『普通の恋人です』
この作品は、
特別な事件も、大きな悲劇も起こりません。
あるのは、
ごく普通の恋人同士の、
少しだけ距離が近い日常です。
どうか、安心してお読みください。
朝のホームは、人が多い割に静かだった。
電車が来るまでの数分、誰もがスマホを見て、誰とも目を合わせない。
「おはよう」
背中から声がして、振り向く前に腕を掴まれた。
「おはよ。今日ちょっと遅かったね」
彼女は、俺の制服の袖を指先でつまんでいた。
引き寄せるほど強くはない。ただ、離さない程度。
「一本前、乗り逃した」
「ふうん」
それだけで納得したみたいに、彼女は頷く。
「じゃあ、いつもより三分遅れだ」
「……よく覚えてるな」
「恋人だもん」
軽い口調だった。
いつもと同じ、明るくて、少し距離の近い笑顔。
彼女は人懐っこい。
付き合う前からそうだったし、付き合ってからはもっとそうなった。
歩くときは必ず腕に触れてくる。
教室では、隣の席に座る理由を作る。
昼休みは、何も言わずに俺の弁当を一口食べる。
全部、恋人なら普通のことだ。
「今日、シャツのボタンずれてるよ」
彼女が言って、俺の胸元に手を伸ばす。
指先が喉元に触れて、一瞬ひやりとした。
「ほら」
ボタンを留め直しながら、顔が近い。
「昨日、ちゃんと見た?」
「……見たけど」
「嘘」
即答だった。
「昨日は見てない」
「なんで分かるんだよ」
「だって昨日は、右手で留めてた」
彼女は楽しそうに言う。
「今日は左。癖、出るんだよ」
俺は何も言えなかった。
そんな細かいこと、覚えていない。
「別に責めてないよ」
彼女は俺の胸に額を軽く当てた。
「忘れるのは悪いことじゃない」
トン、と軽くぶつかって、離れる。
「私が覚えてるから」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
教室に入ると、彼女は当然のように俺の隣に座る。
席替えのときも、何故か毎回そうなる。
「ねえ」
ノートを広げながら、彼女が囁く。
「昨日、放課後どこ寄った?」
「コンビニ」
「一軒?」
「……多分」
彼女はペンを止めて、俺を見る。
「二軒だよ」
「そうだっけ」
「うん。最初は角の方。そのあと駅前」
淡々としていた。
まるで、日記を読み上げるみたいに。
「レシート、左ポケットに入れてた」
「見たのか?」
「見てないよ」
彼女は笑う。
「分かるだけ」
昼休み、彼女は俺の机に腰掛けて、唐揚げを一つ取った。
「今日の味付け、ちょっと濃い」
「そう?」
「昨日は薄かった」
「昨日?」
「昨日のは一口しか食べてないけど」
言われてみれば、そうだったかもしれない。
「……よく覚えてるな」
「うん」
彼女は箸を置いて、俺の顔を覗き込む。
「覚えてるの、好き」
その言葉が、妙に重かった。
放課後、俺たちは並んで帰った。
彼女は腕を組んでくる。指が俺の手首をなぞる。
「今日、七分遅れたでしょ」
「朝の話?」
「ううん。ここに来るのが」
「そんなもんだろ」
「七分は、七分だよ」
彼女は立ち止まる。
俺の前に回り込んで、両手で俺のシャツを掴んだ。
近い。
息がかかる距離。
「ねえ」
声は優しい。
「何かあった?」
「別に」
「本当に?」
俺は頷いた。
彼女は少し考える素振りをしてから、ゆっくり笑った。
「そっか」
シャツを離し、代わりに俺の手を握る。
「ならいいや」
そのまま、指を絡めてきた。
「でもね」
歩き出しながら、彼女は続ける。
「何かあったら、ちゃんと言って」
「言うよ」
「言わなくてもいいけど」
「どっちだよ」
「どっちでも」
彼女は楽しそうに言った。
「私、気づくから」
家の前で別れるとき、彼女はいつも名残惜しそうにする。
今日は、いつもより長かった。
「明日も同じ時間ね」
「ああ」
「遅れたら、分かるから」
「……分かった」
数歩離れたところで、彼女は振り返った。
夕方の住宅街。
オレンジ色の光の中で、彼女だけがはっきり見える。
「愛してる」
軽い声だった。
いつもと同じ。
でも、俺が返事をするまで、
彼女は瞬き一つしなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
普通の恋人とは、
どこまでを「普通」と呼ぶのか。
もし、どこかで違和感を覚えたとしたら、
それはきっと、
あなたがちゃんと誰かを好きになったことがあるからだと思います。




