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第3話『なお、現実』

 十二年前、コンピュータの技術は着実に進化を遂げ、とうとう世界で初となる仮想現実空間が舞台のオンラインゲームが発表された。


 それが《シード・オンライン》だ。



 元より軍事技術として研究・開発が進められていた精神電脳化技術マインドジップ・テクノロジーが、ネットゲームへの展開を公表した時の衝撃は、きっと多くのプレイヤーの記憶に根付いているだろう。

 だが、さらなる反響はその後にあった。


 日本政府は、大手ゲーム企業『ワイドグラフ』と共に運営、開発をとり行う事を発表。補助金を支給するとまで言い出し、たたでさえ下降の一途を辿っていた国民からの信頼は、瞬く間に失墜した。国会中継で何者かに靴を投げつけられていた総理大臣がいた事も、多くの記憶に根付いているに違いない。

 歓迎と批難が飛び交う混沌とした状況の中、政府はそれを強行した。それから何度も政権が変わっているものの、どの政治家もその取り決めを是正しようとはしない。

 それどころか、今では課金の為に必要な決済を、世界的な暗号通貨として知られる『バイトコイン』で行えるようにまでなっている。

 やがて時が経つにつれ、国民は一つの疑念を抱くようになった。


 ――この世界には、何かがある。


 そんな噂に尾ひれが付き《シード》の人口は劇的に増えていき、社会現象と呼ばれるほどの盛況を見せた。

 それも、今は昔。


 二年前、ある事件(アップデート)がきっかけで、それ以上に人がいなくなってしまった。

 今や残された人々はこの世界の事をこう呼びながら、過ごしている。



 ――「まごう事なき〝クソゲー〟」



 *



「――はぁ……」


 誰かに助けを求めるような弱々しい溜息が、閑静なオフィスに響く。

 だからといって、それに手を差し伸べる者はいない。多くの社員は既に帰宅し、残った社員もそれぞれの仕事で手一杯だからだ。部屋は沈黙に満ち、キーボードを叩く軽い音だけが虚しく響く。

 本当ならば今日は休日の筈だった。しかし朝の六時に着信音で叩き起こされ、岩のように重い頭を持ち上げながら、電話に出たのが失策だった。上司の頼みを断るほどの傲慢さなど持ち合わせてなく、結局今日も変わらず奴隷生活だ。

 虚しい気持ちになって窓の外を見る。小さくて狭い雑居ビルの五階に居を構えているだけあって、それなりに景色は綺麗だ。しかし窓を覆う冷たく錆びた鉄格子が、景観を壊している。何のための鉄格子なのか。ここは五階だ。防止するのはひょっとすると侵入ではなく――。

 考えるのはそこまでにしておいた。今は仕事だ、仕事。帰りたい……。


「舞島くん」


 思考の波形が一本の直線になろうとしていた時、死んだ魚のような表情をしていた彼を呼ぶ一人の社員がいた。

 舞島はハッと我に返り、返事をして席を立つ。


「なんでしょうか……?」

「なんでもなにもない。進捗のほうはどうだい。相当行き詰っているようだが」


 心配そうにそう尋ねるのは、溜井(ぬるい)さんだ。舞島にとっては上司に値し、この小さな会社の舵を取る代表者でもある。就職活動で絶望の淵に立たされていた舞島を救った恩師だ。


「あと一つバグを取り除けば終わりなので……大丈夫ですよ。……たぶん」

「だはは、たぶんじゃ困るんだよ。とりあえず今日は二三時で撤収。その部分はまた月曜日に考えよう」


 怒ると鬼よりも恐ろしい溜井さんだが、今日は機嫌がいいようで助かった。ひとたび怒らせれば数々の罵声が唾と混じって飛んでくる。そうすると社内全体の雰囲気が重々しくなってしまう。

 舞島自身、自分のせいでそうさせたくないという気持ちはあるのだが、どうも技術が追いつかない。怒鳴られた回数は舞島がぶっちぎりで一位である。

 それでも、溜井さんから受けた大恩は揺るがない。時折、飯を奢ってくれることもあり、舞島はすっかり餌付けされていた。


「わかりました」


 それだけ言って、舞島は席に戻ろうとする。二三時まで残り二〇分しかない。時間は惜しいし、成し遂げられなければ会社全体に迷惑をかけることになる。


「おい、癖」

「あ……」


 溜井さんに言われて、舞島は両手で顔を覆い目元のマッサージをした。目立った長所のない舞島だが、唯一周りに自慢出来る特技がある。溜井さんの言ったように、癖と言ったほうが近いかもしれない。


 集中すると、まばたきをし忘れるのだ。

 中学の頃からネットゲーム漬けだった舞島は、没頭するあまり、まばたきをしなくても差し支えのない身体になってしまったのだ。意識しなければ目を閉じれないのだ。

 それを母に打ち明けた時には眼科直行だったが、その頃には既に癖として身体に染みつき、今となっては常人よりも潤いが多く、強靭な眼球を手に入れてしまっている。最長で五分は目を開けっぱなしでいられるのだが、特に役に立ったことはない。


「頑張れよ」

「ありがとうございます」


 溜井さんに元気づけられたものの、席に着いた瞬間に一気に現実に引き戻された。画面に表示されるスクリプトの一つ一つが、異世界の言語のように見える。動かない画面が視界の中をぐるぐると回転しているようで、どこが悪さをしているのか、まったくわからない。


 舞島がどう足掻いても修正出来ないバグに直面したのは、四時間前の事だった。それまではスムーズに仕事が進み、今日はいつもより早く帰れるぞ、と考えた途端にこれである。既にやる気はゼロに近かった。

 技術がそこそこ発達してるとはいえ、今や日本は後進国だ。人工知能の発達によって、人々のワークスタイルが変わるなんて未来は無い。労働環境に関しては年々悪化しており、おそらく世界でもワーストを争っている。

 いわく「日本人が仕事を断るわけはない」と、海外からも多くの案件が飛んでくる。しかし、それを支えているのは自分のような最底辺の人間だ。この国では出世するほど給料が増え、労働時間が減っていく。失敗はすべて下請けの責任。いずれ破綻するとは言うが、平和に愛され、そして洗脳された国民は、反抗の仕方をそもそも知らない。残酷な社会だ。



「アアアアオワッタアアア」


 別の座席から生気のない乾いた声が聴こえてきた。頬は痩せこけ、眼差しは虚ろ。そして目の周囲には歌舞伎役者もびっくりの隈が現れている。


「おつかれ、熊田」

「ウン、オツカレ。マイジマクンモ、ガンバッテ。ヒヒ、ヒヒヒヒ」


 舞島と熊田は職場の同期だった。入社当初、二人の瞳は希望に満ち、光り輝いていたはずだった。

 それが今となってはどうだろう。彼らの姿は泥を拭ったぼろ雑巾。社会人としての責任は人の心を容易く壊し、頭のねじを吹き飛ばす。舞島にとって熊田は、見習うべき存在となったのだ。こうなってはならない、という意味で。

 熊田はおぼつかない足取りで、職場から出ていった。

 ……あいつ人体模型みたいだな。熊田の背を死んだ魚の目で見送りながら、舞島はそんな事を考えていた。



 *



「将来、大きくなったら何になりたい?」


 子供の頃、いつの事かは覚えていないが父親に尋ねられたことがある。自分と違って小太りで、手は大きくて、買い物癖はすこし悪いが威厳のある優しい父親だった。


「勇者!」


 どこか抜けていた舞島は、そんな父親に真っ直ぐな眼差しを向けてそう答えた。小さい頃からゲームが好きで、母親に没収され、クローゼットの奥に隠されるくらい色々なゲームに嵌りこんでいた。


「はは、お前は本当にゲームが好きなんだな。勇者はちょっと分からないけど、お前ならゲームを作る人にはなれると思うぞ。父さんの知りあいにも《ワイドグラフ》で働いている人が二人いるんだ」

「すげー!」


 当時から《ワイドグラフ》は大手のゲーム会社だった。ヒット作を何本も打ち出し、今では国との共同開発にまで至っている。そんな会社に勤める自分を想像しては、夢を広げていた。

 しかし歳を重ねていくごとに、知ることになる業界の現実。潰れていく、夢で描いた理想の世界。


 俺はただ、ゲームがしたいだけだ――。

 そう気づいた時には、出来上がっていた。ゲームの強さと、まばたきしない事しか取り柄のない模範的な反面教師。

《シード》の世界と、会社とを行き来するだけの人生。

 一体、何のために生まれてきたんだ。舞島はいつも疑問に思っていた。外を見れば鉄格子。逃げることすら許されない、冷たい監獄がこちらに手招きしているようだった。


「……! そうだ! 魔法を開発すればいいんだ! バグの修正案を自動で提示してくれる魔法!」

「バカな事を言ってないで作業しろよ」

「はい」


 ああ、仕事は楽しいなぁ。

 自身にそう言い聞かせて、終わらないバグ取りに身を投じた。



 酒が飲みたい。ありったけの酒の海に溺れたい。

 会社を後にした舞島は、ゾンビのような動きで自宅への帰路を歩いていた。多くの住民が就寝し、車の一台も通らない真っ暗な夜道。道の端に立てられた古い電灯が点滅し、その周囲にはいろんな虫が飛び回っている。

 結局、バグの修正は失敗に終わった。その事を溜井さんに報告すると、仕方なさそうに溜息を吐く。それは舞島の心に突き刺さり、無力感で満たした。彼の声をグー〇ル翻訳にかければ聞こえてくるようだった。


「何だこいつ、使えねえな」という、本心が。


 そう考えると、酒に酔わずにはいられない。昨日も飲んだが今日も飲む、絶対。

 帰りの途中でコンビニに寄って、大量の缶ビールに酎ハイ、それと三万円分のプリペイドを購入した。それだけでも、心の何処かはすっと楽になるものだ。そこの店員もまた、若くして目が死んでいた。


「ヒヒヒ……」


 なんとなく壊れてしまったように見える熊田の笑い方を真似してみると、思った以上に自然な振る舞いで、そんな自分が恐ろしくなった。まばたきが止まっていたので、目元のマッサージをしながら店を出た。


 舞島の住居は、最寄りの駅から十五分の位置にある狭いアパートだ。家賃は周辺の中でも最安、過去に殺人事件のあった一室だが、幸い何かが化けて出た事はない。

 こうまでして安い部屋に拘るのは、全て課金の為。強者たるもの、質素倹約は生活の基本。現代に生きる電脳世界の武家である。

 ひとまず、食事と一緒にビールを一本。いつからだろう、ビールがこんなに美味しくなったのは。あれだけ不味いと宣っていたのに、今では生活に欠かせないポーションの一種と化している。冷蔵庫に入れてあった食いかけのビターチョコも引っ張り出し、つまみ食い。カカオの微かな甘み、そして香りがビールの深みをより引き出し、疲れた身体を癒していく。


「幸せ……」


 思わず言葉を漏らしてしまう。普段から食器は食後すぐに洗うようにしている舞島も、今日ばかりは時間が惜しく、台所に置いて水に漬けておくだけにした。

 本当ならば今日は休みなのだ。明日からはまた仕事なのだから、今日くらいは楽しいことだけ考えよう。ふと時計に目をやると、すでに零時をまわって日付が変わっていた。知らずして涙が流れていた。


 コンピュータにヘッドフォンとマイクの端子を突き刺す。二十代半ばの酩酊社畜、それがメルトの正体である。世界はそれを、否定しない。現実では雑巾のような自分も、この世界では英雄として自由の世界を駆け巡る。

 その喜びと誇りを胸に、皆が待っている世界の扉を開こうとした。


「……え?」


 だというのに。何やらログインに失敗した。

 画面の中央に表示されるエラーメッセージに書かれた文が信じられなくて、心臓が止まるのではないかと思うほどの焦燥感と共に、絶句した。

 読み間違えかと、一文字ずつゆっくり読み直したがそれは変わらない。知らずして右手が震えている。


【現在、接続されているアカウントです】


 つまり、それが意味するのは、第三者によるアカウントハック。

 舞島はこの日、生まれて初めて、自由に満ちた仮想世界にすら否定された。

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