ。


「俺と一緒に、こないか?」


 大きな木が有ると彼は言った。あまりに大きすぎて、世話をしきれないと笑った。風媒花だから、受粉を気にする必要はないのだが、蜜を集めたいので、協力してくれるものがいるのだと。

 どうして私なのかと問うた。

 私達は他の同種の存在よりも、人との暮らしに向いていない。その年ごとに娘に巣を引き継ぎ、群れの半数を連れて母親は新しい住処に移動する。また、巣を作っても都合が悪ければ、群れごと引っ越すことも有る。作ることの出来る蜜の量も少ない。それは人にとって、あまり都合のいいことではないはずだ。


「さあな。」


 呟くように嘯いて、あの人は笑った。


「無理にじゃなくていいんだ。

 元々、そんなに世話をしてやれるわけでもないし。」


 でも、よかったら一緒にこないかと差し伸べられた、青白い光を放つその手を、私は取った。



 そのときに一つだけ条件をつけた。


『お願いが有るの。』


 人には聞こえないはずの私の声を、あの人は当たり前のように聞き取り、首を傾げた。


「なんだい?」

『5月になったら、りんごの花が咲く時期になったら、その時だけでいいから、ここへ戻してもらえることは出来るかしら?』


 答えはすぐに戻ってこなかった。あの人は難しい顔で眉間にシワを寄せたが、願いを聞く手間を考えたわけではなく、単に季節の問題であったようで、わからないと首を振られた。


「僅かな差とは言え、花の時期はずれている筈だし、なんとかならないこともないとは思うが。生き物のことだし、約束するのは難しいな。

 けど、出来るだけ善処するよ。その代わり、俺もあんたも忙しくなるだろうけれど。」


 それで構わないかと問われ、私は頷いた。

 あの人は理由を聞かなかった。

 私も話さなかった。

 でも、あの人は全て、わかっている気がした。



 娘たちが外へ出る回数が増えてきた。洞の中の温度も、僅かではあるが上がってきた。時折、入り口に掛けられた覆いが揺れ、ふんふんと生き物の息遣いが聞こえるようにもなった。きっと、あの魔狼たちが中を伺っているのだろう。

 ガタガタと聞き慣れない音に怯えるものも居るが、私が何も言わぬうちから、年越しの娘たちが慌てることはなく、落ち着いて動かずに居るよう、妹たちに伝えて廻っている。

 器を持たない魔狼に針は通用しないが、万が一にもあの人に針を使うことになってはいけない。人に針を使った娘は死ななければいけない。人の皮膚は針を抜くには硬すぎる。あの人に、怪我をさせたくもない。

 それにあの人の周りには弱くて、小さいものが居る。あのこたちを傷つけるのだけは、絶対に駄目だ。



 そう言えば、あの場所にも子供がいた。何人、居たのだったかと、ぼんやりと思う。一人ではなかった。三人だったか、それとも四人だったか。もう殆ど大人に近い男の子と、それより少し小さい女の子。もっと小さな男の子が一人か、二人。

 彼らは思い出したように母親について来て、巣の近くを走り回ることも有ったが、基本的には近寄らないようにしているようだった。私達にと言うよりも、巣の有る場所は母の領域で、近づいてはならないと、子供ながらに感じているようだった。

 懐かしい、あの場所。ある日、新しい住処を探していた娘が見つけてきた、小さな畑の隅の巣箱。


『良かったら、おいでよ。』


 そんな、控えめな誘いに呼ばれて住み着いた。周りにいくつも大きな畑が有るのに、彼女のためだけにわざわざ作られた小さな畑だった。

 そこにはブルーベリーや木苺などの花も有ったけれど、5月になってりんごの花が咲き始めると、彼女は私達を呼びに来た。


『ねえ、行こうよ。』


 言葉を交わすことの出来ない私達の間で、その代わりになったもの。仄かな光を纏い、柔らかく動く、彼女の右手。私達にしか見えない、蒼緑色の光。

 彼女の隣にはもう一人、誰かが居て。その人がいつの間にか、居なくなって。

 彼女はとても、寂しそうで。



 嗚呼。

 私は、何も出来ない。

 友達なのに。

 友達だったのに。



『ごめんね。』と、私は言った。

『何故?』と、彼女は微笑んだ。


『貴女達が居てくれて、本当に助かってるよ。私達だけじゃ、こんなに沢山の花を扱うのは大変だから。』


 ありがとうと言われて、嬉しくなかったわけではないけれど。私はもっと彼女を助けたかった。


『それより身体は大丈夫? 農薬の散布には気をつけているけど、誰も具合悪くなったりはしていない?』


 彼女は何時も自分より、他者のことを大切にする人だった。そこが好きだったけれど、そこが辛かった。


『助けたいの。』


 その指先にそっと頭をこすりつけた。


『十分だよ。本当に、貴女が居てくれてよかった。』


 優しい蒼緑色の光が感謝を告げてきた。

 ほんのりと甘いりんごの白い花の香りを乗せて、風が私達を静かに包んだ。


 悲しいのに。

 己の無力を痛感せずには居られなかったのに。

 苦しいのに。

 身を引き裂かれるほうがどれだけマシかと思えたのに。

 それは、何よりも幸せで優しい時間だった。

 私の大事な記憶。大切な友達。



 がたりと、大きな音がした。巣の中が急に明るくなる。娘たちの悲鳴が上がる。静かにと言いつけて、年越しの娘たちが動かぬよう、妹たちに言い含めるのを眺める。

 風が洞の中に吹き込んでくる。冷たく澄んだ新鮮な空気。雪を払いのけるザクザクという響き。


『お父さん、蜂さんまだ起きてない?』

『ねぼすけ! ねぼすけ!』


 魔狼たちがはしゃぐ声が聞こえる。


「はいはい、騒ぐんじゃないよ。多分起きてるだろうけど、出てくるまでは暫く掛かるだろ。気温もまだ低いし、巣を外に出すのはまた今度だな。」


 あの人だ。何ヶ月ぶりかに聞く、あの人の声。


『あとで! また後で!』

『ルー! あっちに遊びに行こう!』


 魔狼たちが走り去っていったのだろう。雪が蹴りつけられ、木々に当たる音がした。女王らしからぬ動きだと知りつつ、巣の外へ走り出す。

 驚いた娘の一人が制止の声をあげたが、別の娘が止めた。羽を震わす。冬を越したばかりで、細った身の今なら飛べる。眩しい白い光が眼を刺す。構わない。あの人のところへ。



「よう、久し振り。」

『会いたかった。』


 出会い頭に数カ月分の思いを伝えれば、彼は苦笑した。


「大げさだな。」


 娘たちよりも飛ぶのが苦手な私のために、差し出された指に止まる。申し合わせたように吹き付けてきた風は、まだ冷たい。

 でも。


『もう、春なのね。』

「いや、まだ冬だろ。花も少ない。」


 気が早いと笑われるが構わない。これからどんどん咲いていくだろうから。


『桜はまだかしら? 苺は?』

「だいぶ蕾は膨らんでいるけどなあ。苺はビニールハウスの中は勿論、外のも幾つか、気の早いのが咲き始めてる。」

『楽しみだわ。』


 彼の庭に一本だけ植えられた桜。いつも沢山の白い花を咲かせる。畑には彼の養い子のために作られた温室があって、中の花々は私達に提供される。

 待ち焦がれた春の気配に喜びを抑えきれず、羽を細かく震わせる。


『菜の花は?』

「まだかな。」

『今年はトチノキのところにも行けるかしら?』

「後、アカシアな。お知様にも行ってくれと頼まれているんだが、花の時期が本当にかぶるからなあ。」


 そう言って、彼は空を見上げた。目に映るのは葉の落ちた白い肌の枝。天に聳える大きな木。私達の巣をしまう洞はそのほんの一部に過ぎない。本当に大きな木。神秘の力を持った二本目の世界樹。彼の最初の言葉は嘘ではなかった。

 大きいだけでなく、不思議な力を秘めている。私が普通の蜜蜂ではなくなったのも、この木の花から蜜を集め、口にしていることと無縁ではないはずだ。

 ただ、もし、私を変えたものがそれだけだとしたら、彼女との記憶はどうやって残ったのだろう。彼女と一緒にいたのは、ここに来るずっと前のことなのに。


「ま、どのみち5月6月の話だろ。」


 挙げた顔を戻し、彼が笑う。


「今から数ヶ月先の仕事を気にするとは、お前らは本当に働きものだな。」


 からかうように言われ、少し不貞腐れる。


『冬は嫌い。』


 ただ、待つことしか出来なかったことを思い出すから。


『会いたかった。本当に、貴方に会いたかった。』


 指先に頭をこすりつける。あの日、彼女にしたように。

 彼は答えず、ただ苦笑する。


 その不器用な素振りは相変わらずなのだけれど、物足りなさを覚えて、少し噛み付いてやる。私の不満に気がついていないはずがないのに、彼は酷いことを言う。


「ほら、もう巣にもどれ。出てくるにはまだ早い。今日は様子を見に来ただけだから。」


 止まっていた指先を巣の方に向けられ、私は身体の向きを変えた。


『戻らなきゃ、駄目かしら?』

「駄目だ。」


 拗ねるように触角を動かしても、彼はきっぱりと首を横に振った。それが私のためだと分かっているけれど、寂しさが胸をつく。また、迎えに来るとの言葉に渋々従い、羽を広げて、ふと思い出す。


『ねえ、約束を覚えている?』

「ああ。」


 蒼い瞳が細められ、その微笑みに彼女の姿が重なる。

 同じなのは黒い髪の色だけなのに。瞳の色も、性別も違うのに。

 それでも彼は、私の友達に似ていると思う。


 普通の蜜蜂はないであろう、この身を焦がす記憶が幸なのか、不幸なのか。


「5月になったら、あの花を観に行こう。」


 愛を告げるかのように囁かれた声を背に、私は羽を震わせ、空を舞った。


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