その館の女主人はどちら様で?〜毎年求婚してきた方は今年は私を選ばない
「はぁ〜、」
シアナ・リーニエは頰杖をつき、大きな溜息を零す。
その日は休日だったので、シアナは勤め先のカレリア学園に出かける必要はなかった。
だから、その日が彼女の三十歳の誕生日だという苛立たしい気持をそらしてくれるものは、何もなかった。
コツンと、テーブル上のティーカップが音を立てた。
叔母のルツは姪の誕生日のことをすっかり忘れてしまっていた。
ところが叔母はその日の朝の食卓で、 シアナのしっとりとした濡れ羽色の毛に白いものが少し混じっていると、それとなく口にしたのだ。
シアナの叔母はいつもそうした調子の女だった。
言われるまでもなくシアナも、自分の髪に白いものがあることは知っていた。
初めてそのことに気づいたとき、彼女は、そんなことは問題じゃないと、自分に言って間かせたのだ。
『ザヴァラ高原でルカ・フェルトンが戦死した』―その短く恐ろしい知らせが電報用紙に書き込まれて届けられたのはもうずいぶん前のことだったが、その日以来シアナには、髪の毛のような些細なことはもうどうでもよいことだった。
(自慢の黒髪なんか全部雪のように白くなってしまってもかまわない――ちょうど私の人生のように。私の人生は灰色で、艶やかに輝くものなんかひとかけらもないのだ。でも、だからといって、回りの人まで私の誕生日を忘れてしまうなんて…。)
カルロでさえ彼女の誕生日を忘れてしまっていた。
彼が誕生日にバラの花を贈ってこなかったのはこの十年間でこれが初めてのことだった。
しかし彼は忘れたのではなかったかもしれない――いつもとても気転の利く男だったから。
シアナは三十歳になる。
たとえそれがバラの花という贈り物であろうと、はっきりそれを言われるのは女性としてはあまり嬉しいことではないだろう――そうカルロは考えたのかもしれない。
シアナはティーカップをゆっくりと持ち上げ、ひと口ふくみ舌を潤す。
柑橘の香るアールグレイは気分を変えるには丁度良い。
もうこんなことを考えるのはやめにしようと、シアナは思った。
カレリア学園は有名だが、そこの言語学の教師が三十になろうと五十になろうとだれも気にする人はいない――要は本人が有能な教師であればいいのだ…。
しかし、そのようにいろいろ考えてはみたものの、三十歳になったということを忘れる助けにはならなかった。
呼吸をするたびに、その事実がびょこんと頭を持ち上げるのだった。
現実には三十という年齢が二十九歳より年上だという響きはそれほどない。
三十歳になったからといって、これから先の人生が短くなったわけではない。
まだまだ生きつづけなければならない人生は長いのだ。
現代の言葉であろうと古代の言語であろうと、とにかく何を教えても、結局はボーイフレンドに話しかけボーイフレンドのことばかり話している女子学生に講議して、これからも長い人生を生きていかなくてはならないのだ。
とにかく私はそれほど不適当な教師ではない――シアナは思っていた。しかし、と彼女は憂鬱な気持で考えていた――三十になるということは、いろいろな意味があるのだ。
この数週間、シアナは三十歳になるということを非常に意識していた。
誕生日がやってきて、毎年のように今年もカルロが求婚してくれたら、結局はそれを受けたほうが賢明なのではないかと考えつづけていたのだ。
毎年誕生日になると、カルロは彼女に結婚してくれと申し込むのだった。
それが伝統になっていた。
『今年もまた、ルカ・フェルトンの想い出に操を立てて生きてゆくつもりです』とカルロを説得することは、とてもできないことだとシアナは思うようになっていた。
とにかくよく世間でも言うように、カルロの忠実な妻になろう。
二人に残された人生を最も価値あるものにするために、少なくとも忠実になることはできるだろう。
学生時代から今日まで、私たち二人はずっと親友だったのだから。
「でも―、」
シアナは悲しげに顔を歪め、手元のカップの赤茶に揺らめく水面を見つめた。
とはいえ、フランスのどこかの町に葬ってしまった愛を――かつてルカに捧げた愛をカルロに与えることはできないのだ。
シアナは少ししてハッと顔を上げた。
そうだ!、シアナは思いついた。
カルロに慇懃に話してみよう――私があなたにあげることができるものであなたが満足できるなら、結婚しましょう、と。
こうした決心を伝えることは、カルロに対して自分の誠意を示すことになるのだし、カルロもそれをよろこんでくれるだろう。
シアナは自分がカルロの将来の幸福に目を向けていることに、自分でも気づき始めていた。
たとえ自己満足に終わろうと、カルロを幸せにできれば、どんなにすばらしいだろう。
一度愛を葬った私が、再び人を愛することができるはずはない。 しかし、次善の人という考え方もある。
その日の夕方遅くなってから、カルロ・ガーランドがシアナの家に立ち寄った。
バラの花は持っていなかった。
彼が街道を通ってやってくる姿をシアナは窓から眺めていた。
彼のすぐ後ろを犬のルードヴィヒ四世がゆっくり追いかけていた。
彼女の家がカルロの夕方の散歩の最後の締めくくりらしかった。
シアナは小さく溜め息を洩らした――その息の中で、彼女はルカに許しを乞うように祈っていた。それからシアナは、自分の運命とカルロを迎えるために玄関に出ていった。
一時間後、シアナの心は傷ついていた。
彼女ははっきりそれを感じていた。
カルロは結婚を申し入れるようなそぶりを少しも見せなかったのだ。
彼は椅子にゆったり腰を落ち着けて、あれこれおもしろい話を披露していた。
普段の日であればおもしろい話だったかもしれない。
だがその日のシアナにとってはそうではなかった。
子犬のルードヴィヒ四世は陽気な顔にこっそり甘えるような表情を浮かべて、シアナの靴を枕にして床の上に寝そべっていた。
彼女はこの犬が好きだった。
しかし時間がたつにつれて彼女は段々腹が立ってきて、犬が寄りかかっていた足を引っこめてしまった。
おかげで犬は別の枕をさがして、辺りを見回していた。
カルロが突然口をつぐんだ。
シアナは少し気を取り直した。
いよいよ、かもしれない。
いつも最初はこうなのだ――前触れの合図だ。
カルロは空暖をして、組んでいた足を元に戻し、またその足を組んだ。そこまでは例年どおりだった。
しかし今日のカルロはとても苛々していた。
例年彼が結婚を申し込むときは、こうではなかった。
こんなに苛々しているのは、初めてのことだった。
あまりにも事が長びき過ぎた、いよいよ今日が最後の決断の時だと、彼も考えているのではないだろうか――シアナは心の中で待ち受けていた。
「実は頼みたいことがあって、今日は来たんだ、シアナ」
突然カルロが話し始めた。
「大変な・・・・・・頼みがあって。」
これは今までにない新しい手だった。シアナは耳をそばだてた。
もう犬が寄りかかっている足を引っこめることはしなかった。
だって…、かわいい犬だもの・・・・・・。
「すぐにでもお役に立ちたいと思いますわ」と、彼女は丁寧な口調で言った。
「でも、私にできることだったらですけれど」
「いや、十分君にできることなんだ」
カルロは言った。
「実際君にぴったりのことなんだ。君の趣味に完全に合うことなんだ」
シアナは不思議に思い首をひねる。
ネクタイでも選んでくれと頼むつもりなんだろうか??
どうして結婚を申し込まないのだろう。
シアナは完全に足を引っこめはしなかったけれど、ぐっと強く足をずらした。
犬は眠ったまま文句を言うようにうなり声を出した。
「僕は・・・その家を買ったんだ。」
カルロどうにも言いづらそうな様子だった。
どうしてかシアナにはわからないが、彼は困り切っていた。
「それで僕は・・・・・・つまり・・・・・・やって欲しいんだけれど どうだろう家具なんかのことを助けてもらえないだろうか?」
まぁ!? やっぱりこれは結婚の申し込みだわ――夕方の薄明りの中でスーデンはこっそり顔を綻ばせた。
今年は家を餌にして私を釣ろうというのだわ。
このカルロが家を買ったなんて、かわいい人ね!
これではまるで家のために彼と結婚するみたいじゃない?
ひとりで一生懸命考えたのだわ!
でもそんなことは皆無駄なことではなかったのかしら――だって私はもっといい理由をつけて、もうとっくに結婚する決心をしているんですものね。
まったく、おかしいったらありゃしない。
「あら、どうして?」
ゆっくりと彼女は言った。
「私家具の飾りつけなんて、あまり知らないんですもの、カルロ」
「いや、君は何でもよく知っているよ。」
カルロは懸命だった。
「僕がやったらひどいことになると思うんだ。自分でもよくわかっているんだよ。僕がやると、ヴィクトリア王朝風、ジョージ王朝風それから現代風と、まあひどい寄せ集めになってしまって、結果は悪夢の如しというところだよ。そこへくると君は独創的だからね」
確かにシアナにはできるだろう。しかし彼女はそうそう簡単には言いなりになろうとはしなかった。
正確に言えば、「彼の」ではなく「家の」言いなり放題にはなりたくなかったのだ。
彼の新しい手が失敗だったと、はっきり認めさせてやらなくては・・・・・
シアナは少々、否、かなり頑固な性格をしているのだ。
「でもカルロ、私の趣味がその家の主婦に合わないかもしれないわ。」
「いや、合うと思う………………きっと合うと思うよ。」
今まで以上に熱心に、カルロは続けた。
「君が選んだものだったら、―マリアは気に入ると思うんだ」
………ん?まっジョアニータですって!!
だ、誰よ、その女はっ!?
シアナは目を見開き目の前の男を見つめ、さっと足を引っこめた。
ゴフッと足元から音がした、犬のルードヴィヒ四世が目を覚ましたのだろう。
のそのそと起き上がったルードヴィヒ四世は文句を言うようにシアナを見ると、反対側のカルロのわきに腰をおろした。
犬の顔にははっきりこう書いてあった ―「僕はあなたが好きですよ、シアナ。でもね、お二人の間に意見の相違がある場合、僕がどっちの側に立つか、よく覚えておいたほうがいいですよ」
「マリアって、誰?」
「これから僕が結婚する女性だよ。」
カルロの答えはまさに一気呵成だった。
「マリア・ヴォーン。クリスマスに家に帰ったとき、僕は彼女に会った。彼女は・・・・・彼女は天使のような女性なんだ、シアナ」
「……そうでしょうね。」
立ち直るのに――そう、驚きから立ち直るのに、ずいぶん時間がかかった。
どうしてっ誰だって、思いがけない知らせを聞けば驚くのが当たり前だ。
シアナは少し笑っていた。彼女が笑うときはいつも、その笑いが美しいと自分にわかっているときだけだった。
しかし今笑った彼女の笑い声は、どう考えてみても美しいとは言えないものだった。
しかし、そのときシアナは、それに気づくほど余裕のある精神状態ではなかった。
「これこそ、びっくりさせるお誕生日の贈り物というわけね」
「あっ…………ほんとだ・・・・・今日は君の誕生日だったね」
カルロはすっかり混乱していた。「忘れていたよ、……………家を買いに行ってたものだから・・・・・・ごめん――」
「あらいいのよ、気にしないで」
愛想よくシアナは言った。
「いろいろ事情がおありなんですもの、他人の誕生日を覚えていてくださるなんて、誰も思ってはいませんから。それに・・・・・・女も三十になると、むしろ忘れられたほうがいいの。ところであなたの大ニュースだけれど・・・・・・ああやっと息ができるようになったわ・・・・・・でもとっても私、嬉しいわ。昔からのお友達が不幸になることを、望んではいませんもの。でも、もっと早く教えてくださればよかったのに・・・・・・ほんとよ、ほんとにそう思うわ」
「いや、つい2、3日前までは、話すことがなかったんだよ。つまり・・・・・決まっていなかったんだ。この話をするのは君が初めてなんだ。まあこれで、人の物笑いにならずにすむと、君にも喜んでもらえるだろうと思ってね。僕たちはこれまでいつも仲のいい友だちだったから。ねえシアナ、そうだろう?」
その問いに、シアナは広角を上げて頷いた。
「もちろんよ。あなたのおっしゃるとおり親友よ。それ以外の関係なんて考えられないわ。」
今まで以上に愛相よく、シアナは答えた。
「それでマリアだけど…友だちになってやってくれるね? 彼女には友だちが必要なんだ。まだ若くて・・・・赤ん坊みたいなものなんだ。」
「あなたの奥さんと私がお友だちになれないとは思えないわ。」
「そんなふうにわかってもらえると思っていたんだ」
勝ち誇ったようにカルロは言った。
「ほんとに君はいい人だ。頼りになる友だちだよ、シアナ。それで家のことだけれど、助けてくれるね?」
「私の考え方が、あの・・・・・マリアにぴったり合うとあなたがお思いになるなら、できるだけのことはするつもりよ。ところでどんな家をお買いになったの?」
「ダン・ウィーヴァの家だよ。丘の上の、ほら君も知っている『四季の館』って呼んでいる家さ」
そのとおり、シアナはその家を知っていた。
彼女とカルロはある日散歩をしていたとき、その家の前を通りかかったのだった。
すばらしい家だった。
そのとき声を上げてシアナはその家をほめたのだ。彼女はすばらしい家となると、皆気に入ってしまうのだ。これまで彼女はずっと、叔母のルツの大きくて立派な、しかし身震いするほど嫌いな家で生活してきた。
今住んでいる叔母の家の回りには木一本生えていなかった。
どうにも彼女は好きになれない家だった。
ところがウィーヴァの家。
すなわち「四季の館」は――その家の背後に草木が生い茂っていたので、ウィーヴァがそう名づけたのだが――彼女の好みから言って文句なしの家だった。
だから彼女はすっかり心を奪われてしまったのだ。
ところが今、マリアという女性のために、その家の飾りつけを彼女がしなければならないというのだ。
「結婚してもいいという手紙を受け取ってからすぐ、僕は走ってあの家を買いに行ったんだ」
カルロは言った。
「僕は……あの家はもう彼女のものなんだ・・・・僕はあの家で彼女を迎えることができるんだ…とてもきれいなんだ。彼女は」
「あなたがお選びになった方は、きっときれいな人でしょうね」
話すたびにシアナの言葉は段々表面上のものになってきていた。
見事なお世辞がシアナの口から流れ出していた。
しかし、自分ではそれと気づかず、無意識のうちに彼女は口を動かしていたのだ。
ましてやカルロは気づいている様子もなかった。
「どんな方かしら・・・・・・つまり、どんなタイプの方かしら? その方のために調度品を選ぶとなると、やはりそのことを知っておかないといけないでしょ。でもカルロ、ほんとうは結婚するまで待ったほうがいいのじゃないかしら。その後でその方に家具や飾りつけをしていただいたほうがいいと思うわ。私だったら、他の女の人に自分の家の飾りつけをして欲しいなんて絶対思わないもの。」
「いや・・・・でも、マリアはちがうんだ」
夢見るような、うれしそうな声でカルロは言った。
「彼女はほんの子供で………………いつも、何でも人にやってもらっているんだよ――エッジタウンのヴォーンの家のだれかにね。彼女はあまり有能じゃあないんだよ、シアナ・・・・・」
シアナはひるんだ。
「・・・・・・それで僕は、 実務的なことで彼女をあまり悩ましたくないんだ。それで、すっかり家の準備をして……………その家に彼女を連れてこようと、僕は決めたんだ。」
「 彼女を腕に抱いて敷居をまたぐのね」
シアナは少しばかり皮肉な調子で言った。
「そうなんだよ、そのとおりなんだ」
カルロは率直だった。
「そうすれば簡単だから……彼女はとっても小さな女の子みたいでね。それでそのタイプというやつだけれど、あんな名前だから、暗い感じがするだろうけれど、実際はお月さまのようにきれいに澄んだ感じの女性なんだ。髪の毛は艶があって、濃い緑色の目は、柔和できらきら光っていて・・・・・マリアに会うまで、緑色の目がどんなに美しいものか、僕は知りもなかった………いつもはにかんでいて、名前のとおり聖母マリアのような顔の、天使のような女性なんだ。」
「それで、それに合うように『脂の様子』の調度品を私が選ばなくてはならない――」
いかにも心配しているといった口調で、シアナは言葉をつづけた。
「それでいつなの・・・・・・結婚式は?」 「八月の終わり頃にと思っているんだけれど。そうすればマスコカで一カ月は過ごせるから」
「今は五月の中旬だわ。まだ三カ月あるわね。じゃあ全力でやってみるわ、カルロ」
「ありがとう」と、ほっとした様子でカルロは立ち上がった。
「君のおかげで心の重荷が軽くなったよ。さあおいでルードヴィヒ四世!」
ルードヴィヒ四世も立ち上がった。しかし玄関までくるとルードヴィヒ四世は、シアナを振り返って言った。「僕は御主人の側につかなきゃならないんですよ、わかってください。でも彼女の味方はしませんから………………。」犬ははっきり言っていた。
シアナは春の夕闇の中にしばらくひとりでいた。
それから歌を歌いながら階段を登っていった。
叔母のルツが寝室から首を出して言った。
「どうかしたのかい?」
「いいえ、何でもありませんよ」
シアナは言った。
「歌を歌っているだけよ…」
「お前が歌を歌うのは、必ず何か心配事があるときなんだからね」
「心配事なんて、何もないわ」
シアナはきっぱりと言った。
「全然何もないわ。ただうれしくって、ちよっと興奮しているだけよ。今年はすばらしい夏になりそうだわ。私ね、カルロ・ガーランドと彼の花嫁のために、家の調度品を選んであげる約束をしたの。花嫁さんはエッジタウンのヴォーン家の人よ。こんなすばらしい予定があるというのに、歌を歌わない人がどこにいて?」
最後はかすれ気味のか細い声だった。
シアナは無理やり広角を上げて微笑む。
「すばらしい魚を捕り逃がしても、まだそれより立派な魚がいる――そう、昔から言うからね。」
慰めるように叔母は言った。
シアナは音を立ててドアを閉めた。叔母と議論したところでどうしようもない。
私の魂はフランスの土に葬られているのだと説明したところで、叔母にはわかってもらえはしないだろう。
私の愛はフランスの・・・・・・シアナの心は再び信念の世界に戻っていった。
鏡の前に立つとシアナは、鏡の中の自分の姿をじっと見つめた。マリア・ヴォーンとは少しも似ていない。ここにいるシアナという女は背が高く黒髪だ・・・・・。
まだ黒いものがある・・・・・・目は黒ずんだ茶色だ。
これでは誰かの腕に抱かれて新婚家庭の敷居を跨ぐというわけにはいかないだろう。
でもこれだけ特徴がある女だったら、棚ざらしにはならないのではないかしら・・・・・・。
「カルロは三十五歳。そして今彼は赤ん坊のような女と結婚しようとしている」
いかにも軽蔑するようにシアナはつぶやいた。
「カレリア学園の経済学と社会学の講議を担当する教授ともあろう人間が、 妻を選ぶということになると理性を失ってしまう。かわいそうなシアナ、鏡の中のシアナを笑ってやりなさい。今こそあなたのお得意のユーモアを活躍させる時じゃないの。お誕生日にすっかり着飾って、結婚を申し込まれると自信たっぷり待ち受けていた。ところが問題の男性は訪ねてきたのはいいけれど、きれいな天女のような花嫁さんのために家の飾りつけの手伝いをしろと、ぬけぬけと頼みにきたのよっ!これじゃまるで笑い話。そうじゃない、シアナ」
シアナは鏡の中の自分をひたすらに見つめた。
✾✾✾
「これまでいろいろ好きな家は見てきたけれど、」
カルロは言った。
「皆それぞれすばらしい家だった。 でもこの家を見たとたん、これだと思ったんだ。ぜひ買わなくちゃあ、と思ったんだ。一年前の夕方の散歩のことを覚えているだろう。あのときも五月だった。野の花を求めて散歩していて、その帰り道に近道をしようとこの道を通ったね。二人とも同時に顔を上げて、この家を見た。」
「初めて見たのに、まるで懐かしい人に出会ったような気がしたわ」
夢見るようにシアナは言った。「白と緑に塗り分けたこの家がそれからずっと欲しかったわ。まるで恋人のようにずっと愛しつづけてきたわ。」 「四季の館」はシアナが記憶していたよりもっとすばらしい家だった。
すばらしい家を見るたびに、シアナの胸はドキドキする。
もちろんそうした家は少なかったけれど・・・・・。
何てすばらしい眺めだろう!!
二人のすぐ足元から、町並が遠くまで広がっていた。左手には学園の名物の時計塔が見える・・・・・・赤く染まった穏やかな夕空を背にすらりと伸びたロンバルディ・ポブラが二列に並んで見える・・・・・・そのポプラ並木にはさまれて学園の記念図書館前には〔微睡みの女神〕という美しい噴水がある・・・右手には山々が峰をつらねて静かに眠り、その陵線が落ち合うところは深い谷間になっている――精巧な芸術作品を見るようにすばらしい美しさだ。
「谷間の風景というものは、すばらしいものだね」
カルロは話しつづけていた。
「眺めているだけで、 心を楽しませてくれる。ここから見えるあの谷間がそれだ。でもあの木は切り倒さなくちゃ」
「あの美しいカエデのこと? 絶対切っちゃだめ」
シアナは叫ぶように言った。彼女はとても樹木を愛していたからだ。
「でもあの木があると眺めがよくないから 」
カルロが弁解した。
「あらそうじゃないわ。それどころか、宝物を守るように、あの木はここからの眺めを守っているのだわ。 あの一角が威厳と美しさとロマンスを備えているのも、あの木のおかげじゃないかしら? マリアにもきっとあの木が気に入ると思うわ」
とは言ったもののシアナは、マリアが果してその木を気に入るかどうか確信はなかった。
緑色の目をしたその女性は樹木が嫌いかもしれない。しかしカルロは何一つ懸念は持っていなかった。
「そうだ、きっとそうだろう。じゃ、切らずに残しておこう。よく考えてみれば、あの場所は夏の朝あの木の下で食事をするくらいのものだろうからね。できるかぎり外で朝の食事をすることにしよう。シアナ、 ほら遠くのほうに丘が見えるだろ?あれは僕の友だちさ。何だかよそよそしくって、厳格な老人といった感じがしないかい? 特に今頃の明るさで見るとね。ところがまたに違った光線で見ると、あの丘はとても優しく穏やかな姿をしているんだ。ああそれから、 日当たりのいい場所に花壇を作ろう。 ヒエンソウやオダマキや・・・・ジギクリスやアイリス、それにフウリンソウを植えよう。フウリンソウは白やピンクや藤色に濃い常の斑点があるすばらしい種類もそろえよう。エッジタウンの庭にはそういう花が一杯咲いているから」
「輝くような髪をしたあなたの花嫁さんは、そんな古めかしい花がお好きなの?」
悪意を込めてシアナは言った。
「彼女は美しいものなら何でも好きなんだよ」
間の抜けた声でカルロは答えた。
シアナはそうしたカルロの態度に耐えられなかった。
彼女は家の中に入って、カルロを避けようとした。
部屋の出来具合はどうか――さぞかし欠点だらけだろう――シアナは点検を開始した。
そうしておけばカルロ・ガーランド夫人をこの家に迎え入れるのに好都合というものだろう。
ところが欠点らしい欠点は一つも見つからなかった。
太陽の光が差し込む食堂には出窓がついている。
カーテンは藤色。
まさにシアナが考えていたとおりの台所だった。
木の葉を通して陽が差し込むと、壁には美しい影が踊って、まるで綴織のように見える。
居間の東に面した窓の外には、円錐形に聳えるモミの木が二本見える――
いかにも生き生きとした感じの部屋だ。
階段の踊り場には古風な趣を持った窓がついていて、その窓際にはゆったりとした椅子が置いてある。
この椅子に座れば庭を見おろすことができる。
もうこれは単なる窓というべきではない。
単なる物ではなく、まるで一人の人間のように生命力を持っている・・・・・・。
「この窓からの眺めが彼女には気に入るだろうか?」
カルロがたずねた。
「窓という窓からの眺めが皆すばらしくて、とても僕はうれしいんだ。家によってそれぞれ眺めに個性的な美しさがあるんだね。彼女が家の中から外を見たときには、美しいものだけがあの美しい目に映るようにしたいんだ」
恋をすると人間感傷的になるものらしい――シアナは考えていた。
しかし彼女は特別反論もせずそうしたカルロを黙って見ていた。
確かにカルロの言うとおりかもしれない。
この「四季の館」という家には、 そうしたすばらしい未来を約束してくれるものがある。
シアナ自身、次第にその家に興味を持ち始めていた。
シアナ自身首を傾げてしまうのだが、その後何日たってもその興味は消えなかった。
こうなったらマリアという女性のことは忘れてしまおう、そして自分の好みに合わせて「四季の館」の家具を整えよう――シアナは心を決めた。
「そうするよりしようがないわ。カルロはあんなに有頂天になっているけれど、私はマリアという女性を見たこともないんだから。漠然と彼女のことを考えて、それで家の飾りつけをしたところで、 何の役にも立たないわ。カルロには全面的に私を信頼してもらうよりしようがないわ。もし意味の問ということになれば、これはもうお手上げね。」
カルロはシアナを信頼しきっていた。品物の値段など、シアナは心配する必要もなかった。
彼は口出し一つしなかったからだ。シアナは品選びにカルロを連れ出した。
二人は多少の議論はしたけれど、 たいていカルロのほうが折れるのだった。
時代物をさがし出すことにかけては、シアナの鼻は抜群だ。
ある日町の東の外れにある古ぼけたユダヤ人の店で、すばらしい真館のノッカーを見つけたときには、うれしさのあまりシアナは泣き出してしまった。
居間に敷く続殿は、 居間に敷く続絵は、シアナは新しいものを買いたかったのだが、それはカルロが前から使っていた、エデンの園の生命の木を織り出したペルシア絨緞を利用することになった。
玄関ホールには美しい立派な大時計とカシの木の長椅子が運び込まれた。 また彼女が選んだ何枚かの絵は、神話や伝説を描いたものだった。
それに、大きな染付けの絵皿や鉄製の手細工の蠟燭立ても飾りつけられた。
カルロがもともと持っていたものの中には、脚の部分がよじれるような曲線を描くスチュアート王朝時代のテーブルがあったし、またこれはぜひ飾りつけようとシアナが主張したものだが、 カルロの叔父で船長をしていた人が残してくれたマホガニー製の章筒も、居間に据えつけられた。
その置き場所については、シアナはどこかあまり人目につかない寝室にそっと置いたほうがいいと考えていた。
「最高にすばらしいものが揃ったわ、ねえカルロ」
シアナの声には厳粛な響きがあった。
カルロとシアナの二人は、ある日の午後家の中をずっと見て歩いていたのだ。
その日まで、カルロは家の中を見たことがなかった。
カルロは目を丸くして驚いていた。あっ、あれは珊瑚だ・・・・・・・ピンクや白やまだら模様の貝も飾ってある。
あれはきっと、熱帯地方にいる鳥の羽根だろう。あの木の実は、どこか大海原に浮かぶ島から流れ着いたものだろう。
象牙の彫刻もある・・・・・・それにあのすばらしい刺繍はどうだ。
「この古い筆筒の荷解きをするのは、とても楽しみね。何が出てくるかしら。あなただって御存知ないんでしょ?」
シアナは幸せそうだった。
「まあ!」
シアナはその中にあった小さな箱を見つけ、さっと中身を取り出すと、嬉しいさのあまり悲鳴を上げた。 「何でしょう?まあ、カルロ、本物の真珠だわ。母貝から取り出したままの真珠だわ。高価なものでしょうね。」
「これは―――マリアの指輪にしてやらなくちゃあならないんだ」
カルロが言った。
珍しいものを発見して、シアナはマリアのことをすっかり忘れていたのだ。
スーデンは立ち上がった。その顔はいくぶん青ざめ、怒りにゆがんで見えた。
彼女はすっかり疲れていた。
その日午前中はずっとショッピングに時間を割いていた。
エッジタウンのヴォーン家からやってくる花嫁のための家は、古い青重品だけでまかなうことはできなかったからだ。
大きなデパートでいろいろ品物を買い集めること、それは実にすばらしい仕事だった――ただ何でもいいというわけにはいかない本物の家庭を作るためには、 ぴかぴか光るぜいたく過ぎるものはぜひとも排除しなければならない・・・・。
シアナはもう何日も夜は眠っていなかった。
カルロの家の窓につけるひだ飾りを縫っていたのだ。
その結果は睡眠不足だった。これでいいのだ――しかし、もうその仕事が終わった後でも、眠れない夜が続いていた。
その年の夏は暑さがひどかった。
それに家具を買い集めるというのは骨の折れる仕事だった。
神経が苛立っていた。
いろいろなことが彼女を悩まし始めていた。
たとえば、マリアのことを話すとき、必ずカルロの目に浮かぶ輝き…。
あるいは窓辺の腰掛けの小さな金色のクッションのこと。
そのクッションはカルロが自分で買ってきのだった。
彼はその理由を説明した――このクッションを背景にして、マリアの淡い金髪を絵にかきたいのだと。
しかしシアナには気に入らなかった。
馬鹿げたことだと彼女は思った。
それではせっかくの金髪も色あせて見えてしまうではないか。
「マリアには沈んだ緑色が似合うのじゃないかしら。そのクッションは濃い色の髪の毛の女性のものよ」
「僕はきっとこのほうが彼女には似合うと思う」
カルロは後へ引かなかった。
「この少し薄暗いところで、このクッションを背にして、アザミの花のように魅力的な彼女の美しさを絵にしたいんだ。きっと彼女 は輸光を背にした聖母マリアのように見えるだろう」
そういうわけで、影になった窓の下の腰掛けの上で、そのクッションはまるで小さな太陽のように輝きつづけていた。
シアナはそれを見るたびに、峡谷に投げ捨てたくて手の指がうずくのだった。
アザミの花のような魅力とは、まったく驚いて・・・・・・。
その他のものは皆、シアナにも気に入っていた。
そして今ではその数も、どんどん増えていた。
もう六月も末に近づいていた。
「四季の館」はすべての点で完璧だった。
シアナはその家へ出かけていった。
その完璧さが、また新たに彼女の心を引き裂くのだった。子供のような女にこの家は無駄に使われるのだ。
浮かれ騒ぐ合い間に、食事をし眠る場所としか考えていない女性のための家になるのだ。
マリアはおもしろおかしく時を過ごすのが好きな女性だと、彼女はカルロから聞いていたのだ。
実際カルロは、マリアのことをいろいろ彼女に話して聞かせた。
時には人間控え目に――と言うではないか。
シアナは辛抱強く相手の話に耳を傾け、相手の言葉に共鳴し理解したようなふりをしていた。
ともあれ、すべてうまくいったのだという深い満足感はあるにはあった。
これだけ完全なものであれば、マリアといえどもそれを破壊することはむずかしいだろう。
しかしきっといつかは、この家も酷いことになるだろう ――――椅子のカバー悪趣味なものに変わり、額縁の絵は出鱈目に配列されていることだろう。
また電気スタンドの傘は許せない代物に取り替えられ、部屋の照明はすべてめちゃくちゃになっているかもしれない。
そしてたぶん、絨緞という絨緞は皆汚れ、家具の位置も手に負えない状態になっていることだろう。
そう思うとシアナは体中が震えるのだった。
ああそうなったら、「四季の館」も終わりだ。
「『四季の館』はあなたの花嫁さんを迎えるばかりに準備できましたわ」六
月のある暑い夕暮にシアナはェラリーに言った。
シアナはものうげに椅子に寄りかかっていた。
彼女は疲れ果てて、その疲れた顔を上げる元気さえなかった。
彼女の顔は青ざめていた。
すっかり老け込んでしまったわ――シアナはひとり胸の中で怒りを殺していた。
「どう感謝したらいいか」
カルロはおずおずとした口調で言った。
「あら気にしなくてもいいのよ」
シアナの声はものうげだった。「そんな必要なんかないわ。私も
楽しませていただいたもの。あの家を整えるのは、ほんとうに楽しかったわ。結婚式はいつ?」
「まだはっきり決まっていないんだ。近いうちに決めることができると思うけれど。僕は………………僕はもう近近だと思っているんだ。シアナ、君とても疲れているようだけれど」
「死の世界に向かって引かれてゆく――そうルツ叔母さんに夜の食事のときに言われたわ。それで叔母こんはとても御機嫌よ。よく覚えておいてね、私はもう三十を過ぎているのよ。人間若さを失うと、疲れるものよ。あらルードヴィヒ四世、尻尾をお尻に敷いて、どうして私をにやにや笑って見るの? マリアはルードヴィヒ四世が好きになるかしら、カルロ? ルードヴィヒ四世が骨をくわえて家の中に入ってくるのを、 彼女許すかしら?」
「猫を買ってやらなくてはと考えているんだ。猫は大好きなんだ、彼女はあまり犬が好きじゃないのかな。少しばかり犬を怖がっているようにも思うけれどね」
「ルードヴィヒ四世は猫と仲良くやってゆけるかしら?」
「猫に馴れてもらわなくっちゃあね」
「首をくくられるつもりになれば、どんなことにでも馴れることができるって言うわね」
シアナは溜め息を洩らした。
「でも私はこれまで一度も、そんなことは信じなかったわ。かわいそうな犬ね。ねえ、 犬だとは思っては権利というものが認められるべきじゃないのかしら?」
ルードヴィヒ四世を公平に扱っていると、
「ああまたシアナが歌っている」
シアナが二階の寝室へ上がっていったとき、叔母のルツは思った。
「今年の夏ほどあの子がよく歌を歌ったことは、これまでになかったわ。早く元気になってくれればいいのだけれど」
✾✾✾
よく晴れたある日の夕方五時に、カルロはシアナに電話をして、八時頃に「四季の館」で会ってくれるかどうかたずねた。
少し話したいことがあると言うのだ。
シアナにはそれが何の話かわかっていた――
結婚式の日取りに決まっている。
シアナには興味がなかった。
ひどく疲れているときには、人間どんなことにも関心が持てないもの。
愛することも憎むことも、泣くこともふざけることもできはしない。
しかしシアナは、七時には「四季の館」に到着して、カルロがやってくる前の一時間を自分だけの最後の時間にしようと決心したのだった。
そして「さよなら」にしよう・・・・・。
「四季の館」はこれまで以上に美しく見えた――こんなに美しいとは思ってもみなかった――これで私も幸せになれる。
今まで感じたことがないほどの親近感を、今シアナはこの家に感じていた。
シアナと「四季の館」は一体となっていた。
シアナはその家を愛していた。
と同時にそれだけ彼女はジュアニー夕を憎んでいた――今はっきりと自分からそれを認めることができた。
「四季の館」の女主人としておさまっているジュナニータ―その姿を心に描くだけで、シアナは胸を引き裂かれる思いだった。家具の位置を移し変えているマリア・・・・・暖炉のそばにすわっているマリア・・・・・・。
犬のルードヴィヒ四世は人に笑われるのが大嫌いだ。
そのことは誰でも知っていることなのに、それを無視してルードヴィヒ四世に笑いかけるマリア・・・・・・食器を手にしているマリア・・・・・・。
シアナは強く手を握りしめていた。
マリアがあの食器類に手をかける――そう考えるだけでシアナは耐えられなかった。
そうなるくらいなら、今あの皿も水差しもたたき割ってしまいたい。
特に青磁に金でバラを描いたあの高価な水差し――あのすばらしい陶器の水差しをマリアに持たせてなるものか・・・・・・ああ耐えられない・・・・・・・いっそのことたたき割ってしまいたい。
シアナは暖炉の前に走り寄って、飾り棚の上の水差しを掴んだ。
そのとき鏡に映る自分の姿が見えた。
彼女は手に摘んだ水差しを元に戻した。何て老け込んでしまったのだろう――やせてしわだらけになって・・・・・・でも有能な女、いや年老いたこの女は、いったい何をしようとしているのか。
この世の中でひとりぼっちの女・・・・・・生きることに何の興味も感じない女。
シアナはマリアが憎かった。
美しいマリア――答案用紙などは見たこともない美しい緑の目。
今の瞬間であれば、毒を盛った葡萄酒を嬉々としてマリアの手に渡すこともできるだろう・・・・・・。
「外にきて、夕日を見てみないか?」
ドアのそばでカルロが言った。
「これまで何百回と夕日は見てきたわ。今日の夕日は何か特別のことがあるの?」
不機嫌な声でシアナは言った。
彼女には家の外へ出る気持は全然なかった。
薄暗い部屋の中であれば、華やかな笑顔を見せる必要もない。
またカルロがマリアのことを話題にして、今もし私が笑顔を作ろうと努めれば、きっと私の顔は真っ二つに割れてしまうだろう・・・・・。
「夕日というものは、いつでも必ず何か独特のものがある」
カルロが言った。
そう言いながらも彼は、部屋の中に入ってきて、ソファーにすわっていたシアナの隣に腰をおろした。
しばらく彼は何も言わなかった。
シアナも口を開かなかった――いや開くことができなかったのだ。
シアナは自分でも体が震えているのがわかった。
憎しみと怒りと絶望が体中で煮えたぎり、今にも火山のように噴き出そうとしていた。
何が起ころうと、二度と感情を荒だてることはあるまいと一度は思ったシアナだった。
しかし今そのシアナはこれまで以上にマリアを憎んでいたのだ。
マリアは私の家と私の人を奪い去ろうとしているのだ。
そう、私の人を・・・・・・。フランス戦線で死んだかつての恋人ルカ・フェルトンの面影が、シアナの記憶の中から薄れ始めていた。
あれほどまでにシアナの心を捕えていたルカの姿も、今は高原に眠る青ざめた幽鬼に過ぎないものになっていた。
「ねえシアナ、」
とうとうカルロが口を開いた。「後二カ月すると、僕の・・・・・・小さなかわいい女王がこの家にやってくる。まるで夢でも見ているように・・・・・・」
カルロはまるで女神でも歌うように声を落として言った。
「信じられないほど、すばらしいことだ。僕は夢を見ているのだと、君は思うかい、シアナ?」
ああまた陳腐な「小さなかわいい女王」の話だ。
よく舌が回るものだ。
ああもうがまんができない。
シアナは自制心を失っていた。
彼女はソファから立ち上がった。
「ええ、そう思うわ。あなたは最底の変態よ」
すさまじい勢いでシアナは言葉を吐き出した。
「若い女の人と結婚しようと考えるなんて、あなたはほんとうの愚か者だわた!脳味噌なんてひとかけらもない、 は空っぽの女・・・・・・映画スターのようにかわいくって、味も素っ気もないお人形と結婚しようなんて夢を見ている……………そう、そのとおりよ。きっとひどい目に会って、それからやっと目が覚める――でもそのときはもう手遅れね。あなたに同情する人なんてだれもいない・・・・・皆あなたを物笑いの種にするだけよ!」
シアナは喉を詰まらせ、ヒステリックな笑い声を響かせた。
カルロも立ち上がった。
「まあ、そういうことになるだろうね」
カルロは満足そうな声で言った。
「実はね、僕はこう思っていたんだよ――もし君が後一分、相変わらず物わかりのいい友だち面をして、可もなく不可もなしといった笑顔を続けていたら、あそこにある真鍮や鉄の置物で君の頭をたたき割ってやろうとね。
この夏の間、人殺しの危険が一杯だった。
君はもう少しのところでその被害者になるところだった―――君自身は少しも気づいていなかったけれどね。
それからマリアのことだけれど、彼女が若過ぎるという君の意見には、僕も異存はない。
僕もずっとそう思い続けてきた。
でも彼女のことを、頭が悪いとか脳味噌が空っぽとか、言わないでほしい。
彼女はとても頭がいいんだ・・・・・子供としてはね。
この間の誕生日で、彼女は五歳になった。
ほんとにかわいい子なんだよ。
「シアナ・・・・・ぼくたちが今年クリスマスにエッジタウンに帰れば、きっと君も彼女が好きになると思うんだ。」
シアナの顔から笑いが消え、彼女はカルロのほうを見た。
カルロははにかむように笑った。
「ほんとうは、こんな奇妙な説明をするのはいやだった。それに、やっきになって嘘をついた後で、またほんとうのことを話すというのも、許されないことだと思っているよ。
でもね、マリアはまだほんの赤ん坊だと、僕は言ったね。それだけは嘘じゃなかった。それから、僕は何かしなければならなかったんだ――君にはっきりわかってもらうために、その―――」
「私が」
シアナは静かに口を開いた。
「―私が胸に秘めている戦死したルカに対する愛は、過ぎ去ったものに対する単なる感傷的な奴隷のような献身にすぎないということね――そうおっしゃりたいのね」
ゆっくりとした口調でシアナは言った。
今私は腹を立てるべきなのだ―――シアナは頭の中で考えていた。
しかし彼女の心は、ただもう喜びで震えるだけだった。
「そうじゃないんだ。僕が言いたかったのは、君が自分でそのことに気づいてくれさえしたら、きっと君は僕のことを愛してくれるだろうということなんだ。僕は君の亡霊と戦わなくてはならなかった。僕はもう絶望的だった……………それで僕は、これが最後のチャンスだと思った。『四季の館』は女主人を迎えるばかりになっている。その女主人になれるのは君だけだ。ねえ、シアナ、君の考えを聞かせてくれないか?」
「あなたを憎むべきだと、私は思う・・・・・この『四季の館』をあなたの顔に叩きつけるべきだと思う ………………。私はあなたをひとりここに残して立ち去るべきだと思う」
シアナは言った。
「でも、私にはできない・・・・・とてもできないわ……………。今の私には・・・・・・私にできることは・・・・・考えられることは、あなたの肩の上で泣くことだけだわ」
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