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墓守のリュアン  作者: 味噌汁の具
ep.1:死憑きの少女
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第5話:屍憑きの少女(5)


 少女が泣き止んだのは、空の橙がすべて藍に呑まれたあとだった。

 リュアンが立ち上がった。裾についた草を払い、少女のほうに手を伸ばした。


「降りましょう。暗くなりますので」


 少女の小さな指がリュアンの手に触れた。


 少女は片方の手で母の革鞄を抱えていた。肩にかけるには大きすぎた。紐がずり落ちて、鞄の底が少女の膝のあたりまで垂れている。歩くたびに体の横で揺れて、不格好だった。匙を握った手と、リュアンの手と、母の鞄。その三つだけが、この子に残されたすべてだった。


 丘を下り、教会へと続く道を歩いてゆく。リュアンが歩幅を合わせた。少女の足は短い。

 教会の灯りが見えた。門の隙間から蝋燭の光がこぼれている。


 神父が門の前に立っていた。


 リュアンと少女の姿を認めて、老いた目がわずかに見開かれた。二人が手を繋いでいること。少女が鞄を抱えていること。そして、丘の上から呻き声が聞こえないこと。


「……終わったのか」

「はい。先刻、お送りしました」


 リュアンは門の外に立ったまま答えた。繋いでいた手を、静かに離す。少女はリュアンの少し後ろに立った。大きすぎる鞄を両腕で抱え直して、神父の視線から体をわずかに背けている。


 リュアンが、短く語った。

 森で見つけた革鞄のこと。

 中にあった手記のこと。

 母と娘が町から町へ移り続けていたこと。


 ——娘の傍に屍人が寄ることを、母は知っていたのだということ。だから一つの場所に留まれなかった。病が進んでも、歩ける限り歩き続けた。歩けなくなって、森の奥で止まった。


 そこまで語って、リュアンは口を閉じた。

 神父はしばらく何も言わなかった。蝋燭の光が揺れている。老いた指の皺が深い影を作っていた。


「……そう、か」


 呟いた。視線は少女に向けられていた。大きな鞄を抱えた、小さな体に。

 神父が息を吸った。吐いた。それから口を開いた。


「……もう一つ、頼みがある」


 リュアンは待った。


「あの子のことだ」


 神父の目が、門柱の陰に立つ少女に向けられた。そこからゆっくりと、逸らされた。見ていられなかったのだ。


「村の者が言うのだ。あの子がいる限り屍人は寄り続ける。畑も、家畜も、子供らも守れんと……わしの言葉では、もう抑えがきかん」


 神父の声は平坦だった。けれどその平坦さは、丘の上で少女の三ヶ月を語ったときとは違っていた。あのときは語り慣れた者の平坦さだった。今のは——自分が口にしている言葉の重さに、声を押し潰されまいとしている者の平坦さだった。



「この村には、置いておけない」


 言い切った。それから目を閉じた。短く。長い時間をかけて絞り出した一言のあとに、自分自身を取り戻すために。


「……どうか、連れていってはくれまいか」


 門柱の陰で、少女の肩が小さく震えた。声は出さなかった。泣いてもいなかった。

 ただ——また、か。そういう震え方だった。どの町でも、どの村でも、やがてこうなる。母と二人で歩いてきた道の上で、何度も何度も繰り返されてきたことなのだろう。


「……承りました」


 リュアンが静かに答えた。

 神父の顔が、歪んだ。安堵ではなかった。安堵であってくれたほうがまだ楽だったろう。そうではなかった。自分が今、この子にしたことを知っている者の顔だった。


 三ヶ月守った。守り切れなかった。その二つの事実が同時に老いた顔に刻まれて、蝋燭の光の中で影になった。


 リュアンが小さく頭を下げ、門を出た。

 石段を降りかけたところで、足を止めた。少女が石段の脇に立っていた。大きな革鞄を抱えたまま。目が赤い。鼻の頭も赤い。けれど、もう泣いてはいなかった。


 リュアンを見上げていた。

 しばらく、そうしていた。夜風が二人のあいだを通り抜けて、纏い香の甘い匂いを少女のほうへ運んだ。

 リュアンが手を差し出した。


「……一緒に来ますか」


 短い言葉だった。ただ、選択肢を一つ置いた。


 少女はその手を——取らなかった。

 視線が落ちた。膝の上の匙を、鞄を抱えたまま握り直した。


 リュアンは手を引いた。何も言わなかった。

 歩き出した。石段を降り、暗い通りへ。


 石段の上で、少女が顔を上げた。

 遠ざかっていく背中。香の匂いが、薄くなっていく。花と樹脂の、穏やかな匂いが。母の傍で嗅いだ死臭とは何もかも違う、匂いが。


 少女が立ち上がった。

 歩き出した。リュアンの後ろを。少し離れて。その曖昧な隙間に、自分の足を置いた。

 リュアンは振り返らなかった。歩く速度を緩めながら。



 ******



 神父は、二つの影が村の通りを抜けていくのを見ていた


 墓守の背中が夜の道に溶けていく。その少し後ろを、小さな影が歩いている。大きすぎる鞄を抱えて、覚束ない足取りで。追いかけるのでもなく、並ぶのでもなく。ただ、ついていく。


 呻き声はもう聞こえない。

 三ヶ月間、この丘を、この村を覆い続けた声が消えている。静かだった。虫の声と、遠い風の音だけが残っている。それはこの村がかつて持っていた夜の音だった。三ヶ月ぶりの、ただの秋の夜。


 ——けれどその静けさは、少女の不在によって買われたものだった。

 老いた手が祈りのために組まれた。節くれだった指が、互いを握りしめた。


「——主よ」


 声は低く、掠れていた。祈りだった。


「あの子に罪はありませぬ。母にも罪はありませぬ。——我らにも、この村の者にも。誰も過たず、誰も損なわず、それでもこの世は斯くあれと、あなたがお定めになった」


 組んだ手が、震えていた。


「ならばせめて——あの子の歩む道の先に、温もりのあらんことを。あの墓守の旅路の果てに、安らぎのあらんことを。生ある者には生の祝福を。死を送る者には——」


 声が途切れた。

 死を送る者に、何を祈ればいいのか。教義には書かれていない。聖典にも記されていない。墓守は聖職者ではない。祈りの対象ではない。教会がそう定めた。——この老人もまた、その教会に仕える身だった。


 けれど。



「……どうか、御手のうちにお守りくださいますよう」



 祈りは、教義を超えた。

 届くはずのない声だった。墓守に祈りを捧げることを、教会は認めないだろう。けれどこの老人は祈った。敷居の内側から。教義の内側から。その枠を踏み越えることなく、それでも——手を組んで、目を閉じて、声に出した。


 二つの影は丘の境界を超え、もう見えなかった。

 村の門を出て、街道に消えていた。秋の夜の、星もない暗い道の上を。

 神父は門を閉じた。


 教会の中に戻り、祭壇の前を通り過ぎ、自室の椅子に腰を下ろした。机の上に聖典が開いたまま置いてある。三ヶ月間、答えを探して何度も繰った頁。


 窓の外から、呻き声はもう聞こえなかった。

 その静けさが、やけに重かった。



 —— fin —— ep.1:死憑きの少女


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