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激痛が体に走り、目が覚めた。
「……!」
声は出せなかった。顎も砕かれていたからだ。体を捩ろうとしたが、それも出来なかった。そもそも、そんな体力さえ無かった。
いや、何故自分は生きている? どんな高度な治療も意味を為さなくなるような拷問を受けて、崖から落とされたのだ。目が覚めたとしたら、そこはあの世であるのが普通だ。
沢山人を殺したし、他にも様々な事をした。あの世に居るならば、罰を受けているのが男にとっては当然の事だった。しかし、罰を受けているとしても右腕だけは痛んでいなかった。魔獣の鹿が大して攻撃を加えなかったその場所が痛んでいない事、それが自分が生きている証明だった。
男は疑問を感じていたが、それを考える余地も与えられなかった。傷付いた、という生温い表現には程遠い体の損傷による激痛は体を延々を蝕んでいた。
男はゆっくりと目を開けた。目を開けるのさえ、一苦労だった。
視界には、木々に隠れた青空が見えた。そして、視界の端に何かの毛皮が見えた。その色は、快晴の日、海に潜った時に見られるような、濃く、美しい青色だった。
それを見て、男は笑った。目だけがほんの少し、にやけていた。
本当に俺はついている。本当に、俺は生きて帰れる事が出来る。
普通の獣には有り得ない毛皮の色。それを意味するのは、その獣は魔獣だという事だ。そして、自分が生きているという事。それは、鹿の魔獣の相棒のように、魔獣の力の一片を受け取ったという事だ。
動かない筈の足が自由に動く様になった程だ。このボロボロな体も治るのでは?
無限の寿命を持ち、毒も効かず、頑強な体を持つ魔獣の力を受け取った事による希望は、男にとってはとても大きい希望だった。
魔獣は男が起きた事に気付いたようで、体を起こし、男に顔を近付けて来た。
それは、狼だった。それも、小柄な人ならば楽々と運べる程の大きさの。
普通の狼よりも尋常でない力と人間並みの知能を持つその狼が、肉薄している。しかし、男はそれを怖いとは思わなかった。
痛みが思考を極度に鈍らせていたのもあるが、今生きている事そのものが、男に敵意を抱いていないという事を明示していた。
また、意識が薄らいでいく中、男は思った。
俺は死なない程度の幸運を持っている、って思ったっけ。見事に当たったよ。
この魔獣の狼は、ここ辺りの狼の群れのリーダーのようだった。気絶と覚醒を繰り返し、首を動かせるようになり、周りに沢山の狼が居る事を知った。
勿論、その沢山の狼は普通の狼だった。時たま家畜を襲い、目的を済ませるとさっさと逃げていく普通の狼だった。昔の文献をほじくり返したり、良くオプシディを見に来たりする学者程魔獣に詳しい訳ではないが、こうやって自然の中で同じ種の獣のリーダーとなって生きている魔獣と言うのは聞いた事が無かった。
しかし、この狼は人と暮らした経験があるようにしか思えなかった。短い覚醒の間、狼は自らの口の中で肉や木の実までもを柔らかく、そして砕いてから、口移しで男に栄養を与えてくれた。
何となく、短い覚醒を繰り返す内に男は思うようになった。
この魔獣の狼は、魔獣の鹿よりもオプシディよりも遥かに長く生きて来たような風貌を見せていた。生まれて来た時から姿は変わらないとされている魔獣だったが、何となく男には確信出来た。
きっと、様々な事をしてきたのだろう。そして、自分の最良の形を定めて、こうやって今を生きているのだろう。
激しくなった痛みによって気絶と覚醒を繰り返す日々が続いた。男からは時の感覚が失せ、夏がとっくに過ぎ去り、北のこの大地には早速寒さが訪れている事も分からなかった。
そして、魔獣の狼によって、その寒さを凌がせる為に洞穴に引き込まれたのに気付くのも、かなり時間が経った後の事だった。
男にとっては長いようで短い時間が過ぎていく。言葉も喋れず、ただ苦しんでいるだけの男を、その紺碧の狼はずっと見守り続けた。
勿論、男が何故助けられたかという理由は知らない。久々に同じ高度な知能がある動物として、話し相手になって欲しかったのかもしれないし、何故こんなぼろぼろな状態になって崖から落ちて来たかを聞きたいだけなのかもしれない。もしかしたら、また人間社会に復帰したいからかもしれない。
狼は男が回復するのを黙って待ち続けていた。細かい作業が出来ない四肢で何とか命を繋ぎとめる措置をして、それから自らが与えた唾液を以てすれば、時間は掛かるものの、この全身の傷も治る事は知っていた。
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この北の大地からも冬が去ろうとする頃、男は自力で起き上がれるようにまで回復した。
右腕は勿論、指先までくまなく踏まれた左腕が以前と同じように動くようになったのは驚いた。顎が砕かれたのにも拘らず、普通に喋れる事も驚きだった。また、筋肉が裂かれ、骨もぼろぼろにされた様々な部位、そして痛めつけられた体の内部でさえも完治が近いように思えた。
「あー」
流石に長い間喋っていなかったので、喋れるには喋れるが、慣れというものが失せていた。
紺碧の狼はゆったりとした姿でじっとその姿を見つめていた。もう少し待った方が良いだろうか。
男は瞬きを何度かして、自身の両手を見つめた。左腕には多少の痕は残っていたものの、どうでも良い事だった。
男は狼の方を向いた。取り敢えず、礼を言おう。
「助けてくれた事、感謝する」
頭を下げて、そう言った。
狼はそれを聞くと、前足で素早く地面に文字を書き始めた。
"何をされたんだ?"
狼は好奇心で俺を助けたらしい。
3頭もの魔獣に会った人間などそうは居ないだろうと思いながら、男は狼に簡潔に喋った。
狼は男の話をずっと聞くだけで、特に止めたりする事も無かった。ただ、ずっと耳を傾けているだけだった。
「裏の事情は色々とあるが、大体そんなものだ」
狼も、その裏の事情に対しては聞こうとは思わなかった。男がこうなった理由は、狼にとっても理解出来るものだった。
"もう少しだけ休んでいけ"
狼はそう言って、男の元から去った。
自分は狼にとっては単なる来訪者に過ぎないようだった。もし、そうでなかったとしても僅かな可能性はある。そんな時に対して、男はある決意を固めていた。




