プロローグ
とある晴れた日の昼下がり。
穏やかな日差しに包まれた土曜日の町は、喧騒を何処かに置き忘れてきたかのように、静かにゆっくりとした時を刻んでいた。
あまり交通量の多くない幹線道路に面した歩道を、一人の青年が歩いている。
ヨレヨレのジャージに伸び放題の長い髪。体質のせいか髭は薄い分、若干の清潔感が見られるのが救いか。
多少端正と言えなくもないが、やややつれた顔は不健康そうに青白い。
町のリズムに合わせたように、こちらもゆっくりとした足運び。
どこか眩しそうに空を見上げながら、一歩一歩そっと足を踏み出すその姿はいささかぎこちなく、何となくおっかなびっくり、という言葉を連想させる。
だが、それもやむを得ないだろう。
なにしろ彼にとって、外を歩く、という行為は、実に四年ぶりのことだったのだ。
きっかけが一体なんだったのか。
それはさして大きな問題ではない。
端から見ていて些細なきっかけであったのか、それとも深刻なきっかけだったのか。
いずれにせよ、彼にとってはひどく重大に感じられたきっかけだったのだろうから。
元々世間は、彼にとっては生きにくい場所だった。
周りと合わない。
周りと馴染めない。
幼い頃は、周りの全てがバカに見えていた。
一を聞いて十を知るが如く、彼がすぐに理解できる事柄も、クラスメートはなかなか着いては来れずにいた。
周りのペースに合わせることが、彼には苦痛で仕方がなかったのだ。
だが。
十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人。
彼はまさにその格言を地で行っていた。
全く勉強せずともクラスでトップに立っていた彼は、いつしか周りに追い越され始めていた。
中学校まではまだ誤魔化しが効いていたが、高校に入ってからはもうダメだ。
周りのペースに合わせることが、彼には困難になっていったのだ。
高校を徐々に休みがちになっていた彼は、二年生のある日、ついに家から出られなくなっていた。
そして、それから四年。
何が心境の変化をもたらしたのかは定かではない。
だが、踏ん切りをつけるにはいい節目だったのだろう。
今日、この日は、彼のちょうど二十歳の誕生日だったのである。
ただの人となってしまった彼は、ただの人として当たり前に出来ることを、ようやく始めることが出来たのだった。
そんな彼の向かい側からセーラー服姿の女子高生がまっすぐ歩いてきていた。
何となく気後れを感じた彼は、その女子生徒の様子を窺いながら、そっと道を空けようとする。
その瞬間だった。
彼の目の前で、突然その女の子がガクリと歩道を踏み外した。
パッと見、不審者に見えなくもない彼を迂回しようと大きく避けすぎたのだろうか?
彼が思わずそんな疑いを持ってしまうほどに不自然に、彼女は唐突に大きくその身をよろめかせていた。
「あっ……!」
小さな悲鳴と共に、崩れたバランスを取り戻そうとたたらを踏む少女と、彼の視線とが絡み合う。
助けを求めるかのようなその視線。
そこに鳴り響くけたたましいクラクションの音。
町の静けさを切り裂くその音は、まるで悲鳴のようにも聞こえ。
そしてその音こそが、彼の背中を押していた。
考えるよりも早く、彼が彼女を追って車道に飛び出す。
四年間運動から遠ざかっていた痩せた身体には、素早い動きなど望むべくもない。
それでも、彼は間に合った。
抱えるには遠すぎる彼女の身体は、突き飛ばすしかなかった。
彼女の代わりに残される彼の身体。
そこに迫るトラックの車体。
誕生日が命日とかってありかよ。こんなことなら家なんて出るんじゃなかったなあ。
どこか他人事のように迫るトラックを眺める彼の表情は、驚くほどに穏やかなものだった。




