第4話『不安定な記憶』
翌日、メルトは自室で目を覚ました。目に映るのはテレビと身鏡、そしてレイアウトをチェンジするためのコンピュータ。アリスの部屋と違って、必要最低限のものしか置かれていない簡素な部屋だ。見えるところに時計がないというのは、ずいぶん不便だ。
一度大きく伸びをして立ち上がると、思わずふらついてしまった。どうやらまだ酔っているらしい。そもそも、自分がどうしてこの部屋にいるのかわからない。昨日、何をしていたのかまったく記憶にない。たしか、三週間ぶりの休日で――と、そこまで考えたところで飛び上がった。
「やべっ! 遅刻だーっ!」
慌ててログアウトしようとしたところで、一つだけ思い出した。自分は今ログアウトできないのだ。開いたメニューの項目を上からゆっくりと確認してみても、やはり昨日と変わらない。
【キャッシュショップ】、
【環境設定】、
【感知度の調整】、
【視野の調整】、
【ログア。ソ豁サ縺ャ
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先日と同じように、ログアウトボタンだけ歪んでおり、ピントがうまく合わない。枠から文字化けした何かが虚空に飛び出て、明滅を繰り返している。その他は正常な画面が動作するし、不具合はない。まさか、世界中の人間が同じ状況になっているのか。そんな懸念が、自分の身体を突き動かした。
慌てて部屋を出て、街に出る。そこは『ギルドタウン』という閑静な街だった。和洋様々な建造物が立ち並ぶここでは、ギルドという組織を結成することができる。ギルドの目的は人によって違い、単純に遊ぶ仲間がほしくて作ったり入ったりすることもあれば、生産アイテムの流通を円滑にする為の大きな組織があったりもする。
そしてギルドに加入した上で依頼をこなしたり、狩りをしたりすると、ギルドポイントなるものが蓄積されていき、恩恵を得ることができる。
その一つが、ギルドハウスの建築だ。はじめはみんな馬小屋のような狭くて何もない場所だが、ギルドのランクを上げていくことによって規模を大きくできる。そうすれば、一人一人が部屋の模様替えを楽しむことができるようになるため、女性に人気のあるシステムらしい。
メルトの属するギルド《ビヨンド》も昔からあるだけあって、人数こそ少ないがランクは上位。振り返れば、黒い硝子で覆われたビルが建っている。よく言えば未来的、わるく言えば無機質で冷たい建造物が、中世の田舎を彷彿とさせるのどかな場所に建っているのだから、目立つことは間違いなしだ。
とにかく誰でもいい。会って確認を取らねばならない。そんな気概で街を駆けるが、平日の昼間ということもあり、誰もいない。半ば焦り始めたところで、耳元にフルートを奏でたような、軽快な着信音が響いた。
同時に視界に現れたダイアログには、見知った者の名前があり、ほんの少しだけ胸を撫で下ろす。アリスからの着信だ。ダイアログに描かれた受話器のマークを右手の人差し指で押すと、通話が始まった。
「アリスぅ……!」
「うっ……どうしたメル?」
電話に出た相手が今にも泣き出しそうな声で名前を呼ぶのに驚いたのか、電話をかけてきたアリス本人が要件を尋ねてきた。彼女はそういう人物なんだ。
いつも冷静沈着なのに、突発的な出来事への対応は苦手らしい。いきなり無茶な話題を振ると、あたふたと慌てふためいて、混乱してしまう。それがかわいらしくて、ギルドでは一番まともなのにいつもみんなにちょっかいをかけられている。
でも、そんな彼女がログアウトできなくなったなら、普通もっとパニックになっているはずだ。ログアウトできないなんて言ったら、ただでさえ酒に酔っ払って面倒だろうに、頭のおかしなやつだと思われてしまう。街にいる人たちを見ればどうなっているかは分かるだろうし、尋ねるのはやめておいた。
「……いや、なんでもねー。なんか用? ヒぅッ」
「また呑んでる……。ギルドに加入したいって人がいるんだが、どうする?」
「ああー……。面談ね、任せるわー。この状態じゃとてもじゃねェけど無理だ……今のリーダーはお前なんだから、わざわざ確認取らなくてもいいぞー」
「そうか、了解」
そんなやり取りをしたのち、通話を切った。
アリスは自他共に認めるネトゲ廃人だ。メンテナンスが終わり全速力で乗り込んでも、いつも彼女は先に居て――自分や、仲間が来るのを笑顔で迎えてくれる。それがとても安心出来るから、メルトは過去にギルドマスターの権限を彼女に託したのだ。
そして現実の方でも勝ち組だ。仮想通貨の暴騰に乗って、一生遊んで暮らせる資産を手にしているのだから。その資産をゲームにつぎ込む、極めて稀な人種ではあるが。言わば、バイト戦士と言ったところか。その気になれば一日で、容易くメルトを超えるだけの財力があるのだが、幸いアリスは装備の強化に対して無頓着だった。自分の見た目に拘るタイプだ。
ややあって、視界の隅に浮いているチャットログに、システムからのアナウンスが入った。
【白き漆黒のヴェ 様がギルドに加入しました。】
「うぇっ……」
その名前を見た瞬間、思わず変な声をあげてしまった。白き漆黒ってなんだ。白いのか黒いのか分からない。ていうかヴェってなんだよ。鳴き声だろうか。違うか。
突っ込みどころが多すぎるが、とにかく今は誰でもいいから人を探さねばならない。『ギルドタウン』の南に置かれた転移ポータルを潜り抜け、人が多く集まる『露店街』へと赴いた。
そこに広がる景色は、いつもと変わらないものだった。平日の昼間だというのに、たくさんの人で賑わっている。行き交う人々の表情に焦りは見られない。世界は、何も変わっていない。
それなのに、自分だけがログアウトできなくなっている。
「まるそ、かつ? されんゃ?」
文字化けした箇所を、なんか外国語っぽく読み上げてみるも、当然ながら意味はない。読みがあってるかも怪しい。
というかこの状況、もしかして――?
思うことがあり、冷静になって考えてみた。心を落ち着かせるために、自身のあまり無い胸を、衣服の上から揉んでみる。「硬ぇ……」しかし、よくできてる。女の子の身体だ。
すでに昨日の昼過ぎからこの世界にいるというのに、腹は減っていない。酔いが醒めなくて気持ち悪くて、しかも頭はぼーっとして、眩暈もする。もしかしたら自分の状態は固定されているんじゃないだろうか。
そして何より大変なのは、昨日の記憶がおぼろげなことだ。ミシリアに行ったことは覚えているが、そこで何をして、そもそもどうやってギルドハウスに帰ったのか記憶にない。おとといの記憶にいたっては、全部ない。
――だが。悪いことばかりではないらしい。まず、この世界に関する知識や経験がそのまま残っていることだ。酔っていても家までの帰り道がわかるように、この世界の常識までもが、記憶と一緒に抜け落ちたというわけではないようだ。
そして何より、今日から仕事に行かなくていい。だってログアウトできないし。溜井さんに言ったら、ログアウトできなくても仕事には来いとか、訳のわからないことを言われるに違いないが、この世界には上司なんていないのだ。
奴隷のように社会の歯車になるくらいならば、みなが平等の自由な世界で力任せに大暴れしていた方が、ずっと楽しいに決まってる。そうだった。だから、この世界で生き。ヲいく。ヲとを選ん――蛻サ縺ッ 蟆壹Δ 譌ゥ繧、
「あれ……?」
吐き気とは違った不快感が催し、本能がそれ以上考えることを拒んだ。脳が直接、何かに舐められるかのような感覚がする。頭の中に虫がいて、自分の中身を食べているような恐怖感。水を浴びた小動物のように首を振るうと、その嫌悪感はすぐに払拭されていった。
今のは何だったんだろう。考えているうちに、何について考えていたかも忘れてしまった。酔っ払ってイかれた脳っていうのは、本当に不便なものだ。