第3話:屍憑きの少女(3)
はじめのほうは簡素な記録だった。移動の記録。どの町に着いて、どのくらい滞在して、どこへ向かったか。宿の値段。買った食料。道の状態。旅慣れた書き方だった。
──匙を六本。小皿を四枚。市場の隅で広げたら、昼過ぎに全部売れた。明日の宿代にはなる。
──イルゼが横で見ていて、自分も作ると言い出した。小刀を持たせると危ないから、まず削り方だけ教えた。
リュアンの指が、頁の上で止まった。
イルゼ。
読み進めるうちに、文字の調子が変わっていった。
──三日で発つ。この子を連れて。ここも長くはいられない。
──夜半に荷をまとめた。イルゼは眠っている。起こさずに済むならそうしたいが、そうもいかない。
──イルゼが泣いた。せっかく友達ができたのにと。どう説明すればいいのか。いつかわかる日が来るとも言えない。来てほしくない。あなたは何も悪くないのだから。
水に滲んで数行が読めなくなっている。その先に──
──イルゼが匙を作った。何日もかけて削っていたらしい。私にくれると言う。柄が太くて、すくう部分が浅すぎて、匙としては使い物にならない。けれど、こんなにも嬉しい日はなかった。
筆跡が少しだけ乱れている箇所があった。
書いているときの手の震えか。あるいは明かりが揺れていたのか。
──歩けるうちは歩く。この子を連れて。
──市場で林檎を買った。この子がひとつ残らず種を取って、道の端に並べていた。花が咲くかなと言っていた。来週にはもう別の場所にいるのに。こういうとき、なんと答えてあげればいいのだろうか。
頁をめくる手が、少しだけ遅くなった。
──咳が止まらない。薬師に診てもらうべきだが、長居はできない。
──足が重い。明日にはもう少し軽くなる。いつもそうだった。
──イルゼが夜中に目を覚まして、大丈夫と聞いてきた。大丈夫よ、と答えた。
文字が小さくなっていく。筆圧も弱くなっていく。書いている手の力が、頁を追うごとに落ちていくのがわかった。
──もう林檎の季節だ。花は咲いているだろうか。
最後の数頁は、ほとんど読めなかった。文字が崩れている。震える手で、それでも何かを書こうとした跡。水の染みが広がって、ほとんどの文字を消していた。
辛うじて読めたのは──
──この子の寝顔を……
その先は滲みに沈んでいた。読める文字は、わずかだった。
──イルゼ。
──ごめんね。
それだけだった。
リュアンは手記を閉じ、しばらく動かなかった。
木漏れ日が手記の表紙に落ちていた。水を吸って波打った革の上を、光の斑点がゆっくりと移動していく。森の匂い。土の匂い。遠くで鳥が鳴いている。
鞄の中身を丁寧に戻した。薬草の包み。櫛。手記。
それから鞄を肩にかけ、立ち上がった。
来た道を戻りはじめた。足取りは変わらなかった。表情も変わらなかった。
ただ──肩にかけた鞄の紐を、少しだけ丁寧に持っていた。
******
森を出て、畑の縁を辿り、牧草地の脇を抜ける。
そのまま丘の斜面に足をかけた。西の空にまだ橙が残っている。足元の草が枯れた音を立てながら丘を登った。
丘の頂上に小さな人影が座っていた。いつものように。三ヶ月間、そうしてきたように。膝を抱え、背を丸め、黒い塊のすぐ隣に。
呻き声が聞こえていた。細い。弱い。途切れそうで、途切れない。
リュアンは近づいた。足音を殺すでもなく、わざと立てるでもなく。いつもの歩幅で。
それでも少女は振り向かなかった。
リュアンが足を止めた。少女の斜め後ろ。数歩の距離。
「──イルゼ」
少女の肩が動いた。ゆっくりと、顔がこちらに向けられる。
十にも満たない少女の顔。痩せている。頬の肉が落ちて、目が大きく見える。髪は乱れたまま束ねてもいない。けれどその目は──生きている者の目だった。
その目が、リュアンを見ていた。名前を呼んだ見知らぬ女を。
「……誰」
掠れた声だった。使い慣れていない声。三ヶ月間、ほとんど使わなかった喉から出た、錆びたような音。
リュアンは母親の革鞄を肩から下ろした。少女の前に──少し離れて──そっと置いた。
少女の目が鞄に落ちた。それから、少女の顔が変わった。
「……それ、お母さんの……」
リュアンが静かに腰を下ろした。少女の隣に。少女と同じ方向を向いて。草の上に。
「やはり、あなたのお母さんのものだったんですね……森の中で見つけました──中に手記が入っていて、あなたの名前が書いてありましたので」
少女はまだ鞄を見ていた。指先は伸ばしたまま、触れずにいた。
リュアンが鞄を開けた。留め金を外し、中身を一つずつ取り出していく。
油紙に包まれた薬草。使いかけの。
銅貨の入った小さな革袋。
歯の折れた櫛。
そして──小さな匙。
木を削って作った匙だった。柄が太い。すくう部分が浅い。不恰好で、匙としてはお世辞にも使いやすいとは言えない。けれど表面は丁寧に磨かれていた。何度も何度も手で撫でたように。
鞄の底に、大切に布にくるまれてしまってあった。
小さな指が匙に触れた。握った。両手で包み込むように持って、胸の前に引き寄せた。
「お母さんに……あげたの。ずっと……練習して」
匙を握る手が震えていた。
「ご飯を食べるとき──お母さんはこれを使ってくれてた」
涙がこぼれた。声は出さなかった。ただ、溢れた。匙を握りしめたまま、涙が頬を伝い、顎から落ちて、膝の上の手の甲を濡らしていく。
やがて──涙が止まるより先に、言葉が零れはじめた。
「……ずっと、二人で歩いてたの」
匙を握ったまま。膝の上の涙を拭いもせず。
「お母さんが匙とか、お皿とか、作って売るの。……わたしも横で見てた。お母さんの手、すごくきれいに動くの」
少女の虚な目は、思い出の中の匙を彫る母の手を見ている。
「でも──どこにも長くいなかった」
明るさが消えた。
「お友達ができても、すぐ出発する。夜中に急に荷物まとめるときもあって。お母さんの顔がこわくて、何も言わないの。ただ、暗い道を歩いて──」
声が途切れた。握りしめた匙に目を落とした。
一瞬だった。呼吸は変わらなかった。表情も変わらなかった。
けれどその一瞬の中に、リュアンが読み取ったものは──手記の行間にあったものと、同じ形をしていた。
──この子の母親は、知っていたのだ。
少女が何を引き寄せるのか。なぜ同じ場所にいてはいけないのか。それを知った上で、この子の手を引いて、町から町へ歩き続けていた。笑って。匙を彫って。林檎の種の話を聞いて。
──いつかわかる日が来るとも言えない。来てほしくない。あなたは何も悪くないのだから。
母は知っていたのだ。自分たちの傍に、屍人が寄ってくることを。だから動き続けた。一つの場所に留まれば、周りの者に災いが及ぶと。病んだ体で、それでも歩き続けた理由。
「……それで、お母さんが病気になったの」
少女の声が小さくなった。
「咳がずっと止まらなくて。彫れなくなって。歩けなくなって──」
森の中の、あの平地。石を並べた竈。草を敷いた寝床。
「わたしが、ごはん作ってた。でも──だんだん食べなくなって」
握りしめた匙が、少女の手の中で小さく震えていた。
「──ある朝、起きたら。動かなくなってた」
風が凪いだ。丘の上が静まり返った。呻き声だけが、細く、続いている。
少女は匙を握ったまま、黙っていた。リュアンも少女の言葉を待っていた。
やがて──少女の唇が動いた。
「……でも、次の日に」
声が、ほとんど聞こえないほど小さくなった。
「朝、目が覚めたら。お母さんが──動かなくなったはずなのに。わたしのほうを、見てた」
呻き声が風に揺れた。少女の声は震えていなかった。むしろ、何度も何度も自分の中で反芻した記憶を語る、遠い声だった。
「わたしのこと、わかってるのか──わからなかった。目は開いてるのに。こっちを見てるのに」
少女が膝の上の匙に目を落とした。
「怖かった。でも──逃げなかった。お母さんだったから」
それから少女は、声を止めた。呻き声だけが二人のあいだを流れていた。
少女が顔を上げた。リュアンを見た。
「……なんで、なんで、人は死ぬといなくなっちゃうの……お母さんなのに、お母さんじゃないの」
掠れた声だった。
リュアンは答えなかった。少女の目を見ていた。
「動かなくなって。冷たくなって……いなくなったのに、いなくならなかった。なんで──あの声が止まらないの」
三ヶ月間、毎日母の傍に座りながら、ずっと答えのない問いを少女は抱えていた。
風が吹いた。香の匂いが少女のほうへ流れていく。
やがて──リュアンが口を開いた。




