プロローグ:開催、コンクルサス!
王城前の広場は、いつもの喧騒を忘れたかのように静まり返っていた。
数千、いや、数万の民が押し寄せているにも関わらず、誰も声を上げない。
息を呑み、目を凝らし、この瞬間を見逃すまいと見つめているのだ。
彼らの視線の先、豪奢な石畳を覆う深紅の絨毯。
その先端に立つ一人の男がいた。
王国儀式院の大法官──グレゴリウス・レイガリオ。
白銀の髪を戴き、灰と金のローブに身を包んだその男が、手を広げる。
「王の忠実なる民よ!」
彼の声は、一点の曇りもない秋の空に向けて放たれた。
信仰を、敬意を、そして期待を込めた群衆の視線が一斉に集まる。
「七年の時が巡り、いま再び『コンクルサス』の時が訪れた!」
その宣言と共に、広場を包む空気がわずかに震える。
祭壇の前に整列する五組の騎士と祭司たちの背筋が伸びた。
大法官は手を振り、背後に控えていた召使いたちが前に出てくる。彼らは黒曜石から削り出した、漆黒の杯を一つずつ抱え、それぞれのチームへと運び始めた。
「これより『聖杯』を授けよう。我が王と神の代理として、汝らに命ずる。かの『暗廟』の最奥から滴る『聖水』をこの聖杯に注ぎ、地上まで持ち帰るのだ!」
召使いが、次々と黒曜石の聖杯をチームに渡していく。
やがて、召使いはある一組──。
最もみすぼらしい身なりをした男女の前で戸惑いを見せた。
ツギハギだらけの鎧に身を包む騎士が、召使いに囁いていた。
お洒落のつもりか、兜の代わりとんがり帽子を被った、その男。
バイザーを逆さに付けたような面頬からは、白い歯が覗いている。
「お嬢さん、キレイな顔してるね。どこの出身? 東のモーデンガルドかな。あそこは美人が多いって噂だしね。魚もうまいとか?」
「やめなさいフリント! 彼女は王城の従者よ!?」
傍らの、古びた法衣に身を包む女が、眉を吊り上げて小声で叱る。
だが、男──フリントと呼ばれた騎士は動じない。
召使いの娘の頬が赤く染まると、「またね」と聖杯をそっと受け取る。
「怒るなってネルシェ。あの子さ、緊張してたみたいだからさ」
ネルシェは大きな溜め息をついた。
「最悪よ、どうして貴方なんかがパートナーに……」
フリントとネルシェ──彼らは西のアスターヒルという農村地帯の小教会「セント・ハーナル」を代表してこの「儀式」に送られた騎士と祭司の二人組である。
「さっそく悪目立ちしているじゃないか、セント・ハーナルの貧乏人」
その様子を、隣で見ていたある美青年が鼻で笑った。
この国で最大の規模を持つプロフェシー聖堂。
その遣いである祭司・エルドリッジだ。
彼の金装飾のマントが、陽光を照り返して煌めいている。その傍らには、透き通るような肌をした容姿端麗の女騎士が、銀髪を風になびかせている。
この二人をそのままに絵画にすれば、洗練された「美」を描いた作品と呼べるものになるだろう。
「さしずめ、売名のためにこの『コンクルサス』にやってきたのだろう? 悪名は無名に勝るとでも言うつもりか? ロジックがゲスなんだよ、田舎者!」
言いながら、エルドリッジがニヤニヤと笑う。
「お前たちのような弱小が、『暗廟』の最奥まで辿り着けるものか。あれか? 途中で小便でも聖杯注いで持ち帰ろうってのか? あははは!」
フリントは肩をすくめて、聖杯を軽く回しながら言った。
「へえ、俺たちが不正をするんじゃないかって? 思ってる?」
「でなきゃ、勝ち目なんかないからな」
「なら、チェックしてもらおうか」
フリントは彼の前に聖杯を差し出す。
「はあ?」
「不正のチェックだよ。ションベンが入ってないか、ちゃんと見てくれ」
「はぁ?」
肩を怒らせながらも、エルドリッジは素直に聖杯を覗き込む。
と──、そのとき。
「うおああああああ!!」
一匹のカエルが聖杯から飛び出し、彼の精悍な顔にビタリと張り付いた!
エルドリッジが慌てふためき、整列から抜けて転げまわる。
静まり返っていた群衆から失笑が漏れた。
「お気に召して頂けたかな? さっき、そこの噴水でとってきたんだ」
「ぐ、グレイシャ! これを取ってくれ! 早くぅ!」
「はぁ……了解、よ」
溜め息交じりに、女騎士がエルドリッジに歩み寄り、カエルを剥がす。
彼女はそうすると、そっとカエルを噴水の方に向けて離した。
女騎士──グレイシャが踵を返し、フリントに歩み寄る。
「あ、あれ……怒らせちゃったかな?」
彼女はがしゃがしゃと鎧を鳴らし、フリントに真っ直ぐ歩み寄る。
その圧力に、いったい何をされるのかと、思わずたじろいでしまう。
グレイシャは答えず、彼の顔をまじまじと見つめ続けた。
それから十数秒が経って、彼女はようやく口を開く。
「久しぶり、ね……」
「ええっと……?」
フリントは首を傾げた。いったい誰だろうか。
このような美人の騎士との面識があれば、必ず記憶しているはずなのだが。
「俺たち、どこかであったっけ」
「なら、人違い、ね……」
それだけ言うと、グレイシャはエルドリッジの手を引き、再び列に戻る。
フリントはなおさら首を傾げた。
──と、大法官グレゴリウスが杖の尻を祭壇に打った。
「静粛に! 静粛に! これより儀式の掟を汝らに達する、心して聞け!」
群衆のざわめきが一瞬にして鎮まる。
人々と、そして騎士と祭司の整列を見渡し、大法官は続けた。
「期間は『七日間』ッ! そして、汝らが守るべき掟は四つ──」
グレゴリウスは指を一本ずつ折り、それらを告げた。
「一つ、汝らには『視審霊』が常に付き添い、その一挙一動を見守る。王国中の教会に、その動きを映し出すことになることを忘れるべからずである!」
「二つ、教会では献金を受け付ける。“配信”を見る信徒たちの献金に応じて、支援を得られるであろう! 額は3000ナルクスごとに、アイテムがひとつ!」
「三つ、異形の者たちが潜む暗廟にて、汝らの身を守るため、剣、魔法を問わず武装を許可する! だが、神の御名に背く術や、儀式を冒涜する行いは許されない!」
「そして、四つ。汝らは王への忠誠と神への信仰を示すため健闘せよ!」
最後に、グレゴリウスの声が一段と低くなる。
「この儀式で命を失うことがあっても、我々はそれを悲劇とは呼ばない。神の試練に挑む者が、その栄光を賭して死ぬのは当然だからだ!」
広場に張り詰めた緊張が戻る中、彼は再び声を上げた。
グレゴリウスの浪々とした声が広場に再び響く。
「儀式の始まりを告げよう! 全ては神と王国のために!」
王城の鐘楼から、荘厳な鐘の音が響き渡る──。
「さあ行こう、ネルシェ。とっとと聖水を取ってこようぜ」
フリントが笑顔で言う。
ネルシェは眉間にしわを寄せたまま、小さく呟いた。
「……頼むから、私に恥をかかせないで」
二人が動き出すと同時、整列していた四組の騎士と祭司も動き出す。
彼らは各々に用意された馬車に乗り込んでいった。
フリントは馬車に乗り込む直前、振り返って広場を見渡した。
その目は一瞬だけ、グレイシャの冷たい視線と交差する。
「……美人だな、“忘れられない”くらいに」
フリントの呟きに、ネルシェは小さく溜息をつきながら続けた。
「集中して。私たちは勝たなきゃならない」
ネルシェはスカートを畳むように座り、小さく呟いた。
「──これが、教会を救う最後の手立てなのだから」
フリントはニッと笑い、白い歯を見せた。
「ああ、この“レース”を最初に上がるのは俺たちだ」