第一話:恩寵 ~カリス~
馬車の車輪からの揺れが、二人の体に伝わっていた。
「暗廟に入ったら、俺とお前のどちらかに恩寵が与えられる、だったよな?」
フリントが窓の外を眺めながら呟く。
景色は次第に険しい山の斜面へと変わり始めていた。
「ええ、そうよ」
ネルシェは膝の上に置いた聖杯に目を落とした。
黒曜石の艶やかな表面に、自分の不安げな顔が映る。
「神様の考えることって、よくわからないな。自分の墓を荒らす人間に、贈り物をするなんてさ。気まぐれか、あるいはそれも試練なのか……どっちだと思う?」
「どっちでも構わないわよ。ただ――無駄にする気はないわ」
ネルシェは静かに答え、フリントに視線を向ける。
フリントは小さく笑った。
「頼もしいこった」
馬車が大きく揺れ、二人の会話が途切れる。
その時、ふよふよと浮く視審霊が一匹、窓越しに覗き込んできた。
まるで二人の言葉に聞き耳を立てているかのようだ。
「でさぁ、これ、本当にずっとついてくるの?」
フリントは不満げに視審霊を見つめる。
白い靄のような、煙のような、湯気のような塊。
「そうよ。だから、変なこと言っちゃだめよ。国中の笑いものになるわ」
「……おい、なんかボンヤリ……文字が流れてるぞ!」
『見えてるぞー』
『せいぜいがんばれよ、弱小教会』
『変な鎧だな』
『祭司さん、ダークエルフ? めずらしー』
ネルシェが興味深げに視審霊を見つめた。
「──各教会での信徒の声が、文字になって流れるようね。私も初めて知ったわ、この仕組み。王国はいつの間に双方通信の魔法を完成させていたのかしら……」
ぶつくさと何かを呟きながら、ネルシェが俯き長考に入る。
ふと、その拍子に顔を覆っていた薄い布がするりと下りた。
ネルシェはさり気なく、視審霊から顔をそむけた。
露わになったのは、滑らかな艶を帯びた、深い褐色の肌だ。
整った顔立ちであり、頬のラインはすっきりとしている。
その横顔を見て、フリントはつまらなそうに息をつく。
「……はあ、隠すなってネルシェ。お前も結構な美人なんだからさ」
「黙りなさい、フリント。蕁麻疹が出るわ」
そして、呟くように、付け加えた。
「……ダークエルフの顔なんて、誰が見たいのよ」
視審霊の表面を、再び文字が走った。
『うわ、ほんとに煤エルフじゃん』
『俺は結構好き』
『かなり美人さんだね。煤付きじゃなかったらなー』
煤エルフ──。
もはや聞き飽きた蔑称を横目に流しながら、ネルシェは言った。
「ほらね」
そして、彼女は再び布を顔にかけてしまう。
フリントは舌打ちをした。
*
馬車が止まると同時に、御者は鞭を振るい繋がれた馬たちを静めた。
視審霊がふよふよと浮いたまま、何かを観察しているようだった。
「さあ、ここからは歩いていただくことになります。暗廟の入口までは、そう遠くありませんが……」
御者は言葉を濁しながら、彼らに手を差し延べる。
ネルシェは聖杯を胸に抱えながら馬車から下り、フリントも後に続いた。
「入口、ねぇ……」
フリントが周囲を見回しながら口を開いた。
彼らの目の前には、切り立つ険しい山肌がそびえている。
灰色の岩肌には、古い彫刻のような痕跡が散らばっていた。巨大な柱が折れたような跡や、風化した石像が山肌に埋まっており、地形の所々に“アーチ”が見える。
「どれが入口なんだ?」
「ええ、それはですね、すべて、でございますよ」
御者は答えながら、御者台に乗り直した。
まるで一刻でも早く、この場から立ち去りたいように。
「入口がいくつもあるって? それはそれは……」
「……グラル山……永遠の命に飽きた神が、自らの墓を築いた山……」
ネルシェが低く呟く。その言葉にフリントも顔をしかめた。
「妙な話だよな。命が惜しい奴が多いってのに、捨てたい奴もいるんだ」
「……そんなに珍しいことでもないわよ」
それは消え入りそうな声であり、フリントの耳には言葉として届かなかった。
「おん? 何か言ったか」
「さ、行くわよ。出遅れてしまうわ」
ネルシェは、切り立つ灰色の山肌に穿たれたアーチのひとつに歩み寄った。
アーチの周囲には、長い年月を経た風化の痕跡が刻まれている。
薄暗い影が内部に伸び、奥の様子を窺わせない。
「これが……入口ね……」
ネルシェが小声で呟く。彼女の声は、岩壁に反響して微かに跳ね返った。
まるで、このアーチを境界として無音の領域が広がっているような……。
フリントは、どこか気楽そうな足取りで、アーチの縁を指でなぞる。
「どうする? どっちが先に入るよ?」
ネルシェは溜め息をついた。
「どっちでもいいわよ」
と、視審霊がぼんやりと光った。
薄っすらとしているが、明るい輝きだ。
『騎士さんが先に行って! +100ナルクス』
「お~? これが『献金』か?」
フリントが視審霊を覗き込みながらニヤリと笑った。
ネルシェは頭を掻いて、布の下で小さく呟いた。
「なら、どうぞ先に……騎士様」
「見てろよ、みんな! フリント様が先陣を切るぜーっ!」
冗談めかして、フリントは敬礼をひとつしてみせた。
彼はアーチの一つに向かって大股で歩き出した。
ネルシェも仕方なくその後に続く。
暗闇が二人を包み込むと同時に、視審霊が漂う光をわずかに強めた。
その薄ぼんやりとした輝きが、奥へと続く石の廊下を浮かび上がらせていく。
*
冷たい空気が肌にまとわりつく。
「へえ。気味が悪いな、神様のお墓は……」
フリントが、ぼそりと呟く、後を追うネルシェも慎重な足取りだ。
彼女は聖杯を抱え直しながら、一歩、また一歩と足を進める。
「黙って歩きなさい、事前の調べが確かなら──」
その次の瞬間、右腕に鋭い痛みが走った。
「ッ……!?」
痛みに思わず顔を歪め、右腕を見下ろす。
そこには奇妙な光景が広がっていた。
半透明の透き通った紫色の茨が、まるで腕の内側から突き破るように生え出し、肘から手首、そして彼女の杖へと絡みついていく。まるで蛇のような動きだ。
「おい、大丈夫か!」
フリントが駆け寄る。
視審霊の文字が蠢いた。
『オワタ』
『罠?』
『あ、これ前回のコンクルサスでも見たな』
『ダークエルフさん、おめでとう!』
ネルシェは動揺を隠し切れず、震える声で呟いた。
「……これは……?」
茨は脈打つように微かな光を放ち、どこか神々しくありながら不気味な存在感を放っている。ネルシェの手の中で杖は茨に包まれ、輪郭が変わっていく。
「これが恩寵……なのかしら?」
ネルシェが呟いたその声は、彼女自身の耳にも頼りなく響いた。
「お、おい! 大丈夫かよネルシェ!」
「ええ……多分」
彼女は拳を握っては開く動きを繰り返して、右腕の無事を確かめた。
「悪いわねフリント。恩寵を貰ったのは私のようだわ」
「……ちぇーっ、がっかりだな」
がくり、と肩を落とすフリント。
視審霊の表面を無数の文字列が走る。
『戦うなら騎士さんの方が持ってた方がよくない?』
『↑支援職の大切さを知らない馬鹿』
『↑馬鹿とはなんだ、お前、表に出ろ』
「喧嘩すんなよ、お前ら」
フリントが視審霊を手で払い、そのビジョンが一瞬ぼやける。
「……それで、どうするんだ?」
彼の問いに、ネルシェはわずかに考え込み、答えた。
「暗廟を進む前に検証が必要ね。この『チカラ』の」
(― 冒険記録 ―)
・冒険場所:グラル山→暗廟の門
・発生イベント:
→・馬車での移動中、視審霊による初コメント発生。
→・恩寵をネルシェが獲得(紫の茨が右腕に顕現)。
→・暗廟の入口に到着。信徒による初の献金が発生。
(― 現在の資金 ―)
初期資金:0ナルクス
現在の資金:100ナルクス(+100)
(― パーティーステータス ─)
・フリント(騎士)
→・状態:健康
→・装備:ツギハギの鎧、とんがり帽子、ナイフ、
鎖鞭、暖かい毛布
→・感情:「恩寵は欲しかったが、まあ仕方なしか」
・ネルシェ(祭司)
→・状態:恩寵により右腕に変化、健康
→・装備:古びた法衣、恩寵の茨(未検証)、
錫杖、黒曜石の聖杯
→・感情:「恩寵を無駄にはしない……」