狂気ではない
転んでも、まともに受け身を取れなかった。片手が動かない事よりも、極度の緊張、恐怖がそうさせる原因となっていた。
男の息は非常に荒く、それだけで残りの体力が激しく削られている。隠れていた疲労も表に出始めていた。
生きて帰れる可能性が全くない状況だった。たった1頭の魔獣の鹿に狙われるだけで、全ての道は閉ざされてしまった。
誰も味方は居ない。敵も居ない。森林限界を越えたこの場所では、一時的にでも逃れられるような木も無い。状況は単純で、無情だった。
男の頭の中では、2年前の状況とこの今の状況が比較されていた。
あの時でさえ、こんなに心臓の音が高鳴っている時は無かった。その理由は、オプシディが居たからだ。何とかなるかもしれない、という希望があった。
しかし、今はオプシディは居ない。
後ろを振り向くと、やはりそこには銀色の鹿の魔獣が居た。ゆっくりと男の方へ歩いて来ていた。
自分がこれからその魔獣に殺されると分かっていても、その姿は美しかった。銀色の毛皮は太陽の光を浴びて輝いていた。ただ、美しいと同時に男に確定的な恐怖をも与えていた。
伸びている途中の角には既に血が付着していた。やはり、ここには敵が居たのだ。この魔獣はその邪魔となる味方をも排除して、徹底的に自分を虐げるつもりだ。
男はそれを病的とは思わなかった。オプシディも同じ事をされたとしたら、こういう事をする可能性は高いと、男は分かっていた。
震える手で、無駄とは分かっていたが、小型の弩を取り出した。大きい弩は組み立てる時間も無い。
鹿の魔獣はそれを見ても、歩く速さを変えなかった。もし、その理由がこの弩を知らない事によるものだったなら、と男は思う。しかし、それは願望に過ぎない。鹿の魔獣はこれを見た事がある。
男は既に矢を番えてあるそれを、鹿の魔獣に向けて発射した。
硬い音が響く。
男は、それが自分の恐怖を煽る為にやった事だと分かっていても、更に恐怖を感じざるを得なかった。
鹿の魔獣は躱す事も、角で弾く事もしなかった。頭を微妙に動かす事により、枝分かれした角で矢を捕えていた。矢は完璧に見切られていた。
男の呼吸は今までない程に激しくなっていた。立つ事も出来そうになかった。しかし、今から虐げられて殺されると分かっていても、爆弾で自殺する気は無かった。
自分は、メルトライの人間達の幸せの礎になる為だけに戦って来た訳じゃない。自分自身も幸せになる為に戦って来たのだ。
自殺なんて以ての外だ。
男は残っていた爆弾を取り出し、鹿の魔獣に向けて投げようとした。ただ、それを見たフリクトはそれを許す事はもう、しなかった。
静かに溜まっていた怒りは、フリクトの身体能力を著しく向上させていた。男が爆弾を投げるまでの僅かな時間で、男に肉薄し、その腕を蹴る事が出来る程に。
爆弾はあらぬ方向に飛んで行き、無駄な爆発を起こした。そして、フリクトは男の右腕を踏みつけた。
折る事まではされなかったが、それは自分に僅かな希望を与えておく為だと、男は理解出来た。腰にナイフがある事も分かっていて、そうしたのだ。矢を捕えたのも、ナイフがあるのにわざと右腕を折らないのも、自分には絶対的に勝ち目がない事を刻み付ける為にやっているのだ。
男は既に屈服していた。踏みつけられて顎を蹴られ、それは否が応でも、諦めが身に染みていく事になっていった。
最初の内だけだったが、叫び声が聞こえるのは無視した。
虐げる快楽を感じる為にやっているのではなかった。フリクトにはそんな趣味は無い。痛めつけないと自分の気が済まないだけの理由で、フリクトは男を死なない程度に痛めつけていた。
それでも、放置されれば1日も経たない内に死ぬ程度だったが。
男は、石に打ちつけられ、踏まれ、蹴られ、噛まれもした。その時、フリクトは唾液が男に付着しないように気を付けていたが、男にはそんな事に気付く余裕も無かった。筋肉が裂け、みしみしと骨を折られようとしている時にそんな注意は出来なかった。
全身の骨は右腕を除き、くまなく折れていた。内臓も同様に、絶妙な強さで蹴られる事によって痛めつけられ、口からは血を吐いていた。片目も潰れていた。
呼吸もまともに出来ない中、僅かに思った。自分がする拷問よりは酷くはない。しかし、目的が違う。拷問とは普通、情報を聞き出す為にやるものだ。この魔獣は、最終的には殺すという目的でやっていた。
死にたくはなかった。それは既に過去形だった。それでも、こんなもう瀕死になっても、どれだけ体が悲惨になっても、自殺する気にはなれなかった。自殺をさせてもくれないのだろうが。
そして、最後に男は腹に角を無理矢理刺され、持ち上げられた。声はもう出なかった。体も動かなかった。
フリクトは歩き、崖の上に男を連れて行く。その崖は切り立った崖ではなかった。少し大きめの岩を落としたとするば、砕けながら転がって落ちて行くような、そんな崖だった。
そして、少しだけ逡巡した。まあ、これ以上痛めつけても死ぬまでの時間が短くなるだけだろう。
そう結論付けてから、フリクトは雑に首を動かす事によって男を振り落した。
男は血を流しながら、ただの柔らかい動かない物体のように、時たま岩にぶつかり、砂利に揉まれて転がり落ちて行く。
フリクトはそれを少し見つめてから、帰る事にした。死んだ事を確認する必要もない。
帰る途中、茂みの中に気絶させて隠していたウォルストレンの兵士が居たが、怯えて必死に後ろずさるだけだった。
……まあ、見られていたら当然だろう。
そして、これでリドムと暮らしている事も明確にばれる事となってしまった。リドムが言ったようにあの山で暮らすのも、もう出来ないかもしれない。
これから帰るのも、それからの事も考えると、晴れた気持ちは失せて、面倒な気持ちだった。




