微かな羨望
死の感覚は何事も無く遠ざかって行った。ただ、体を動かすには問題は無かったが、繊細な感覚は奪われてしまったようだった。
男は最低限の休息を取って後はメルトライに向かっていたが、後どの位の距離があるのか、全く分からなくなっていた。
点々とある町や村、畑や森の場所が頭の中に叩き込んだ地図の中にあったとしても、現在位置が分からなければ意味が無い。
男がやっている事は太陽の位置や星の位置を確認し、ただただ北に向っているだけだった。
ここから先、身を隠し易い森の中のみを移動してメルトライに行く事は出来ない筈だ。最低でも4か所、目につきやすい大きな道を通らなくてはいけない。
その内の3つは別に大した障害ではない。1つは2日前に何事も無く通った。ただ、最後の1つはメルトライの戦争で補給をし易くする為に、国境に沿っている道だ。
馬車も快適に通れる。整備も万全にされてある。周りは見通しがかなり良い。
しかし、国境は長い。道全てを厳重に警戒する事は不可能だ。
そしてそこで使うのは、少しだけ軽くなった袋にある、王を殺した時とは違う爆弾。自決用でもあったが、ここまで辿り着いた場合の突破手段でもある。
威力は王を殺した時に使ったそれよりは低いが、煙も撒き散らす。混乱と目隠しをして通る。城下町から逃げた時と同じ手段だ。
ただ、1つ問題があった。左腕を骨折している今、この複数ある爆弾をスムーズに大きな弩を使って何度も発射させる事は難しい、という事だ。
男はそれを大した障害だとは思ってはなかったが。無限の可能性が有限になっただけの事だ。
疲れが一線を越えそうになった頃、男は少し休む事にした。
リドムの小屋から盗んで来た干し肉やパンを食べ、男は大地に寝転がる。動物の足音は全くしなかった。どうやら、この辺りには動物は居ないみたいだ。糞尿の臭いもしない。
少しだけ安心すると、途端に眠気が襲って来た。男は欠伸をし、目を閉じた。深い眠りは、今は出来ないが。
約50年前から見られ始めた黒い毛皮の白熊が、何故自分を選んだかの理由は知らなかった。
文字盤を使って細かな意志疎通をする事は多々あったが、聞いた時も「何となく」等というはぐらかされる答ばかりだった。
熊、オプシディとの相性は、先代と同様に良かった。オプシディが戦争に参加するようになったのは男が生まれたすぐ後位かららしく、何人もオプシディと関わって来たが、敵に殆ど姿を見せる事もなく、男もオプシディと共に手を血に染める事が出来た。
ただ、何となく、男は思う事があった。オプシディが自分を選んだ理由は、単に絞り込みをしただけの結果なのでは、と。自分と相性が合う人間、且つ、能力が高い人間。それに合うのが俺だったのではないか。周りからは、仲も良いと言われている。
俺もそうだと思うが、全盛期を生き延び、今は普通の兵として暮らしている先代、兵自体を引退した先代の先代。どちらともオプシディは関わりを断ち切っては無い。
そんな事を寝ながら考えていると、微かにリドムを羨ましく思っている自分が居る事に気付いた。
オプシディは自分が殺されても、鹿の魔獣、フリクト並にまで悲しみは、怒りはしないのではないか。
今の一番の相棒は俺だが、同じように親身に思っている人間はもう2人居る。いや、一番老いている先々代の方がオプシディは親しく思っているだろう。
……俺は、オプシディにとってどう思われているんだ? あいつは頭の中で俺を単なる道具とでも思っているのか?
僅かながらありそうなその可能性を聞けはしなかったが、絶対に表には出さず、動きにも支障をきたさない程に自分で押し殺して縮めた重い埃のような思いは、男の中に確かに実在していた。
そして、それと同時に強く思う事があった。
あの男と魔獣の鹿のような、一対一の関係が欲しい。
それが独占欲だと知ってはいるが、その欲を消すのは難しそうだった。
ただ、聞く事も、それを言う事も結局はしないだろうと男は思っていた。葛藤しながら、結局このまま、これからも過ごしていくのだろう。
足音で目が覚めた。複数だ。
素早く、音を立てずに起き上がり、周りを見渡す。
遠くで何かがぼんやりと光っている。松明の明かりだろう。
……きっと、最後に突破すべき道では服を使った偽装は役に立たないだろう。敵も、同じ手を2度食らう程馬鹿じゃない。使う煙幕爆弾に対しても、何かしらの対策は施されているかもしれないが。
さて、物資は十分足りている。服を奪う必要もない。物を奪って証拠を残す必要もない。
この場からさっさと逃げておくのが一番だ。
そう思い、男は星を見て方角を確認してからゆっくりと歩き出そうとした。
そして、犬の足音を聞いた。……位置がばれる。
木に凭れ掛かって寝るより、大地に寝っ転がった方が地面を伝わる足音を聞けるらしい。
都会のトムソーヤより。
本当だと思うけど、本当にそうした方が良いかは知らないよ。木に登った方が良いかもしれないし。サバイバル技術なんて持ってない。




