君はストレリチア
みんなが知っている君の事を、僕はよく知らない。
君はいつだって気遣いに溢れ、けして威張らず、明るい人なんだと聞いたことがある……その程度だ。話したこともあまりない。だからと言って避けられている訳ではない。一クラスメイト、ただそれだけの関わり。平均点のテストのようなものだ。
一方、みんなが知らない君の事ならば誰より知っているのは僕だと自負している。
例えばそう……僕に向けている君の目は、恐らく誰も知らないだろう。
冷や汗が乾いたエアコン風の暖かさを引き裂いて肌に流れた。脈は警鐘のように早鐘を打ち、体温は止めどなく上がり続けている。
「何か言うことは」
「すみませんでした」
本日何度目かわからない謝罪の言葉を口にしながら、僕は菜箸で卵に混ざった殻をちみちみ掬う。勿論だが黄身は崩れていて、菜箸はすぐに黄色みのオレンジを纏ってしまう。キッチンペーパーに殻を落とせば、比翼だとでも言うようにボタッと卵がついていってしまった。
「あっ」
「愚図」
苛立ったように舌打ち一閃。彼女は粗野に束ねた黒髪を靡かせながら座っていた机から降りて、置いてあった延べ棒で僕の側頭部を小突いた。
僕の手から菜箸を毟り取り、空に浮いた白身の滴が垂れるよりも早く卵に突っ込む。ちゃぷん、と乱雑に飛び込んだ菜箸は次の瞬間舞踊のような動きで二ミリほどの殻を掬い取った。一往復、二往復、指揮を振る如き動きで踊る。
「料理部に入って二年目にもなるのに、卵ひとつ綺麗に割れないなんてホント使えない奴」
白と黄色のマーブルが渦を描く。時折箸で白身を切りながら、混ぜる。切って、混ぜる。切る。混ぜる。
「ホント毎回ゴメン」
彼女は鼻を鳴らした。何も言わなかった。いつもに増して不機嫌そうだ。
卵に反射した光が眩しくて、思わず手元から目を反らした。
料理部の部室、もとい調理室には部活という名目でチョコレート作りに勤しむ多くの女子の姿があった。皆一様に腕まくりをして、溶けたチョコレートと格闘している。
一方男子はと言えば、僕しかいない。他にも部員はいるのだが、特有の甘怠い空気に圧されて帰ってしまったようだった。
「そもそも、私に手伝わせてどうするのよ。人様にあげるもの、他人に作らせる位なら買えばいいのに」
「……君が作った方が美味しいでしょ」
「そうね」
自信を持って言い放った彼女に苦笑いを返して、僕は小皿のバターをレンジに入れる。つまみを回して二分間にセットし、ガチャっと壊れかけのボタンを強く押した。
「袋は」
「天板の上」
彼女は袋を手にとって開くと、溶いた卵とグラニュー糖を入れた。もちろん溢したりはしない。いや、毎回のように溢してしまう僕が不器用なだけだとは思うのだが。
僕は使い古しの軍手を手に着けて、レンジから溶けたバターを取り出す。水面が揺らいで張力でなんとか器に留まった。
バターを加えて、揉みこむ。小麦粉、アーモンドプードル、蜂蜜、バニラエッセンスも順に入れてしっかりと練り上げる。
「……あぁ、小麦粉がダマになってる」
彼女は始終文句を言いながら、僕をじっと見守っていた。その声に従いながら、何とか一つの塊ができるまで生地を練り上げる。窓ガラスにちらっと映った自分の顔がだらしなく惚けているのに気がついて、慌てて引き締め直した。
「こん、な、感じ?」
「何疲れてるのよ、貧弱ね」
ほっと一息付いている間に、彼女は淡々と天板にクッキングシートを引き並べていく。その所作は粗野で、こころなしか叩きつけるようですらあった。何か言いたいことがあった気がするが、忘れてしまった。
袋の端をハサミで落とす。
「……この上に生地を絞るの。四掛ける四の十六個ぐらい」
彼女が指を指した所に、生地を絞り入れる。指を指し、絞り、指し、絞る。
時々へまをして、小突かれて、笑って、またミスをして、怒られて………。
僕は綺麗にラッピングされたクッキーを片手にぶら下げながら、一人で夕暮れの廊下を歩いていた。
足取りは軽く、気を抜くと思わず跳ねてしまいそうな心を押さえる。我慢しきれずに、ククッとくぐもった笑い声が喉から漏れる。
──本当は、クッキーを渡す相手なんて居ないんだ。
頬張ったクッキーは随分と生地を放置したせいかパサパサとしていて固かった。
どうか一生気づかないでいてほしい、こんな格好悪い、
恋は、
君は、
──ストレリチア。