剣の達人
いまから40年ほど前、魔王軍との戦で活躍した剣士がいたという。
地平線を埋め尽くすゴブリンの群れを一太刀で切り伏せただの、山をも越える巨大なゴーレムを両断しただの、今日ではおよそ信じがたい話ばかり。
だが、
「本当のことなんですね?」
「ああ、たぶんな」
暗い酒場で飲んだくれている老年の男は言う。
「俺はその場面に立ち会ったわけではないがあいつなら、やる」
シュッ、と手を薙いでみせた。
造作もないってことだろうか?
「実際に見てもいないのに、どうして言い切れるのですか?」
「見なくてもわかるさ」
僕は酔った男に疑いの目を向ける。
「根拠をお聞かせください」
「いいだろう」
男は酒の入ったグラスをテーブルに置き、語りだした。
俺は昔傭兵をしていた。魔王軍と戦って戦って戦って。皆から「助かったよ!」「ありがとう!」って感謝されながら、ほんの少しばかりの報酬を受け取る。チンケな男だった。
自分で言うのもなんだが腕は悪くなかった。仕官の誘いもあった。だが貴族共にいいように使われるのが癪でいつも断っていた。傭兵はいい。嫌になったら出ていけばいいからな。
死と背中合わせの気ままな暮らし。いつのころか「俺は英雄にはなれねえ」って気づいて始まったこのしょうもない暮らしも、存外悪いもんじゃないと思いだしたそんな時、
「おい、傭兵はいるか?! いたらすぐ来てくれ!」
半島の向こうにある岬の町が魔物の大群に襲撃された。すでに町の外壁は破られ、城も魔物に取りつかれているらしい。
助けにいくには浜辺を大きく回り込み、川を渡って坂を登らなきゃいけない。まっすぐ行っても半日はかかる距離だ。さらに、
「橋が落とされている!」
魔物の妨害により、渡渉しなきゃいけなくなった。
でかい川だ。空を飛ぶ魔物の下、武具を担いで泳ぎきるのは不可能だ。
「どうする?!」
どうするもなにも、無理だろ。舟でもなきゃ渡れないね。
俺は木陰に座って右往左往する騎士様をぼんやり眺めていたが、しばらくして、
「おお、剣聖殿!」
なにやらいかついおっさんがあらわれて、斬ったんだ。
「斬った、ってなにを?」
「川を、さ」
僕は首をかしげ、続きを促した。
いや、はっきりとは見えなかったから確信は持てなかったんだが、そうとしか言いようがねえ。
さっきまでなかった星をえぐる創。深い峡谷のような化物の爪痕に川の水が吸い込まれ、下流はまたたくまに干上がった。
「出発だ」
水は千人の隊が渡り切るまで、創を越えてくることはなかった。
「ライス川の奇跡……!」
「歴史書にはそう書かれているらしいな」
「でも、あれは女神様の加護だって」
男は鼻で笑い、
「俺は長いこと戦場にいたが、神様はどこにもいなかった。いたのは剣聖と呼ばれたおっさんだけだ」
酒をあおった。
「その人がいまどこにいるかご存じですか?」
「山向こうの荒野にいるらしい。つってももう生きているか怪しいけどな」
僕はすぐに荷物をまとめ荒野へ向かった。
地図に記してもらった剣聖の家。
畑と羊と案山子。みすぼらしい小屋の戸を叩く。
「あの、こちらに剣聖殿はおられますか?」
しばらくしてキィっと音を立て戸が開く。
出てきたのは白いひげが地面までのびた老人。
粗末なローブ姿で杖をついている。
「私、各地の達人を取材しているものですが、こちらに剣聖がおられると聞きおよび、ぜひ話を聞かせていただけないかと……」
老人はぼけーっとしたままひげを撫で、
「けんせい……? はて、なんのことじゃ?」
「剣の達人です」
「けん……? けんとはなんじゃ?」
不思議そうにこちらを見つめている。
僕は身振り手振りを交えて説明したが、本当に知らないようだ。
「すみません。人違いでした」
耄碌したのか、あるいは作り話だったか。
(いずれにせよこれでは取材できない)
飲んだくれにいっぱい食わされたと諦め、踵を返すと、
「あっ」
空からぽつり、ぽつりと雨が。
「どうしよう」
雨はすぐに土砂降りになって荒野を満たした。
「泊まっていくかの?」
「いえ、仕事が溜まっているので」
僕は老人の親切を断り、雨の中を歩き出した。
と、なにかが僕を追い抜き通り過ぎた。
(風?)
目に見えないなにか。
振り返ると老人が微笑んでいる。
「なんだろう」
おかしなこともあるものだ。気にせず足を踏み出すと、僕の周囲だけ雨が止んでいる。
見上げると曇天を裂く一条の蒼穹。光が、差している。
「ツいているな」
そうとしか言いようがない。
僕は雨をかき分ける光の道を歩き、職場へと戻った。