遅れてきた少女
昼食の後の授業。暖かい日差しに気怠さも増す。美雪の前の女生徒はゆっくり船を漕いでいる。机に突っ伏して寝ている男子生徒もいる。
美雪の机に何か落ちたので拾ってみると桜の花弁だった。窓際の美雪の席からは大分花の散った桜並木が見えていた。薄く開いている窓から入り込んだらしい。窓際からは桜並木を通して校庭とその向うに海が白く霞んだ空の下に見えていた。
入学式があったのが月曜。中学の卒業式に三分咲きだった桜も、入学式の頃には散り始めていたが、それが風に舞って、入学式というイベントにはぴったりだった。
初めて汐森高校の藍色のセーラー服で登校し、美雪もようやく高校生になったという実感のようなものが湧いてきた。中学は意外とさっぱりとした気持ちで卒業できて、涙を浮かべる同級生もいる中で笑顔でいた。小学校を卒業する時のような、子供の時間の終わりといったような妙な感慨が無かったからかもしれない。
入学式の翌日には廊下に張り出されたクラス分けの掲示物に従って移動し、今いるこのE組の教室に入った。中学の間、同じクラスになることの無かった智絵と同じクラスになったのは嬉しかった。
クラスの半数は美雪と同じ東中学で、残りは西中学の出身とほぼ半々。西中学の出身で、あの雪の日の合格発表でインタビューを受けていた女生徒も同じクラスだった。倉田江理栖という名で、祖父がヨーロッパのどこかの貿易商だとかいうどこまで本当か分からないような噂もあった。美雪のいるE組だけでなく、入学後には学校で一番有名な一年生の女生徒になっていた。
黒板に板書していた国語の女性教師が本を片手に説明しながら席の間を歩いて、机に突っ伏して寝ている男子生徒の机を本で軽く小突いた。ビックリして跳ね起きる男子に周りはさざ波のような笑い声が上がった。その笑い声に、美雪の前で船を漕いでいた女子もぴくんと体を震わせて目を覚ました。美雪はその様子が可笑しくて手で口を押えて横を向いた。ふと、先生に小突かれた生徒の後ろの空いた席が目に入る。事情があって出席するのが遅れているという女生徒の席で、金曜になってもまだ欠席したままだった。
「入学間もないのに、だらけ過ぎですよ貴方達」
教師が言い終わる間もなく終了のチャイムが鳴った。ざわつく教室。
「ハイ。じゃあ今日はこれまで」
授業が終わると、美雪も思わず伸びをした。
「みんななんだか今日は眠たそうね」
智絵が美雪の席までやってきた。
「慣れてきたのと疲れたのもあるんじゃない?」
「そうかな。ま、授業のたんびに自己紹介で変な緊張感はあったかもね」
「城崎さーん」
美雪が声の方を向くと、学級委員長に選ばれた、古在和穂だった。初日に入試の成績が良い生徒数人を担任が選んで、その中から学級委員を決めたのだった。美雪も書記に選ばれていた。
「柴野先生が放課後来てくれって。大丈夫かしら?」
和穂はきりっとした太い眉と広い額が知的に見える女生徒で、西中出身だった。
「ええ。私と古在さんだけ? 斎藤君は? 副委員長でしょ?」
「女子だけでいいそうよ。何かしら?」
美雪も思い当たることはないが、学級委員は体のいい雑用係みたいなものだ。そうたいした用でもないだろう。
「城崎さん」
今度は、男子の呼ぶ声。美雪が振り返ると、痩せてひょろりと背の高い男子生徒が立っていた。東海林高明。西中の生徒だが、美雪とは顔見知りだった。
「城崎さんは、部活とかもう決まったのかな?」
「ううん、まだだけど」
「僕、天文部を作ろうと思ってて、良かったらどうかな?」
「天文部?」
東海林とは天文イベントがあった時などに近くにある県立の科学館で何度か顔を合わせたことがあった。名前はつかなかったものの、彗星の独立発見をしたりして、一部では有名な天文少年だった。
「東海林君と城崎さんて知り合い?」
和穂が二人を交互に見る。
「知り合いというか……」
「何度か、天体観測会で会ったことがあるんだよ。天文部だから、城崎さんもどうかと思って」
「天文部って、科学部じゃだめなの?」
和穂が口を挟む。
「科学部には、地学班も天文班も無いそうだし、どうせなら、独立して作ったほうが良いかなって。昔はあったそうだし。天文部」
「科学部とか天文班とかって、どゆこと?」
それまで成り行きを見ていた智絵が疑問を口にした。
「ああ、うちの学校って、理科系の部活動は全部ひとまとめに科学部になってるのよ。その中で物理なら物理班、生物なら生物班て感じで中で分かれてるの」
和穂が智絵に説明した。
「どうしてまとめられてるの?」
「個別にやってると、部活の規定人数に足りないからじゃないかしら。五人以上いないと部として認められない規定になってるのよ。三人くらいの同好会でも幾つか集まれば部として認められるし」
「ふーん」
校則を読み込んでいるのか、和穂の説明は的確だった。
「天文部っていまから作るの?」
智絵が見上げるように東海林に向かって話しかけた。
「そのつもりで人を集めてるんだけど、なかなかいなくて」
「今から作るんだったら、部員は一年生だけなんだよね?」
智絵の言葉に、美雪は内心、乗り気になってるなあ、と苦笑いしていた。
「面白そうじゃん。美雪もまだ部活決めてないでしょ?」
「え? うん」
「じゃ、決まり。二人入部ね」
美雪の返事も聞かずに智絵が決めてしまった。
「え、いいの?」
和穂と東海林が同時に声をだした。
「美雪もいいでしょ?」
「後で聞くのね。しょうがないなあ。それで、今何人いるの? 部員」
美雪が東海林に尋ねる。
「二人が入ってくれたら、四人だよ。僕と、C組の神保っていう僕の友達が入ってくれるそうだから」
「あと一人だね。委員長もどう?」
智絵がにっこり微笑んで和穂の顔を見る。
「私はもう文芸部に入ってます。それに、理科系はあんまり得意じゃないし」
「え、そうなの? 入試はクラスで一番だったんでしょ?」
「好みの問題よ」
智絵が残念そうに唇を尖らせる。
「でも良かったよ。思い切って城崎さんに話して」
ほっとしたように東海林が言った。
「あ、そうだ、東海林君。去年の日食観測会には、私もいたんだけどなぁ」
智絵が悪戯っぽい笑顔で東海林を見る。
「え、あ、そうだっけ」
焦ったようにじゃあまた、というと、逃げるように行ってしまった。
「東海林君が珍しく女子に話しかけてると思ったら、天文部か。二人ともほんとに入るの?」
「うん。美雪も入るでしょ?」
「まあ、断れないでしょ。これじゃ」
「あ、なんか嫌だったの?」
「そうじゃないけど……。後で『花水木』であんみつ奢ってもらおうかな」
「えー、なにそれ」
ひとしきり笑って言い合う。
「あと一人かあ」
ふと我に返ったように智絵が呟く。
「倉田さんとかどうかな?」
「え、倉田さん?」
美雪が思わず倉田江理栖の席を見たが、江理栖は席を外していた。
「彼女、もう部活は決まってるわよ」
和穂はいろいろと事情通でもあるらしい。
「どこ。テニスとか?」
「ううん。手芸部」
「手芸部? うーん、そんな感じじゃないんだけどなあ」
「見た目と違って大人しいもの。彼女」
美雪は合格発表の日を思い出した。
「テニスの方があってそうだけどな」
ラケットを振る真似する。
「まあ、テニス部も勧誘はしたみたいよ。経験はあるみたいだったし。バレー部とかバスケとか運動部は大抵勧誘したみたいだけど」
「面倒くさいから逃げちゃったのかもね」
倉田江理栖の席を見ながら、美雪が呟く。
「倉田さんて、どっかで会ったことがあるっていうか、見たことがある気がするのよね」
智絵が上を見上げて思い出そうとするような表情を浮かべる。
「外国の女優に似てる人がいるって誰か言ってたわよ。男子は、グラビアアイドルに似た人がいるって言ってるみたいだけど」
和穂が美雪の隣の席の男子を見る。
「いや、なんでそこで俺を見るかな」
「朝ワイドに出てる人でしょ? 倉田さんの方が綺麗だと思うよ」
美雪の前の席の女子も話に乗ってきた。
「んー、それも違うような。誰だっけ?」
智絵は納得いかない顔で美雪を見る。
「私は知らないわよ」
放課後、担任に呼び出されて、美雪と和穂は職員室に来ていた。
「よお。済まないな。遅くまで」
担任の社会科教師、柴野恭一が二人に気づいて顔を上げた。ぼさぼさの髪に無精髭、青い色付きのメガネと、胡散臭い雰囲気を漂わせている。
美雪は職員室に入るのは初めてだったので、あまりきょろきょろせずに眼だけで周囲を見まわした。教室と作りは同じだが、壁を抜いて二部屋繋げたような構造になっていた。
「あの、どんなご用件でしょうか?」
和穂が尋ねる。
「ああ。明日なんだが、鷹山響子が登校してくるそうだ」
一瞬、二人ともきょとんとした顔をして柴野を見つめる。
「まだ登校していない女子がいるだろう?」
ああ、と二人とも得心した。
「家庭の事情とやらで、転居が遅れたそうだ。転入試験に受かって入ったから、形式的には転校だな。顔合わせも遅れてるし、帰国子女だそうだから、分からないことも多いだろう。面倒見てやってくれないかな」
「はあ」
クラス分けの時に名前は見たはずだが、名前ははっきり覚えていなかった。帰国子女ということは英語とか得意なんだろうか、美雪はそんなことをぼんやり思った。
「城崎」
「ハ、ハイ」
不意に呼ばれて、美雪は少し慌てた。
「天文部に入ったんだって?」
少し含みのある顔。
「天文部のこともう知ってるんですか?」
「ああ、東海林が頭数がそろったら、顧問をお願いしますって言いに来てたよ」
「あの、どうして柴野先生に?」
和穂が尋ねる。
「5年前まであった天文部の顧問だからな」
何故か自慢げだ。
「ま、決まったらまた連絡してくれ。あと、鷹山の件も宜しくな」
失礼しました、と職員室を後に、二人は教室に戻った。
「ちょっと、天文部は、早まったかな」
「あらら、もう辞めちゃう?」
和穂が笑う。
「そうじゃないけど」
そうは言ったが、美雪は内心ちょっと後悔していた。
「何か、柴野先生って、胡散臭いのよね」
「あはは、そうだよねえ。あれで学年主任だって」
中庭の渡り廊下を通る。四時前で陽も傾いて来ていた。校舎の影の中庭は薄暗くなったようだ。
「鷹山さんて、どんな人かな」
独り言のように美雪が呟く。
「宜しくって言われてもね。まあ、明日になればわかるでしょ」
土曜日。なんとなく落ち着かない朝を迎えた美雪は、登校してホームルームのチャイムが鳴ると、妙に緊張してきた。
「おーい、席に着けー」
チャイムから遅れて担任の柴野が入ってくる。その後から女生徒が一人、ゆっくりと入ってきた。
静かになりかけた教室がまたざわめきだした。
「家庭の事情で遅れてたが、今日から登校することになった、鷹山だ」
柴野が手で促す。チョークを手に、黒板に名前を書く。ぎこちない手つきだったが、印刷用のフォントのように整った字で、鷹山響子、と板書した。
「鷹山響子です。宜しくお願い致します」
鷹山響子は、意外と低い声で、そう丁寧に挨拶し、頭を下げた。整った顔立ちなのに、目の上でバッサリ切った髪。肩にかかる髪もぼさっとして野暮ったく見える。
斜め前の席の智絵が振り返って美雪を見つめる。
”あの時の人だ”
雪の朝、合格発表に行く途中、浜辺で見かけた少女だった。
「席は、田中の後ろ、空いてるそこだ」
響子はゆっくりと歩いて席に着いた。
「いろいろと分からないことも多いだろうから、皆教えてやってくれ。それじゃ、宜しく」
柴野はそれだけ言って教室を後にした。さっそく、響子の前の席の田中が話しかけている。席を立って女子が数人周りに集まった。学級委員長の和穂が挨拶している。美雪も思い出したように席を立つ。すると、教室の戸が開いて、一時限目の数学の教師が入って来た。
「お、そうか、今日から登校だったな。はい、話は後にして席について」
立ち上がって動きかけた美雪だったが、すぐに腰を下ろした。響子の周りに集まっていた生徒も席に戻った。
「では、出席をとるぞ」
出欠の確認をする教師の声が響く。
「江藤」
「ハイ」
「岡崎」
「はい」
「城崎。城崎?」
「あ、はい」
鷹山響子のことを考えていて返事が遅れた。雪の朝の風変わりな少女が自分と同じ学校の生徒で同じクラスになるとは、考えてもいなかった。
一時限目の授業は、どこか上の空で過ごした美雪だったが、クラスも全体に落ち着かない、静かなざわめきとでもいったような雰囲気だった。休み時間になると、響子の周りはもう数人集まっていた。
「鷹山さん、合格発表の日に、浜辺に居なかった?」
智絵が美雪も聞きたかったことを質問している。
「合格発表?」
「えーと、三月十五日? だったっけ。ねえ、美雪」
少し離れて立っている美雪に智絵が声をかけた。
「あ、うん。私、城崎美雪です。覚えてないかな。智絵と私」
響子は黒目がちな目を真っ直ぐ美雪に向けた。
「はい。覚えています。雪の降っている朝でしたね」
「城崎さんたち、知り合いなの?」
和穂が美雪に尋ねる。
「知り合いというか……」
前にも同じようなシチュエーションがあったような、美雪はふと思った。
「合格発表の日に会っただけ。私も居たわよ。ね」
智絵が和穂に答え、美雪を見た。
「そう。じゃ他にも知っている人はいるかもね」
和穂が教室を見まわす。
「あの人は、どこかで会ったような気がします」
皆が響子の視線を追うと、倉田江理栖の横顔があった。
「倉田さん?」
自分の名前が聞こえたのか、江理栖が振り向いて、皆の視線にたじろいだような顔をした。
「あの、なにか?」
「ああ、鷹山さんが、倉田さんのこと知ってるっていうから」
江理栖は少し怪訝そうな顔で響子を見ていたが、
「ごめんなさい、私は覚えてないわ」
そう済まなそうに言って横を向いた。
「合格発表で見かけたんじゃないの?」
と、智絵。
「いいえ、ここではありませんが。私の記憶違いかもしれません」
響子は静かにそう言った。
授業も終わった放課後。あとは掃除当番が掃除して帰るだけだ。
「学校の案内を鷹山さんにしておきたいんだけど、私部活があるから、城崎さん、頼めないかしら?」
和穂が美雪の席に来て頼んだ。横に響子も立っている。
「ええ。いいわよ」
「お願いします」
響子は丁寧な口調でそういって頭を下げた。
「みゆきー、今日、お母さんの病院の日だから、先帰ってるね」
智絵がそう言って教室を出ていく。美雪が頷いて手を振る。
「沢渡さんのお母さん、どこか具合でも悪いの?」
和穂が尋ねる。
「具合が悪いっていうか、持病があって、定期的に病院で検診してるのよ。その時は智絵が家事当番になってるから」
「へえ。大変ね。あ、じゃあ、お願いね」
「ええ。じゃ、行きましょうか」
美雪は帰り支度をして響子と教室を出た。
「正面玄関のところは時計塔って呼ばれてるの。上は廊下だけで、一番上に時計があるかららしいけど。玄関から入って右の、向うが教員棟って言われてて、職員室と保健室とか理科室とか、特別教室もあるの。私たちの教室があるのが、教室棟。一階が一年、二階が二年、三階が三年生の教室になってるわ」
鞄を手に、中庭に降りて、美雪が説明する。
「奥が、図書館棟。繋がってるから、図書館というか、図書室だけど、みんな図書館って呼んでる。図書館の上が視聴覚室。まだ私も行ったことないけど」
「その上にあるのは?」
響子が質問する。
「ああ、天文台ね。望遠鏡があるんだけど。滅多に使われてないみたい」
「どうして?」
「授業で使うことも少ないし、今天文部も無いから。あ、そうだ、今度天文部を作ることになったんだけど、鷹山さん興味無いかな?」
良い話題が出来たとばかりに美雪が尋ねた。
「天文部。宇宙論とかについて考察するんですか?」
「いや、そんなアカデミックなものじゃなくて。望遠鏡で星を観測したりだとか」
言われて、美雪も天文部の実際の活動は良く知らないことに気が付いた。
「星の観測。興味深いですね。部活動というものには、どうやって参加するんですか?」
「入部届を書いて部長か顧問の先生に渡せば、って、鷹山さん、天文部に入るの?」
「ええ。宜しければ」
何気なく聞いたつもりが即答されて美雪は慌てた。
「えっと、東海林君はもう帰っちゃったし、あ、私もまだ入部届とか書いてなかった」
「慌てなくても、来週でもいいのではないですか?」
そんな美雪を見て、響子が笑顔を見せて言った。初めて見る笑顔だった。
「そ、そうね。じゃ来週ということで」
響子が入ることで丁度五人。部活動として申請する人数になった。成り行きであまり深く考えてもいなかった天文部が実際に活動できる状態になって、自分が言い出したことだったが、戸惑いが大きかった。
「後は、体育館とか、見て回ろうか」
上履きを靴に履き替えて、教室のある、ロの字型の校舎から離れて、体育館、プール、テニスコートや弓道場など体育施設を案内し、裏門を回って校庭の横の桜並木まで来た。美雪の席から見える場所だった。並木道から少し斜面があって、校庭があった。野球のグラウンドと重なるように二百メートルトラックがあって、陸上部がランニングしている。その向うの柵越しに海が見えた。
並木道から海を眺める。穏やかに晴れて、春霞のなか、水平線が眺められた。二人で眺めていたが、後ろに立った美雪が響子の姿を見ていて、髪の毛が肩で少し斜めになっているのに気が付いた。髪型も全体的に雑な印象を受ける。
「あの、鷹山さん、もしかしてその髪、自分で切ったの?」
美雪はちょっと失礼かもしれないと思いつつ尋ねた。
「髪ですか。ええ。背中ぐらいまであったんですが、ちょっと焦がしてしまって」
響子が肩越しに背中を覗いてそう言った。
「焦がしたって、何があったの?」
美雪は何とも無さそうにそういう響子に驚いて尋ねた。
「ちょっとした事故です。問題ありません」
響子は澄まし顔で美雪を見つめる。
「それだとちょっと。自分で切っちゃうのも。美容室とか行かなかったの?」
「この町のことはよくわからないので」
帰国子女にしても、これはちょっと変わっているはずだよね。この人。美雪は響子の顔を見て考え込んだ。
「鷹山さん、この後の時間大丈夫?」
「予定は特にありませんが。何でしょうか?」
「ちょっと付き合って」
「こんにちは」
カランコロンと、入り口をあけると鈴の音がして、美雪が中に入っていく。
『ヘアサロン・ルル』とかかれた看板を響子は見上げていたが、美雪の後に続いた。
「いらっしゃい。あら、美雪ちゃん。どうしたの?」
すっかり白くなった髪の、メガネをかけた小太りの女性が笑顔で迎えた。この店の店長だった。
「あら、美雪、どうしたの? 何かあった?」
美雪の母が驚いた顔で奥から出てきた。美雪の母は、週末だけ、この店を手伝っていた。
「お客さんを連れてきたの。大丈夫かな?」
「お客さん?」
美雪の後に、響子が続いて入ってきた。
「初めまして。鷹山響子と申します」
馬鹿丁寧ともいえるような挨拶。
「あらまあ、ご丁寧に。美雪のお友達?」
「ええ」
友達、とはまだ言えないかも、そう思いつつ答えた。
「予約のお客さんはまだ後だから、一人くらいカットする時間はあるけど。その子を?」
4席あるうち、端の一つは埋まっている。美雪の母は一つ空いた席に響子を座らせた。
「どういたしましょうか?」
「よくわからないのでお任せします」
悩むこともなく響子は答える。美雪の母は苦笑した。
「変わった子ね」
椅子に腰かけた美雪を見て言う。
「美雪の知らないお友達ってことは東中の生徒じゃないわね。西中出身?」
「鷹山さんは、帰国子女なの」
美雪が答える。
「あら、どちらからいらしたの?」
母の言葉に、美雪は自分も聞いていなかったことに気が付いた。
「去年まで、ストラスブールにいました」
「ストラスブール? 聞いたことはあるような」
「アルザス=ロレーヌね。『最後の授業』の舞台」
横で店長が手を動かしつつ話に入ってきた。
「最後の授業?」
美雪が聞き返した。
「あら、今は習わない? 授業で。ドーデーだったかしら」
美雪はドーデーの名前は聞いたことがあったが、『最後の授業』は知らなかった。
「フランス、ドイツだったかしら?」
美雪の母が響子に聞いた。
「フランス領です」
母は響子にあれこれ尋ねつつカットしていく。時折、美雪の小さい頃の話などをして美雪を困らせたりもした。色々と母が聞くので、響子について知ることが出来た。両親とは離れて一人でこの町に来たこと、ストラスブール以前もヨーロッパ各地を転々としていたこと。この町には親戚を頼ってきたこと。
「そういえば、智絵ちゃんは?」
母が手を止めて美雪に聞いた。
「今日はお母さんが検診の日だから、先に帰ったわ」
「そう。あの子も小さい頃からお手伝いしてて偉いわよねぇ。今も小さいけど」
「お母さんったら」
美雪が苦笑する。こういう話をしていては母にかなわない。響子はそんな会話の中で表情も変えずに真面目くさった顔で座っている。会話が途絶えると鋏の音だけが静かに聞こえていた。美雪は置いてある雑誌を持ってきてパラパラと眺めた。
「さあ、これでいいわ」
仕上げも終えて、響子の重たく広がったような髪が顔に沿うようにカットされていた。眉も覗くようになって、すっきりと顔全体が小さくなったように見えた。
「ちょっと短いかしら」
「頭が軽くなりました」
響子は真顔でそれだけ言った。
「気に入っていただけたのかしら?」
美雪の母は困ったような笑顔を浮かべた。
「はい」
これも澄まし顔。
「あら、可愛くなったじゃない」
店長も手を止めた眺めた。
「お代は美雪の小遣いから引いておいていい?」
「お母さん」
美雪はちょっとふくれて見せた。
「あなたが連れてきたんでしょ」
響子は、ポケットから財布をだして、カードを差し出した。
「現金は持ち合わせが無いので、これで。使用できますか?」
「あら、プラチナカードとは豪勢ね」
店長が驚く。
「高校生が持ってていいものじゃないけど。大丈夫なの?」
「ええ。使用した金額はチェックされてますから」
支払を済ませて外に出ると春の日差しが眩しかった。
「ちょっと寄っていかない?」
美雪が響子に尋ねた。
「どちらへ?」
さっぱりした顔の響子。大きな目と整った顔立ちがはっきりして、以前よりずっと可愛らしく見える。
――月曜日、楽しみだな。
「どうかしましたか?」
「いいえ。『花水木』ってお店があるんだけど、そこでいいかな?」
「お任せします」
カットの時と同じ口調に、美雪は思わず笑いが漏れた。