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ホワイトオークの森  作者: は
1/3

春待月の夜話

※本作はPixivに掲載した作品を転載したものです。

前作(薬師ジェイムズの物語)と同じ世界となっております。

全三話を予定しています。



 春待月は新年より数えて二つ目の満月を迎える晩冬の時期である。

 南方にある半島諸国はそもそも冬らしい冬すらなく秋蒔きの麦が穂を垂れる頃であるが、都より更に北方の山間にある白楢の森は今も深い雪に覆われている。


 かつて、それこそ先帝が都を定めるよりも前の時代。森を切り開き錫を掘り、白楢の森は禿げ上がる寸前だったという。それほどまでして得た錫と木材で当時の人々が何を成し遂げようとしたのかは、史書にも記されていない。


 現在、白楢の森に住まう人間はいない。

 錫を掘った坑より流れ出た毒水を山の呪いと恐れ、大樹を乱伐した折に住処を荒らされた毒蛇や猪などが暴れ出したのを森の怒りと怖れた。放棄された採掘所や飯場が樹に飲み込まれ森の一部に戻った頃、即位した現帝は白楢の森一帯の土地を一匹の鬼に褒美として与えた。

 鬼の名はグリムという。




▽▽▽



 白楢の森は落葉の広葉樹と、少々の針葉樹が混在している。


 かつては五百年を越える樹齢の楢やブナが幾百幾千と育っていた森も、今その森を構成するのは百年少々を過ぎた程度の──それでも余所の森に比べれば恵まれているが──若い樹ばかりである。

 茸の根付きも良く薪炭の材にもなる松の類は、森の外れにて育つ。また赤い木肌の松は楢に比べて伸びが早く、砂に近い荒れた土でも根を張る。雪が解けて暖かい日が続けば松の育つあたりでは薬や食料にもなる松露や茸も良く生え、適度に刈られた柴や下草の間からは丈の長い苔と共に繁茂する野生のベリーが橙や深い赤紫の果実を結ぶ。


 人里が近ければ農村の子供達が篭を手に大挙するほどの実りだが、最も近い村落も徒歩で一日半はかかる。それに毒水に冒された『呪いの森』に近付こうという物好きな村人はいない。まして白楢の森には得体の知れない鬼が棲んでいるのだから、そこに近付く人間は富と名誉を求めた賞金稼ぎか自殺志願者である。


 雪が深い。

 重みがあり密度の高い雪は、成木の幹を割り枝を圧し折る。白楢の森とてそれは例外ではない。が、余所の森に比べて枝に積もる雪は少なく、荷馬車が通れるほどの小さな路が掘り起こされている。


 古い轍が十と八、真新しい轍は二つ。

 最寄りの村まで徒歩で一日半。雪に強い北方品種の荷馬が牽けば往復で半日、しかし踏み固めた雪の路に刻まれる蹄鉄の跡は北方品種の大きなものではない。慣れぬ雪路を苦労して進んだのだろう、何度も御者が降りて共に進んだ跡もある。


 空は分厚い白雲に覆われているが、雪が降りる気配はない。

 湿り気を帯びて暖かさを感じさせる空気は、春待月独特のものである。それでも旅する者にとって油断すれば命を落としかねない季節であることに違いはなく、ましてや鬼が住まうという森を往くのであれば生きた心地もしないだろう。


「ぐえええ、死ぬう!」


 白楢の森、その奥にある奇妙な家。

 極端な切り妻屋根の傾斜がどことなくユーモラスな家の中で、頬と鼻を真っ赤にした男がくしゃくしゃの笑顔で叫んでいた。

 シンプルな焼き物の大きな器にはごろんとした塊のベーコンに、皮を軽く剥いた程度の山芋のぶつ切りが入っている。ややくすんだ灰色の人参もどきの根菜に、香ばしくも青々とした花芹の塩漬け。それらが湯気を立てて男の肺を満たし胃袋を刺激し、凍傷寸前だった手をもどかしく動かしながら串で山芋を口の中へと運ばせる。


 熱さ。

 凍てついた全身を一気に解かして血を隅々まで巡らせる熱さが口中から喉を経て胃におさまる。胃にたどり着いてなお芋は熱を保ち、その心地よさに男は先述の悲鳴を上げた。

 ああ、死ぬ。

 死んでもいい、むしろ殺せ。


 都より託された命ではあるが、時期が時期であり場所が場所だから男は最初から死を覚悟していた。政敵ですら刺客の派遣は要らぬと判断するほど、都の民は白楢の森を忌み嫌う。男も都を発つ時に妻子へと別離の言葉と手紙を残していたし、侍従にも暇を出した。

 そういう思いで訪ねた森の奥、都では職人さえ絶えて久しい切妻屋根の一軒家。

 男──肩書き上は騎士団に準ずる役職である憲兵隊の相談役──は、口福を実感していた。


『毒味もせず、その。平気かね』

「死ぬうう、死んでもいいい」


 頬ゆるませ山芋を頬張る相談役に、獣相強面の大男が心配そうに声をかける。狒々とも猪ともつかぬ獣相は丁寧に剃刀を当てて髭を落としており、上唇を押しのけて伸びる大型の犬歯は牙と呼んで差し支えない。額の端には角を思わせる硬質化した皮膚が瘤のように盛り上がり、大男の本質が人間とかけ離れたものだと示している。


 鬼種(オルクス)

 都に出入りする古典好きの冒険家達ならば、伝承にあるオーク種だと思うだろう。闇の国、闇の民、未開の地に住まい国教の唱える正義と光に背き一時期は都に迫るほどの軍勢で戦いを挑んできた、人ならざる者。

 近年、それこそ現帝の恩赦により人に準ずる扱いを受けていたが、それまでは害獣の類として裁判を経ずに討伐すうることを国教会が喧伝していたほどだ。多くの鬼種は人里を離れた場所に集落を営み、関わることを避けているものが多い。人より長命である鬼種にとっては現帝の慈悲など一時の気まぐれであると反発するものもいる。


 だから都の、城の人間がオーク種が隠れ住む場所に行くなど自殺行為にほかならない。文官扱いとはいえ憲兵隊に身を置く相談役であったとしても例外ではない。酒に毒を盛られたとしても仕方ないと思うに足る衝突の歴史が人類種と鬼種の間にはあるのだから。


 その歴史を踏まえ、相談役は器一杯の山芋の汁物を堪能した。

 たとえこれが毒だとしても構わない、これほど温かく味わい深いものが毒や汚物だというのならば、都で人々が口にするものはおぞましき死霊秘術(ネクロマンシイ)の副産物ではないかと思うほどだ。


 オークは相談役の食べっぷりに最初は呆れ、しかし外の寒さが都に住まう人間にとっては相当に厳しいものだと思い直すと暖炉に薪を足した。既に室内は外套も要らぬほどに暖かいが、構わずに火の勢いを強くする。暖炉の上に吊した金網の滑車を巻き上げて、焼き干ししている大角鹿のアキレス腱が焦げぬよう位置を変える。


『都で杖を振るう坊主共の言葉は今も変わらないのだろう、その、百年前と同じ』


 水をすすれば骨が腐り、肉は溶けて流れ落ちる。

 一夜を森の中で過ごせば、明け方には人の形をした毒虫の塊と成り果てる。それが帝国唯一の魔境たる白楢の森に対する評価。


 国教会が初等教育の本に載せる文言は今も変わらない。

 それどころか白楢の森が毒に冒されたのは鬼種が住み着いた結果であると、アカデミアに圧力をかけて何本もの論文を上梓させている。鬼種との融和を目指す現帝との不和は、結果として白楢の森に対する罵詈雑言と風説の流布という形になり、市民の初等教育を一手に担う国教会は下層から上層階級に至るまで鬼種への恐怖と偏見を積極的に植え付けている。

 初老である相談役も同じ教育を受けたはずだ。


「ああ、ああ。今でもあの思想家の弟子を自称する生臭共は変わらずだ。腕の立つ者が現れれば勇者とおだて上げ、小銭と飯炊き娘を押しつけて討伐の旅に送り出そうとする」

『森の外にできた村、そろそろ住民の数が三百に届くと聞いているよ』

「ここまで来れた者は」

『週に二度、こちらから炭と薪を村に届けに行っている。道中で仕留めた兎や鹿を渡すこともある』


 オークの言葉に、相談役は器を掲げて汁の一滴まで飲み干すと吹き出すように笑った。

 ざっくりと織った山羊毛のセーターに、虫除けの薬草で染めた綿厚手の長いパンツ。壁に掛けてあるのは兎の毛皮を丁寧に縫い合わせた袖無しの外套で、派手さはないが丁寧な仕事だと相談役は一目で見抜いた。憲兵隊の中堅幹部でも、これに互する質の冬着は持ち合わせていないだろう。


 およそ野蛮という言葉とは程遠い、文化と文明を感じさせる居住まい。門扉を叩いて直ぐに相談役は己の内にあった認識がどれほどの偏見と歪みに狂わされたものかと思い知ったのだ。

 突然の訪問客にオークは慌てず、暖炉の鍋で煮込んでいた山芋とベーコンの煮物を器一杯に盛りつけ、これを食べて暖まれよと流暢な大陸語で語ったのである。


 恐怖、寒さ、恥辱、そして衝撃。

 山で採れる芋を食べる習慣は都にはない。しかし現帝が時折懐かしみ、また再び口にしたいと周囲の者に話す料理がまさにこれであると相談役は理解する。


 死ぬならば、これを口にして死ぬのであれば、それはもう本望と言わざるを得ない。そして一口また一口と頬張る度に、全身の臓器と体液が、この料理が己の生命をつなぎ滋養を与えてくれるものだと訴えかけたのだ。毒であるはずがない。

 汁を飲み干す頃には、国教会の売僧共の教えなど頭から消えていた。


「馳走になった」

『驚かぬのだな。鬼の出す飯だぞ』


 意地悪ではなく本心より不思議に思いながらオークが問えば、相談役は天井に吊されたものを見上げた。縦二つに割られ、全身ごと燻されたそれは羆ほどの大きさはあろうかという猪だ。天井の半分近くが、開きになった猪のベーコンで埋まっている。


「いや、驚いているよ。尋常な猪ではあるまい」

『各地を転々としていた雄でね。人の畑を荒らす旨味を覚えてしまったらしく、悪い知恵を付けつつあった』


 そんな猪がここでたらふく餌を採れば、取り返しのつかない事になる。都の近くに現れれば、火砲を携えた騎兵を大隊規模で向かわせても無事では済むまい。相談役は憲兵として培った長年の経験から生前の猪の脅威を推測し、そんな猪を捕獲して処分したオークの力量に感嘆した。

 白楢の森にまつわる噂というのは法螺話ばかりというわけではないようだ。


「食べ切れぬようであれば買い取ろうか」

『銭は要らぬよ。身体半分を切り落とすので馬車に積んでおく』


 土産話にすればいいと、空になった器を相談役より受け取る。

 オークはデザート代わりだがと、錫の酒杯に酒と巣蜜の欠片を落とし熱湯を注いだ。乾燥させたベリーや蜜漬けのナツメ、あるいは各種のジャム。南方との取引が活発化して都も甘味が増えてきたが、蜜蝋の六角仕切がそのまま残る濃厚な蜂蜜の塊というのは今も最高級の甘味料として扱われている。


 作法こそ大雑把ではあるが、客人の持て成しとしては最上級の一杯。相談役は感嘆し、口にして驚きを重ねた。


「美味い、熱い、甘い」

『これも美味いが、大麦のパンを発酵させた密造のエールに揚げた芋で一杯やる冬の暮らしを懐かしく思うこともある』


 密造エールに揚げ芋。

 この場で聞くとは思わなかった単語に相談役は目を丸くした。


「──アカデミアの学士達は、今もそういう暮らしをしておるよ」

『戦後の混乱期が十年近く経った今も続いていると?』

「いやあ伝統みたいなものだ。食費を削り、書を買い漁る。アカデミアに集うバカ共の本質は変わらん、倅もそうだ」


 倅と口にして、相談役は息を吐いた。

 彼に託された使命。正気を疑うような、しかし隠密とはいえ現帝より直々に賜った願い。その言葉の意味と重みの正体を、相談役はオークとの会話の中で探り当てた。


「グリム殿」


 都で国教会の坊主達が人喰い鬼として罵倒する白楢の森の主の名を、相談役は口にした。

 静かに、しかしその内側に力をこめて相談役はオークを見つめ、告げた。


「生臭の坊主共ではなく、現帝陛下の命により」


 小さく息を吐く相談役。

 オークもまた表情をにわかに険しいものに変え、言葉の続きを待つ。相談役は背負っていた荷物より小さな包みを取り出し、卓の上に広げた。


 並ぶのは彩色した陶製の駒。神話の時代に異世界よりもたらされ東西南北で様々な派生品を生み出した盤面遊戯、その中で古典的かつ最も洗練された競技の一つとされるチェスの駒だ。

 しかも、これは。

 オークは絶句し駒を手に取り顔に近付けて凝視した。この国にも陶器根付いているし簡素だが磁器を生み出す技術もある。が、これほど小さな駒に精巧な彩色を施した精緻な造りをオークは初めて見た。


「一局、お相手願う」

『あの小僧、チェスの負けを取り返すために大陸チャンピオンを寄越しやがった!』


 チェスの駒、その裏に刻まれた文字をまじまじと見た後、オークは相談役の顔を凝視して悲鳴を上げた。


「陛下が少年だったのは、もう十五年も昔の話ではないか。この春には長年の恋を実らせ、子爵令嬢を后に迎えられるのだぞ」

『子爵令嬢? 莫迦をいえ、あいつが付き合ってたのはパン屋の看──おい、ひょっとして』

「真実を知りたくば」


 同じく取り出した盤に駒を並べ、楽しそうに相談役は膝を叩いた。

 現帝からの密命。

 それは不遇の時代を過ごした幼少時の帝を匿い、武技と知識を授けたとされる一人の鬼種を連れてくること。白楢の森を解毒し、アカデミアに籍を置いていたという噂すらある、風変わりなオークに弟分の結婚を伝えること。


 憲兵という役職の余技で覚えた遊戯とはいえ、一度は大陸王者とも呼ばれた相談役は己の膝を叩いて奮い立たせた。


「──まずは一局、如何かな」

『よかろう』


 部屋の奥より琥珀色の蒸留酒が入った瓶を取り出し、グラスを二つ、盤の横に置いた。


『とことんやろうではないか』




▽▽▽




 帝記に曰く。

 ハギス王朝イール十三世の婚儀に、かの白楢の森より鬼の賢人が参上。大地の巨獣と幾樽もの芳醇なる霊薬を献上し、帝の婚儀を祝福し王朝への忠誠を誓った。

 民はイール十三世の偉大さを称え、鬼の賢人は内乱で焼失した筈の聖句第七百六十五節を唱えて正教会の僧侶達を驚かせた。鬼の賢人は焼失した聖句を含む二十三巻の写本をアカデミアに納め、再び森の奥に帰ったという。



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