第0話 墓守
死者は、焚かねばならない。それがこの世の理である。
魂は肉体に宿り、名によって繋ぎ止められる。誰かがその名を呼び、誰かがその人を知る──その認知の糸が、魂と肉体を結ぶ楔となる。
だが死が生を分かつとき、肉体が朽ちてなお魂が離れられぬことがある。
未練という名の楔。自分が何者であったか。何を果たすべきであったか。その問いを胸の底に残したまま息絶えた者は、やがて立ち上がる。
屍人。
腐りながら歩く者。朽ちながら彷徨う者。かつて人であったものが、人の形だけを留めて動き続ける。名前はもう覚えていない。それでも、肉体のどこかに刻まれた道筋が──夕暮れのたびに、あるいは夜明けのたびに──その足を動かしている。
だから、死者は速やかに焚かねばならない。
魂の宿る肉体を炎で滅ぼし、魂を空へ還す。それが生ある者の、死者への最後の務めである。
けれど、すべての死者が焚かれるわけではない。
野に倒れた旅人。見つからぬまま朽ちた者。弔う者のいない死。火葬されぬまま残された肉体に未練が絡みつけば、魂は離れることを忘れる。
そうして立ち上がったものを、もう人の火では送れない。
だから、その務めを担う者たちがいる。死の匂いを纏い、町から町へと渡り歩く者。
その者たちは『墓守』と呼ばれている。
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夕暮れの街道を、一人の女が歩いていた。
黒い外套の裾が乾いた土を掃く。旅慣れた足取りだった。背には使い込まれた革の鞄を負い、腰には小さな香炉がひとつぶら下がっている。
北の麦畑は、町の外れにあった。
その先に、農家が一軒ぽつりと建っている。壁の白漆喰が夕陽に染まりかけていた。畑と家のあいだの小道に、柵がある。低い木の柵で、人の腰ほどの高さしかない。
女は畑の端に立ち、西の空を見た。
日が落ちかけていた。
山の稜線が黒く沈み始めている。空はまだ茜と紫のあわいにあるが、地上のものはもう色を失っていた。麦の穂も、遠くの木立も、足元の土くれも、すべてが等しく黒い影になっていく。
昼と夜の境。生と死の境にも似た時間。輪郭だけがくっきりと残り、中身は闇に溶ける。人の顔が見分けられなくなるこの時間を、古い言葉では「誰そ彼」と呼んだ。あれは誰か、と問わねばならない時間。
香炉の蓋を開けた。
火をつけると、甘さの中に腐臭を溶かしたような、生者の鼻を背けさせる不快な煙。だが女は顔色ひとつ変えず、香炉を地面に置いた。
空の茜が痩せていく。紫が濃くなり、やがて藍に呑まれる。山の輪郭はもう、夜空を切り取る黒い稜線でしかない。
麦畑の穂先が、風もないのにざわめいた。
空気が重くなる。温度が一段、下がったように感じる。香の煙だけが、地を這うようにゆっくりと流れていた。
麦畑の奥に、影が見えた。
黄昏の中では、それが何であるか判然としない。黒い輪郭だけがある。人のかたちをした影が、畑の中に立っている。
影が動いた。
こちらへ向かっているのではなかった。影は畑の端に沿うように、ゆっくりと歩いていた。足を引きずる、不揃いな歩み。
──家のほうへ。
屍人だった。
毎晩こうして歩いていたのだろう。畑の端を。家へ続く小道を。低い木の柵の向こうに灯る明かりを目指して。
知性はもうない。名前も、顔も、声も覚えていないだろう。それでも、肉体のどこかに刻まれた道筋が、足を動かしている。崩れかけた身体を引きずってでも、彷徨っている。
女は鞄から香袋を取り出し、指先でほぐして香炉の火にくべた。煙が変わった。甘腐い匂いが薄れ、沈んだ、重い香りが黄昏の空気に溶けていく。
影の足が鈍った。
女は静かに近づいた。
黄昏の残照がわずかに届いている。影の輪郭が、少しずつ見えてくる。土と泥にまみれた衣服。崖に潰されたのだろう、左肩から先が不自然な角度に折れ曲がっている。顔は──もう人のかたちを保ってはいなかった。
女は屍人の前に膝をついた。麦畑の土は冷たく湿っている。膝が沈む。泥が外套の裾を汚した。
鞄から火種を取り出す。松脂を基剤とした黒い塊。指で割ると、内側は赤みを帯びた琥珀色をしている。蜜蝋の匂いがかすかにした。
空を見上げた。最後の茜が、山の向こうに沈もうとしていた。
「……あなたは在りました。あなたは確かに、生きていました」
声は、驚くほど穏やかだった。冷たくもなく、熱くもない。ただそこにある声だった。
香の煙が、黄昏の薄闇の中で二人を包んでいる。屍人は動きを止めていた。家のほうへ向いたまま。
「朝の光を知っていました。夜の冷たさも知っていました。誰かを想い、誰かに想われ、喜びも、痛みも、迷いも、そのすべてがあなたのものでした」
墓守の女の声だけが、暮れた畑に響いていた。
風も止み、虫の声もない。世界がこの一角だけ、息を潜めている。
「私はそれを覚えています。あなたがここにいたことを、私は忘れません」
火種を手に取った。香炉の火を移す。黒い塊の表面に、小さな炎が灯った。松脂が爆ぜる微かな音。炎は橙ではなく、青みがかった白に近い色をしていた。術的な火。魂の定着ごと肉体を焚く力を持つ火。
黄昏は終わり、あたりはもう夜の色に沈んでいる。その暗がりの中で、火種の白い光だけが屍人の輪郭を照らし出した。
「この手でお送りしましょう、マティス・ハルド」
名前を呼んだ瞬間、屍人の身体がわずかに震えた。
ほんの一瞬。虚ろだった目に、何かが灯ったように見えた。光ではない。記憶でもないだろう。ただ、名前が届いた──それだけのことが、崩れかけた身体の奥で、何かに触れた。
「──もう、眠っていいのですよ」
火種を、そっと屍人の足元に置いた。
炎は静かに広がった。普通の火のように暴れることなく、水が布に染みるように、ゆっくりと屍人の身体を包んでいく。
肉が焼ける匂いはしなかった。松脂と蜜蝋の、どこか甘い煙が立ち上る。
屍人は燃えながら、立っていた。暴れなかった。苦しむ様子もなかった。家のほうを向いたまま、静かに燃えていた。
やがて膝が折れた。崩れるように地に伏し、炎の中に沈んでいく。
女は立ち上がらなかった。膝をついたまま、炎が収まるのを見届けた。火は、焚くべきものを焚き尽くせば自ずと消える。
ただそこに残るのは白い灰だけだった。
風が戻ってきた。夜風が灰を攫い、麦畑の上をゆっくりと運んでいく。家のほうへ。低い柵を越え、白漆喰の壁に沿い、闇の中へ。
女は灰の行方を見送っていた。
そのとき、背後で足音がした。
柵のそばに、女が立っていた。手にランタンを持っている。その明かりが小さく揺れていた。持つ手が震えているのだった。
農家の女は畑の中に残るかすかな灰の跡を、ランタンの光で辿っている。煙の残り香──松脂と蜜蝋の甘い匂いが、まだそこに漂っていた。
しばらく、二人のあいだに言葉はなかった。
「……知って、いました」
女の声はかすれていた。
「毎晩。畑の端に立っているのは、見えていました」
ランタンの火がちりちりと音を立てた。
「でも、見に行けなかった。見に行ったら──あの人が、もう、あの人じゃなくなっているのを、見てしまうから」
声が途切れた。泣いているのだと気づくまでに、少しかかった。声を出さずに泣く人の顔は、暗がりの中では、ただ歪んでいるようにしか見えない。
「見なければ、まだ……生きているかもしれないって。ずっと」
墓守の女は答えなかった。慰めの言葉は継がない。あの人はあなたを覚えていた、とも言わない。綺麗だったとも、安らかだったとも。
ただ、黙って立っていた。
「……帰ってこようとしてたんですね。主人は」
墓守の女は少しだけ間を置いて、口を開いた。
「──はい……屍人になるのは、どうしても手放せないものがあった方です。帰りたかったのだと思います。あなたのところへ」
長い沈黙があった。夜風が麦の穂先を揺らし、灰の最後のひとひらをどこかへ運んでいった。家のほうへ。
女がランタンを下ろし、深く頭を下げた。
「ありがとう、ございました」
墓守の女は一瞬だけ動きを止め、それから小さく頭を下げ返した。
「あなたのお名前は」
女が顔を上げた。目元が濡れていたが、声はもう震えていなかった。礼を言うべき相手の名前を知りたい。ただそれだけの、まっすぐな問いだった。
墓守の女は鞄の紐を肩に直しながら、答えた。
「……墓守のリュアン──と申します」
リュアン──それが彼女の名だった。本当の名ではない。
人に深く知られれば、名前は魂を縛る錨になる。だから墓守は通名だけを持ち、町から町へ渡り歩く。誰とも長くは関わらない。関わってはならない。
次の町へ。その次の町へ。同じ名を抱え、本当の名を明かさずに。
それが墓守の旅だった。
長く、終わりの見えない旅。そして、彼女自身が犯した罪への、終わりの見えない贖い。
──ただ、このときのリュアンはまだ知らなかった。いつか自分の名前を呼んでくれる声に出会うことを。そしてその声を、手放さねばならないことを。それがどれほど穏やかで、どれほど残酷であるかを。




