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中編 もうひとりいた『エリザベス』

気になることがもうひとつ、それはジョシュアのことだった。


ライザは今、ハルフォード侯爵の許しを得たこの屋敷の正式な客であった。客をもてなすのはその屋敷に住まう人間なら当然のことで、婚約契約とは関係なく、彼は礼儀としてライザを夜会に何度か連れ出してくれた。


しかし、行く先々で彼は妙な紹介をするのだ。


「彼女はカディス伯爵令嬢のライザ嬢だ。本当の名前はエリザベスだが、身内と区別をつけるためにライザと名乗っているんだ」


ライザはデビュタントでもライザ・カディスとして名前を読み上げてもらっている。わざわざ本当の名前がエリザベスであることを相手に知らせなくても困ることはないのに、何故か必ず注釈をつけるのだ。

さらにおかしなことに紹介された相手も、あぁ、なるほど、という顔をし、その場には一瞬の微妙な空気が流れた後で、


「ライザ嬢、今後ともよろしく」


と、取り繕うような言葉がかけられるのだった。




いつものように妙な紹介のされ方をした後で、ライザはジョシュアと離れて行動することにした。どうしてもその理由が気になったからだ。ジョシュアがそばにいなければ誰かに教えてもらえるかもしれないと考えたライザは、


「せっかくの機会ですから女性同士で話をしてきてもよろしいでしょうか」


と、適当なことを言って彼と別行動を取ることにした。



会場から出たライザはひとまず女性専用の休憩室に足を向けた。

デビュタントをしたばかりの、それも侯爵令息が招かれるような高位貴族ばかりが集まった夜会で、伯爵令嬢のライザが気軽に話をできる相手などいるわけがないのだが、そこへ行くと言ってしまった以上フリくらいはしようと思ったのだ。


ちょうどそのとき、前を歩いていた男性ふたりがバルコニーへと出て行った。何でもない顔をしてその前を通り過ぎながらもチラリとそちらに視線をやれば、数人の男性が集まっているのが見えた。

ライザはその隣の部屋のドアノブに手を掛けた。幸い、カギはかかっていない。そのままするりと忍び込み、バルコニー側にある小窓を薄く開けた。


案の定、タバコの臭いと共に複数の男性の声が聞こえてくる。


「おい、ハルフォード侯爵令息の連れにはあったか?」


早速、聞きたかった話題が取り上げられている。盗み聞きなど淑女のすることではないと分かっているが、他に方法がないのだから仕方がない。

自分に言い訳をしつつ、ライザは男性たちの会話に耳をそばだてた。


「新しい『エリザベス』だろう?今度は伯爵令嬢だそうだ、彼の『エリザベス』探しはやっと終わるのか!」


ゲラゲラと下品な笑いがそのあとに続いた。


「いや、彼女は確か子爵位を継ぐはずだ。子爵位を持つ女性がハルフォード侯爵夫人の務めも果たせると思うか?」

「でも前の『エリザベス』は貴族ですらなかった。それよりはマシだろう」


そのあとも彼らは小声でなにやら話していたが、誰かが、


「哀れジョシュア・ハルフォードはまたも『エリザベス』に出会えなかったのであった」


と芝居がかった口調で宣言し、笑い声が起こったところで別の話題に移った。



ライザは驚きで早まる鼓動を押さえつつ、そっと窓を閉めると手近にあったソファに座った。


これではっきりした。少なくともライザの前にもう一人『エリザベス』を名乗る人物がハルフォード家に滞在していたのだ。おそらくメイドたちの言っていたエリザベスと同じ人物だろう。

そしてやはり彼女は貴族ではなく平民だった。しかし平民がどうやって侯爵家に入り込んだというのだろう。


あの男性たちが言っていたように、子爵となるライザにハルフォード侯爵夫人の座は難しい。侯爵夫人というのは多くの仕事を抱えているものだが、社交界の誰もが注目しているハルフォード家ともなれば夫人の仕事の裾野はどこまで広がっているかわからない。

そのうち見切りをつけられ、伯爵家に返されるのかもしれないが失礼な話だと思う。ライザのほうがジョシュアとの婚約を歓迎してないし、断りたいくらいなのだ。

爵位が低いカディス側からの辞退は無礼に当たる為、口に出せないでいるだけなのに、おまえでは侯爵夫人は無理だ、などと言われたら納得がいかない。


モヤモヤする気持ちを抱えながらも、ライザは会場へと戻ったのだった。













ハルフォード邸でのライザは基本的に暇だった。侯爵に話相手を頼まれた以上、自身の商会に頻繁に出かけるわけにもいかず、時々、送られてくる書類に目を通すくらいしかやることがない。


そこでライザは久しぶりに街の中心にある公園へ行ってみることにした。

伯爵邸から近いその公園でライザはよく散歩をしていたのだ。市井の人々の生活を垣間見るその時間は、平民相手の商売をしているライザには大切な勉強の場だったのだ。


侯爵家の使用人に馬車を出してもらい、付いてきたメイドにこづかいを渡しながら言った。


「三十分くらいしたら戻ります、あなたも息抜きをしてちょうだい」


わざと若いメイドを連れてきて正解だった。彼女は喜んで承諾し、あっという間にいなくなった。


勝手知ったる公園でひとり歩きを楽しんでいたライザだったが、ふとゴシップ紙の売り子である少年が目に留まった。正確には少年が持っていたその記事の見出しが、だ。


ライザは小銭を取り出すと彼に話しかけた。


「それを一部、くださいますか?」


貴族はゴシップ紙は読まない。それを知っているのであろう少年はライザを遠巻きにしていたのだが、売ってくれと言われたのだから喜んで新聞を差し出した。


「毎度!」


ライザはその場で紙面を広げ、ざっと目を通してから、通常より多い小銭にホクホク顔をしている少年に言った。


「馬車を捕まえてきてくれるかしら」

「それなら知り合いがいるから呼んでくる」


少年は勢いよく駆け出していき、ライザはそのあとをゆっくりと追った。



ライザが彼に追いついたのは公園の出入り口で、すでに馬車が止まっていた。


「ありがとう」


ライザは追加のチップを彼に見せ、


「ハルフォード家の紋は知ってるわね?頭が二つあるライオンよ。その御者にわたしが先に帰ったことを伝えてくれるかしら」


と言った。


もちろん彼は快諾し、ライザは証拠の品として自身のイニシャルが入ったハンカチを少年に持たせた。


「頼んだわよ」


ライザは走り去る彼の背中を見送ってから悠々と馬車へ乗り込み、行き先を告げたのだった。


「カディス邸へお願いします」








突然カディス邸に戻ったライザを、ヴィンストンは驚きもなく出迎えた。


「お帰りなさいませ、お嬢様」

「伯父様はご在宅ね?」

「執務室にてエドガー様とお話をされております」


このゴシップはエドガーの学園でも噂になっているのか。いったいどこまで広がってしまったのか、ライザは不安に思った。


「わたしもその話し合いに参加するわ」


ライザの宣言に執事は反対することもなく、彼女を執務室へと案内した。

扉をノックした執事がライザの帰宅を告げると、勢いよくドアを開けたのはエドガーだった。


「ライザ、よく戻ってこられたな」

「公園を散歩していて偶然、ゴシップ紙を見かけたの。そこからこちらに直行しました」


あのまま何も気づかずにハルフォード邸に戻ったらライザは当分、外には出られなかったかもしれない。この紙面の内容が本当のことなら、ライザがカディス家と連携することは少なからずハルフォードの不利になるからだ。



ライザは持っていたゴシップ紙をデスクの上に広げた。


『ハルフォード侯爵令息に捨てられたカーティス商会のエリザベス嬢、訴訟問題に発展か?』

『令息の新たなお相手はカディス伯爵令嬢』


ハルフォード邸に勤めているメイドたちの言っていたエリザベスとは、カーティス商会のエリザベスのことだったのだ。


ライザは馬車の中で読んできた内容を、どこまでが真実かはわからないけれど、と前置きをしてから説明した。


「ハルフォード侯爵は令息の婚約者としてカーティス商会のエリザベスさんを考えていたみたいなの。でも伯父様からの手紙が届いたから彼女を実家に帰したみたい。いくらかのお金も動いたのだろうけどカーティス側はそれをよしとしなかったのね、訴訟になるかもしれないって書いてあるわ」


「手紙の返事がなかなか来なかったのはこれが理由だったんだな。しかし、それならそうと言ってくれればライザを侯爵邸には行かせなかったのに。契約書には、どちらかが婚約済みなら話はなかったことにすると書いてあったのだから」


カディス伯爵のため息にエドガーが答えた。


「とりあえず会ってみようと思ったんじゃないか?やり手のハルフォード侯爵のことだ、ライザが経営管理のできる娘だと知って乗り換えようとしたのかもしれない」


「確かに、屋敷に留まるように言ったのは侯爵様だったわ。あの屋敷の主は彼だからそのときは彼が決定するのが当然だと思っていたけど、よく考えたらジョシュア様の婚約なのだからおかしいと言えばおかしいかもしれない」


ライザの言葉にエドガーは肯定するようにうなずきつつも言った。


「ハルフォード令息はエリザベスに夢中だったのかな?」


「それはわからないわ、メイドたちは歓迎していたみたいだけど。わたしではお茶菓子のご相伴にあずかれないって不満を言っているのを聞いたもの」


ライザの言葉にエドガーは首をかしげた。

それはそうだろう、使用人が主人とティータイムを望むなど、根っからの貴族の彼では理解しがたいことだ。


「大商会の娘だとしてもエリザベスは平民だもの。きっと普段からメイドたちとのお茶を楽しんでいて、侯爵邸でも同じようにしたのでしょう」


ライザの同情にもエドガーの評価は厳しい。


「だとしても令息の婚約者として招かれたのだから将来は侯爵夫人だ。相応の振る舞いをするべきだし、それをしなかったせいで使用人の質も落ちたんだろ」


彼の指摘はごもっとも。侯爵という高位貴族に仕えるメイドが、滞在客(ライザ)に聞かれるような場所で明け透けにうわさ話をするなどあってはならないし、お茶の同席をねだるなどどうかしている。

だいたい、小遣いを渡されたからと言って令嬢の付き添いを放棄してどこかへ行ってしまうなど、このカディス伯爵邸の使用人なら絶対にしない。

侯爵家の統率は『エリザベス』の登場ですっかり崩れてしまったようだ。



「それでライザはどうしたい?」


ライザを気遣うカディス伯爵の言葉に彼女は困った顔をした。


「ジョシュア様と婚約はしたくないけれど、次の相手が見つかるとも思えないし。オールドミスでも商会は守れるかしら?」


「ライザがオールドミスなんてあり得ないだろ。でも、ろくでもないやつが言い寄ってくるのは目に見えてるしな」


「だったらこのまま彼と結婚したほうがいいのかしら、少なくとも侯爵様は事業を続けることを認めてくださったもの」


そう言ったライザにエドガーが険しい顔をする。


「ライザはジョシュアと結婚したいのか?」

「それしか道がないと言っているだけです」


二人のやり取りを黙って聞いていたカディス伯爵は決断を下した。


「いずれにせよハルフォード侯爵と話し合う必要がありそうだ、あちらの考えも聞いてから判断しても遅くはない。それにライザはまだデビューをしたばかりだ、婚約のチャンスはいくらでもある」


伯爵の決定にライザはため息をついた。


「まったく。デビュタントの年に醜聞を被るなんて最悪だわ」

「そうむくれるなって。少し早いが避暑地に行こう、俺も付いていく」

「でも学園はどうするんですか?」

「明後日から夏季休暇だよ」


こうしてライザはエドガーと共にカディス伯爵の所有する避暑地の別荘へと行くことになったのであった。





避暑地に着いたライザは気持ちを切り替えて、ここでの生活を満喫することにした。


ハルフォード侯爵家のことは伯父に任せてきた。相手は侯爵家だ、どう出るかは予測できないが、ライザが心配したところで事態が好転するわけでもないのだから考えるだけ無駄だ。

このままジョシュアと婚約するにせよ、新たな相手を見つけるにせよ、デビュタントを済ませたライザが気軽に遊び歩ける機会など、今後はあまりないだろう。

淑女は文字通り淑やかでなければならず、活発な外遊びを楽しんではいけないのだ。




「エド、今日は乗馬に行きましょうよ」


朝、ライザがダイニングで朝食を食べているとエドガーがやってきた。挨拶を済ませるとライザはエドガーに提案したのだ。

するとエドガーが返事をするより早く、給仕をしていたメイドに言われた。


「お出かけになるのでしたらピクニックはいかがですか?昨晩の雨で湖の水が増水したと聞きました。きっといい眺めが見られますよ」



その湖は山の中腹に位置しており、雨水でその水量を大きく変える。この暑さで湖の水はかなり減っており、本来なら水中に潜っているはずの水草は水面に顔を出していた。

そのせいで湖というよりは草原のようになっていたのだが、それが昨日の雨で本来の姿にもどったらしい。

深い青緑の水をたたえる湖はとても美しいと聞く。メイドは、それを見に行ってきたらいい、と教えてくれたのだ。



「そうなの?だったらピクニックにする?」


ライザはそう言いながらエドガーのほうを見ると彼は、


「そうだね、せっかくだから行ってみよう」


と賛成し、ピクニックに出かけることが決まった。


「お昼をバスケットに詰めてほしいとシェフに頼んできますね」


エドガーの食事を運んできたメイドと入れ替わるように、湖を教えてくれた彼女はダイニングから出ていった。


「ここには夏しか来ないからしかたないけれど、あの湖はいつ見ても草原だものね」


ライザの感想にエドガーは言った。


「俺は春にも来るから知ってるけど、湖面に太陽の光が反射する様はとても綺麗だよ」

「エドガーは春もここにいるの?」

「新学期の前にね、ここに寄ってから寮に戻るときもある」

「そうだったの、知らなかったわ」

「でもここに寄るとそのあとの寮生活がきつくなるんだよな」

「まぁ、どうして?」

「ここの食事のほうがずっと美味しいんだ。寮の食事も悪くはないけど、やっぱり温かいほうがおいしい」


それを聞いてライザは呆れてしまう。彼はなにかに夢中になると食事や睡眠を忘れてしまうひとなのだ。寮の料理人だってきちんと温かい料理を提供しているはずだ、時間通りに食堂に行かない彼が悪い。


「それはエドガーが食事をすっぽかすからでしょ?」

「そうとも言う」


ライザの指摘にエドガーはしたり顔で言い、にやりと笑った。







エドガーはメイドからバスケットを受け取り、ふたりは湖の見える山の斜面に向かって歩いていった。

明け方まで雨が降っていたせいで湿度が高いのだろうが、山の風がそれを吹き飛ばしてくれる。

暑いながらも快適な山登りを楽しんだライザであった。




「うわぁ、真っ青ね!」


眼下に湖の姿を見つけてライザがはしゃぎ声をあげた。

いつも草原のように見える楕円形のそれは、今日はきちんと湖に見える。エドガーの言っていたように揺れる水面の上で太陽の光がきらきらと反射している。


歓声を上げるライザの後ろでエドガーは適当な木陰を見つけると、厚手のブランケットを広げて休憩できるスペースを作った。風に飛ばされないように大きな石を四隅に置き、真ん中にバスケットを置くとライザのそばまで歩いていく。


「いい眺めだろ?」

「えぇ、本当に。とても素敵だわ」


帽子を飛ばされないように両手でつばを押さえながらライザは言った。

しばらく黙って湖を眺めていたふたりだったが、エドガーのお腹が鳴ったのをきっかけに昼食にすることにした。




詰めてもらったサンドイッチや果物をバスケットから取り出す。冷やした紅茶が入ったポットまで入れてあって、それは少しぬるくなっていたのだが、夏の日差しの下で飲むには十分であった。


「そういえば昨日、手紙が届いてたな。誰からだったんだ?」


エドガーの質問にライザは苦い顔をする。


「王都の友人よ、あちらでは相変わらずハルフォード侯爵とエリザベスさんの話題で持ちきりですって。当分は帰ってこないほうがいいって知らせてくれたの」


「訴訟なんて書いてあったからな。貴族相手に平民が裁判を起こすこと自体、なかなかないことだから、みんな面白がってるんだろ」


届いた手紙によると、カーティス商会は最近、代替わりをしていて今は兄弟が取り仕切っているらしい。愛するエリザベスが一方的に家に帰されたことに腹を立て、勝てるかどうかもわからない訴訟を決意したのもおそらくその兄弟なのだろう。


「大切な妹さんだったのね、きっと」


ライザがしんみりと言えばエドガーも賛同した。


「気持ちはよくわかる。俺もライザが傷つけられたら、相手が誰だろうと絶対に許せない」

「じゃぁエドガーはわたしのお兄様ね」

「そういう意味で言ったんじゃない」


嫌な顔をしているエドガーにライザはわざと、お兄様、と呼んでからかったのだった。






それからふたりはお行儀悪く敷物の上に寝そべって、カードゲームをしたり、しりとりをしたりしていたのだが、吹く風が急にひんやりと冷たくなり、エドガーは慌てて起き上がると、帰ろうと言い出した。


「どうして?まだ日は高いわ」

「天気がいいのに冷たい風が吹くときはどこかで雨が降ってる証拠なんだ、山の天気は変わりやすいというし、もう帰ったほうがいい」


エドガーは手早く荷物をバスケットに詰め込み、ブランケットもたたんでしまう。


「行こう、ライザ」

「わかったわ」


もう少しのんびりしたかったライザだったが、エドガーの真剣な様子に反論はできなかった。



彼のあとについて来た道を戻っていくと、急に大粒の雨が降ってきた。


「まずいな、走ろう」


エドガーはライザの手を握って駆けだしたのだが、それより雨足のほうが早かった。あっという間に土砂降りになってしまい、エドガーは近くの狩猟小屋へと飛び込んだ。

ここからなら搬出用の馬車道も整備されている。これほどひどい降りだ。小屋の中で待っていれば、屋敷の人間が馬車で迎えにきてくれるかもしれない。



「ひどい目にあったわ」


エドガーもライザもすっかり濡れてしまった。

窓から見える雨は少し弱まったようだが、今度は霧が出てきたようで辺りが徐々に霞んできている。


「ライザ、服を脱ぐんだ」

「なにを言い出すのよ」


エドガーの発言に驚くライザだったが、彼は真面目な顔で暖炉に火をつけ始めている。


「霧が出てきた、寒いくらいになるかもしれない。濡れた服を着ていたら体温が下がってしまうから、暖炉で乾かそう」


そして予備のブランケットをライザに投げてよこした。


「服を脱いだらそれを羽織って」

「でも、エドガーはどうするの?」


厚手のブランケットの方は先ほど、雨上がりの地面に敷いてしまった。きっと湿っている。


「俺は別にいいよ」


そう言ってエドガーはさっと服を脱ぎ捨てたが、目に飛び込んできた彼の素肌にライザは慌てて後ろを向いて怒鳴った。


「レディの前で脱ぐなんてマナー違反よ」


ライザの怒りにもエドガーは呆れている。


「マナーって。今は緊急事態だろ?」

「そうだけど」


エドガーは脱いだ服をぱんっと軽くはたいて水気を飛ばすと、暖炉の側に持ってきた椅子の背もたれにひろげた。


「さっさと脱いで乾かしたほうがいいぞ」


ライザは迷いながらも結局、上着だけを脱ぐことにした。本当はブラウスもかなり濡れていたのだが、さすがにエドガーの前でそれを脱ぐ勇気はなかったからだ。


ブランケットを羽織るとエドガーがやったように椅子に服を掛け、彼を見ないで済むように彼のすぐ隣に座った。ここならお互いに正面を向いたままで会話ができる。


先ほど、ちらりと見てしまったエドガーの体にライザはひどく驚いたのだ。

彼の体つきはすっかり成人男性のそれになっており、暑い盛りに一緒に水遊びをしていた少年の面影はもうなかった。

急に大人の男性になって目の前に現れたエドガーにライザはどうしていいかわからなかったのだ。





ライザの戸惑いにも気づかずにエドガーはのんきに話をする。


「子供の頃もこうやってずぶぬれになったことがあったよな」

「そうだった?」

「やっぱり夏でさ、暑いからって噴水の周りで遊んでて落ちた。風邪を引いたら大変だって言われて、夏だってのに熱い風呂に放り込まれてさ」


エドガーはそのときのことを思い出したようで笑っている。


「今度はのぼせて、バルコニーで横になってたらライザが心配してきてくれた」

「そういえばそんなこともあったわね」


正確には落ちそうになったライザをかばってエドガーが噴水の中に落ちたのだ。しかし結局、彼が落ちた時の水しぶきを浴びたライザもしっかりとずぶぬれになった。


「あのとき話したこと、覚えてる?」

「一番星を教えてもらったわ」


夕暮れの空にひときわ美しく輝く星の存在をライザに教えてくれたのはエドガーだった。


「ライザはあの星が欲しいって言い出して」


そのときのことを思い出したエドガーはくっくっと笑い声をあげた。


「そうだったかしら?」


本当はライザも思い出していたのだが、恥ずかしくてわざと覚えていないふりをした。


「星に手は届かないから取れるわけがないって言ったら怒ったよな」

「もう。子供の頃の話でしょ?忘れてよ」


癇癪を起こしてしまったライザに、エドガーが途方に暮れていたのを覚えている。でもそのあと、彼はとても優しい声で言ったのだ。


「それで俺は言ったんだ、あの星をきっとライザにあげるからお嫁さんになって欲しいって」


そう言われてライザは身を固くした。

今までも何度かエドガーに想いを告げられたことはあったが、いまいちピンと来ていなかったライザだった。しかし淑女の仲間入りをする程の年齢になったのだ。彼のこの言葉に込められた情熱に気づかない程、もう幼くはない。



「ライザ、こっちを向いて」


快活なエドガーらしくない気弱な物言いにライザは戸惑いながらも彼のほうを見ると、そこには怖いくらいに真剣な顔をした彼がいた。


「あの頃も今も、俺の気持ちは変わってない。君を愛してるんだ」


ゆっくりと彼の手がライザの頬へと伸びてきて、そっと引き寄せられる。


口づけをされる!


そう思った次の瞬間、ライザはエドガーを突き飛ばしていた。






いつの間にか雨はやんでいて、小屋の中では暖炉の木がパチパチとはぜる音だけがしている。


「ライザ」


その静寂の中、エドガーはライザの名を呼んだが、彼女は返事ができなかった。

兄だと思っていたひとから求婚をされた上に、唇まで奪われそうになったのだ。これでショックを受けない女性などいない。


「ひどいわ」


ライザはなんとかその一言を絞り出したところで泣き出してしまった。淑女は人前で泣いてはいけないというのに、涙はあとからあとから溢れ出てくる。



そのとき、小屋の外で物音がし、扉が開かれた。


「やはりここでしたか」


それは屋敷の使用人で、エドガーの予想通り、彼は馬車で迎えにきてくれたのだ。彼と一緒にやってきたメイドがふたりにタオルを手渡す。


「おふたりとも大丈夫ですか?」


泣いているライザに気づいたメイドは困ったように微笑んだ。


「まぁ、怖かったんですね。もう大丈夫ですよ、一緒にお屋敷に帰りましょう」




山道を削って広げられた道を馬車は慎重に降りていき、やがて屋敷にたどり着いた。

エドガーは御者がドアを開けるのも待たずに自分で開けて降りて行った。


「すまなかった」


そう言い残して。








濡れたブラウスを脱がなかったせいで、ライザはその夜から熱を出してしまった。

熱は三日ほどで下がったのだが、その後、五日間もベッドにしばりつけられてしまった。体調の良くなったライザはベッドの上で退屈をしていた。こんなとき、必ず顔を出してくれるはずのエドガーも今回は来てくれない。


口づけを拒んだことを怒っているのだろうか。

それを言うならライザだって怒りたい。許可もなく口づけをしようとするなんて、紳士のすることじゃない。


「エドはなにしてるの?」


ベッドメイクの為に部屋を訪れたメイドに聞くと、彼女は忙しそうに手を動かしながら言った。


「エドガー様はもう寮に向かわれましたよ。今学期は進学試験を控えていらっしゃるそうで、早めに戻って勉強をなさりたいんだとか」


それを聞いてライザは驚いた。

エドガーは今まで一度だってライザに別れの挨拶もなく学園に戻ってしまったことなどない。


「そうなのね」


ライザは自分でもびっくりするくらいがっかりした声で返事をしてしまい、それはメイドが手を止めて心配そうな視線を向けるほどだった。


「アカデミーの試験は大変だものね」


努めて明るい声でそう言って見せたライザにメイドは訝し気な顔をしながらも、自分の仕事に戻ってくれた。



ライザがなによりもショックだったのは、エドガーの挨拶がなかったことに自分が思った以上のダメージを受けている事実にだった。






朝晩の気温が涼しく感じるようになり、日中の暑さも和らぎ始めた頃、カディス伯爵からライザに、侯爵家との話し合いが終わったから安心して戻ってきなさい、という手紙が届いた。


もう間もなく秋のシーズンが始まる。春に相手を見つけられなかった人たちが年内最後のチャンスを求めて集まるのだ。もちろん、ハルフォード侯爵との婚約が白紙になったライザも、社交場で相手を探さなければならない。


このシーズンは短い。本気で相手を探すなら始まる前にドレスや装飾品の準備を済ませ、初回の夜会から積極的に参加しなければあっという間に終わってしまう。

伯父の手紙の後押しを受けたライザは王都に戻ることにした。




ライザは、屋敷に戻る前に商会の事務所に顔を出すことにした。避暑地で従業員へのお土産を用意した為、様子を見るついでにそれを手渡そうと考えたのだ。

ライザが所持する商会は市街地の中心に程近く、多くの人が集まる場所だ。ハルフォード侯爵との醜聞が出た直後は、この辺を歩いているだけでひそひそと噂されたものだ。


内心、ドキドキしながら馬車から降り立ったライザだったが、カディス伯爵の『安心して良い』という言葉は本当だったようで、彼女を気にかけるひとなどひとりもいなかった。

商会の従業員と話をし、いくつかの報告書を受け取ってからライザは伯爵の屋敷に帰宅した。




ライザを出迎えたメイドから、伯爵が執務室で待っていることを教えてもらい、そのまま執務室へと向かった。


「おかえり、ライザ」


ライザが入室すると伯爵は笑顔で彼女を出迎えてくれた。


「ただいまもどりました、伯父様」

「避暑地では楽しく過ごせたかい?」

「はい。毎日、エドガーと出かけてました」


喧嘩別れのようになってしまった彼のことを思い出し、チクンと胸が痛んだライザだった。


「そうか、それはよかった」


伯爵はエドガーからなにも聞いていないようで、そう言っただけだった。



「伯父様、醜聞はどうなったのでしょう。ここに戻る前、お土産を渡しに商会に寄ったのだけれど、街では誰もわたしに見向きもしなかったわ」


ライザの言葉に伯爵は笑った。


「ハルフォード侯爵が手を回してくださったんだ。彼は、ライザに申し訳ないことをした、と言って、正式な婚約を結ぶ前だったというのに迷惑料だと言ってたくさんの金銭を支払ってくれたよ」

「わたし、そんなつもりじゃなかったのに」

「彼だってわかってるさ、でも詫びる気持ちを形にしたかったんだろう。またいつか、リーマスの話をしに遊びに来てほしいと言っていたよ」


ベッドに座って穏やかな微笑を浮かべていた侯爵を思い出す。父リーマスの話を聞きたいのはライザだって同じだ。


「今はまだお会いすることはできないから、せめてお手紙を書きます」


そう言ったライザに伯爵も賛成した。






その後、伯爵から語られた真相はこうだった。


ハルフォード侯爵邸は数十年前、火災に見舞われており、そのとき婚約契約書も燃えてしまった。かろうじて残った断片には相手の家名の頭文字、そして生まれた女児の名を走り書きしたのであろう『エリザベス』というメモだけが残された。


『カ』から始まる家名を持つ『エリザベス』という女性を探した結果、ハルフォード侯爵はカーティス商会のエリザベスにたどり着いたのだという。


ライザは普段、エリザベスと名乗ってはいない。とはいえ、ライザはエリザベスの愛称なのだから、少し考えれば分かったとも思う。しかしエリザベスの愛称はとても多い、侯爵がライザのことに気づかなかったとしても仕方がなかったかもしれない。


とにかく、彼はカーティス商会のエリザベスを息子の婚約者として屋敷に招いた。

カーティスは商会の中でも大きなほうではあったが、貴族相手の商売をしていない彼女がその生活様式を知るはずもなく、そのため、エリザベスは今までと同じようにメイドたちとのティータイムを楽しんでいた。

そしてジョシュアはジョシュアで、平民の彼女を一刻も早く社交界に馴染ませるべく、彼女を頻繁に夜会へと連れ出していたのだった。


『エリザベス』について語っていた男性たちは、ジョシュアがその名前を持つ令嬢を探していると知っていたから、彼が二人目の『エリザベス』を連れてきたことにひどく驚き、同時に面白がった、というわけだ。


しかしその後、本物の『エリザベス』であるライザからの連絡がきて、侯爵は人違いだったことを認め、平民にとってはじゅうぶん過ぎる口止め料と共に彼女を家に帰した。

しかしエリザベスの兄たちはそれに納得しなかった、それは彼女がジョシュアに恋をしてしまったからだ。

つかの間の恋人だった男を想って泣き暮らす妹を可哀そうに思った彼らは、貴族相手に訴訟を起こせないかと画策しはじめ、それをあのゴシップ紙にすっぱ抜かれてしまった。

平民でも貴族に訴訟を起こすことはできるが、勝てる見込みがあるかと言われたらそれは難しい。

だいたいカーティスは既に口止め料を受け取っているのだ。本当に訴えたいならまず、それをハルフォードに返して金銭のやり取りがなかったことにするところから始めなければならない。

もちろん侯爵は終わったことだと言って返金に同意することはなく、結局、カーティスは裁判所への申し立てに行きつくことすらできなかった。

エリザベスが今、どうしているのかは分からないが、少なくともジョシュアのほうに動く気配はなく、つまりは彼女の片思いだったのだろう。




「金庫から契約書が見つかったというのは噓だったのね」


ライザのあげた非難の言葉に伯爵は小さく首を左右に振った。


「当主の彼が火災で失ったとは言えないさ。実際に一部は残っていたのだからあながち嘘ではないし、他の契約書にも影響があると勘ぐられたら侯爵家の信用問題にまで発展する」


事業に関わる書面は写しを屋敷に置き、本物は管財人に命じて別の場所に保管してあったそうだ。

そうなるとますます、この婚約が思い付きなだけの重要ではない契約だったのだと思えるが、もう話はなくなったのだから蒸し返す必要もないと思い、ライザもそれ以上はなにも言わなかった。


ともかく、ライザの婚約は白紙となり、また婿探しの日々が戻ってきた。

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