従順な獣
犬が吠えた。多分、奴が俺の臭いがたっぷり染みついたものを騎士達に渡して、俺を探すように頼んだのだろう。見つかるまでに大して時間は無い。
参ったな、と男は頭を掻く。予想していた事だが、この状況を切り抜ける一番安全な方法は、この森の獣達にとって一番迷惑な方法で、気乗りはしない。
この姿を隠し易い森の中、犬も追って来る騎士も全員殺す事は男にとっては可能だが、万全でない体でやるには少々不安が残った。それに時間も掛かり、体力も消耗する。物資も足りている。メリットは全く無い。
仕方ないか、と男は思い、火を起こして枯草の上に放った。
森を燃やそう。対処において一番楽で安全な方法を取るのは当たり前の事だ。風向きも北向きではない。火に追われる事も無い。
枯葉を足と手で掻き集めて飛び火し易いように仕組み、火が燃え広がり始めた所で、男は歩き始めた。
自分の臭いを追って来る猟犬は、火が撒かれようとも少数は自分の居場所を突き止めて来るだろうと男は確信していた。
大きな炎は誰にとっても怖いが、人の手によって飼い馴らされた獣は大して火を怖がらない。本格的な火事になる前に、数匹は相手にしなくてはならない。
ただ、男にとっては大した障害ではなかった。
犬は大型でも、その質量自体が武器になる事は無い。猪や鹿、馬やトナカイ等のように、突進されただけで大きなダメージを負う事が無いという事だ。危険なのは体そのものではなく、体に備わっている武器である、という事だ。それも、跳び掛かって殺しに来るならば、ナイフ1本でも簡単に対処出来る。
複数で一斉に襲い掛かられたら、流石に困るが。
後ろからは、パチパチと順調に炎が燃え広がっている音が聞こえた。真っ暗闇が、ほんの少しだけ明るくなっている。
後ろを振り向くと、駆けて来る3匹の大型の犬が見えた。
大して焦る事も無く、男は上着を脱ぎ、骨折している左腕に巻き付けた。それからナイフを咥え、少し時間を掛けて小さい方の弩に矢を番えた。犬は避けられないだろう。
素早く、確信のある動作で狙いを定め、引き金を引く。一般的な矢より短く、羽も大して付いていない矢は1匹の前足に当たり、すぐにごろごろと転がって動かなくなった。2匹の駆ける速さは一瞬遅くなったが、そのまま走り続けて来る。
かなり、訓練されているようだ。
弩を地面に落とし、咥えていたナイフを手に取る。次の矢を番えている時間はもうない。上着を巻き付けた左腕を前に出して構えた。
走って来る最中、犬が吠えた。男の位置はばれた。
ああ、俺を追って来た奴等がこれを聞いてなければ、俺がここに居る事もばれずに済んだかもしれないな。呑気に思いながら、跳び掛かって来た1頭に上着を噛ませた。体もそこそこは重く、踏んばって倒されるのを防いだ。
骨折している左腕には酷い痛みだったが、噛まれている痛みは無かった。ぐいぐいと上着を噛み千切ろうとしている動きが骨折している部分に響いているだけだ。治るのは遅くなるだろう。
もう1頭も同じように跳び掛かって来た。
そもそも、狼でさえ真正面から戦う事は無いのに。お前等は、真正面から狩りをするような動物ではないだろう。知能が大して無いのに従順であるという事は虚しい事だ。
動きに合わせて顔面にナイフを突き刺すと、声を出す事も無く絶命した。
ナイフを抜くと、血がどばりと噴出した。その血に少しの怯えを見せ、上着から口を放した最後の1頭も、男は逃がす事無くナイフを突き刺した。
左腕は酷い痛みだった。
呆気なく死んだ犬を大して見る事も無く、ナイフにべっとりと付いた血を適当に拭い、弩も拾って袋に仕舞う。苦い顔をしながら左腕に巻いていた上着を取る。添え木が少しずれていたが、今は悠長に直している時間は無い。
上着は様々な場所が裂けていたが、まだ着れる状態だったので羽織って男は歩みを再開した。
炎は本格的に大きくなり始めていた。雨はここまで来る間に例年並みには降っていたが、燃え上がってくれたのは助かる事だった。
人の声はまだ聞こえない。火事を起こせばすぐ集まって来るとは思うが、ここ辺りに居る兵士の数は少ないのかもしれない。
とは言え、のんびりとは歩いていられない。後ろからの火事で周りが徐々に明るくなり始めていた。
視界が十分に機能する明るさだ。
男はここから早く去る為に、走り始めた。




