2 雌伏の時
そして健太はマリーアのボーイフレンド(のひとり)という地位に甘んじた。
イタリアの生活は楽しかった。それまでの10年間よりよほどためになる経験をいくつもした。
マリーアに急かされロンドンとミラノで高級衣類を仕立て、着こなしをまなんだ。それからさまざまなマナー、TPO……やむにやまれぬ事情から外国語も学んだ。
必死になれば人間なんでも覚えるものだ。最初の一ヶ月で、健太はイタリア語と英語の日常会話を(片言だが)マスターした。
ようやく人前に出せると判断したマリーアは、健太をスキーやダイビングに連れ出した。これがハリウッド映画かセレブの生活そのままというやつだった。
彼女は旅行好きで、国交が回復したいまは、結婚まえに世界じゅうを見て回ろうと決心していた。健太はそのお供として同行した。
そう、マリーア・ストラディバリには許嫁がいた。お相手はノルウェーの貴族だかなんだか。十歳年が離れていて、たぶんマリーアが25歳くらいになったら結婚する。健太はマリーアの父親から、悪い虫がつかないよう守る役目を申しつけられたのだ。
なぜか健太自身は悪い虫と考えられなかったらしい。
喜ぶべきか、甲斐性なしを嘆くべきか……。
それはともかく、マリーアは世界じゅうに友達を作ろうとしているようだった。しかもすでにたくさんの友人がいた。行く先々で歓迎され、あるいは服装チェックがあるようなクラブにも簡単に出入りできた。
派手な生活だったが、セレブらしく社会貢献にも熱心だった。もちろんどこぞの女優みたいに全身デザイナーズブランドでキメて救済活動したりはしない。
埼玉の高校生時代であったら、そうした活動など偽善と切り捨てていただろう。でも実際にその活動に参加させられてみると、いろいろと考え直さざるを得なかった。
マリーアに言わせればアフリカを支援する必要が薄れただけマシだという話だが、それでも世界には困窮している人が大勢いた。
マスコミやネットで流布されているあれやこれの、どの部分が真実なのか直接見極める機会でもあったから、いつしか健太もできるかぎり協力するようになっていた。
三日に一度くらいは健太の抱いていた世界観が覆された。
どん底を見た。やるせない気持ちになることもしばしば。
しかし、世の中には世界を良くしようという人間がたしかに存在している。
それに「貴族」という連中ときたら……マリーアの許嫁を例にすると、スポーツ万能で博識、ピアノを弾いて詩を詠みおまけに謙虚で礼儀正しく気さくで……一段上等なんだと認めるしかないスーパーマンなのだ。ただし厳格でややこしそうな身分制度をもって、庶民とのあいだにきっぱり一線を引いてはいる……日常のほんの些細な拍子に垣間見える程度だが……それを抜いても好人物である。
「ホントになあ……お金持ちなんてみんな不幸だと思ってたけど……」
「不幸なお金持ちは全体の5%で、残りの95%は普通に暮らしてるのよ。その5%だけニュースになるから知らなかっただけ。そもそもそういう人たちはハリウッドの住人とかアーティスト……病的な目立ちたがりだし」
「でもマリーアのダチもそうとうなもんだと思うぞ」
「まあ若いときは羽目はずせってね……その点、わたしには健太がいるから堕落せずに済んでる」
結局、初体験のお相手はマリーアだった。
イタリア人の貞操観念は映画で観たとおりだった。じつにおおらかで、許嫁がいても関係ないらしい。
そちらの手ほどきも根気よくレクチャーされて、健太はじきに上達した。
しかしそれで、真琴と添い遂げるという願望からはいよいよ絶望的に遠ざかったような気がした。
健太は無収入で、貯金はエルフガインコマンドで働いていたときの残りだけだ。それでもけっこうな額の「退職慰労金」が支給されていたから、私物を買ってミラノに小さなアパートを借りるぐらいのことはできた。マリーアがべつの男と遊びに出かけたときはそこに待避するのだ。
とはいえ、健太がいちばんマリーアと一緒に過ごした男だったのは間違いない。妙なことにマリーアの家族友人もそれを変だとは思っていなかった。
健太はそれなりに有名人だった。
「エンペラーオブジアース」という称号がどこから出てきたのか定かではないが、まあまるっきりデタラメではない。
冗談半分の称号だから健太自身は気にもしなかったが、健太が誰か知っているべつの人間から、たまに喧嘩をふっかけられた。たいがいはクラブの駐車場とか、サッカースタンド内のパブでだ。
「てめえを倒したらおれが地球の王様だよな!?」
「知るかくそったれ!かかってこいよ!」
とにかく、健太は負けはしなかった……判定は人によってまちまちだろうが、たいがいは相手と握手して、友達になった。
そのうちに「エンペラーオブジアースは本当に強い」という評判が一人歩きして、「令嬢のジゴロやってる元ロボパイロットのチンピラ」という蔑称よりまともな扱いを受けるようになった。
なんとまあ!単純な腕っ節をアピールするだけでどれほど社会的地位が上昇することか。格闘家があんなにしんどそうな試合をやめない理由の一端を垣間見た気がした。
女の子にモテるのだ。
日本に戻ったのは二度、ほんの数日間だけ。
その数日は、母親が残した信託財産を受け継ぐために手続きが必要だったからだ。
ざっと10億円。
(カーチャンありがとう!)てっきり100万円くらいと思っていたから、これは驚きだった。
途方もない額だが、それで何をするかはまったく思いつかなかった。
なので健太は頭脳明晰な人に相談してみた。つまり島本さつき博士だ。
博士は秩父にいた。山間にひっそり隠れた場所に立派な邸宅を構えていて、そこに久遠一尉……というか退役した久遠隊長(主夫)と一緒に住んでいた。
島本博士たちと健太はある秘密を共有したかたちだ。アメリカに対する最後通牒がハッタリだったという事実を公表する必要はない、ということで意見が一致した。それにしっかり数えればバイパストリプロトロンが一個多くなっている、という事実もあえて指摘せずにいた。もちろん現在地球上空を周回しているのは40個。
余分な一個は、タンガロ共和国で記念碑となったナーガインからひそかに取り出され、現在はエルフガインの胸に納められていた。
「一生遊んで暮らせばいいんじゃないの?」
それは考えたが、マリーアのセレブ生活を体験したので「遊んで暮らす」とはどういうものか知っていたし、そんな生活を維持したければ10億は決してじゅうぶんな額とは言えない。
だからといって、身の丈にあった庶民生活に戻ったとしても、職能を磨いていない健太の人生はひどく地味なものとなろう。
人生の頂点がエルフガインに乗っていた一年だった、というのはなんとしても避けたい。
「生き甲斐みたいなの欲しくて……」
「そうねえ。まだ若いんだから、それは必要よね」さつきは考え込んだ。「実奈ちゃんに相談してみなさい」
それからわずか一週間後、健太はなんと、会社の社長となっていた。
信託金の一部は祖父夫妻に渡し、残った有り金全部実奈に預けた結果だった。
その資金を使って実奈が何をするつもりなのかざっと説明され、その説明を理解するため、健太は大量の本や文献を渡されてイタリアに戻った。マリーアも手伝ってくれたのでだいたい理解できた。そして会社のために健太が何をしなければならないか、実奈が何をしてもらいたがっているのかも理解した。
「宇宙生活者のための雑貨の開発……これは面白そうね。わたしも投資しようかな」
「うまくいくのかな?つまり商売として成功するのかって話だけど」
「そう思うわ。今後10年間で三億人が宇宙に行くんだから、もう昔みたいに衣食住すべてが政府持ちなんてあり得ないもの……地球と同じように給料をもらって、自分で生活用品を買わなくちゃならなくなる。その市場はまったくの未開拓」
「それで、おれはみーにゃんの指示に従って世界じゅうから投資を募るわけか……」




