第4話:屍憑きの少女(4)
「……人は死ぬといなくなるのではありません。──忘れられたとき、いなくなってしまうのです」
静かな声だった。子供に教え諭す声ではなかった。ただ、長い時間をかけて自分がたどり着いた場所から、そのまま話しているような声だった。
「死は、眠りです。体が動かなくなって、温もりがなくなって──魂が、体を離れていく。それは怖いことではありません。疲れた人が、夜に目を閉じるのと同じこと。長い旅路の終わりに、ようやく休めるということ」
少女がリュアンの顔を見ていた。
呻き声が聞こえている。途切れそうで、途切れない声が。
「……でも、お母さんは」
少女が呟いた。
「……はい、それでも眠れない方がいるのです」
間があった。香の煙が、二人のあいだをゆっくりと流れていった。
「……疲れていても。もう休んでいいと──体が止まっても。それでも目を閉じられない方がいます」
「なんで、なの……?」
「……手放せないものがあるから、です」
リュアンの声が、静かに揺れた。
ほんのわずかな揺れだった。少女には気づけなかったかもしれない。けれどその揺れは、この人が他人の話をしているのではないことを示していた。
「大切なものを。愛したものを。守りたかったものを。──手放してしまったら、もう二度と触れられないとわかっているから。わかっていても、指が開けないのです」
リュアンは黒い塊を見ていた。三ヶ月間、炭と化しても声を上げ続けている屍人を。
「あの声は──眠りたくても眠れない方の声です」
少女はしばらく動かなかった。呻き声を聞いていた。生まれて初めて聞くかのように。
やがて──少女の唇が開いた。
「じゃあ……」
かすれた声だった。
「お母さんが──眠れないのは」
匙を見た。
布にくるんで鞄の底にしまってあった匙。
──手放せないもの。
「……わたしのせい、なの」
リュアンは答えなかった。
少女はもうわかっていた。母がなぜ動いたのか。なぜ自分に何もしなかったのか。なぜ傍にいたのか。なぜ三ヶ月間、声が止まらないのか。
──この子を一人にできない。
死んでなお。
体が朽ちてなお。
焼かれてなお。
手放すことができない。
「お母さん、おかあさん……」
黒い塊に手を伸ばした。触れなかった。指先がすぐ傍で止まった。
三ヶ月前、引き離されたときの母の腕の温度を覚えている指先。もう温度のない炭のすぐ傍で、震えている。
少女が泣いていた。声を上げて。
三ヶ月間聞き続けた呻き声と重なって、二つの声が丘の上を流れていく。
──リュアンは動かなかった。隣に座ったまま。
やがて──泣き声のあいだから、言葉が漏れた。
「…………もう、大丈夫だから」
震えていた。声も、体も。十にも満たない子供が言う「大丈夫」が、どれほど頼りないか。この子自身がいちばんよく知っていた。
「わたし──大丈夫だから」
母が安心して眠ることができるように。母が手放せずにいるものを──自分の手で、解いてあげるために。
リュアンが静かに口を開いた。
「……あなたのお母さんの名前を、私に教えてくれませんか」
長い沈黙があった。空の藍がさらに深くなっていく。
少女は匙を握ったまま、黙っていた。膝の上の匙を見つめていた。母が布にくるんで鞄の底にしまっていた、不恰好な匙を。
それから──口を開いた。
リュアンは名前を受け取り、立ち上がった。少女のほうに手を差し出した。
「一緒に、見送ってあげましょう」
少女がその手を見た。
三ヶ月前も、大人の手が伸びてきた。あのときは引き剥がすための手だった。母から引き離し、押さえつけ、火を焚べた手。
今、目の前にある手は──違っていた。
少女が──握った。匙を片手に握ったまま、もう片方の手でリュアンの指を握った。
恐る恐る。けれど、離さなかった。
二人で、母の前まで歩いた。
並んで座った。草の上に。焼け焦げた、もう人の形を保っていない身体の前に。
呻き声が、すぐ傍で聞こえていた。細く。弱く。──お母さんの声。
リュアンが鞄から香を取り出した。指先でほぐし、香炉にくべる。煙が立ち上る。重く、沈んだ死者のための香り。
呻き声が──少しだけ、静かになった。少しだけ、穏やかになった。まだ聞こえている。けれど、苦しみの色が薄れていく。
リュアンが息を吸った。
「……あなたは在りました。あなたは確かに、生きていました」
手記を読んだ。
匙を彫る手を知った。
夜中に荷をまとめる背中を知った。
市場の隅で木の皿を並べる姿を知った。
林檎の種を並べる娘に、なんと答えればいいか迷う心を知った。
「朝の光を知っていました。夜の冷たさも知っていました。誰かを想い、誰かに想われ、喜びも、痛みも、迷いも、そのすべてがあなたのものでした」
咳が止まらない夜を。
大丈夫だと嘘をついた夜を。
歩けなくなっても、この子の傍にいたいと願った心を。
「私はそれを覚えています。あなたがここにいたことを、私は忘れません」
少女が隣で、匙を胸に抱いていた。母の声を聞いている。呻き声を。三ヶ月聞き続けた声を。──その声が、祝詞に包まれて、少しずつ静かになっていく。
鞄から火種を取り出した。松脂の黒い小さな塊。
青みがかった白い炎が灯る。
「この手でお送りしましょう──『マーレン』。林檎の花は咲いて、実りへと変わりました」
名前を呼んだ。
少女が教えてくれた名前を。この人の娘が知っていた名前を。
呻き声が──変わった。
「い”……ぁ”あう”」
高くなったのでも、低くなったのでもなかった。震えたのだ。声が。罅割れた喉の奥で、何かが震えた。三ヶ月間途切れなかった声が、名前を聞いた瞬間に──震えた。
少女が息を呑んだ。
わかった。
この子にはわかった。母の声が今、何を言おうとしたのか。声にはならなかった。もう言葉を作れる喉ではなかった。けれど──口の形で。三ヶ月前、引き離されるときにそうしたように。
「い”ぅ”……ぜ」
──名前を。
自分の名前を呼ぼうとした。
「──もう、眠っていいのですよ」
リュアンが火種を、そっと置いた。
炎が広がった。音はなかった。
青白い光が、水が布に染みるように、静かに静かに広がっていく。
三ヶ月前の炎とは何もかもが違っていた。あのときは薪が爆ぜ、肉が焦げ、悲鳴のような声が丘を覆った。男たちが火を継ぎ足し、半日かけて燃やした。少女は押さえつけられ、すべてを見た。
今ここにあるのは、静かな安らぎだった。
黒い炭が、白い灰に変わっていく。崩れるのではなく、ほどけるように。灰は軽く、風が触れるだけで舞い上がった。肉の焼ける匂いはしなかった。松脂と蜜蝋の、甘い煙だけが細く立ち上る。
少女は動かなかった。目を逸らさなかった。母が灰になっていくのを、ただ最後まで見ていた。
丘の斜面を風が渡り、白い灰を攫っていく。
夕暮れの空に向かって。藍と橙のあわいに向かって。
少女が声を上げた。
泣き声だった。叫びではない。三ヶ月間こらえ続けたものが、ようやく外に出ていく音だった。匙を握りしめたまま、母の灰が空に舞い上がっていくのを見ている。
丘の上には泣き声だけが残っていた。
呻き声はもうない。三ヶ月間この丘を覆っていた音が消えて、代わりに少女の声が響いている。
リュアンは静かに隣に座ったまま、少女が泣くに任せていた。




