雪の朝
窓から外を見ると、灰色の曇り空からちらちらと舞い落ちるものが見えた。
「うわー、降ってきた」
美雪は羽織ったコートのボタンを留めながら呟いた。スタンドミラーに向かってマフラーを巻く。真っ直ぐ肩まで伸びた髪がマフラーに引っかかっているのを手で後ろに跳ね上げた。なんとなくまじまじと顔を見つめる。思い出したように手袋を持つと階段を降りる。三月に入って暖かい日が続いていたし、美雪の住む町では雪が降ること自体珍しいことだった。
今日は高校の合格発表の日だった。受験した汐森高校はレベルは中の上くらいの公立高校。美雪は試験の答え合わせも特に悪くは無かったし、受かっていることが半ば当然のような気持ちではいたものの、受験は高校が初めて。一抹の不安も残ってはいた。
「智絵ちゃん来てるわよ」
母が台所から顔を出して言った。
「早いなあ。じゃ、行ってきます」
玄関を出ると、玄関前に智絵が待っていた。美雪に向かって手を振る。
「お早う。さっむいねぇ、今日は」
鼻の頭を赤くした智絵が言う。くせ毛の短い髪から見えている耳も赤くなっていた。
「おはよー。ごめん、待たせちゃった?」
智絵は身長が150センチも無いので美雪が見下ろす感じになる。
「ううん、さっき来たばっかり」
智絵が横に並んだ美雪に言う。合格発表を一緒に行こうといったのは智絵だった。
「もう三月なのに雪が降るんだね」
「名残り雪って言うらしいわよ」
海岸通りに出て視界が開ける。今日は水平線は雪に霞んで見えなかった。
「こう、空気が雪でちらちらしてるってのもいいわね。寒いけど。美雪ちゃん日和って感じ」
「なにそれ」
智絵の言葉に美雪は苦笑した。
「だって、美雪の生まれた日って雪が降ってたんでしょ?」
「うん。そうだったって聞いてるけど。四月なのに珍しく雪が降ったからだって」
自分の暮らす町で小雪の舞う中を歩いているというのは、三月で無くとも珍しく、妙な気分だった。普段とは違い、まるで違う町に迷い込んだような。合格発表というイベントが余計にそんな気持ちにさせているのかもしれなかった。
美雪は初めて来た場所のように改めて回りを見まわしながら歩いていた。空は灰色で、景色は白く霞んでいる。その視界の端に、真っ黒なものが映った。
――あれは、誰だろう?
学校までは十五分程の道程の半ばほどに、小さな砂浜があって、そこに黒ずくめの人物が海の方に向かって立っていた。その浜辺は、海水浴などには向かないので遊泳禁止になっていて、立ち入るのは釣り人くらいだった。
「うわあ、寒いのに薄着で何してんのかな?」
美雪の視線に気が付いた智絵が声を上げた。その人物は傘も差さず、パーカーのようなものを着ているだけだった。体にぴったりとしたズボンにブーツという出で立ち。体の線から女性のようだった。両手を下に下ろしてじっと海を見つめている。
美雪たちが浜辺の上の通りから見下ろすようにして通り過ぎると、こちらに気づいたように振り返った。一瞬、美雪と視線が重なる。黒目がちな大きな目が美雪を捉えていた。耳が見えるくらいに短く切った髪。真っ直ぐな長かった髪をバッサリ切ったような、どこか痛々しい雰囲気があった。年は美雪たちとさほど変わらないように見えた。
「見たことない子だね。あ、けっこう可愛いかも」
智絵が立ち止って言う。少女は視線を逸らすと美雪たちとは逆の方向に歩いて行った。
「西中の子かな?」
「西中の子ならここに来ないんじゃないの? 合格発表が残念な結果でしたって、雰囲気でもなさそうだし」
智絵があまり穏やかではないことを言う。
漸く学校が見えてきた。汐森市は小さな入り江に中心部があって、汐森高校は入江の東側にあった。中学は二つあったが、市の東側、美雪たちが通っているのが汐森東中学で、西側が汐森西中学と、味もそっけもない名前が付けられていた。これは小学校も同様だった。
十年ほど前まで電車で一駅行った市の外れに私立の女子高があったが、生徒数の減少により廃校となっていた。
学校の方からミニバンが走ってくる。美雪たちの傍を通り過ぎてから、ブレーキを掛けて止まった。振り返った二人に、ミニバンのドアガラスが下りて顔を出した少年が声をかけた。
「これから合格発表見に行くのか?」
倉持新平と言う、美雪たちとは同じクラスで小学校も同じなので顔なじみの少年だった。
「クラスの皆の受験番号聞いてたから確認したけど、みんな受かってたぞ。良かったな!」
じゃあ、とばかりに手を振ると、走り去って行った。
「ああ。なんか、有難迷惑って感じ?」
智絵が呟く。
「どうしよっか?」
美雪も苦笑しながら言った。
「新平の言うことだからな。ちゃんと確認しないと」
知恵が真顔で言う。
「いやいや、それは逆に嫌だよ」
気持ちの削がれた二人だったが取りあえず高校へ向かった。正門から入ると、雪の舞う中、色とりどりの傘と、賑やかな話声が聞こえてくる。父兄と一緒に来ている生徒もいた。正面の校舎へ向かう道の両脇にガラス戸の付いた屋外掲示板があって、そこに受験番号が張り出されていた。受験番号は中学毎に分かれていたので、美雪たち東中の生徒の受験番号は校舎に向かって右側に張り出されているようだった。
「早めに出たつもりだったけど、結構いっぱいだね」
「そだね」
美雪も自分の番号を探す。前に傘を差して並んでいるので、少し遠巻きに掲示版を見つめる。番号を目で追っていくと次第に緊張してくる。
――1077…1078…1079…
「あった!」
思わず声に出た。1082番。もう一度確認する。間違いなし。
「どうだったって、聞くまでもないか」
智絵が声をかけた。
「智絵は?」
「当然」
智絵は澄まし顔で目を閉じて見せた。
「汐森高校放送部ですが、ちょっとよろしいですか?」
マイクをもった女生徒が急に美雪に話しかけてきた。
「え? あ、ハイ」
「その制服は東中ですね。結果はどうでしたか?」
脇で見ていて知っているはずのことを聞いてきた。
「あ、受かってました」
「どうですか?今の心境は?」
「えっと。大丈夫だとは思ってたんですけど、自分の目で確認するとやっぱり嬉しかったです」
「入学後の抱負はありますか?
「ま、まだ良く考えてないので、これからです。勉強とか頑張りたいと思います」
「そうですか。ありがとうございました」
メガネの女生徒はにこやかに笑って美雪の前を離れた。他の部員らしき生徒も集まって何やら話始めた。
「うーん。みんな同じような感想で、ありきたりね」
「質問変えてみたら?」
美雪の背後でそんな話をしている。
「聞こえてるわよん。ねえ?」
智絵が美雪に向かって言う。
「ねえ、あの子、良いんじゃない?」
先ほどの放送部員が美雪の横を通り過ぎた。ちょっとびくっとした美雪だったが自分はインタビューされたばかりなのを思い出した。放送部員は美雪の背後の、西中の生徒に向かっていた。
「汐森高校放送部ですが……」
何となしに美雪もインタビューされている生徒を見た。放送部員にマイクを向けられて横を向いたので、赤い傘から姿が見えた。背が高い、スタイルの良い女生徒だった。ウエーブした長い髪が背中に掛かっている。顔を見ると、色白で鼻筋の通った、ちょっと日本人離れした顔立ちだった。放送部員にインタビューされて、癖なのか手を口元に持っていって、困ったように眉を顰めている。
美雪と同じ十五歳にはとても見えなかった。インタビューしている上級生が幼く見えるくらいだった。
「ミス汐森とかそのうち呼ばれそう」
智絵がちょっと感心したような口調で美雪に話しかけた。
「そう、ね」
「美雪もなかなか良い線いってるのにねー」
「え?」
智絵はそれだけ言ってインタビューを眺めていた。美雪の時と違ってあれこれと質問を続けて長いインタビューになっている。
「帰ろか?」
「そだね」
美雪と智絵はクラスメートに会って互いの結果を聞いたりしていたが、まず会っただけで聞くまでもなく結果は分かっていた。美雪のクラスメートで汐森高校を受験して落ちた生徒は居ないようだった。
来た道をなぞるように美雪と智絵は引き返す。相変わらずのどんよりした曇り空だが、雪は止んで、遠くまで見通しも良くなっていた。四月からは、この道を通うことになる。高校生ということにもまだピンとこないが、卒業式や入学式ともなれば、気持ちもかわるのだろうか。そんなことを思いながら美雪は歩いていた。
「高校生になったら、部活とかどうするの?」
智絵が美雪を見上げるように話しかけた。
「うーん。考えてない。文化系の部活にしようとは思ってるけど」
美雪は、理科系の科目が割と好きだったが、将来そういう道に進もうと考えるほどでもなく、読書好きで図書委員もやっていたことから、司書もいいかと思っていた。
「バドミントンはやらないんだ?」
「智絵は続けるの?」
「あはは。私もパス」
美雪は智絵に頼まれて大会のための人数あわせでバドミントン部に籍を置いていた。体育会的なノリとは無縁なのんびりした同好会という雰囲気だったので、練習も日曜は休むような部活だった。大会では、本格的にやっているわけでもない美雪と智絵のダブルスが1勝しただけであとは負けてしまうくらいの有様だった。
スポーツは好きだが、高校ではこんなのんびりした部活は無理だろう。
「うるさい先輩のいない部がいいなー。そんなの無いかな」
智絵は虫のいいことを言っている。
「何かやりたいことは無いの?」
美雪は笑ってそう言って、視線を海の方へ向けた。小さな砂浜が見えてきたが、先ほどは、ここで黒ずくめの少女を見かけたのだった。
――変な女の子だったな。
今は、水平線も見えている。灰色の空の色を映した、寒々とした海だったが風もあまりなく凪いでいた。
――あれ?
「どうしたの?」
立ち止った美雪に智絵が声をかける。
「あそこに人がいたような……」
美雪は、入江の防波堤を指さした。
「どこ?」
黒ずくめの人影が見えたような気がしたが、灰色の海をバックに、カモメが飛んでいるだけだった。
「あそこ、出るって言うけど、何か見えた?」
「今朝の女の子みたいな影が」
「ああ。気のせいじゃない?」
智絵が手をかざして防波堤を見る。
「そうね」
今朝のことを思い出して、カモメの影が人にでも見えたんだろう、と美雪は思い直した。
「うわ!」
タイミング良く、というか、ポケットのスマートフォンに着信があった。確認すると、母からだった。『どうだった?』とそれだけのメッセージ。
「誰から?」
「お母さんから」
手早く、帰ってから報告します、と返した。そのまま結果を伝えても、通話して話しても良いのだが、会ってから伝えたい気がした。
「うちは連絡無いなー」
智絵がぼやく。
「信用されてるんでしょ」
家の近くの公園の前まで来て、智絵と別れる。じゃあ、また、と手を振って、あと中学の制服で会うのは卒業式くらいだと思いあたり、すこし寂しいような気持ちになった。
「ただいまー」
家に帰って、玄関から上がると、母が出迎えた。
「お帰りなさい。寒かった?」
「うん」
「あったかいもの入れようか? 何が良い?」
「んー。コーヒー」
二階の自分の部屋へ行って、着替える。階下へ降りるとリビングに行った。母が見ていたのかテレビがついていて、ニュースを放送している。ソファに座ってそれを見る。全国的に冬に戻ったような寒さで雪になったところも多いらしい。画面では赤い傘を差した女性に横殴りの雪が降っていた。
画面は移り変わって、煙を上げて上昇するロケットを映した。種子島から打ち上げられた、小惑星探査衛星のニュースだった。
「あ、打上げ成功したんだ」
探査機は、最近発見された太陽系外からの恒星間天体をアメリカが探査を行うことを発表し、紆余曲折があって探査機はアメリカが製作、打上げは日本が行うことになっていた。美雪はこういった宇宙関係に興味があったが、将来それを目指そうというほどでもなく、子供のころから望遠鏡で星を眺めたりしているのが好きというくらいのものだった。
「お待たせ。ハイ。コーヒー」
母がコーヒーと、自分で焼いたクッキーを持ってきた。母はミルクティーを入れてきていた。
「さてと。聞きましょうか。報告」
結果は分かっていると言いたげな澄まし顔。
「番号確認して、ちゃんとありました。四月から汐森高校の生徒です」
「おめでとう」
ちょっと芝居がかったやり取りに、二人顔を合わせて笑う。
「美雪も高校生かぁ。この間までランドセル背負ってたのにね」
「この間って、三年前だよ」
コーヒーを口に運ぶ。
「ついこの間よ。三年前なんて」
感慨深そうな母の顔。美雪がテレビに目をやると、天気予報で明日は今日とは打って変わって、春らしい暖かい日になるらしかった。