雇ってください
男はドアに背を付けて、一度深呼吸をした。
待て待て、何故、鹿が居る? そもそも、銀色の毛皮だったぞ。
そこで、男は1つの可能性に思い至る。というよりも、それしかなかった。
あの鹿は、魔獣だ。
魔獣。
それは、奇妙な存在だった。
生まれた所は誰も見た事が無い。体躯も普通の動物とそんなに変わらない。だが、体の色だけは普通の動物とは違う。また、かなり強靭な体と、人間並みの高い知能を併せ持ち、人語も理解する事が出来る。
今でも研究は進められているのだが、上記したような大まかな共通点以外、まだ殆ど何も分かっていない。
何故、魔獣がここに来ているのか。男には皆目分からなかった。
さて、どうしたらいいものか。そう思って、指を顎に持って行って考えようとすると、今度はノックが聞こえた。
コンコン、と至って乱暴ではなく、人が普通にノックをするように、だ。
男はまたもや硬直した。魔獣である事は間違いなかった。
思考があらぬ方向へ走り始める。要するに、男は現実逃避をし始めた。
今日の朝飯は卵料理なら、スクランブルエッグか、ベーコンエッグか、何だろうな。
もう一度ノックがされた。男は現実に戻された。どうやら、外にいるソレは、男を急かしているようだ。
男は少し考えてから、きっと害意は無いだろうと思い、恐る恐る、ドアをもう一度開けた。
やはり、見たものは間違いでは無く、そこに居たのは銀色の鹿だった。立ち上がっている姿はかなり大きく、角も、今まで見た鹿のどれよりも立派だった。
けど、男の関心はすぐに鹿自体から逸れ、鹿が首から提げている木の板に向く。
くい、と鹿が首を動かした。どうやら、その木の板を調べるよう言っているみたいだ。
男はやはり、恐る恐る鹿に近付き、その板に手を付ける。
――馬より役に立ちます――
――美味しい食べ物を鱈腹と、良い寝床で雇ってください――
そんな事が板には書かれていた。
男にとっては、本日3度目の硬直をした。
前代未聞の出来事ではない。魔獣が人間に仕える。そういう話は聞いた事があるが、かなり珍しい出来事であるのは確かだった。
こんな運が舞い込んで来るなら、宝くじでも当たればいいのにと、心底男は思った。
害意が無い事も分かり、かなり驚いたものの、幾らか男は落ち着いた。宝くじが当たる方が良かったにせよ、男にとって幸運が舞い込んで来たのは確かだったし、使う当ての無い金も沢山溜まっている。
どれだけこいつが大食らいであったとしても、何年かは雇ってやれる位の金は十分にある。
男は立ち上がって、鹿をもう一度見てから言った。
「まだ試しだが、雇ってやろう」
そう言うと、手の甲を舐められた。