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墓守のリュアン  作者: 味噌汁の具
ep.1:死憑きの少女
4/6

第3話:屍憑きの少女(3)


 はじめのほうは簡素な記録だった。移動の記録。どの町に着いて、どのくらい滞在して、どこへ向かったか。宿の値段。買った食料。道の状態。旅慣れた書き方だった。


 ──匙を六本。小皿を四枚。市場の隅で広げたら、昼過ぎに全部売れた。明日の宿代にはなる。

 ──イルゼが横で見ていて、自分も作ると言い出した。小刀を持たせると危ないから、まず削り方だけ教えた。


 リュアンの指が、頁の上で止まった。

 イルゼ。

 読み進めるうちに、文字の調子が変わっていった。


 ──三日で発つ。この子を連れて。ここも長くはいられない。

 ──夜半に荷をまとめた。イルゼは眠っている。起こさずに済むならそうしたいが、そうもいかない。

 ──イルゼが泣いた。せっかく友達ができたのにと。どう説明すればいいのか。いつかわかる日が来るとも言えない。来てほしくない。あなたは何も悪くないのだから。


 水に滲んで数行が読めなくなっている。その先に──


 ──イルゼが匙を作った。何日もかけて削っていたらしい。私にくれると言う。柄が太くて、すくう部分が浅すぎて、匙としては使い物にならない。けれど、こんなにも嬉しい日はなかった。


 筆跡が少しだけ乱れている箇所があった。

 書いているときの手の震えか。あるいは明かりが揺れていたのか。


 ──歩けるうちは歩く。この子を連れて。

 ──市場で林檎を買った。この子がひとつ残らず種を取って、道の端に並べていた。花が咲くかなと言っていた。来週にはもう別の場所にいるのに。こういうとき、なんと答えてあげればいいのだろうか。


 頁をめくる手が、少しだけ遅くなった。


 ──咳が止まらない。薬師に診てもらうべきだが、長居はできない。

 ──足が重い。明日にはもう少し軽くなる。いつもそうだった。

 ──イルゼが夜中に目を覚まして、大丈夫と聞いてきた。大丈夫よ、と答えた。


 文字が小さくなっていく。筆圧も弱くなっていく。書いている手の力が、頁を追うごとに落ちていくのがわかった。


 ──もう林檎の季節だ。花は咲いているだろうか。


 最後の数頁は、ほとんど読めなかった。文字が崩れている。震える手で、それでも何かを書こうとした跡。水の染みが広がって、ほとんどの文字を消していた。


 辛うじて読めたのは──


 ──この子の寝顔を……


 その先は滲みに沈んでいた。読める文字は、わずかだった。



 ──イルゼ。

 ──ごめんね。



 それだけだった。

 リュアンは手記を閉じ、しばらく動かなかった。


 木漏れ日が手記の表紙に落ちていた。水を吸って波打った革の上を、光の斑点がゆっくりと移動していく。森の匂い。土の匂い。遠くで鳥が鳴いている。


 鞄の中身を丁寧に戻した。薬草の包み。櫛。手記。

 それから鞄を肩にかけ、立ち上がった。


 来た道を戻りはじめた。足取りは変わらなかった。表情も変わらなかった。

 ただ──肩にかけた鞄の紐を、少しだけ丁寧に持っていた。



 ******



 森を出て、畑の縁を辿り、牧草地の脇を抜ける。

 そのまま丘の斜面に足をかけた。西の空にまだ橙が残っている。足元の草が枯れた音を立てながら丘を登った。


 丘の頂上に小さな人影が座っていた。いつものように。三ヶ月間、そうしてきたように。膝を抱え、背を丸め、黒い塊のすぐ隣に。


 呻き声が聞こえていた。細い。弱い。途切れそうで、途切れない。

 リュアンは近づいた。足音を殺すでもなく、わざと立てるでもなく。いつもの歩幅で。


 それでも少女は振り向かなかった。

 リュアンが足を止めた。少女の斜め後ろ。数歩の距離。


「──イルゼ」


 少女の肩が動いた。ゆっくりと、顔がこちらに向けられる。

 十にも満たない少女の顔。痩せている。頬の肉が落ちて、目が大きく見える。髪は乱れたまま束ねてもいない。けれどその目は──生きている者の目だった。


 その目が、リュアンを見ていた。名前を呼んだ見知らぬ女を。


「……誰」


 掠れた声だった。使い慣れていない声。三ヶ月間、ほとんど使わなかった喉から出た、錆びたような音。


 リュアンは母親の革鞄を肩から下ろした。少女の前に──少し離れて──そっと置いた。

 少女の目が鞄に落ちた。それから、少女の顔が変わった。


「……それ、お母さんの……」


 リュアンが静かに腰を下ろした。少女の隣に。少女と同じ方向を向いて。草の上に。


「やはり、あなたのお母さんのものだったんですね……森の中で見つけました──中に手記が入っていて、あなたの名前が書いてありましたので」


 少女はまだ鞄を見ていた。指先は伸ばしたまま、触れずにいた。

 リュアンが鞄を開けた。留め金を外し、中身を一つずつ取り出していく。


 油紙に包まれた薬草。使いかけの。

 銅貨の入った小さな革袋。

 歯の折れた櫛。

 そして──小さな匙。


 木を削って作った匙だった。柄が太い。すくう部分が浅い。不恰好で、匙としてはお世辞にも使いやすいとは言えない。けれど表面は丁寧に磨かれていた。何度も何度も手で撫でたように。


 鞄の底に、大切に布にくるまれてしまってあった。

 小さな指が匙に触れた。握った。両手で包み込むように持って、胸の前に引き寄せた。


「お母さんに……あげたの。ずっと……練習して」


 匙を握る手が震えていた。


「ご飯を食べるとき──お母さんはこれを使ってくれてた」


 涙がこぼれた。声は出さなかった。ただ、溢れた。匙を握りしめたまま、涙が頬を伝い、顎から落ちて、膝の上の手の甲を濡らしていく。

 やがて──涙が止まるより先に、言葉が零れはじめた。


「……ずっと、二人で歩いてたの」


 匙を握ったまま。膝の上の涙を拭いもせず。


「お母さんが匙とか、お皿とか、作って売るの。……わたしも横で見てた。お母さんの手、すごくきれいに動くの」


 少女の虚な目は、思い出の中の匙を彫る母の手を見ている。


「でも──どこにも長くいなかった」


 明るさが消えた。


「お友達ができても、すぐ出発する。夜中に急に荷物まとめるときもあって。お母さんの顔がこわくて、何も言わないの。ただ、暗い道を歩いて──」


 声が途切れた。握りしめた匙に目を落とした。

 一瞬だった。呼吸は変わらなかった。表情も変わらなかった。


 けれどその一瞬の中に、リュアンが読み取ったものは──手記の行間にあったものと、同じ形をしていた。


 ──この子の母親は、知っていたのだ。


 少女が何を引き寄せるのか。なぜ同じ場所にいてはいけないのか。それを知った上で、この子の手を引いて、町から町へ歩き続けていた。笑って。匙を彫って。林檎の種の話を聞いて。


 ──いつかわかる日が来るとも言えない。来てほしくない。あなたは何も悪くないのだから。


 母は知っていたのだ。自分たちの傍に、屍人が寄ってくることを。だから動き続けた。一つの場所に留まれば、周りの者に災いが及ぶと。病んだ体で、それでも歩き続けた理由。


「……それで、お母さんが病気になったの」


 少女の声が小さくなった。


「咳がずっと止まらなくて。彫れなくなって。歩けなくなって──」


 森の中の、あの平地。石を並べた竈。草を敷いた寝床。


「わたしが、ごはん作ってた。でも──だんだん食べなくなって」


 握りしめた匙が、少女の手の中で小さく震えていた。


「──ある朝、起きたら。動かなくなってた」


 風が凪いだ。丘の上が静まり返った。呻き声だけが、細く、続いている。

 少女は匙を握ったまま、黙っていた。リュアンも少女の言葉を待っていた。


 やがて──少女の唇が動いた。


「……でも、次の日に」


 声が、ほとんど聞こえないほど小さくなった。


「朝、目が覚めたら。お母さんが──動かなくなったはずなのに。わたしのほうを、見てた」


 呻き声が風に揺れた。少女の声は震えていなかった。むしろ、何度も何度も自分の中で反芻した記憶を語る、遠い声だった。


「わたしのこと、わかってるのか──わからなかった。目は開いてるのに。こっちを見てるのに」


 少女が膝の上の匙に目を落とした。

「怖かった。でも──逃げなかった。お母さんだったから」


 それから少女は、声を止めた。呻き声だけが二人のあいだを流れていた。

 少女が顔を上げた。リュアンを見た。


「……なんで、なんで、人は死ぬといなくなっちゃうの……お母さんなのに、お母さんじゃないの」


 掠れた声だった。

 リュアンは答えなかった。少女の目を見ていた。


「動かなくなって。冷たくなって……いなくなったのに、いなくならなかった。なんで──あの声が止まらないの」


 三ヶ月間、毎日母の傍に座りながら、ずっと答えのない問いを少女は抱えていた。


 風が吹いた。香の匂いが少女のほうへ流れていく。

 やがて──リュアンが口を開いた。


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