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墓守のリュアン  作者: 味噌汁の具
ep.0:墓守
1/6

第0話 墓守



 死者は、焚かねばならない。それがこの世の理である。



 魂は肉体に宿り、名によって繋ぎ止められる。誰かがその名を呼び、誰かがその人を知る──その認知の糸が、魂と肉体を結ぶ楔となる。


 だが死が生を分かつとき、肉体が朽ちてなお魂が離れられぬことがある。


 未練という名の楔。自分が何者であったか。何を果たすべきであったか。その問いを胸の底に残したまま息絶えた者は、やがて立ち上がる。


 屍人(しびと)


 腐りながら歩く者。朽ちながら彷徨う者。かつて人であったものが、人の形だけを留めて動き続ける。名前はもう覚えていない。それでも、肉体のどこかに刻まれた道筋が──夕暮れのたびに、あるいは夜明けのたびに──その足を動かしている。


 だから、死者は速やかに焚かねばならない。

 魂の宿る肉体を炎で滅ぼし、魂を空へ還す。それが生ある者の、死者への最後の務めである。


 けれど、すべての死者が焚かれるわけではない。


 野に倒れた旅人。見つからぬまま朽ちた者。弔う者のいない死。火葬されぬまま残された肉体に未練が絡みつけば、魂は離れることを忘れる。


 そうして立ち上がったものを、もう人の火では送れない。


 だから、その務めを担う者たちがいる。死の匂いを纏い、町から町へと渡り歩く者。



 その者たちは『墓守(はかもり)』と呼ばれている。




 ******


 夕暮れの街道を、一人の女が歩いていた。


 黒い外套の裾が乾いた土を掃く。旅慣れた足取りだった。背には使い込まれた革の鞄を負い、腰には小さな香炉がひとつぶら下がっている。


 北の麦畑は、町の外れにあった。


 その先に、農家が一軒ぽつりと建っている。壁の白漆喰が夕陽に染まりかけていた。畑と家のあいだの小道に、柵がある。低い木の柵で、人の腰ほどの高さしかない。


 女は畑の端に立ち、西の空を見た。

 日が落ちかけていた。


 山の稜線が黒く沈み始めている。空はまだ茜と紫のあわいにあるが、地上のものはもう色を失っていた。麦の穂も、遠くの木立も、足元の土くれも、すべてが等しく黒い影になっていく。


 昼と夜の境。生と死の境にも似た時間。輪郭だけがくっきりと残り、中身は闇に溶ける。人の顔が見分けられなくなるこの時間を、古い言葉では「誰そ彼」と呼んだ。あれは誰か、と問わねばならない時間。


 香炉の蓋を開けた。

 火をつけると、甘さの中に腐臭を溶かしたような、生者の鼻を背けさせる不快な煙。だが女は顔色ひとつ変えず、香炉を地面に置いた。


 空の茜が痩せていく。紫が濃くなり、やがて藍に呑まれる。山の輪郭はもう、夜空を切り取る黒い稜線でしかない。



 麦畑の穂先が、風もないのにざわめいた。

 空気が重くなる。温度が一段、下がったように感じる。香の煙だけが、地を這うようにゆっくりと流れていた。



 麦畑の奥に、影が見えた。

 黄昏の中では、それが何であるか判然としない。黒い輪郭だけがある。人のかたちをした影が、畑の中に立っている。


 影が動いた。

 こちらへ向かっているのではなかった。影は畑の端に沿うように、ゆっくりと歩いていた。足を引きずる、不揃いな歩み。


 ──家のほうへ。

 屍人だった。


 毎晩こうして歩いていたのだろう。畑の端を。家へ続く小道を。低い木の柵の向こうに灯る明かりを目指して。

 知性はもうない。名前も、顔も、声も覚えていないだろう。それでも、肉体のどこかに刻まれた道筋が、足を動かしている。崩れかけた身体を引きずってでも、彷徨っている。


 女は鞄から香袋を取り出し、指先でほぐして香炉の火にくべた。煙が変わった。甘腐い匂いが薄れ、沈んだ、重い香りが黄昏の空気に溶けていく。


 影の足が鈍った。

 女は静かに近づいた。


 黄昏の残照がわずかに届いている。影の輪郭が、少しずつ見えてくる。土と泥にまみれた衣服。崖に潰されたのだろう、左肩から先が不自然な角度に折れ曲がっている。顔は──もう人のかたちを保ってはいなかった。


 女は屍人の前に膝をついた。麦畑の土は冷たく湿っている。膝が沈む。泥が外套の裾を汚した。


 鞄から火種を取り出す。松脂を基剤とした黒い塊。指で割ると、内側は赤みを帯びた琥珀色をしている。蜜蝋の匂いがかすかにした。



 空を見上げた。最後の茜が、山の向こうに沈もうとしていた。


「……あなたは在りました。あなたは確かに、生きていました」


 声は、驚くほど穏やかだった。冷たくもなく、熱くもない。ただそこにある声だった。

 香の煙が、黄昏の薄闇の中で二人を包んでいる。屍人は動きを止めていた。家のほうへ向いたまま。


「朝の光を知っていました。夜の冷たさも知っていました。誰かを想い、誰かに想われ、喜びも、痛みも、迷いも、そのすべてがあなたのものでした」


 墓守の女の声だけが、暮れた畑に響いていた。

 風も止み、虫の声もない。世界がこの一角だけ、息を潜めている。


「私はそれを覚えています。あなたがここにいたことを、私は忘れません」


 火種を手に取った。香炉の火を移す。黒い塊の表面に、小さな炎が灯った。松脂が爆ぜる微かな音。炎は橙ではなく、青みがかった白に近い色をしていた。術的な火。魂の定着ごと肉体を焚く力を持つ火。


 黄昏は終わり、あたりはもう夜の色に沈んでいる。その暗がりの中で、火種の白い光だけが屍人の輪郭を照らし出した。


「この手でお送りしましょう、マティス・ハルド」


 名前を呼んだ瞬間、屍人の身体がわずかに震えた。


 ほんの一瞬。虚ろだった目に、何かが灯ったように見えた。光ではない。記憶でもないだろう。ただ、名前が届いた──それだけのことが、崩れかけた身体の奥で、何かに触れた。



「──もう、眠っていいのですよ」



 火種を、そっと屍人の足元に置いた。


 炎は静かに広がった。普通の火のように暴れることなく、水が布に染みるように、ゆっくりと屍人の身体を包んでいく。


 肉が焼ける匂いはしなかった。松脂と蜜蝋の、どこか甘い煙が立ち上る。

 屍人は燃えながら、立っていた。暴れなかった。苦しむ様子もなかった。家のほうを向いたまま、静かに燃えていた。


 やがて膝が折れた。崩れるように地に伏し、炎の中に沈んでいく。

 女は立ち上がらなかった。膝をついたまま、炎が収まるのを見届けた。火は、焚くべきものを焚き尽くせば自ずと消える。


 ただそこに残るのは白い灰だけだった。


 風が戻ってきた。夜風が灰を攫い、麦畑の上をゆっくりと運んでいく。家のほうへ。低い柵を越え、白漆喰の壁に沿い、闇の中へ。


 女は灰の行方を見送っていた。

 そのとき、背後で足音がした。


 柵のそばに、女が立っていた。手にランタンを持っている。その明かりが小さく揺れていた。持つ手が震えているのだった。

 農家の女は畑の中に残るかすかな灰の跡を、ランタンの光で辿っている。煙の残り香──松脂と蜜蝋の甘い匂いが、まだそこに漂っていた。


 しばらく、二人のあいだに言葉はなかった。


「……知って、いました」

 女の声はかすれていた。


「毎晩。畑の端に立っているのは、見えていました」

 ランタンの火がちりちりと音を立てた。


「でも、見に行けなかった。見に行ったら──あの人が、もう、あの人じゃなくなっているのを、見てしまうから」


 声が途切れた。泣いているのだと気づくまでに、少しかかった。声を出さずに泣く人の顔は、暗がりの中では、ただ歪んでいるようにしか見えない。


「見なければ、まだ……生きているかもしれないって。ずっと」


 墓守の女は答えなかった。慰めの言葉は継がない。あの人はあなたを覚えていた、とも言わない。綺麗だったとも、安らかだったとも。


 ただ、黙って立っていた。


「……帰ってこようとしてたんですね。主人は」


 墓守の女は少しだけ間を置いて、口を開いた。


「──はい……屍人になるのは、どうしても手放せないものがあった方です。帰りたかったのだと思います。あなたのところへ」


 長い沈黙があった。夜風が麦の穂先を揺らし、灰の最後のひとひらをどこかへ運んでいった。家のほうへ。


 女がランタンを下ろし、深く頭を下げた。


「ありがとう、ございました」


 墓守の女は一瞬だけ動きを止め、それから小さく頭を下げ返した。


「あなたのお名前は」


 女が顔を上げた。目元が濡れていたが、声はもう震えていなかった。礼を言うべき相手の名前を知りたい。ただそれだけの、まっすぐな問いだった。


 墓守の女は鞄の紐を肩に直しながら、答えた。




「……墓守のリュアン──と申します」




 リュアン──それが彼女の名だった。本当の名ではない。


 人に深く知られれば、名前は魂を縛る錨になる。だから墓守は通名だけを持ち、町から町へ渡り歩く。誰とも長くは関わらない。関わってはならない。


 次の町へ。その次の町へ。同じ名を抱え、本当の名を明かさずに。



 それが墓守の旅だった。

 長く、終わりの見えない旅。そして、彼女自身が犯した罪への、終わりの見えない贖い。



 ──ただ、このときのリュアンはまだ知らなかった。いつか自分の名前を呼んでくれる声に出会うことを。そしてその声を、手放さねばならないことを。それがどれほど穏やかで、どれほど残酷であるかを。





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