第1話『残された者の黄昏』
目を覚ますと、見知らぬ部屋に居た。
壁には桃色の時計が掛けられ、秒針は音を立てながら時を刻む。時刻は二時八分。窓の外からは暖かい陽が射し込んでいる。昼を少しばかり過ぎた頃か。
部屋の隅には大きなクマをモチーフにしたソファが置かれ、なんとも可愛らしい部屋だった。全身を映す身鏡も置いてある。パステルピンクのふかふかな絨毯は、自身が土足で居ることを敬遠させる。どうみても、女の子の部屋だ……。
「――ってもう昼過ぎ!?」
ほんの一瞬、仕事に完全に遅刻してると勘違いして、大慌てで飛び上がりそうになった。
それをなんとか堪えて、一度落ち着いて深呼吸。
そういえば今日は土曜日だった。三週間ぶりの休みだ。
再び、部屋には静寂がやってきた。窓の外から吹いてくる風が肌をくすぐって、心地が良い。
状況がいまいち把握できなかったが、腕を頭上に掲げ、大きく伸びをする。普通ならば緩んでいた筋肉がほぐれ、心地良さが全身に走る行為だが、ここはどうやら慣れ親しんだ仮想世界らしく。
つまり、いつまで寝てようが顔はむくまないし、日頃の癖としてやってしまったところで、意味は無い。
時間ももったいないし、ひとまず起きることにした。窓の外を見れば見覚えのないこの場所に、一つだけ心当たりがある。
「う……っ?」
立ち上がった途端、急に吐き気がして口元を抑えた。
気持ちわるい。眩暈がして、少しばかりよろける。酔っているのだ。昨日のことを何ひとつ、覚えちゃいない。
いや違う。強いて言うならば一つだけ、覚えていることがある。
酒を飲みすぎたんだ。量は知らん。ただ、たくさん飲んだことだけは覚えている。だからこその、この状況だ。さすがにもう少し酔いが醒めててもいいと思うのだが。一回起きてまた飲んだんだっけ。だめだわからない――……。
せっかく身鏡があるのだから、自分の姿を確認してみる。思わず表情が綻んでしまった。目に映るのは金髪のショートツインテールの、瞳がルビーのように真っ赤な美少女だ。朱色を基調とした鎧のようなドレスを着ている。
これがこの世界での、自分の姿だ。半日を容姿の完成に費やした、言わば我が理想の美少女の黄金比。
胸はほぼ無く、身長も低い。ただし最低というわけではない。身長もバストもミリ単位で調整している。
『ないわけではない』これこそ我が理想。
しかし現実は……今は、気にしないでおこう。どうやらスイッチが入ってしまい、しばらく身鏡の前でいろんなポーズを取っていた。酔っていると恥ずかしげも無くなんでもできるものだ。
唐突に、部屋の入口の扉が開く。部屋の主が帰ってきたのだ。
気怠げな様子で氷のように冷たい色をした水晶が付いた杖を抱え、やってきた我が親友が、自身のスゴイカッコイイポーズを見て、硬直してしまった。
「おっアリスー!」
「……な、何してるんだ? メル……。引くんだが……ていうか気持ちわるいぞ」
何のためらいもなくそう言う彼女の名前はアリス。正確には〈不思議のアリス〉という名前の魔法使いだ。この世界で名前に使えるのは14バイトまで――つまり日本語ならば7文字までだ――ゆえに仕方ないのだが、どうも意味が変わってしまっている気がする。本人は気にしていないらしい。
彼女とは知り合ってもう五年にもなる、最も信頼できる仲間の一人だ。仲間思いで、最近は見知らぬ初心者を助けるのが楽しいらしく、始まりの村にいることが多い。
長い間、世界を旅して、多くの人と知り合い、そして別れてきた。そんな人の荒波に揉まれながらも、二人で未だにこの夢の世界に住み着いている。古参として名を馳せているという自負すらあった。
「何してるって……いや、俺もよく分かんねー。だはは!」
「……その様子なら大丈夫そうだな。っていうかまた呑んでるだろお前!」
「いやいや今起きたとこだからぁ」
「……ったく、昨日はあれから大変だったんだからな。誰がここまで運んだと思ってるんだ。早く行くぞ」
「行くー? どこにぃー」
「……送別会だよ。ノルニスの」
アリスは少しばかり俯いて、語調を弱めながら言った。
あぁ、そうか。その意味を察して、酔って高揚していた気分は、あっという間に沈んでしまった。
「わかった……行く……」と、それだけ伝えて、アリスと共に部屋を出た。
この世界は夢の世界だ。――さりとて、安住の地という訳ではない。
*
その送別会は、とても簡素なものだった。何らかの理由でこの世界から去ろうとする者を、見送るだけだ。ちょっと会話して、使わなくなったアイテムを適当に仲が良かった人に渡して、じゃあさようなら、と。本当にそれだけの、事務的で寂しいやり取りで。そこには感動の欠片すら存在しない。
「じゃあな、メルト」
また一人、友がこの世界から去っていく。
ノルニスは最後に情緒を揺さぶるわけでもなく、微かに笑みを浮かべ、淡々とした言葉を言い残す。彼はそれ以上、こちらを振り返らなかった。
「おう」と、その返答もまた、きっと心はこもっていない。そもそも本人に届いているかすら曖昧な、まさしく空気の漏れたような音だった。
いつからだろう。昔から変わらないはずの美しい世界から、ただ新鮮味だけが失われてしまったように思える。
細かな光の粒となって、青い空に昇っていく友を茫然と見送りながら、そんなことを考えていた。
無自覚の悪事を叱ってくれた、小言の多い節介な男がいた。
肩を並べて馬鹿騒ぎして、共に戦ってきた仲間がいた。
あるいは、ささいな理由で争い、言葉で殴り合った名前も知らない人だっていたはずだ。
しかし彼らはみな、何処かへ行ってしまった。
どうして繋がりを断ってしまったんだろう。その問いに、答えは見当たらない。
いや、違う。ただ目を逸らしているだけだ。
けれど必死に手を伸ばしても、彼らはきっと戻らない。ふと見上げると、かつてから変わらない空の色が、いささか色褪せたように目に映る。
何が楽しくて、いつまでもこの世界に縋り付くのか。その答えは分からなかった。
否。時間が経ちすぎて、忘れてしまったようである。
きっとこの世界の多くの人が、いつも同じ事を考えている。
そしてその「答え」を完全に忘れてしまえば、その人の描く世界の意義は崩れ去る。別の世界に価値を見い出し「答え」を得るために去っていく。そしてまた、忘れる。
それが、普通。
しかし一部の人間は、その「答え」を忘れ去ってもなお、老いた樹木に縋りついて蜜を求める。その姿はさながら、せみの抜け殻のようで――遠目で見れば、生きているのか、死んでいるのかすら分からない。
それが俗に言う、廃人という人種。
彼らにとってこの世界は、プログラムでつくられた麻薬のようなものであり。
世界の存在に疑念を抱くも、自らの手で断ち切ることはできない。
いつかは破滅るとわかっていながら、嘆こうとも、抗おうともしないのだ。けれどそれは仕方のないことかもしれない。
なぜなら彼らは、それが止められないことだと知っているからだ。抗ったところで意味はなく。ならば、残された時を精一杯生きようというのは、至極真っ当な考え方ではないだろうか。
それが大多数に浸透してしまっている以上、世界は詰みの状態――つまり唐突に訪れる終焉に向けて、まっすぐに進み続けるしかない。
「おかしいだろ……」と、横にいた騎士が力なく呟いた。彼は空を見るのでなく、地面を見下ろしていた。
きっと、聴こえているのだろう。助けを求める世界の悲鳴が。
「……そうだな」
何十、何百年と、暗い深海の底にいるかのような沈黙が、重くのしかかる。
結局、彼に対してかける言葉を見つけることができなかった。なんとかしてやりたくても、たった一人で星の行く道を変えることはできない。静かに目を瞑れば、事実は簡単に覆い隠せる。また明日から、いつものように過ごしていくだろう。
かつて、世界は輝いて見えた。もっとよく見渡すために山の頂を目指した。
けれど黄金のように美しい未知感を掘削し喰らい尽くしていくうちに、燻んでいったことに気がついたのはあまりに遅く。さりとて、なおも止まっていない。振り返れば、くすんだ砂漠が広がっているだけだった。
ときおり顔を出す宝石の鉱脈を似た者同士で奪い合う様は、さながら愚鈍で滑稽な綱引きのようなものである。
「しょうがないよ」誰に向けたかもわからない、言い訳のような言葉を呟く。
それでもいい。
答えを失った者の心の根底に刻み込まれた一つの答案が、光となったノルニスと共に、天に浮かぶ真昼幻月へと昇っていった。