2,前野史郎の場合
「犯人に告ぐ!ここはもう我々警察が包囲した!無駄な抵抗は止め、おとなしく出てこい!」
スピーカーの声と共に、丸形ライトがうろうろと辺りを彷徨う。俺は右手に金の入った黒いバックを持ち、壁に隠れて息を潜めていた。
「はぁ…はぁ……」
さっき思いっきり走った為か、呼吸が荒い。俺は焦燥に駆られ、悔しさに覆面マスクの下で歯がみする。
くそっ、あと少しなのに……!
あと少しでここから逃げ切れたのに……!
口を歪め、憎々しげに呻く。
ここさえ逃げることができたなら、
ここを乗り越えることができたなら、
焦り、額に汗を浮かべどうしようかとぎょろと目を動かし辺りを見る。そんな俺の顔を、
「――――ッ!!」
夜の暗闇を物ともせず光る警察の黄色いライトがまるで焦点が合ったように、捉えた。
◆
俺の家は貧乏だった。お金が無くて、日々生活に困っていた。
俺には家庭があった。妻もいたし、娘もいた。妻は優しい人だった。影から俺のことを支えてくれ、いつも顔には笑顔があった。娘は食べ盛りだった。幼稚園に通い出したばかりのまだまだ幼い娘。俺が家に帰るといつも、
「おかえりなさい、あなた」と妻が、
「おかえり、おとしゃん!」と娘が笑顔で迎えてくれた。
それだけで、俺は仕事の疲れなんて吹っ飛んだ。こんな日々が続くことを願っていた。いや、続くだろうと思っていた。
ある日俺はいつも通り勤めている会社に向かった。机に仕事鞄を置いたとき、社長の秘書の人が「社長が呼んでますよ」と俺に声を掛けた。それに特に何も考えず、社長の部屋に行き「失礼します」と扉を開ける。「うむ」と俺を迎えた椅子に深々と座る社長の顔は、重苦しかった。俺は一瞬で嫌な気配を悟る。それは間違うことはなかった。
俺はこの後、クビを通達される。
仕方なかったんだ、今の世の中は不況に見舞われていて、社長だって苦渋の選択だったんだ、分かっているし自分に言い聞かせてはいるが、どうしても悔しい気持ちは拭えない。俺はその後、いろいろな職をまわる。でも、どこも雇ってくれるところはなかった。そりゃそうだ、なにせこの世は不況なのだ。そう簡単に職に就けるはずはない。俺はいつも項垂れ、何も収穫が無いままに家に帰るのだ。そんな俺なのに、いつも妻と娘は笑顔で迎えてくれる。日に日にお金が無く、困窮した生活を送っているにも関わらず、温かく迎えてくれる。俺は苦しかった。悔しくて、哀しかった。この二人に苦しい思いはさせたくない。
だから俺は決心した。
盗みを働いてやろうと、決めた。
始めの方は上手くいったんだ。ある会社に忍び込み、予定通りに事は運んだんだ。でも不覚にも俺は、社員が俺の知らない間に警察に連絡を取っていたことに気づけなかった。数分の内に警察がこの会社に到着。俺は無様に金の入った鞄を抱えて逃げるしかなかった。しかしそれでも、追いつかれて包囲されてしまった。
ここさえ逃げ切ることが出来たなら…!
娘は言ってくれる。俺が帰ったら「おとしゃん、おかえり!」と笑顔で言ってくれる!
早く帰りたい……、家に帰りたい……
しかし誰が見たって分かるとおり、俺が逃げ切れるはずなんてどこにもなかった。そんな俺が呆然と立ち尽くす、その背後から、
「やぁ、こんにちは」
「ッ!!」
聞こえるはずのない声が聞こえた。俺は驚愕に目を見開き、後ろを振り返る。
そこには一人、純白の衣を身に纏い、光り輝くティアラを頭に乗せ、微笑を浮かべているやつがいた。体が少し、浮いているようにも見える。でもそれよりも俺は何故こんなところに人がいるのかが不思議でならなかった。だってここは、警察に包囲されていて、人なんて入ってくることはできるはずなどないのだから。そんな沈黙を、なんと目の前の奴はあっさりと破ってきた。
「私は神です」
一言で、破り捨ててきた。俺の頭は真っ白になる。
いきなり何言ってるんだ、こいつは…?
でも、こいつを神と仮定すると、さっきまでの俺の戸惑いにも納得がいく。とりあえず、この場は神と認めることにした。分かった、と俺が頷くと、そいつは笑顔で言う。
「私は神です。私は、あなたの願いを叶えに来ました」
「は…?」
唖然と口をアングリ開く。そいつは言葉を続けた。
「一つだけ、あなたの願いを何でも叶えてあげましょう」
俺は放心して、反芻する。
「何でも、だと…?」
それに答えるようにそいつは笑みで頷く。
「はい。何でも」
じゃあ、ここから逃げることができるのか…?
こんな忌まわしい所から…?
嬉しさ反面、一方で不信感も感じていた。そんな虫のいい話などない。それにこいつが本当に神かどうか何て分かったもんじゃない。願いを叶える力などあるのか?偽りではなく?
「…それは信用してもいいんだろうな?」
俺は見定めるように、そいつを見る目を細める。
「それはあなた次第です。私は本当のことしか言ってませんよ。信じるか、信じないかは自分で考えてください、前野四郎さん」
「!?」
薄く微笑むそいつの言葉に俺は背筋を凍らせる。どうして知ってるんだ…、まだ話してないのに俺の名前を…。俺は迷った。どうしよう、こいつは信じていいのか、否か。頭を回転させ、考えているところでなんともタイミングが悪く、ある声が降り注いだ。
「いたぞッ!犯人はここにいた!」
「ッ!」
警察の奴に、見つかったのだ。ここまでは直線で約100メートル程の距離がある。しかし、追いつかれるのは時間の問題であろう。
…よし。俺は腹を括ることにした。つまり、こいつを信用することにした。
「おい、願い事を頼んでもいいか?」
「!…勿論構いませんよ?」
俺の言葉に多少は驚いた顔をしつつも、そいつは笑みを浮かべる。俺は単刀直入に、自分の願い事をぶちまけた。
「ここから逃がしてくれ!ここさえ逃げ切れたらいいんだ!頼む!」
低姿勢になり、必死に頭を下げる。そいつは面食らった顔をした。分かってる、無様なのは分かってる、でも此処さえ逃げ切れたらそれでいいんだ、構わないんだ…!
「分かりました、いいでしょう」
そいつの声に俺は安堵の笑みを浮かべる。顔を少し上げた。
「じゃあ、頼む」
俺の言葉に、そいつは少し言い淀むように、喋り出す。
「ですが、ただで願いを叶える訳ではありません。この願いの代償にあなたの命を―――」
神の言葉を俺は視線を別の所に移し、遮った。
「いや、いい!早く叶えてくれ!」
それは、俺が警察の奴ら数人が俺の所にあと少しで近づこうとする姿が見えたからだ。俺は急かすように、話す。
「いいから叶えろ!ここさえ逃げ切れればいいんだ!代償つーのは後でいくらでも払ってやる!」
家に帰れば妻も娘も待っている!ここを乗り越えるだけで!代償はもう何でも良い!お金なら多少は払ってやるし、何か手伝えと言われたらそれをする!これから家族皆で笑って過ごせるならそれで―――
俺の言葉を聞き、神は冷笑ともう言える笑みを浮かべる。まるで、人間とは滑稽なものだな、と嘲笑っているようにも見えた。
「ではこれから願いを叶えます」
そいつがそう言った途端、辺り一面膨大な光が散らばる。多量の光が俺と神を包み込んだ。俺は思う。やっとこれで家族みんなで笑って過ごせる日が戻ってくるんだ。これから幸せにみんなで暮らしていけるんだ―――
そして前野四郎の願いは叶えられた。