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前編 過去からの手紙による婚約

カディス伯爵令嬢のライザが屋敷に戻ると、家令のヴィンストンから伯爵の執務室へ行くように告げられた。


「なんのお話かしら」


ライザのつぶやきにもヴィンストンは何も言わず、黙っている。

この家令は昔からこの調子だ、厳めしい顔をして多くを語らない。使用人の分をわきまえていると言えばそれまでだが、親しみやすさがまるでない。

ライザはこっそりとため息をついて、外出着のまま執務室へと向かった。



「ライザです、ご用と伺いました」


部屋のドアをノックしたライザに、入りなさいという入室を許可する声が届いた。


「失礼します」


ライザが断りを入れて中に入ると、爵位に相応しい大きなデスクにこの屋敷の主が笑顔を浮かべて座っていた。


彼はライザの伯父でカディス伯爵、ライザの養父である。





ライザの生い立ちは少し複雑だ。


彼女の本当の父親はリーマスといい、カディス家の次男だった。リーマスの父、つまりライザの祖父は大貴族でいくつかの爵位を持っていたのだが、そのうちの一つである子爵位をリーマスに譲った。

しかし、リーマスはライザが十三のときに事故で亡くなってしまった。彼の妻はずっと前に亡くなっており、この時点でライザは両親を失ったことになる。


この国の法律では、爵位を継承できるのは直系のみとされており、リーマスが亡くなったのだから子爵はライザなのだが、十三歳にもかかわらず、彼女はまだそれを引き受けるだけの力がなかった。


いずれ爵位を継ぐことが決まっている貴族子女は、幼いころからそれ専用の教育を受けるのが慣例であったが、リーマスはそれに重きを置いていなかった。

管理の為の仕事量というのは大抵、所持する土地の広さや事業の規模で決まる。そういう意味からすると、子爵の仕事はそれほど多くはなかった。


リーマスは、ライザを勉強漬けにするよりは子供らしい子供時代を送らせるほうが大事だと考え、彼女が成人するまでに学習を終えられる程度の、とてもゆっくりとしたペースで学習を進めることにした。そのため、当時のライザでは子爵にまつわる責務のすべてを捌くだけの能力がなかった。

爵位とそれに不随する事業を与えられても、管理ができなければ他人にいいように食い荒らされるだけだ。そこでリーマスの兄であるカディス伯爵はライザを一時的に自身の養子とし、事業ごと自分の保護下に置くことにしたのだった。


ライザは伯父の屋敷に住むようになった時点で伯爵令嬢を名乗っている。知識を持たず、実務もできない自分が子爵を名乗るのは気が引けたし、爵位と事業を守るという意味でも今は伯父の背中に隠れていたほうが安全だと思ったからだ。


ライザの引き継いだ事業というのは、生前のリーマスが営んでいた商会である。

事業に携わり始めて知ったことだったが、リーマスはかなり顔が広かったらしく、国内外とたくさんの取引をしていた。

手元に届けられる書類は世界共通語で書かれているものがほとんどだが、中にはそうでないものもある。

今はまだ、いちいち翻訳してもらわないと理解ができないが、いずれは一人で切り盛りできるようになりたいし、それを支えてくれる男性を婿取りするつもりでいた。








「帰ったばかりですまないね、茶会は楽しかったかい?」


カディス伯爵はライザにソファへ座るよう勧め、自身もその向かい側に腰かけた。


「まだ楽しめる程ではありません、社交というものは大変なんですね」


ライザは今シーズン、デビュタントを迎え淑女の仲間入りをしたばかりだ。今日は女性ばかりの茶会に出席してきたのだが、女性同士というのもなかなかに難しいものがある。


ライザの苦笑に伯爵は笑った。


「その点は心配していないよ、ライザはリーマスの娘だからね。あれのコネクションは目を見張るものがあった、わたしも今でもとても助けられているよ」


本当は子爵以外にもリーマスが継承できる爵位はあったのだが、彼がそれを固辞したのだ。


『友人との時間を大切にしたいので、難しいことは兄さんに任せます』


そう言った彼はどこで知り合ったのか、王族とも名前で呼び合う程親しい間柄になっており、彼の兄ならば、と、カディス伯爵は無条件で彼らの信頼を得ることができた。それが大きな商談へとつながったことは一度や二度ではなく、リーマスの娘であるライザを守ることで伯爵は故人への謝意を示しているのであった。



「実はそのリーマスからライザに手紙が届いたんだ」

「お父様から?」


驚くライザに伯爵は少し大きめの封筒を渡した。


中には一通の封書と『過去からの手紙をお届けします』と書かれた便箋が同封されていた。







以前、出した手紙を何年後かに届けるというサービスが流行った時期があった。


例えば、新婚夫婦が十数年後のそれぞれに手紙を書く。冷めきってしまった夫婦仲も手紙を読むことで当時の甘い思い出がよみがえり、夫婦円満へと繋がるというわけだ。もちろん現実にはそこまでうまくいかないだろうが、若いカップルを中心に大流行した。


しかし、その手紙が最悪の事態を招いてしまったケースが生まれた。


とある商家で相続の話し合いが終わったタイミングで手紙が届いたのだ。片方はこの手紙を遺言状だと主張し、もう片方はすでに相続は終わっていると主張した。結局、骨肉の争いにまで発展してしまい、これは商家の話ではあったものの、明日は我が身と受け取った貴族は多かった。


これをきっかけにあっという間に廃れた事業ではあったが、預かった手紙を届けるサービスは今でも律義に続けているようで、その業者にリーマスが預けていた手紙が今、ライザに届いたのだ。



ライザは訝しく思いながらも父からの手紙の封を開けると、中には一通の契約書が入っていた。


『ハルフォード侯爵令息並びにカディス子爵令嬢の婚約をここに契約する。

これは両名が成人後に公開すべし。

ただし、その時点でどちらかに婚約者が定められている場合は、契約を反故できるものとする』


ライザが読み上げたその内容に伯爵はもちろん、冷静沈着なヴィンストンでさえ驚きを隠せない。



ハルフォード家は今、最も勢いのある家のひとつだ。侯爵が経済を担う要職に任命されて以降、国内経済は右肩上がりを続けている。しかし過労がたたったのか、侯爵は病を得て療養が必要な身になってしまった。

とはいえ、後を継いだ彼の息子も、父に負けるとも劣らないだけの目覚ましい功績をあげている。間もなく有能な息子に爵位の譲渡が行われるのだろう、と社交界の住人が注目をしているそのハルフォード次期侯爵がライザの婚約者だというのだ。


「本物の契約書でしょうか」


ライザは伯爵に書類を手渡し、彼はそれを慎重に見極めている。伯爵が契約書を確認している間、ライザは封筒の中身を確かめたが、手掛かりになるようなものはなにも同封されておらず、この契約に至る経緯は分かりそうもなかった。


「ハルフォード側のサインがネイマンになってるな、これは先代のハルフォード侯爵のお名前だよ。カディスのほうは間違いなくリーマスの筆跡だね」

「では、お父様は先代のハルフォード侯爵と契約なさったというのですか?」


カディス家で所有する爵位の中で最も高いのは伯爵位だが、それは伯父が所有しており、リーマスは子爵だった。叔父の持つ伯爵という爵位をもってすら侯爵家との婚約契約を成立させるのは難しいというのに、それより低い子爵位のリーマスがどうやってこの話をまとめたのか。


ライザの疑問にカディス伯爵は少しの間を空けてから自らの考えを口にした。


「リーマスは王族とさえ親しくしていたんだ、前侯爵と知り合いになっていたとしてもわたしは驚かないな」


伯爵の返答にライザは困った顔をした。ライザが探しているのは嫁入り先ではなく、婿入りをしてくれる相手だ。まさか次期侯爵を子爵家にくださいなどと言えるわけもなく、彼との婚約が本当であればライザはリーマスの事業を継げないことになる。侯爵夫人という立場は子爵の仕事と兼任できるほど、楽なものではないからだ。



「このまま黙っているわけにはいかないですよね」


ライザの本音に伯爵は困ったような顔をした。


「とにかく、手紙を送ってみよう。案外、あちらはもう婚約者を決めているかもしれないよ」


カディス伯爵はそう言って姪を慰め、さっそくヴィンストンに便箋を用意させたのであった。









週末になり、カディス伯爵のふたりの息子、長男のカールと次男のエドガーが学園から帰ってきた。

彼らは普段、学園の寮で暮らしている。しかし社交シーズンに入っている間は夜会の支度をする為、こうしてときどき屋敷に戻ってくるのだ。


「おかえりなさいませ、カール様、エドガー様」


出迎えた家令にふたりは言った。


「ただいま、ヴィンストン」

「ライザはいる?」


ヴィンストンは彼らの外套を受け取りながら応じる。


「ライザ様はお部屋かと思います」


ふたりは早速ライザに会いに行こうとするがそれを家令が止める。


「まずはご主人様にご帰宅の挨拶を」

「大げさだな、学園から戻ってきただけじゃないか」

「だとしても当主への挨拶は必要です」


ヴィンストンはふたりの教育係も担っている。社交界のマナーを教えるのが彼の責務であり、その役目を果たそうと一歩も引かない。


「わかったよ。行くぞ、エドガー」

「ヴィンストンは厳しいなぁ」


ぶつくさと文句を言いながらも、ヴィンストンの後について伯爵の執務室へ向かったふたりであった。





伯爵は執務室でふたりを出迎えた。ヴィンストンが給仕をするなかで三人の男性は話を始めた。


「学園はどうだ?」


伯爵の問いにカールは笑った。


「シーズンに入りましたからね、あちこちからカップル成立の話を聞きますよ」

「おまえたちも、そろそろ相手を決めたらどうだ?」


伯爵の問いにカールはまんざらでもない顔をしているが、エドガーは逆に苦い顔をしている。

エドガーの見せる表情に伯爵はため息をつきながらも、給仕を終えた家令に目で合図をし、例の契約書を持ってこさせた。


「ふたりに話しておきたいことがある、これはライザの婚約契約書だ」


その言葉に、ちょうど紅茶を含んだばかりのエドガーが大きくむせた。


「ライザの婚約って本気ですか?」


エドガーはせき込みながら伯爵に言い、彼は静かにうなずいた。


「これはリーマスが整えた縁談だ、相手はハルフォード侯爵令息となっている」

「リーマス叔父さんが?」


そう言ってカールは契約書を受け取り、それをエドガーが隣から覗き込む。


「侯爵だなんて冗談じゃない、ライザは婿を探してるんですよ?だから最初から俺と」

「エドガー」


エドガーの言葉を遮った伯爵は厳しい顔をしている。


「その話は何度もしたはずだ。ライザは優しい娘だ、おまえとの婚約を切り出せばきっと承知をするだろう。だが、世間はどうみる?育ててやった恩を着せた婚姻などと揶揄られては、おまえもライザも可哀そうだ」


「それは、そうですが」


エドガーはライザを正しく異性として意識していて、何度かそれとなく想いを伝えてみてはいるが、手ごたえを感じたことはなく、彼女がエドガーに対して家族以上の思いを持っていないことは明らかだった。

ライザと結婚したいのなら彼女の心を得るようにと伯爵からは言われており、それができていない現状では反論材料はゼロに等しい。


「侯爵に確認の手紙を送った、今はその返事を待っている状態だ。あちらがどうでるかはわからないが、ライザの婚約が決まったなら祝ってやってくれ」


伯爵の言葉にカールは困ったような顔をして隣に座る弟に視線を向け、その弟は口を引き結んでなにも返事をしようとはしなかった。




執務室を出たふたりだったが、エドガーは明らかに怒っておりカールはそれにため息をついた。


「エドガー、ちょっと俺の部屋で話そう」

「俺に話なんてない」

「そんな顔をしていたらライザが心配するだろ、いいから来い」


カールはエドガーと肩を組み、強引に自室に押し込んだのだが、部屋に入った途端、エドガーは堰を切ったように心の内を吐露し始めた。


「ライザには何度も気持ちを伝えてる、デビュタントのエスコートをしたのも俺だし、ドレスだって俺が用意した。なのにどうしてライザは俺を選んでくれないんだ」

「ライザはまだ恋も知らない子供だ、焦っても仕方ない」

「だからってこのまま指をくわえてライザが他の男のものになるのを見てろっていうのか?」


エドガーの必死な様子にカールはあきれた顔をした。




従兄妹として初めてライザと対面した日をカールはよく覚えている。


「女なんかうるさいだけだ」


そう言って野原を駆け回っていた弟がライザを前にした途端、顔を真っ赤にしたのだ。


「ライザです、よろしくおねがいします」


そう言ってふんわりと微笑んだライザをカールも可愛いと思ったが、彼はそれ以上踏み込まないように気を付けた。誰の目にも明らかなほどエドガーは一瞬でライザに心を奪われており、そんな弟を応援したいと思ったからだ。

もちろんライザが将来の子爵であるということも考慮した。伯爵となることが決まっているカールはライザの望む婿にはなれない。幸か不幸かエドガーには継がなければならない爵位はないのだから、彼ならライザの相手として条件に合っているし、心から彼女を愛する素晴らしい夫になれるだろうとも思った。

やんちゃなだけの少年だった弟は恋を知り、あっという間に青年となった。どこで覚えてきたのかライザの髪をひと房すくい、それに口づけをするなんて気障なことまでしている。

カールは大切な弟と妹がうまくいくことを願っていたのであった。


それがまさか侯爵令息とライザの婚約契約がすでに成立していたとは知らなかった。

互いに婚約者がいるのなら、反故にできると書いてあるが、少なくとも現時点でライザは誰とも婚約をしていない。強引に手続きだけでもしておかなかったことを弟が口惜しく思うのは当然だった。




「ライザはどう思ってるのかな」


エドガーがぽつりとこぼしたその言葉は彼の心情を物語っているようで、カールはかける言葉が見つからなかったが、それでもあえて明るい声で言った。


「部屋に行って来いよ、一番不安なのはきっとライザだ」

「カールは行かないのか」

「弟の恋路を邪魔するほど、俺は野暮じゃないんでね」


そう言ってカールはエドガーの肩をたたき、彼を部屋から追い出した。






ライザが自身に届いた招待状を部屋で精査していると、エドガーが顔をのぞかせた。


「ライザ、今夜、俺の友人の集まりがあるんだ。一緒に行かないか?」

「エドガー、帰ってたのね」


ライザは彼に家族としてのハグをしてから困ったような顔をした。


「そうしたいのは山々だけれど、もうすぐ婚約するかもしれないから」


ライザの言葉にエドガーは肩をすくめてみせた。


「父上から聞いたよ。ハルフォード侯爵だなんて、リーマス叔父さんも随分大きく出たな」

「本当だと思う?」


ライザの問いにエドガーは首をかしげた。


「どうかな。リーマス叔父さんは顔が広かったから、あり得ないことではないだろうけど」

「伯父様もそうおっしゃったわ」


ライザはため息交じりにそう言ってからエドガーに質問をした。


「エドガーはハルフォード侯爵令息様を知ってる?」

「彼はアカデミーの卒業生だから話は聞いたことがあるよ、生徒会の運営を任されていたらしい」


生徒会に抜擢されるのは、高位貴族の中でも成績上位の優秀な者だけだ。現在、この国を担う人物は皆、学生時代、何らかの形で生徒会に関わっている。それだけでも彼の優秀さを物語っていると言えた。


「学生の頃から秀才だったのね、怖い方じゃないといいけれど」

「うーん、怖いっていうのは聞かなかったな。鋭いひとだとは皆、口をそろえて言うけど」


鋭いというのは怖いと同義ではないだろうか。

そう思ったライザはまた小さくため息をついて、ソファへと腰を下ろした。その前に置かれたテーブルの上にはライザ宛の招待状が山になっている。


ライザが将来、子爵になることは、大っぴらにはしていないものの、知っているひとたちもいる。女子爵の婿の座を欲するひとたちから、ライザは多くの誘いを受けているのだ。

ライザとしても婿探しをしている手前、こうした誘いはありがたいのだが、ハルフォード侯爵との婚約が本当なら、見合い目的の集まりは自重しなければならない。


エドガーはその招待状を横目にライザに再度言った。


「今夜の集まり、ライザも行こう。学園の仲間も大勢来るからきっと楽しめるよ」


ライザとエドガーは従兄妹同士で身内同然だ。侯爵が本当にライザの婚約者だったとしても、身内である彼のエスコートを受けるのは問題ないのかもしれない。


そう考えたライザはエドガーに承諾を告げた。


「わかったわ、参加します」

「よかった、じゃぁドレスは俺が贈った物を着てくれるね?」


エドガーは既に数枚のドレスをライザに贈っている。

彼は少なからず自身の想いを入れ込んで用意をしたのだが、実の兄が妹のデビューを祝ってドレスを贈るのはよくあることで、ライザはその類のプレゼントだと思っている。


「そうね、せっかくだからそうするわ」


ライザは伯爵にもたくさんのドレスを仕立てもらっているが、エドガーのエスコートを受けるなら彼の用意したドレスを身に着けるべきだと考えた。


「俺のお勧めはグリーンかな」

「あれは少し色が濃すぎるわ」

「夜会だから問題ない」


エドガーはそう言い、ライザの承諾も得ないままグリーンのドレスを出すようメイドに指示している。ライザは困ったように微笑んだものの、エドガーの指示に従って良いことを伝える為、メイドにうなずいて見せた。


エドガーはあまり集まりを好まない。それでも、思いがけない侯爵との婚約話に思い悩んでいるライザを元気づけようとしてくれているのだろう。


「エドガー、大好きよ」


ライザの言葉にエドガーは柔らかい微笑みを浮かべ、


「俺も大好きだよ」


と言ったのであった。








ハルフォード侯爵にお伺いの便りを送ってからひと月以上が経った。

同じ国内なのだから手紙はとっくに届いているはずなのに一向に返事がない。侯爵夫人の座を求めているだけの卑しい娘だと思われて無視されたと内心で腹が立っていたライザだったが、やっと返ってきた返事は非常に丁寧なものであった。



『お迎えの準備に時間がかかり、誠に申し訳なく思います。

いつお越しいただいてもこちらは問題はございませんので、是非、おいでください』



高位貴族の、それも飛ぶ鳥を落とす勢いを持つハルフォードとは思えないほど下手に出ている文面だ。

まるで使用人が貴族に対して出した手紙のようだったが、封筒に押されている封蝋は間違いなくハルフォード侯爵家の紋だった。



「来いと書いてあります」


ライザの言葉に伯爵は肩をすくめた。


「侯爵様の下知だ、従うしかない」


ライザは遠慮なく嫌な顔をしてみせた。


「事業はどうなりますか?」

「侯爵の許しがあればライザが管理しても問題はないと思う。わたしも口添えをするから、そうがっかりせずに」


伯爵にそう言われたライザは渋々、ハルフォード侯爵家へ向かうことにしたのであった。






ハルフォード邸は別名、赤の城と呼ばれている。屋敷の外壁に赤レンガが使われており、その庭には赤薔薇が咲き誇っているのだ。


ライザを乗せた馬車は咲き乱れる薔薇の歓迎の中を走り抜け、やがて屋敷の入り口についたところでその足を止めた。

馬車の扉が開けられ、ライザにエスコートの手を差し伸べたのは、美しいが少し硬い雰囲気を持った男性だった。


「初めまして、ジョシュア・ハルフォードです。お会いできて光栄です」


その作り物の笑顔にライザも同じ笑みを浮かべて応じた。


「わざわざのお出迎え、恐縮でございます」


彼の手を借りて馬車を降りたライザにジョシュアは言った。


「まずは父に会って頂けますか?部屋に案内します」

「わかりました」


ライザは彼のエスコートで赤の城の中へと足を踏み入れたのであった。





案内された部屋には大きなベッドがおいてあり、ハルフォード侯爵はその上に座っていた。


「すまないね、今日はあまり体調がよくなくて」


彼はそう言ってから少し咳き込み、彼の看護人であろう女性が背中をさすってそれを和らげている。


「ライザ・カディスでございます。お気になさらないでください、こうしてお会いくださっただけで感謝しております」


お辞儀(カーテシー)と共に告げた自己紹介にジョシュアが反応した。


「君の名前はエリザベスではないのか?」


唐突な問いにもライザは落ち着いて答える。


「母方の祖母と同じ名前なので区別をつけるために普段はライザとしていますが、本当の名前はエリザベスです」


ライザの説明にジョシュアはそうかと言ったきり黙ってしまった。高位貴族らしく彼は上手く表情を消しており、その考えまでは読み取れそうもない。


ジョシュアの沈黙の代わりに侯爵が口を開いた。


「あなたがエリザベス嬢か、よく来てくれたね。リーマス殿の兄上の家で生活しているそうだね」

「カディス伯爵はとてもよくしてくださってます」

「そうか、それはよかった。リーマスの残した事業も伯爵が見ているのかい?」

「はい、ですが、わたしも見習いとして携わっております」


ライザの言葉に侯爵は驚いている。


「いずれは君が管理をするということか」

「父の残した事業です、できればわたしが見ていければと思っています」

「そうか。それは頼もしいね、リーマス殿もきっと喜ぶだろう」


侯爵のその言葉は、ライザが侯爵夫人になった後でも事業の管理をしてよいという許可を示している。

気がかりが杞憂に終わりほっとしたライザはやっと緊張が取れ、質問を投げかける勇気も出てきた。


「失礼ながら、この婚約の経緯を教えてはいただけませんか?父から届いた書類は契約書しかなくて、詳細は全く分からなかったのです」


そう願い出たライザに侯爵は困ったような顔をした。


「実はわたしもよくわからないんだ。父はリーマス殿をとても気に入っていて、彼のほうも商売のついでに領地の父を度々訪問してくれていたというのは知っているんだがね。

ある日突然、お前に息子が生まれたらリーマスの娘と結婚させてやれ、と言われて。でも言っておくがそのときはまだ、彼は結婚すらしていなかったんだよ。わたしのほうも結婚はしていたが、子はなかったし、兆しもなかった頃の話だ」


「冗談だったのでは?」


「わたしもそう思ってその時は聞き流していたんだが、先日、金庫を整理していて契約書が見つかってね。これが正式なものであったことが分かったんだ」


産まれる前どころか、命が宿る前から決められた婚約だったとは。

だいたい、ちょうどいい具合に男女が産まれたからこそ成立した婚約だ。もし両方が男だったり、女だったりしたらどうするつもりだったのだろう。

こんないい加減な婚約契約など無効だと言いたかったが、故人の望みを一蹴するのは無粋な気がして、ライザは結局、微妙な表情を浮かべることしか出来なかった。


そんなライザに侯爵は、


「とは言え、この婚約とは関係なく、しばらく屋敷に滞在してはくれないか?久しぶりに父の話をしたいんだ。君もリーマスがどんな男だったか、聞きたいだろう?」


先ほど咳き込み、青い顔をしていた病人とは思えない程に晴れ晴れとした顔でそう言われ、ライザは返答に迷った。侯爵の傍らに立つ看護人にちらりと視線を走らせれば、彼女も小さくうなずいている。

もちろんライザとしても亡き父の話が聞きたいと思った。身内ではないひとから見た彼はどんなひとだったのだろう。


「喜んで」


ライザはそう返事をし、微笑んでみせたのであった。










最初の違和感はお茶の時間でのことだった。


その日は商会からの書類が届いており、午前中はいつものように侯爵の話し相手をし、午後からそれを精査していた。部屋の扉がノックされたことで時計を見て、もうお茶の時間であることに気が付いた。


「どうぞ」


ライザの許可でメイドがドアを開ける。案の定、ティーセットを持ってきてくれた。


「お茶をお持ちしました」

「ありがとう、テーブルにおいてくださる?あとで頂くわ」


ライザはちらりとそちらに顔を向け、指示を出すとまた書類に目を落とした。

しばらくするとメイドは支度を終えたようでソファのそばに立っている。給仕をしてくれるつもりなのだろうか、しかし今は手が離せない。


「あとは自分でやります、どうもありがとう」


ライザの言葉にメイドははじかれたようにお辞儀をし、部屋を出て行った。

そのときはなにも思わなかったライザだったが、その翌日もそのまた翌日も、お茶の支度を終えたメイドが何か言いたそうに部屋に留まることに気が付いた。


「給仕までしていかないと叱られるのなら、お願いしたほうがいいのかしら?」


ライザは今は伯爵令嬢ということになっているが、いずれは子爵になる予定だった。子爵家なら多少のことは自分でやるもので、ライザは伯爵邸で生活しているときもお茶の給仕をメイドに頼んだことはなかったのだが、未来の侯爵夫人になるかもしれない自分がそれではいけないのだと気が付いた。


しかしライザの言葉にメイドは明らかにがっかりした顔をし、

「いえ、違います。失礼します」

と言い、気落ちした様子で部屋を出て行った。


なにが彼女を落胆させたのだろうと気になったライザは彼女を追いかけようとドアを開けたところで、先ほどのメイドが廊下で待っていた数人のメイドと話している声を聞いた。


「どうだった?」

「ダメだった、給仕したいのかって聞かれちゃった」

「やっぱり生粋の貴族令嬢じゃお茶に誘ってはくださらないわよね」

「エリザベス様だったらおしゃべりを楽しめたのに」


そこでメイドの一人が笑った。


「あんたの目的はおしゃべりじゃなくてお菓子でしょ」

「だって!みんなだってそうでしょ?砂糖がたっぷり使ってあるケーキなんてわたしたちじゃなかなか食べられないもの」


メイドたちはその後も会話を弾ませていたが、そのうち立ち去ったようで、あたりは静かになった。




ライザはそっとドアを閉め、今、聞いてしまった会話について考えた。


ライザの本当の名前はエリザベスだ。しかしそれは母方の祖母と同じ名前であったため、わかりやすくするためにエリザベスの愛称のひとつであるライザを彼女の通称としている。

ハルフォード邸でもライザと名乗っており、この屋敷の使用人がわざわざライザをエリザベスと呼ぶとは思えない。

ということは、メイドの言っていた『エリザベス』はライザではない別の誰かのことになる。そしてそのエリザベスは使用人とお茶の席を共にしていたようだ。


貴族令嬢は使用人とテーブルを共にするなど絶対にしない。となると、その人物は貴族ではないことになる。しかし彼女らは敬称をつけて呼んでいた。


貴族でない娘に敬称をつけるとはどういう状況なのか。

いくら考えてみてもライザにはさっぱりわからず、かといって、使用人の望みのままに謎のエリザベスと同様、メイドとお茶をする気にもなれず、どうしたものかと悩むようになった。

お読みいただきありがとうございます

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