怒りさえ浮かばないようだ
フリクトでさえも、気付くのが少しだけ遅れた。ただ、それは、熊がフリクトの聴覚や嗅覚をも上回っていたからでは無く、単にフリクトも悩んでいたからだった。
リドムは、フリクトに事前に言ってあった。熊に出遭ったら、まず何も言わずに即座にこれを投げると。手に、殺傷能力は全くなくとも、魔獣に対してはかなり有効な爆弾を持ちながら。
歩く死神と言っても差支えない、全てにおいてフリクトを凌ぐであろう熊と交渉する為には、強力な武器がある事を知らしめておかないといけない。
ただ、フリクトは尋ねられなかった。
もし、それからその熊が姿をこっちに現してくれなかったらどうするんだと。
単にそれは細かな意思を伝える為の文字盤が無かったのもあったが、熊に目的がある事を明確に知られたくなかったのもあった。
ただ、もう、フリクトには決定権は無かった。後ろから忍び寄って来た時点で、狙っているのはリドムだけかもしれないという微かな可能性はありつつも、とにかく、殺意は明らかだった。
フリクトはすぐさま体を激しく揺らし、リドムに熊が来た事を伝えた。
リドムはすぐにフリクトが伝えようとしている事を理解し、爆弾の導火線を勢いよく擦った。
ジジジ、と弾けるような炎の音が微かに聞こえて来た。フリクトは駆けだした。同時に熊が走って来るのが分かる。時間が経てば追いつかれてしまいそうなのも分かった。
少しは自信があった、脚力でさえも勝てない。まともに正面から戦っても勝てないのが、理解出来た。
「……追って来たのはお前だ」
そう、小声で言ってから、リドムが爆弾を投げたのが分かった。自分に投げられる訳でもないのに、また、背筋が凍る感覚がした。
そして、それはすぐに爆発した。
きっと、その粉の1粒でも鼻に付いてしまったら、自分は発狂するだろう。その予想は当たっていた。
フリクトは少しして走るのを止めた。もう、走らなくても大丈夫だと分かった。
熊と戦ってみた事はあるが、一番の弱点である鼻を角で突き刺した時や、頭を後ろ脚で思い切り蹴り飛ばして頭蓋を粉砕した時でも、こんな声は聞いた事が無かった。
ただ、何も考えられなくなる程の猛烈な痛み、苦しみ。熊は自分がどうなっているのかも分からないのだろう。
フリクトは振り向いた。そこでは白い毛皮の鎧を着た巨大な熊が、苦痛の叫びを上げながら、支離滅裂な動きをしていた。
目が、離せなかった。こんなに純粋に苦しんでいる姿を見たのは、フリクトにとっては初めてだった。感情だけなのか、それとも本能だけなのか、今、熊の中では苦しみだけが全てを支配している。五感が鈍い人間では、こんな状態になるのは到底有り得ない気がした。
リドムは、きっとこうなる事を予想していたのだろう。驚いてはいたが、目を奪われるまでではなく、ちゃんと周りの警戒を怠ってはいなかった。そして、熊を殺そうともしていなかった。
……いや、殺せないな、とフリクトは思い直した。筋肉の塊が更に鎧を着て暴れている。
弓では露出している部分を狙う事も出来ないだろうし、当たったとしても、致命傷には到底なり得ない。
それに近づいたら、即座に殴り飛ばされるか叩き潰されるかして死ぬだろう。
……そもそも、この熊はこの冬の間に復活出来るのか?
フリクトは不安に駆られた。本当に、自分以外に魔獣が居た事自体には少し安堵していた面もあったのだが、フリクトが本当に望んでいるのはその魔獣の熊との対話だ。
言葉で対話が出来なくとも、身振り素振りで色々と聞いてみたい。
その上で、自分の行く先を決めるつもりだった。そのままリドムと暮らすか、熊に付いて行くか。
今回はもう、無理なんじゃないか? 暴れ疲れた様子など微塵も見せずに、のたうち回っている熊を見ると、そんな気がした。
それに、こんな凶悪な物を持つリドムにもう一度近付いて来るのかも怪しかった。
「……あ?」
リドムが、変な声を出した。
「ちょっと……あっちでは何が起こったんだ?」
フリクトは、血の臭いに気が付いた。リドムが見ている方向を見ると、木の上に居る筈のライルはその木の根本で倒れていた。フェライが居た場所は、血だらけなままだった。
血溜まりの傍には手斧が1つ、落ちている。
「……有り得ない」
どうやってライルを木の上から落とし、且つ、フェライを仕留めた? フリクトも不思議に思った。
「ライルの所へ行ってくれ。まだ、助かるかもしれない」
リドムの少し震える声を聞いて、フリクトは歩き始めた。声が震えていたのは、寒さではないと言わずもがな分かっていた。




