第7話 『チャイナ☆シンドローム 前編』
対馬奪回に成功して――というより対朝鮮半島戦争、あるいは日本海動乱なる仰々しいタイトルの戦いに勝利して早くも一週間が過ぎ……。
自衛隊はこんどは東シナ海に警戒の目を向けていた。
恒例行事だった中国空海軍による領海侵犯がゼロになった。それこそが警戒に足る理由であった。かの国は慢性的なエネルギー不足に悩んでおり、バイパストリプロトロンがもたらす電力以外には、頼れるものがない。
中国は中東諸国の石油減産の煽りをいちばんまともに食らっていた。おかげで化石燃料が必要な自動車、航空機、船舶、戦車等々……軍事力の大半をまともに動かせないでいる。軍事アナリストの推測はその意見で一致していた。彼らは備蓄ぶんをなるべく温存して、戦いに備えている。もちろんその標的は日本。
つまり北京の共産党首脳部は瀬戸際まで追い詰められ、日本に喧嘩を売る以外国内の閉塞状況を打開する手立てがないと思っている。彼らはいまだに日本を御しやすい相手だと思いこんでいた。いや、むしろそうだと願望している。日本海の戦いを見ればいくらか考え直そうと思うはずだが、ほとんど恐竜並みに鈍重な指導部は、その程度で方針を変えられないだろう。
東京でアジア各国の首脳が集まり円卓会議を開催する。近頃はそのニュースで持ちきりだ。アジアから5カ国、中東から2カ国、さらにオーストラリアとカナダを加え、都合10カ国の首脳が角を付き合わせる。
議題はアジア太平洋の新秩序構築について。日本を中心として……というなら様にもなるが、日本の尻を蹴飛ばすかたちで発起人となり、開催を呼びかけたのはインドの首相だ。イニシアチブを取ろうとしない日本に業を煮やして、というのが実際のところだった。
そうであっても国内大手一紙などはさっそく、日本主導による新秩序構築など胡散臭い、時期尚早という論調だ。この時期にさらに中国を刺激するのはいかがなものか?
だが大新聞が心配するまでもなく、太平洋戦争以来、外交主導に対する苦手は全日本人の遺伝子に刻み込まれていると言って良い。戦後教育のたまものか、いざという時頼りにならない程度を良しとする風潮ができあがっている。尊大な官僚でさえでかい顔できるのは莫大な円借款に乗っかったときだけで、およそリーダーシップというものはどう発揮したらよいのか分からないのが、平均的な日本人だ。
そうした奥ゆかしさというか及び腰を情けない、あるいは団塊世代の悪癖とまで批判する声も一部にはある。多くは若い世代の(具体的な代替案を持たない)ネット弁慶的な声ではあるが、無視できない数であり、その尻馬に乗ろうとする右翼系政治団体もまた存在していた。
エルフガインコマンドのメインブリーフィングルームは大学の大型教室か映画館のようなひな壇になっており、200人近く収容できる。演壇の背後には大型スクリーンを備え、いまはそのスクリーンいっぱいにナガスクジラの側面図みたいなものが映し出されていた。その真っ黒な紡錘形の下には比較のためイージス護衛艦が並べられていたが、全長170メートルあまりの護衛艦〈こんごう〉の1.5倍の長さだ。
「これが先日遭遇した中国製ヴァイパーマシンです。およそ3分間の交戦記録映像から割り出されたものですが、全長およそ250メートル。少なくとも水深300メートル以上の潜水能力を備えています」
ひな壇の席に着いていたギャラリーのあいだからどよめきが漏れた。陸海空自衛隊、工業メーカーから派遣された技術者、その他関係者によってブリーフィングルームはほぼ満席だった。
壇上の天城塔子三佐は光学ポインターで中国製ヴァイパーマシンの艦首を指した。
「砲弾型艦首から船体中央部にかけてスクリュー状の突起が無数に生えています。突起は円柱状の船体をぐるりと取り囲むように設けられ、これらの部分が回転することで50ノットという推進力を生み出します」
「まさか……!」ひな壇の前のほうに座っていたメーカーの人間が叫んだ。「いくら何でも速すぎだろ……」
水上艦艇でさえその速度で航行できるのは、ウォータージェットを備えた〈はやぶさ〉級ミサイル艇だけだ。
「そのマシンを追跡した対潜哨戒機によって記録された速度です。しかもこの突起の役目はそれだけではなく、海中に巨大な渦を生じさせるのです。何らかの気象コントロールシステムと併せることで、マイクロ台風を作り出しました」
「そいつが〈おやしお〉遭難と関係していたのか?」
「その可能性が高いです」
ブリーフィングルーム全体が騒然とした。〈おやしお〉級潜水艦が沖縄近海で突如連絡を絶ち行方不明になったのは、3日前だ。それで東シナ海のパトロールは一時中断され、この会議が急遽開かれることになったのだ。もちろんエネミー05の存在は出現したその日に全自衛隊向けに報告されていたのだが、縦割りの弊害か、それともヴァイパーマシンを真剣に受け取る人間がまだまだ少ないせいか、〈おやしお〉の遭難を受けてようやくまじめに取り組む気になったらしい。
健太も久遠一尉と一緒にひな壇の末席に座って、あちこちで議論が巻き起こる様子を眺めていた。
エルフガインチームはすでに中国製ヴァイパーマシン――エネミー05との戦闘シミュレーションに取り組み始めている。だが水深50メートル以上の海域ではエルフガインは行動不能で、打開策もまだ無い。
エルフガインコマンドの頭脳である島本博士は別の案件で忙しく、この五日間ほどピリピリして取りつくしまもない。
もうひとりの天才、近衛実奈ちゃんもまた自室に引きこもり、ドアに『天才思考中 邪魔するべからず』と札を吊して、一日一度食事の時に顔を見せるだけだ。学校も行っていないらしく、少なくとも礼子先生は心配していた(実奈ちゃんの両親は気にしていないと真琴ちゃんが言っていた……。頭を使うときは食事も一日一度しか摂らないらしい)
壇上の天城三佐が続けた。
「この新型推進システムは非常に騒々しく、探知は容易です。いまのところ我がほうのアドバンテージはそれだけですが、速度によって簡単に相殺されてしまうでしょう。バイパストリプロトロン反応炉を備えているなら航続距離はほぼ無限です。とくに、いわゆる「コアの欠片」を装備している場合、耐久力も増大しているはずなので、通常兵器による攻撃は通用しません」
「それじゃあ、またしてもこの基地の巨大ロボット頼みなのか!?」
「現状では」
「ほかに方策はないんですか?」
「それを皆さんに検討していただきたいのです……」
それから1時間あまり会議に付き合ったが、久遠が不意に大あくびして立ち上がった。
「そろそろいいだろ……おれたちは退散しようぜ」
「ウィース」
時間を見ると、なんとまだ午前九時過ぎだ。この仕事に関わるようになってつくづく感心したことのひとつは、公務員の皆さんのなんと仕事熱心なことかという点だ。
「もう出番無いなら、おれガッコに行くから」
「そうか、まじめじゃん」
日本を守る、という途方もない大任を任され、学校なんてもうどうでもいいやという気分になるのではと思っていたが、そんなことはなかった。
健太にとっても意外だったが、この妙な戦争に巻き込まれてからというもの、学校で過ごす時間は前より大切だった。エルフガインコマンドは面白い場所だったが、社会的になんの責任も背負わされない高校のいち生徒に戻る時間もまた必要なのだった。それに、彼女や、まして家庭を持ったことのない健太にとっては、学校こそがエルフガインで守る世界の象徴だ。
だから遅刻してでも登校してしまうのだ。
二時限目に間に合ったので、職員室の礼子先生に挨拶して教室に向かった。
秘密の二重生活も慣れてしまえばなんとかなるもので、いまではごく自然な態度で切り替えが可能だ。平日に礼子先生や髙荷マリアともども姿を消したのは一度や二度ではないのだが、だからといってそれをエルフガインと結びつけるものはまだ居ない。
とは言え、ときどきやましさは覚える。
「おせーぞ浅倉」
廉次がさっそく言った。
「朝寝坊ネ健太クン」隣の席の田中由子――ワン・シャオミーも冷やかしてくる。
「まあそんなとこ」健太は机から次の授業の教科書と筆記具を出しながら答えた。
ちらっとうしろを見ると、髙荷マリアはいつも通りいちばん後ろの机にふんぞり返っていたが、隣の二階堂亮三がなにか話しかけている。物怖じしない朗らかな性格の亮三相手だと無視するのも難しいらしく、しぶしぶ受け答えしているようだ。会議に出席しとけばいいものを、「めんどくさいからパス」なんて言った罰だ。健太たちを守るために「私立防衛大学」から派遣された三人とも、少なくとも中国とのケリが付くまでここに留まると断言していた。
「そんなことしてて肝心の勉強は……」
「いま現在やってますぞ。フィールドワークですがな」
というわけで、杉林信も相変わらず居座っている。
何ごともなく一日が終わって、二時間のシミュレーター訓練のあとエルフガインコマンドで夕食を済ませた健太は、武蔵野ロッジに戻った。健太の平穏な一日は、その瞬間崩れた。
玄関フロアの階段で島本博士と鉢合わせしたのだ。
「あ……こんばんわ」
さつきは階段を下りる途中で立ち止まった。
健太を凝視している。
「え~……」健太は突然思いだし、内心ぎくりとした。十日ほど前だ。サウナでくつろいでいた島本博士のヌードを覘いてしまったのだ。しかもたったいまもさつきは地下の大風呂に向かう途中だったらしい……たっぷりした青いタオル地のバスローブ姿だ……。
(やべえ……!)
「健太くん」
「えっは、はい!」
さつきはゆらりと動いて健太のそばまで歩み寄った。白衣姿ではなく髪を下ろしたさつきはまったくの別人に見えた。
(やばい)健太はまた思った。緊張する健太のすそばに立ったさつきは、まっすぐ健太を見据えていた。もともときつい感じの顔立ちの美人だが、こうして据わった眼で射すくめられると、その双眸の内側からなにやら熱エネルギーが発散されているようだった。初めて会ったときの蜘蛛の巣に囚われたような感覚を思いだして健太は身震いした。とても直視できず下を向いた。
甘い香りと体熱が伝わり、ひどく飢餓感を覚えた。
「健太くん……」
健太はハッと顔を起こした。
「はい、聞いてます、はい」
「ちょいと付き合いなさい」さつきは返事も待たず健太の襟元を掴んで、階段を下り始めた。
「わ、ちょっとあぶないすよ……!」健太はよろめきながらなんとかさつきに追従した。
さつきは健太を地下に引っ張っていった。地下の一本通路は突き当たりの大浴場のほかに大きな洗濯室と、バラクーダやダンベルセットを備えた運動室がある。さつきは運動室に健太を引っ張り込むと、ドアに鍵をかけた。
なぜ鍵をかける!?
「さっ」さつきはマッサージ台を壁際から引っ張ってくると、その上にうつ伏せに横たわった。「肩を揉んで」
「え?……あ、肩」
ちょっとホッとしたような拍子抜けなような。
さつきは小さな枕に頭を保たせたまま片手て後ろ髪を払った。健太はうなじの両脇にそろそろと手を置いた。
「強くして」
「ヘイ」うわずった変な声で答えてしまい、健太は咳払いした。「はい」
さつきの細い肩を掴み、揉んだ。
「お・お客さんこってますねぇ」
「つまんないこと言わない」
「はい……」
健太は肩もみに専念した。
「フウ……」さつきが深い溜息を漏らした。「ちょっとタイム」健太が手を止めると、さつきはうつ伏せたまま肩をずらしてバスローブを肩胛骨のあたりまで押し下げた。
(うおっほ!)
健太は剥き出しになった肩に手を置いてマッサージを再開した。
「いい感じだわ……手、強いのね」
「はあ、おかげさんで」
さつきがくっくっと笑った。「久遠くんにしごかれてるのね」
「博士、ずっとなにかに取り組んでましたよね。終わったんですか?」
さつきはハー、と溜息を漏らした。「まだよ……」
健太はぎくりとした。ということは、まだ博士は「オーバードライブ」の真っ最中なのだ。
「な、なにしてんのか、聞いてもいいすか?」
「なに?聞いてなかった?……もちろんエルフガインのパワーアップについていろいろ作業してたのよ」博士はメランコリックな口調で答えた。
どうやら一時的にローギアに戻っただけらしい。躁状態の博士は眼をぎらつかせてものすごい早口で喋る。うかつな質問ひとつで15分は喋り続ける。
「……立て続けの出撃で課題も分かったから、なんだか突然アイデアがあふれ出しちゃって……」
「寝食も忘れてって感じでしたもんね」
「そうみたいね」さつきは人ごとみたいに言った。実際ここ何日かは挙動不審すれすれだったが、久遠一尉もほかの誰も「邪魔するんじゃない」と警告するばかりだった。天才仕事中……。実奈ちゃんも似たような感じだろうか。
「あの、博士」
「改まってなに?」
「この前のことなんすけど……」
「この前って?」
「サウナのことッスよ」
「……ああ!」さつきが言った。「忘れてたわそんなこと」
そんなこと。
なんだかちょっとがっかりしたぞ。
ていうか忘れてたのか!やぶ蛇だ!
「いちおういっとくけど、おれ覗きに来てたわけじゃないですから。ちゃんと誰も居ないの玄関のロボットで確認したし」
「ほほほ」さつきが笑った。「この館のシステムを組んだのわたしだから、つい開発者特権でバックドアを使ってしまうのよ。たしかに入館登録していなかったのはわたしのミスだった」
「そうなんですか。とにかく一度断っておきたかったので……」
「だからって一糸まとわぬわたしをねっとりガン見してた言い訳にはならないと思うけど」
ガッ!
「す、すいません」
「まあ顔を背けられないのは良かったとしておきましょうか」
健太は言葉もない。
「こんどは足揉んで」
「へ~い」
「あ、ちょっと待った。あっち向いて」
健太はいわれるまま回れ右した。衣擦れの音が耳に響いた。健太の両耳は高性能センサーと化した。
「はい、良いわよ」
健太はくるりと振り返り、息を呑んだ。さつきはバスローブを脱いで背中に被せていた。
その下はおそらくすっぽんぽんだ。
「えーと」
健太はさつきの足首のほうに場所を移して、両のくるぶしに手を添えた。
博士ちょっと笑ってないか?健太はちらちらとさつきの後頭部に疑惑の目を向けながらマッサージを再開した。
引き締まった足首辺りまでやわやわと揉み降ろした。さすがにこんな作業したこと無いので、見よう見まねである。参考資料は映画だ。脳内には祖父のDVDコレクションからこっそり抜き出して鑑賞した『エマニュエル夫人(無修正版)』のBGMが再生されていた。主演のシルヴィア・クリステルのIQは160だったという。
どうでもいいけど。
足首をグリグリしたり膝を屈伸させたりくるぶしをチョップしたり……。
健太は額に浮いた汗を拭った。
「もうちょっと上も」
「えっ!?はい……」
健太はゴクリと喉を鳴らし、さつきの太股にそーっと手を添えた。もちろんバスローブの上から。
「そうじゃなくて」
健太は無言で頷き、なかば混乱した頭でバスローブのすそに手を忍ばせ、さつきの太股の裏を、力を込めて掴んだ。電車の痴漢よりよほど大胆なことをしているのだ。もうなにが何だか……。
きめの細かい素肌は柔らかく、すべすべで、なまめかしい熱を帯びていた。
「ウーン……そう、強く揉み上げて……」
さつきはすっかり体を弛緩させ、気持ちよさそうに目をつぶっている。(えーいもうやけくそだあー!)健太はひと息に足の付け根辺りまで揉み上げた。
ちょっとでも躊躇したらせせら笑われてしまう気がする。島本博士と対決しているような妙な(ばかばかしい)気分のまま、いつの間にか腰までぐいぐい揉んでいた。 いかにも不摂生で運動不足な生活しているっぽいのに贅肉はなく、驚くほど細い。やっぱ天才だから脳味噌に使うカロリーが半端ないんだな。それで太らないんだ。健太は据え膳に荒れ狂った野獣のような頭の片隅ででさして根拠のない結論に達した。残りの部分は「いいから乗っかっちまえよほら!」と叫んでいる。くびれた腰ということは必然的にその下、ふたつのおしりはふっくら盛り上がっている。健太が威勢良くマッサージすればするほどそのふたつがゆるんゆるんと揺れ動き……。
「もういいわ」
健太はハッとして手を止めた。
「気持ちよくて眠っちゃいそう……お風呂入らないと」
さつきが手を付いて物憂げに体を起こした。頭をもたげて髪をさっと振り払うその仕草は、うつむいた百合の花弁が開花する様に見えた。背中のバスローブがはらりとおしりのあたりまで落ち、博士の滑らかな背中があらわになった。なんと気前の良い!裸身に対する無頓着さからして、ヨーロッパ人であればヌーディストビーチで日光浴もへっちゃらというタイプなのかもしれない。
だが健太はとっさにバスローブを持ち上げ、構わず立ち上がろうとするさつきの肩にかけ直した。素肌が見えなくなった。残念。
「ありがとう」大人の女の余裕たっぷりな笑みを含んだ声で言った。
さつきが健太に背を向けたままローブに袖を通し、ベルトを巻いた。 じつに落ち着き払ったゆったりした動作だ。エルフガインコマンドの女性はみな風変わりだが、少なくともそこいらのおばちゃんみたいな俗っぽさや騒がしさはない。年下の従卒の一人や二人従えるのは当然だという態度だ。漠然とだが、それはそれでマゾ的な高揚感を感じる……。
「また頼むかも。そのときはもっと上手になって」
そんなひと言だけで高揚するんだから我ながら度し難い、と思った。
「はい」
健太は大浴場ののれんの奥に消えるまでさつきの後ろ姿を見送り、いまのプレイはいったい何だったのだろうと首を傾げながら階段を上った。
二階の廊下で実奈ちゃんの部屋のドアを見ると、「天才思考中」の札が裏返り「実奈のおへや(ハート)」に戻っていた。
(おや、こっちは終わったのか……)
部屋のドアが勢いよくバン!と開いて満面の笑みを張り付かせた実奈が健太にタックルした。「ぐえッ!」健太は向かい側の壁に叩きつけられた。興奮した実奈はぴょんぴょこ跳ねながらまくし立てた。「ねえねえねえお兄ちゃん聞いて聞いて!実奈ったらまたスッゴイ発明しちゃったんだから!褒めて!」
「ああ、うむ……」ようやく息が付けるようになった健太はかすれ声で答えた。「がんばったね実奈ちゃん……」
健太の上着にしがみついた実奈はなにやら猫のようだ。表情豊かな眼はらんらんと星をたたえ輝いている。可愛い、と思ったが劣情とは無縁のようなので我ながらホッとした。片手を実奈の頭に添えて「えらいぞ」と言った。それから「みーにゃん」と付け加えた。
実奈がさっと顔を上げて健太を直視した。
「みーにゃん?」
健太は決まり悪げにそっぽを向いた。なんでそんなこと言ったのか……。実奈が小さな手を健太のあごに当ててぐいと元に戻した。
「それ実奈のあだ名?」
「え?き、気にしないでくれ、なかなかいいのが思いつかなくてさ……」
「うふふ」
うふふ?
「もっかいあたま撫で撫で」
実奈が嬉しそうにリクエストするので、健太はしかたなくもういちど撫でた。
ひょっとして気に入ってるのか?
実奈は照れたような嬉しがってるような、とにかくくすぐったそうに身をよじっている。ますます猫っぽい蠱惑的な仕草だ。
(やばい)健太は実奈の頭越しに廊下を見渡した。誘惑には難なく打ち勝ったとは言え状況はいまだ穏やかならぬ。こんな状態ほかの誰かに見られちゃったら――
その、ほかの誰か――二階堂真琴の部屋のドアが開いた。
(マジで!?よして!やめてくれ!)
無情にもまこちゃんは廊下に現れてしまった。ピンク色のパジャマ姿だ。膝下でカットされたボトムがとても可愛らしいがいまは見たくなかった!
真琴が何気なくこちらに顔を向けた――
「あ、おねーちゃん!」実奈が健太にぴったり身を寄せたまま真琴のほうに体を巡らせ、健太の両腕を取って肩にまわした。小さな体が健太の体に寄りかかっていた。
驚くべきことに、真琴は動じた様子もなくパッと笑みを浮かべた。
「実奈ちゃん、部屋籠もりが終わったのね?」
「みーにゃん!」
「え?」
「みーにゃんよ。実奈これからみーにゃんがニックネームなの!」
「はあ……」真琴は目を丸くして健太を見た。健太は精一杯まじめに頷いた。
実奈だってTシャツにタオル地のショートパンツ姿なのだ。白いシャツの胸には大きくCALTECHとプリントされている。それはともかく薄い布一枚隔てて、健太の二の腕は実奈のかすかにふくらみかけた胸に押しつけられている……。
(ヤヴァイって~!)
「そう、とにかく実奈ちゃ……みーにゃん地球に戻ってくれて嬉しいわ。今日はぐっすり眠ってね。その前にお夜食をなにか食べて。育ち盛りなんだから」
実奈はぴょこんと片手をあげて言った。「はーいお姉ちゃん」
真琴が部屋に退散したので健太はホッとした。汚いものでも見るような目つきで睨まれるものと覚悟していたが、奇跡的にお咎め無しのようだ。実奈ちゃんのこういうのには慣れてるんだな、たぶん……。
「そいじゃお兄ちゃん、実奈お風呂入って寝るから、また明日」
「ああ、はいよ、おやすみ……」
健太は実奈が手を振りながら部屋に戻るのを見守った。ドアが閉まると壁にぐったりもたれかかった。
(いったい何なんだ……)ドッと噴き出した汗を拭った。(おれ煩悩妖精にからかわれるインドの修道僧かなんかか?)
あいにくとまだ悟りを開くのに興味はない。健太は妙な疲労感を覚えながら自室のドアを開けた。
そしてがっくりうなだれた。
「なによ浅倉くんその態度」
天城塔子がベッドに足を組んで腰掛けていた。
「えー、と」健太は後ろ手にドアを閉めた。この家が完全防音で良かった、と思った。「天城三佐、ずっとコマンドにいらしたんですか?」
塔子はにこやかに頷いた。
健太は咳払いして、壁際のソファーにどっかり腰を落とした。(鍵かけてあったのにどうやって入ったんだか……)しかし健太ももうその程度で驚いたりしなくなっていた。
「なんですか?またエルフガインの作戦かなんか思いついたんですか?」
「やあねとげとげしい。なあに?塔子お姉さんが部屋にいるのがそんなに嫌?」わざとらしくすねたような口調で言った。
「べ・別に……」
「もうちょっと早く帰ってたんじゃなかった?お風呂でも入ってた?」こんどは母親みたいなお節介な言い様だ。しかし健太にはあまり馴染みのない会話で、苛立たしさは感じなかった。
「玄関で島本博士とばったり……」健太は言いかけたが、あいまいに手を振って言葉を濁した。喋り続けると弁解してしまいそうだ。弁解するようなことはしてないのに。
「で、なぜこの部屋に?」
「ン?ちょっとお喋りしようかなって。お邪魔だった?」
別にお邪魔ではないが部屋に忍び込むこと無かろうに……。
「健太くんのお父様についてもお話があるわ」
「え?どんな……」
「対馬になぜお父様が上陸していたのか知りたいでしょう?」
「このまえ電話でなんとなく聞きましたよ。詳しいことはなにも話せないって言ってたけど」
「まあほかに言えないようなことばかりしているのは確かだけど……松坂三佐……あなたのお父上はレンジャーなの。レンジャーって分かる?」
「漠然と。グリーンベレーとかSEALSみたいなもんでしたっけ?」
「そう、特殊部隊。あのときは自衛隊離島奪回部隊が上陸する前の露払いを仰せつかってたのね」
健太は頷いた。あのちゃらい外見の親父がスタローンやシュワちゃんを地でゆくような仕事に就いていたとは……いささかかっこいいと認めざるをえなかった。しかも三佐……少佐相当だと?
「だけど韓国特殊部隊が上陸していることを偶然発見して、その目的を探っているうちにとんでもない人物と出くわしたのよ……」
「人物?」
「故北朝鮮第一書記のお兄さんよ」
「え?それニュースで言ってた……」
「そう、野党の大スキャンダルになってるあのニュース。内外の特定団体が寄り集まって朝鮮半島に第二の北朝鮮人民共和国を建てようと計っていたのね」
「そんなアホみたいなこと実現する可能性あったのかなぁ」
「こればかりは分からないもんよ……とくに国が荒れて、大勢の人が昔は良かったと思うときなんかわね。とにかく、実現していたら朝鮮半島は30年も後退することになったはず。あなたのお父さんは大手柄を立てたのよ」
「へーえ……」
息子の神妙な反応に塔子は苦笑した。
「まあそういうことなの……おおっぴらに言えないけれど」
健太は別のことを考えていた。二回連続で会ったとたん親父の話をし出したこの女性は、ひょっとしたら親父に気があるんではないか……?
「そういうのってさ、電話で喋ってもばれちゃうんでしょう?」
塔子が憮然と腕組みして言った。「あらやだ、わたしたちが盗聴でもしてるって言いたいの?」
健太は肩肘で頬杖をついて塔子を見た。
逃避は溜息をついた。「……してるわよ。といっても特定の単語にコンピューターの自動注意喚起システムが働くってだけだけど……。しかたないでしょ」
「そんなのどこでもやってますもんねえ?」
「あんた若いのに皮肉屋ねえ!」
「まさか、わが国の安全がしっかり守られてるの知って嬉しいッスよ」
「ふん」塔子は鼻を鳴らした。 健太は悪戯っぽく笑い返した。
正直この女性には、早くも好意らしきモノを感じていた。気さくで美人なお姉さん……。このひと月あまりであり得ないほど大勢の美人とお喋りしたり、キスまでしたが、エルフガインコマンドに集う女性は一癖もふた癖もあり、島本博士などは少々残念美人だったりする。天城塔子さんは比較的まっとうな人のように思えた。
「ンで、親父のことを伝えるためにわざわざぼくの部屋に無断侵入したんですか?」
「まさか」塔子は笑みを浮かべた。「もちろん、エルフガインのパイロットを激励しに来たんじゃないの」
健太はそれはどうも、というように一礼した。
「ほかに誰も言おうとしないみたいだから……」
このひとはまだ、健太たちが戦わされていることに罪悪感めいたものを感じているのかな?……と思った。だがその気持ちは先日のチューでじゅうぶん受け取った。それともほかになにか意図しているのか……。
久遠一尉によると彼女は相当なやり手らしい。容姿端麗な上に超優秀、自衛隊内の即応部ナントカに勤務している。むかし自衛隊に海兵隊を設けようという動きがあって、有事の際にはその即応部が作戦立案指揮を執るはずだったが、結局世界情勢のドタバタが続くうちに話は立ち消えになった。海兵隊という戦闘集団とは、ようするに戦争の先陣を務める切り込み部隊である。そのためひとつの戦闘集団に陸海空が集結しているのだ。創設の際は各自衛隊が人員と機材を供出するはずだった。話はポシャったが、天城一佐たちは自衛隊内の縦割り構造をいくらか破ることには成功していたのだ。彼女がしばしばエルフガインコマンドに現れるのも、その縦割りの壁を壊した結果と言えた。
「……まあこれから苦労してもらうぶんも含めて、よろしく頼むわねってことで」
「それはつまり次の対戦相手にがんばってね、と……」
「具体的に言うと、そう」
「中国ですよね?なにか作戦とかあるんですか?」
塔子は首を振った。「全然」
「あっさり言ってくれますね……なにかこう、分析とかなんとかあるでしょ?」
「無いわねえ……半日会議したけど打開策無しだった」
「マジで……」
「でも島本博士はなにか考えてるみたいだわ。あのひとはわれわれ凡人が右往左往しているあいだにいつもとんでもないこと考え出すのよ。期待して良いんじゃない?」
「だと良いんすけど」
健太は内心不満だった。次々と美女軍団にからまれたけど、本命の礼子先生は登場してくれない。
誰も打開策が浮かばないまま3日が過ぎた。
連戦でだいぶ痛んでいたエルフガインは完全オーバーホールを終え、新品同様になった。島本博士がオーバードライブ状態で考案した「新装備」とやらも組み込まれた……つまりパワーアップしたのだ。
「パワーアップ、したんですよね?」
眼前で整備中のヴァイパーマシンを眺めながら、健太は隣の島本博士に尋ねた。
「もちろん」博士は不敵な笑みを浮かべてマシンを見上げている。「きっとたまげるわよ」
「たまげるわよって……いま教えてくれるんじゃないのか!?」
「だーめ」
(だーめって、子供じゃないんだからさ……)
「それより浅倉くん、二時間後から警戒態勢だから、いまのうちにご飯食べときなさいよ。長丁場になるわよ」
「円卓会議の警備ッスか……中国軍がそれをねらうかもしれないと。ホントにそんなベタなことしにきますかね?」
「あの国の「悪の枢軸」っぷりはここ10年ほど堂々としたもんだわ。面子を潰されるようなことはとにかく許せないのね。だからアジアの国が集まって中国だけ仲間はずれにする会議なんか叩き潰そうとするはずよ」
(なんかまた子供みたいなこと言ってる)
とはいえ相手は天才科学者だ。
「尖閣に空母艦隊が接近してるって久遠一尉が言ってましたけど」
「それこそカウンターに過ぎない」島本博士はきっぱり言い切った。「残念ながら海自はそちらに対応するしかないけれど」
「実奈ちゃんはまだ戻ってこないんですか?」
エルフガインコマンドのもうひとりの天才、近衛実奈はただいま出張中だ。
種子島宇宙基地で新型衛星の打ち上げに携わっているのだ。なんでも彼女が開発した人工重力システムを使って、16万トンもある超巨大衛星を静止軌道上まで飛ばすらしい。いままで人類が開発した最大のロケットでもペイロードは20トン程度だから、どれほど途方もない話か分かるだろう。サイズもかたちもスカイツリーの弟みたいなとんでもない代物で、そのまわりにやはり巨大なタンクをいくつも取り付けてある。いまは種子島基地の海上にそそり立っていた。
打ち上げ予定時刻は10時間後だ。
なんでそんなデカブツを打ち上げるのか、一度だけ説明してもらったが、にわか軍オタでしかない健太には半分も理解できなかった。安全保障上必要な物らしく、ほかにも宇宙開発に必要な物をたくさん搭載してたり、いろいろな機能を有しているらしい、というのはなんとか分かった。それになぜか知らないが、日本の真上、高度三万六千キロメートルに居座ったその衛星を攻撃できる兵器は、いまのところ世界のどこにも存在しないのだという。
「あと一日かかるみたいよ。ミラージュヴァイパーには自衛隊の人が乗る……あっと、それから」
「なんですか?」
「若槻先生も今日一日おやすみだから」
「え?風邪でも引いたの?」
「いいえ。私用で都内に行ってる。お見合いするとか言ってたわね……」
なんだって?
お見合い、だと?
世界中の山が噴火して津波が押し寄せ地面が割れ飛行機が墜落してダムが決壊した。タンスの角に足の小指をぶつけシャンパンコルクが額に当たり爪のあいだにシャーペンの芯が刺さり金物のたらいが頭に落ちてきた。
核爆発。
健太の臓物はねじれて痙攣した。猛烈な差し込みに思わず呻き片腹を押さえた。
「健太くん?」
「はい……わかってま~しゅ……」
体をくの字に曲げながらふらふら歩き去る健太を、さつきは眉をひそめて見送った。
二時間後。
「01がいないだとう!?」
久遠の怒声に保安部の男性はたじろいだ。
「はあ……それが、スマートキャリアを自室に起きっぱなしで出かけたようで……エルフガインコマンド周辺と学校には姿がありませんでした……」
「発信器に頼り切るなって言っただろうガッ!」
「は・はい!」
久遠は短く刈り込んだ頭を掻きむしった。それから溜息をつき、「まあ、いなくなっちまったもんは仕方ねえ。二時間前には居たんだな?それならそんな遠くに行ってないだろ。とっとと探し出せ。おれも心当たりを捜してみっから」
母の踊りの師匠である世話好きのおばさんからの話で断り切れず、礼子は今回の見合いを承諾するより無かった。お相手は30歳、有名大学卒で、商社に勤めるハンサムな男性だ。あまり気乗りはしないが、けちをつける隙はなさそうだ。
(お付き合いすべきなのかも……)ふと気を抜くとそんな考えを弄んでしまう。べつに構わないじゃない?いっそ結婚前提に……。
礼子は溜息をつき、ハンドバッグを取り上げて化粧室をあとにした。
琴の音が聞こえる入り組んだ店内を歩いて個室を探すと、ちょうどおばさんと鉢合わせした。
「あら礼子ちゃん!」
「おばさま、ご無沙汰してます」礼子は一礼した。おばさんの傍らに、見合いの相手がいた。慎重180の立派な体格。高価な背広をびしっと着こなしている。かれも微笑しながら礼子に会釈した。
「篠崎さん、こちらが若槻のお嬢さんよ」
「初めまして、篠崎正臣です」
「こちらこそ初めまして……」
「ささ、こんなところでなんだから、上がって、上がって」
礼子はおばさんと篠崎のあとに続いて座敷部屋に上がった。
「あらあら」礼子の母が一緒に現れた礼子たちに驚き、篠崎に向かってお辞儀した。
「遅れて申し訳ないわねえ。外はひどい雨になってしまって、それになんだか厳戒態勢とかじゃない?」
「いいええ、わたしたちも来たばかりなの、さ、座ってくださいな、篠崎さんも、どうぞ奥に」
ややぎこちない挨拶を交わし、自己紹介が続いた。おばさん組はなんだか楽しそうだ。篠崎さんは泰然としている。話によると、おばさんのそのまた友達である大学教授から紹介されたのだという。つまりおばさんも彼のことは紹介されるまで知らなかった。
(そんな相手をいい人なのよって紹介するなんてどうかと思う……)
「礼子さんは高校の先生なんだそうですね」
「ええ、埼玉の中堅公立で……」
ムズムズするような当たり障りのない会話が果てしなく続いた。
こんなきっかけでもやがて親しき仲になるのだろうか?
それとも、自分は妥協しようとしているのだろうか?
友人の1/3は「惚れるより慣れ」式のだらだらした付き合いの果てに結婚か同棲している。映画かマンガのようなラブラブカップルなんて滅多におらず、しょっちゅう喧嘩しながら別れることもなく一緒にいる。それが親しき連れ合いのかたちなのだと言わんばかりに。
自分もそうなるのだろうか……。なにやら抗いがたい世間の流れに呑み込まれてゆくような気がした。
この篠崎という人はずっといい人に見えた。不満などない……。
贅沢やえり好みで婚期を逃すことなく、そろそろ覚悟を決めるべきなのか……。
健太は都内に向かう急行電車の車内にいた。土曜の午後二時。座席は半分ほど埋まっていたが、健太は扉にもたれ、激しさを増した雨の景色を眺めていた。
自分がなにをしているのか分からなかった。ただ気付いたら、ふらふらと都内に足を向けていたのだ。
(おれなにやってんだ?)
もう100回目だろうか、エルフガインコマンドに戻ろうと思った。
健太はなにかに取りつかれたような気力を発揮して、礼子先生の居所を掴んでいた。先生は新宿にいる。
だからって駆けつけてどうするんだ?
(くっそ……!)
我ながらぶざますぎて泣けてくるぜ。
それでもUターンする気になれない。
電車が和光市に停車してそのまま停まり続けた。まもなく、大雨で信号機が壊れたため、しばらく停車しますと無慈悲なアナウンスが告げた。
「もうちょいで都内だっつうのに!」
健太は苛立ちのあまり電車から飛び出し、改札を出て駅のロータリーでタクシーを拾った。銀行に振り込まれていた給料をありったけ降ろしていたので財布は膨らんでいる。
「新宿まで」
「はい」
「都内に向かってる……?なんで?」
久遠はエルフガイン指揮所のステータスボードを切り替え、関東近郊の地図を映しだした。池袋を中心に拡大した。
「和光市駅のセキュリティーカメラに写ってました。そこでタクシーに乗り換えたらしく……」
「なんで……」久遠はさらにコンソールを操作した。
「健太の野郎……屋敷の端末から保安データにアクセスしていやがる。いったい何を探ってたんだか……」健太がアクセスしようとしていた情報を拾い上げてみると、ステータスボード上にヴァイパーパイロットと関係者の所在が次々と灯った。
01――健太から、03――若槻先生について個人情報を何度も問い合わせていた。
「おやまあ……」
浅倉健太は、誘導ミサイルのように若槻礼子先生めがけて突進しているらしい。
「なんてこったい……」久遠は失笑した。健太の他愛のない動機を察して気が抜けていた。
「どうします?連れ帰りますか?」
「そうだな……」久遠はシートに腰を下ろした。のんびり頭の後ろで腕を組んでもたれかかった。「とりあえず様子を見よう……行き先は分かったからな。そう、天城女史が都内にいるはずだから、おれから連絡しておこう」
アジア―オセアニア首脳会議は帝国ホテルで開催されていた。半径3㎞以内は厳戒態勢が敷かれ、大幅に交通制限されている。交差点と駅には警察官が立ち、ホテル周辺には機動隊が張り付いていた。
ホテル一階の玄関ロビーはSPと警備隊指揮官がひしめき合っていた。
壁際に設けられた大画面テレビに会議の模様が映し出されている。音声は絞られていたが、どのみち誰も見ていない。最初の議題は今回の集まりをどう呼称すべきか、である。アジアの新秩序……ASEANに変わる経済―軍事共同体制……つまりアジア版NATO構築のためだから気の利いた呼称をしっかり決めねばならぬのはしかたないとは言え、事前の次官級会議である程度コンセンサスができていたはずなのに揉めているようだ。そんな進行状態だから誰の興味も引かない。
ロビーで自衛隊の制服を着ているのは天城塔子ただひとりだ。
警察関係者がときおり、塔子に胡散臭げな目つきを投げかけてくる。陸自の女がこんな所でなにしていやがると言わんばかりだ。ここは彼らのテリトリーなのだ。重武装の兵隊さんはいらないらしいが、本当にそうであればいいのだが、なにか予期せぬ事態が起きたときのために、塔子はこうして待機している。
仕事用の携帯が鳴り、塔子はポケットから取り出して応じた。
「あら、久遠くん、どうしたの?」
「どうもです、えー……じつはちょっと告げとくことがありまして。お時間いただけます?」
「わたしはいま現在暇だから、なんでも構わないわよ」
「そうですか……では」
久遠は健太のことを手短に説明した。塔子はときどき含んだような笑いを差し挟みながら聞き入った。
「なるほどねえ……あの子見た目に寄らず甘酸っぱい青春真っ盛りなんだ」
「感心しないでください。のこのこ帰って来やがったらグランド100周の罰ですよ」
「銃殺よりはマシね。まあそれとなくマークさせとくことにするわ……なにか持ち上がったときにはただちに身柄を確保して、大急ぎでコマンドに送り返すよう手配しておくから。それで良いわね?」
「お願いします。うちの若いもんが迷惑かけまして、どうも申し訳ないッス。都内は守備範囲外なもんで」
「健太くんが相手ならしかたないわ……ひとつ貸しよ」
電話を切った塔子は、こんどは私用の携帯を取りだし、別のアドレスにかけ直した。
「ハイ、シャオミー。いまお時間ある?」
一時間ほど談笑に付き合い、礼子たちはようやく「わたしたちが同席していちゃなんだから、若いお二人だけにしてあげなくちゃね」ということになった。とはいえ外は雨なので、篠崎さんが「我々がちょっと外に行きます」と告げた。
「ごゆっくり」母たちはそういって礼子を送り出した。
「ますます雨が強いですけど、庭のテラスには屋根があるはずです」
礼子は篠崎に従い店の中庭に出た。四角いビルに囲まれた小さな庭だが、手入れが行き届いている。雨音は激しく、会話を交わすのは困難みたいだ。
「こんな天気で残念です」
「ええ……」
「あちらに」篠崎は置き傘をさして小さな東屋に礼子を案内した。
東屋の下に着くと雨風がビルに遮られ、幾分弱まった。礼子たちはベンチシートに座った。
「若槻さんは、なにか政府のお仕事も兼任されているそうですね?」
「え?ああ……」
母がおばさんにエルフガインコマンドのことまで喋ってしまったらしい。あんまり言いふらさないでねと言ったのに……。
とはいえ表向きは生徒――有名な浅倉博士の子息の引率ということになっていた。さすがに両親には、巨大ロボットのパイロットを務めているとは告げられなかった。猛反対されるに決まっているからだ。
「最近ニュースで騒がれているでしょう?あの埼玉の巨大ロボットになにか関わっておいでだとか……」
「まあ、担任の生徒のひとりが関係していまして……成り行き的に」
いつも話をはぐらかすのは苦手だが、少なくとも嘘は言っていないな、と思った。
「お忙しいんですか?」
「ええ、休日に拘束されることもたまにあります」
「いまはけっこう忙しいんじゃないですか?こんなご時世ですから」
「ちょっと慌ただしくなってます。わたしもいつ戻ってこいと言われるか、分からないんです」
なんだか言えば言うほど今後のお付き合いに向かない話になってゆくようで、礼子は内心困惑した。
「そうですか……でもそのお仕事は、どうしても続けなくてはならないものなんですか?」
「と、言いますと……?」
「あの、ぼくはそれなりに収入もあるし……礼子さんが仕事のひとつを辞める気があるなら、ぼくたち時間を作れると思うんですが」
「ああ」もうそんな話になるのか。今後のお付き合いのため、エルフガインコマンドか、もしくは教職をあきらめる?
彼はまず収入のことを告げた。おそらく共働きは念頭にないだろう。いずれ籍を入れるとして、礼子にはまず確実に主婦になることを望むに違いない。
礼子は動揺した。遅まきながら、自分がここひと月ほど数奇と言える人生を歩んでいることに気付いた。妙な仕事に、聡明な人たちに囲まれ、生半可な努力だけではとうてい望むべくも無い状況に巻き込まれた――興味深い状況、あるいはおもしろい状況と言ってしまっても良い。
(浅倉くん……)
なぜだか教え子の開けっぴろげな笑顔が脳裏に浮かぶ。
(なんで健太くん?)礼子はさらに困惑した。
その健太は、礼子がいる料亭の、道路を挟んだはす向かいのバーガーショップにいた。二階の窓際席に座って料亭の入口を凝視し続けて30分あまり……。料亭の裏は新宿御苑に面しており、駐車スペースも見渡せる。出口はほかになく、先生が出てくれば見逃さないはずだった。
(礼子先生は100メートル以内にいる)
健太は確信していた。
だがその100メートルは14万8000光年の断絶と同じだった。健太の格好……ジャージ姿では、いかにも高級そうなあの店に入ることすらできそうになかった。
いやそれ以上に、入ってどうするってんだ?
膝が戦慄き、健太はぴしゃりと手を置いてガクガクする膝を押さえ込んだ。なかば溶けた氷水となったコーラを飲み干し、残った氷を口に流し込んで噛み砕いた。
(落ち着け俺)
テーブルの向かいに人の気配を感じた。勝手に相席しようとしているのか、トレイを置いて誰かが座った。都内だからってそれほど混んでなかろうに……健太はそちらに目を向け、ぎょっとした。
「ワ、じゃなくて田中さん!」
「シャオミーでいいヨ」ワン・シャオミーがのんびりした口調で言った。
「なんでここに……」と尋ねてみたものの、聞くまでもない。どうせ居場所なんか簡単に割れてしまうのだ。そして私立防衛大学のシャオミーが来た理由はただひとつ。
「忘れ物、届けにきたヨ」
シャオミーはポケットから健太のスマホを取り出してテーブルに置いた。
「ああ……」健太は溜息を漏らした。「わざわざありがと……」
シャオミーはにっこり笑った。「余計なことシヤガッテ思ってるネ?」
「いやそんなことは――ちょっとだけ……」
「ここ来るのたいへんだったんヨ?おまわりサンに二回も職務質問されて」
ワン・シャオミーは南国アジア系の顔立ちだ。テロを警戒している警官の目に留まりやすかったのだろう。そのあたりの国とはかなり国交が回復していたはずなのだが、日本人はガイジンに対してまだまだ警戒心を抱いてしまうから……。
「それはかたじけない」
シャオミーはにこやかに肩をすくめ、続けた。
「それでアサクラ、いつまでこうしてるネ?」
健太は顔をしかめた。たいへん良い質問だ。
シャオミーが穏便に接してくれていることは分かっていた。これが久遠一尉、あるいは二階堂の兄貴のほうであったら、健太は問答無用で首根っこを捕まれ、エルフガインコマンドに引きずり戻されただろう。
「俺にもよく分かんない……」
そう言いながらもシャオミーの肩越しに料亭を見張ってしまう。
シャオミーも振り返って料亭を見た。
「あの中に先生がいるの?」
「間違いなく」
「アタシがお見合いの邪魔するの手伝ってあげよか?」
「えっ!」健太は思わずシャオミーの顔を見た。シャオミーならどうにかして見合いをぶちこわす方法を知っているに違いない、と健太は思った。だがしかし……。
「えーと……いや、それはいいよ……」
シャオミーはにっこり笑って頷いた。
「先生、結婚するのにいいお年ネ。しかたないネ」
健太は仏頂面を浮かべて横を向いた。
どうせ逆立ちしたって健太は礼子先生の彼氏にはなれない。そりゃ分かってるけど。
てゆうか俺の先生に対する気持ちって関係各方面にバレバレなんか!?
くそこっ恥ずかしい。
そろそろ潮時かな……。
「あら?」
ふたたび窓の外に目を向けたシャオミーが言った。
「あのひと見たことある、テレビで」
「え?どれ?」
シャオミーが指さすほうに目を凝らした。
料亭の前に泊まった厳つい車から背広姿の男性が降りている。黒服のSPらしき男がその人物に傘をかざしていた。確かにシャオミーが言った通り、かなり有名な人物だ。父親も祖父も政治家、首相まで務めた家柄の若手政治家、小湊総一郎である。まだ30代で大臣経験など実績はないが、クリーンなイメージと、世間の空気を読むはっきりしたコメントでお茶の間では人気がある。とにかく隙がないためネットでも滅多に叩かれない。
「ホントだ。ずいぶん有名人だ」
「店に入ってったネ」
「昼飯かな……」
シャオミーはなにか考え込んでいる。
「どうした?」
「アノ人、ちょっと問題の人物ネ……」
「え?小湊総一郎が?なんで?」
「ウン……ちょっと前からアタシの大学の戦略分析室で名前上がりはじめたヨ。ある反バイパストリプロトロン組織と接触してるかもしれないのヨ」
「うそ!それテロ組織なんじゃ……」
「ウーン……ちょっと違うのヨ。言うなれば国境を越えた政治結社?世間の流れに逆行してるけど違法じゃない。まあ、末端は暴力団体かもしれないケド……ヨシ!」
シャオミーが立ち上がった。
「アノ店いってみるネ」
シャオミーは携帯を取りだしどこかに発信した。
篠崎が腕時計を見た。
「そろそろ中に戻ります?」
「そうですね。ですがその前に会っていただきたい人がいまして」
「は?」お見合いの席なのに別の人物と引き合わせる?礼子は当惑した。
「篠崎」
名前を呼ばれて礼子の見合い相手は振り返った。
「ああ!小湊さん!わざわざご足労頂きまして……」
「構わないよ。いまは暇だから」新たに現れた男性が礼子を見た。「そちらが例の?」
「そうなんです」
礼子はふたりの男性を凝視した。目の前に現れたのはまぎれもなく、有名な与党の若手政治家、小湊総一郎ではないか。
「あの……どういうことなんです?」
「わたしから言いましょう」小湊代議士は一歩進み出た。「あなたにいまのお仕事から手を引いていただきたいのです」
「お仕事って……」
「もちろん、エルフガインのことですよ」
「えっ……?」話の展開が唐突すぎて礼子はますます困惑した。だいいちどうしてこのひとは礼子がエルフガインに乗ってることを知ってるのだ?「なぜ……」
「応じていただければ、あなたの生活はわたしが保証しますよ。わたしにはその力がある。この篠崎くんと幸せな新生活を始めるも良し。ほかに要望があるならそれでも構わない」
「わたしが仕事から手を引くと、あなた方になにか利点があるんですか?」
「あります」小湊総一郎は自信満々の笑顔で断言した。「あなただって将来に漠然と不安を覚えていたでしょう?島本さつき博士のロボットがこのまま連戦連勝で世界中に勝利すると、本気で考えてませんよね?そもそも馬鹿げたゲームに世界がずっと付き合ってくれるなんて考えられないでしょう?……わたしは現在のわが国の状況をたいへん憂いている。あなたは教職だけに専念するだけで流れを変えられるのです。いや、仕事を続ける必要さえない。今後の生活は保障されますから」
「ちょっと……話が急すぎて……」
「帰ってじっくり考えてください、と言いたいところですが、いまこの場で確約していただきたいのです。もうあの戦車には乗らない、と」
礼子は後じさった。
「あなたがた、いったい何なんです……?」
「憂国の士、ですよ」
有名代議士はハンサムな顔に相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべていたが、その眼の中になにかひどく醜いものが蠢いていた。
バーガーショップをあとにして5分後、健太は不法侵入なんて簡単にできることを知った。シャオミーいわく、「地続きなんだからどこだって行けるに決まってるネ」だそうな。それに、日本の保安意識は先進国中いちばん呑気である……。
「いいじゃん、平和な国なんだよ」
「飼い慣らされてるとも言うネ」
シャオミーは適当な死角を見つけて新宿御苑の敷地に侵入すると、料亭の裏手に回った。御苑と料亭の敷地を隔てる柵はごく目立たず、バリケイドもない。シャオミーは簡単に侵入防止センサーを探し出し、スイスアーミーナイフを使って次々と無効化していった。次いでパチンコを取り出して監視カメラをふたつほど割り、ごく簡単に不法侵入を果たしていた。
建物と建物の狭いあいだを抜けると、すぐに小綺麗な中庭に出た。その段階で健太とシャオミーはびしょ濡れになっていた。だが健太はほとんど気にしていなかった。
池を挟んだ向こう側、わずか20メートル先の東屋に礼子がいたのだ。
「見て、若槻先生と一緒にいる男ふたり。ひとりはあの小湊ヨ」
「ホントだ……なに話してるんだ?」
「雨でよく聞こえないヨ」
シャオミーはポケットを探って小さなマイクとイヤホンを取り出した。
「なにそれ?」
「指向性集音マイク」
「なんでも出てくるなあ……いつもそんなもん持ち歩いてんのか?」
「シー」シャオミーはイヤホンのひとつを健太に寄越した。シャオミーがマイクを調整して礼子たちのほうに向けると、イヤホンから会話が聞こえてきた――。
「わたし……このお話はなかったということで、お願いします」
総一郎と篠崎は互いに顔を見合わせた。総一郎が礼子に向き直り、言った。
「どうも話の要点をご理解いただいていないようだ」苦笑混じりだがどこかもどかしそうな口調だ。男性のそうしたしゃべり方は大学時代しばしば経験している。ちょいワル気取りの育ちの良いお坊ちゃんたち……基本的に女は家庭に入って男の言うことを聞くものだ、という伝統的家長制度を受け継ぐ男性だ。礼子も日本人だからそういうのを男尊女卑だと悪く考えることはないが、イライラした態度に出られると、自分がぐず扱いされているような、身の縮む思いをする。
「若槻さんは選択肢があると勘違いされている。そんなもの無いんです。いま承諾して、我々に従うしかないんですよ。さもなくば……」総一郎は料亭のほうにあごをしゃくった。
礼子は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
お座敷にはまだ母親とおばさんがいる……。
「そっ、それは脅迫じゃないですか……」
「篠崎、このお嬢さんはやっと理解してくれたぞ」
「はい……礼子さん、分かったら今すぐ移動しましょう。お母様にはデートしてくると告げて。たぶん喜んで送り出してくれますよ」
「篠崎と一緒にホテルで過ごしていただきますが、長くはかかりません。おそらく半日くらい……そうだな?」
「そうですね」
「ではわたしはこれで失礼しよう。後は任せるよ」
「はい。お世話になりました」
小湊総一郎は去り際に篠崎の肩を叩き、男同士の独特な目配せをかわし合った。やはり目の隅に得体の知れない下卑たものが滲んでいる。大学の大先輩が「うんと楽しめ」と下級生に告げている。
礼子は立ち去る小湊総一郎の後ろ姿を呆然と見送った。無情な展開がまだ飲み込めず、足元がぐらつきそうだ。このひとたちは何者なのか?いったいなぜエルフガインを妨害しようとする?
「さて、我々も移動しますか」
篠崎は料亭のほうにさっさと戻り始めた。礼子は無力感に苛まれながら力なくあとに続いた。彼はもう傘を差し出すそぶりもなく、礼子は激しい雨に打たれ、わずか10メートルほどでずぶ濡れになった。屋根のある場所に着くと礼子は立ち止まり、バッグからハンカチを取り出して体を拭いた。拭きながら尋ねた。
「わたしをどこに連れて行くの?」
「都内はやや危険になりますから、舞浜に予約を入れてあるんですよ。あそこ国交断絶で長いあいだ営業停止してましたけど、最近再開したのご存じですよね。シーは好きでしょう?」
「あなたがたは……中国の味方なんですか?それともどこか他の国の……」
「いい加減にしようよ」篠崎の口調が豹変した。「そんなこと聞いてなにになる?まだいっちょまえにわが国の防衛を担ってるつもりなのかなあ?あのきちがい博士にどう洗脳されたのか知らないけどさ。「ゲーム」なんてヌルいことしていたら日本はダメになっちゃうんですよ」
「だったらどうすると言うんです?わざと「ゲーム」に負けて、アメリカなりどこなりの属国になって、それで満足と?」
「黙れったら」篠崎は礼子に覆い被さるように詰め寄ってきた。礼子は冷たいコンクリートの壁際に追い詰められ、内心怯えきっていた。「壁ドン」が流行ったのは大学時代だったろうか。本気でやられるとただただ怖いだけだった。
「ひとつ忠告しておくけどな、礼子さん。あまり知らないほうが身のためなんだよ?あんたがそれほど美人じゃなかったら東京湾に浮かんでるところなんだぜ?」
「なっ……!」
最後の言葉に込められている男性本位の考え方に礼子は腹を立て、相手をにらみ返した。
「へー、気が強いんだ」篠崎はせせら笑った。「楽しめそうだ。いい年してすぐメソメソされるの嫌いでね、ひっぱたきたくなる」
篠崎は礼子の手首を掴んで壁に押しつけた。
礼子は股間を蹴り上げようとしたが、予期していたのか礼子の動きがトロ過ぎるのか、篠崎は笑いながら素早く腰を引いて攻撃をかわし、礼子の太股のあいだに膝を割り込ませてますます壁に押しつけた。
「おいおい、慣れないことするんじゃないよ」
「だったらこれはどうだ!?」
篠崎は突然うしろから声をかけられ、振り返ったところで健太のパンチを食らった。久遠一尉仕込みの渾身のストレートだ。よろけた篠崎の腹にワン・シャオミーの回し蹴りが叩き込まれた。「女の敵!」
篠崎正臣は壁に叩きつけられ、ずり落ちて床に卒倒した。
礼子は目を丸くした。
「浅倉……くん」
「え?ああどうも先生、こんな所で偶然……」
礼子は健太に倒れ込むように抱きついた。
「怖かった……」
その瞬間、健太の行動のすべては報われた。まさに栄光の瞬間であった。
久遠一尉に怒られようがぶん殴られようが、どうでも良かった。
篠崎の傍らにしゃがんで懐を探っていたシャオミーが健太を見上げ、サムアップとウインクした。
「先生……」
「あ!」礼子が突然顔を上げ、健太の両肩を掴んだ。「わたしのママが!」
「若槻センセ」シャオミーが言った。「お母様たちの安全は確保されてるヨ。全然心配ない」
「そ、そうなの」それからハッとして、健太から身を離した。「ごごごめんなさい!ふたりとも、先生助かったわ……健太くんびしょ濡れじゃない!風邪引いちゃう……」
「先生もだよ」しっとり濡れた礼子先生はますます魅惑的だった。
黒い背広姿の男性と女性がひとりずつ、料亭の通用口を開けて現れた。健太と礼子はさっと緊張したが、ワン・シャオミーはのんびり立ち上がると、二人に声をかけた。
「この倒れてる男が小湊と一緒だったネ。なにかオモシロイ話聞かせてくれるかも」
「だと良いけどな」男が答えた。「やれやれ、担いで行かなきゃ」
シャオミーは財布や携帯と一緒に、ICレコーダーを黒服の女に渡した。さきほどの礼子の会話を録音していたのだ。
黒服の二人は篠崎を担いですぐに立ち去ってしまった。
「いまの連中、誰なんだ?」
「天城サンの部下。やっぱりアサクラのこと見張ってたみたいヨ」
「え?マジで?」
「あたしたちもすぐここ離れよう」
不思議と誰にも見咎めることもなく、健太たちは料亭の玄関から外に出た。ちょっとしたいざこざなんて珍しくもないのかもしれない。外には二階堂亮三が傘を差して待っていた。亮三のうしろには大型のバンが控え、運転席には杉崎信が座っていた。
「先生、ご無事でなによりでしたなあ。母上ともうひとかたは先にお帰りになりましたよ。護衛付きなのでご心配なく」
「あなたたち……なぜ?」礼子は教え子の大挙出現に戸惑っていた。ひょっとしてシャオミーや亮三が本当にただの転校生だと思っていたのか。
「気にしないでくだせえ。さ、風邪引きますから、帰りましょう」
バンは健太たちを乗せて走り出した。かなりのスピードで川越街道を目指していた。関越高速道を利用するらしい。前後に黒塗りのセダンが続いているのに健太は気付いた。
(まだ警戒中か……)
小湊議員が関わる組織――反バイパストリプロトロン組織はどの程度のものなのか?あらためて考えてみると不気味だ。
「ちょっと寒いわね」礼子先生は銀色の保温ブラケットを体に巻き付けていた。「もう六月なのに……」
確かにちょっと肌寒い。雨はますます激しくなって土砂降りの勢いだ。
「今日こんな天気だって言ってたか?」運転席から杉崎が尋ねた。
「いいや、ニュースでは曇りのちにわか雨というとった。こんな低気圧は聞いておらん」
健太の携帯が鳴り出した。久遠一尉からだ。
「はい?」
「よう、用事は終わったらしいな。すぐ帰れるのか?」
「いまエルフガインコマンドに向かってるところだよ」隣の先生をちらっと見た。「先生と一緒に」
「そっか……無断離隊はあとでとっちめることにするが、それより急いでくれ。厚木ジャッジがどうも様子がおかしくてな……意図的に警戒ガードを下げているみたいなんだよ」
「えーと……簡単に言うと、誰かが敵の接近を見て見ぬ振りしようとしてるってことかな?」
「そうだ。それでいま関係各方面に連絡して監視体制を最大にしろと呼びかけているんだが……正直どこのどいつがサボタージュに加わってるのか分からない。だが敵襲は近いぞ」
健太が通話を終えると、亮三が言った。
「自衛隊さんはガタガタのようですな?」
「残念ながら」健太は携帯をしまった。礼子先生がいつの間にか眠り込んで健太にもたれかかっているため、慎重に体を動かさねばならない。「敵襲が近いってさ」
「九州についてなにか言っとりましたか?」
「九州?種子島の実奈ちゃんのこと?それは言ってなかった」
「そうですか……」
「二階堂、あっちは俺らの本隊が張り付いてるんだ。心配ねえよ」
「そうかもしれんが……ヴァイパーマシンが襲ってきたらどうか」
「そしたらどうするってんだ?このまえエルフガインを九州に送ったときのこと思い出せよ」
ただならぬ会話に健太が割って入った。「ちょっと待ってくれよ、実奈ちゃんが危ないのか?」
「そりゃそうでしょう。あんなばかでかい宇宙要塞を軌道に投入するんですよ?成功すれば宇宙は日本が支配できるんだ。いまやってる国際会議だってそれを承知している国が一枚加わりたくて集まっているんです」
「そうなのか……」宇宙要塞だって?そんなたいそうな代物だったとは。
「日本を敵視している国はなんとしても阻止したいはずです。高度3万6千キロに居座られてしまったらミサイルは届く前にすべて撃墜されてしまうし、大きすぎて現行の電磁兵器では破壊不能です。5年後に月の資源を利用した軌道エレベーターの糸が降りてくるまで指をくわえて見ているしかなくなるからね」
「そんなたいへんなことなら島本博士はなんで放置する?」
亮三に変わって杉崎が答えた。
「そりゃあ、エルフガインが一体しかないからだろ?」
横須賀。三笠公園。
自衛艦がほとんど出航した港湾は閑散としていたが、湾に面した横須賀の街はにわかに慌ただしさを増していた。命令系統の混乱のため、関東の太平洋岸全体に警戒態勢が敷かれるまで時間がかかっていた。
早期警戒システムがようやくまともに動き出したとき、敵はすでに浦賀水道に侵入していた。
「敵が接近しています!」
岸壁に並べられた戦車部隊のあいだに情報が走る。あの中国製ヴアイパーマシン……ふた昔前の戦艦なみの図体を持った巨大潜水艦が40ノットという恐るべき速度で接近中だという。東京湾の外でピケを張っていた自衛艦はすべて振り切られ、艦対艦ミサイルも効かない。
まっすぐ横須賀を目指して接近中。
「うわ……もう来たぞ!」
港湾の中央が盛大に盛り上がり、黒い巨大な紡錘体がそそり立った。
てっきり潜水艦が浮上するものと踏んでいた戦車の乗員たちは度肝を抜かれた。直立している!巨大なシャチのような図体が海面からまっすぐそそり立ち、なにやら足のようなもので立ち上がっていたのだ。そして腕らしき二本の機械肢までもが巨体の両脇から生えていた。その恐ろしく長い腕が海面を突いた。
巨体全体を前屈させ、横須賀の街を睥睨するように艦首をうなだれた。そのままゴリラのような動きで岸壁に接近してくる。
「目標、接近中のアンノウン、撃テッ!」
九〇式戦車二小隊八両の一二〇ミリ砲が一斉に火を噴く。全弾が命中した、が……
「ぜんぜん効いてない……」
敵の接近速度があまりにも速く、戦車隊は早くも後退するしかなかった。噂には聞いていたが、本当にかすり傷ひとつ負っていないのか、アンノウンは戦車など気にする様子もなく公園に上陸を果たし……次の一歩で市街に踏み込み、あっという間に鉄道の高架線に達していた。もはや戦車で追いかけ攻撃する余地さえない。誰もが最悪を予期したが、怪物は立ち止まることなく、その移動経路だけを破壊しながら、どんどん内陸に突き進んでゆく。
戦車小隊の隊長がハッチから雨天に出て、小高い山の向こうに消えようとしている敵の後ろ姿を見た。
「なんて奴だ……やっぱり埼玉に向かってるのか?」
また長くなってしまったので分割させていただきます(汗)