六月の聖者
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別名義で、ボクシング長編を掲載してます。
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六月下旬の東京には太陽がない。
ここしばらくの空模様は、都内私立高校に勤務する赤沢の心を映し出していた。
一時間目の授業の疲労と倦怠感に、赤沢はそのまま職員室の机に突っ伏した。
右頬に感じるのは、スチールの冷たさ。
しかしそれもつかの間の出来事だった。
発散されることのない体温は机の冷気と空気中の水蒸気と混ざり合い、汗とも水滴ともつかないどろりとした何かとなり頬にまとわりついた。
ぺりぺりと頬を机からはがす。
何気なく頬についた水滴を口に含む。
昨日の痛飲のせいか、塩辛さに不快なアルコール臭が混じっていた。
赤沢は昨日のことを思い出す。学校に内緒で交際をしている2年A組の女子生徒との関係をいかに清算したらよいのだろうか。
一時の気の迷いであったはずの関係が、お互いにもはや引き返しようのないところにまで来てしまった。
遊びなれていたようで、その実純粋さを残していたその生徒は、高校卒業後のことまで視野に入れた交際を求めている。
しかし赤沢としてはただの遊び相手でしかない。
自分の将来の伴侶とするなど真っ平だった。
そのことを思うと赤沢は無意識のうちに大声を張り上げたくなったが、代わりに大きなため息を吐くしかなかった。
すると自分自身の息が、とんでもなく臭いことに驚かされた。
口臭だけではない。
昨日は一晩中飲み明かし家に帰ることなく出勤したため、体中が発酵したような汗のにおいを発していた。
スプレーなどで匂いを抑えたはずだが、赤沢本人にはそれが複雑に絡み合った悪臭に感じられた。
ぶるぶると顔をぬぐうと、ワックスのような脂汗が鈍く蛍光灯の光を反射した。
頭を掻き毟ると、頭皮の皮脂臭とタバコのにおい。
あわてて整えた整髪料が指にねとつき、爪の中には塗装のように垢が堆積していた。
赤沢はもう何も考えることができなくなってしまった。
机の上に再び突っ伏す。アルコールで荒れた胃が机の減りに圧迫され、おくびがすかしでた。
右頬をつけながら赤沢は壁の時計に目をやった。
10:12、次の授業、四時間目にはまだまだ時間があった。
いっそ有給を取って休もうかと思ったが、どのような言い訳をするか、それを考える気力もなかった。
どうせ何を言っても、二日酔い故と決め付けられるに決まっている。
それも理由のひとつであったが、それがすべてではない。
女子生徒のことも、されにそれ以外全てのものが理由としかいえないのだ。
貴重な有給をつぶすだけではなく、軽んじて見られるのもばかばかしい。
赤沢はすべてに倦み、何一つ為すことなく窓の外を眺めていた。
窓の外には都心のビル街が見える。
寒々しい空の色は、街中を作りもののように見せた。
気がつくと、口中からどろりとした粘っこいよだれがたれていた。
指でぬぐえば刺激臭が鼻をつく。
しかしそれももはやどうでもよいことだった。
寒々しい、なぜ夏だというのにこれほど寒々しいのだろう。
どれほど湿り気があっても、せめて暑ければ快活にすごせていたかも知れない。
分厚い雲はコンクリートの如く都会の空を打ち固めていた。
アルコールが体から抜けていくときに特有の悪寒と、いっそう濃度の濃い汗が毛穴から吹き出ていた。
二時間目終了のチャイムがなった後も、赤沢は微動だに動くことがなかった。
もはやおきているのか寝ているのか、いやむしろ自分が生きているのか死んでいるのかも実感できないまま赤沢は過ごしていた。
もう限界だ。
赤沢は有給を取得しようと意を決した。
そのとき赤沢の耳にある音が響いた。
乾いた口笛の音だ。誰がふいているのか。
休憩中の生徒だろうか。
そしてその音にさらに耳を傾けると、赤沢の心にある歌詞が思い浮かんだ。
“Oh, when the saints go marching in”
『聖者が町にやってくる』
ジャズのスタンダードナンバーだ。
赤沢はその口笛にあわせ、小さな声で口ずさんだ。
“Oh, when the saints go marching in
Oh, when the saints go marching in
Lord, how I want to be in that number
When the saints go marching in”
赤沢の心に、小さな火が点った。
赤沢は思い出す。
数年前に運んだニューオリンズの町並みを。
明るい太陽、乾いた風。
そして行きかうさまざまな人種の人々。
赤沢の心はしばし懐かしき日々の中にいた。
何度も繰り返されるそのフレーズを、赤沢は何度も口ずさんだ。
すると、小さな奇跡が起こった。
紅海を割るようにコンクリートの雲の間にひびが入り、赤々とした太陽が顔を出した。
黒い雲の中に見えたしばしの灼熱の日の光は、最後の審判の如く赤沢を照らし出した。
いつの間にか口笛は止んでいた。
しかし赤沢は何度も何度もその歌詞を繰り返した。
赤沢はにやり、と口をゆがめた。
そして勢いよく立ち上がり、結露のにじみ出た廊下へと飛び出していた。
ありがとうございました。




