1鉄の女は防御であり攻撃にもなる
「ああ~ら、どうするのよこれえ?」
私の目の前には一人の年若いメイドが立って腕組みし、チャーミングだったはずのそばかすまでが歪むくらいに底意地の悪い笑みを浮かべてこっちを見下ろしている。
「あんたのせいで全部こぼしちゃったじゃなーい。ジョアンナお嬢様が通り掛かる前にしっかり綺麗に拭いときなさいよ? いい?」
「……」
お嬢様、ね。
この屋敷に入って間もない彼女は知っているのかな、私の身分も歴としたここのお嬢様だって。ああ知っていて侮っているのかもね。
何であれ気分は最悪。私は目が覚めて早々、自分が汚水でずぶ濡れの状態だって悟った。こんなの普通誰も気分最高なんて思わないでしょ? 変態でもない限りはね。
よりにもよって、私は屋敷の人間に嫌がらせをされてる場面に放り出されたみたい、あはっ。
どういう意味かって?
現代ジャパニーズの私ってば、不運にも何かの手違いで二十歳にして転生する羽目になった。
某西洋風乙女ゲームのキャラクターに憑依する形で。
ゲームの大筋は、田舎出のヒロインが王都で王子やイケメンキャラ達とラブしながら仲良くなって、聖女になって、彼女のモテっぷりに嫉妬した悪役令嬢に命に関わるような嫌がらせをされつつも、人間世界の支配を目論むボス魔物を討伐して世界を救い、晴れて意中の相手と結ばれるって話。
中心キャラは王子だけど、その他にも沢山魅力的な男達がいて、プレイヤーは自分の気に入ったキャラと最後に結ばれるようにゲームを進めて行ける。だからエンディングは多数あって、それら美麗な映像のエンディングをコンプリートしたいって何度もプレイする人もいて、ゲームの売りと人気を支える理由の一角になっている。
その作品が過去にドはまりしていた作品なのは良かったのか悪かったのか。誰ルートが何回とかは細かく覚えてないけど、少なくとも寝食を惜しんで百回はクリアしたからストーリーも登場人物も把握している。
だけどその分だけ起こる悲惨な出来事にも詳しいから素直にこの第二の人生を喜べない。
だって憑依転生先は、貴族令嬢だけどめちゃ~~~~んこ虐げられてるキャラだった。
実母の他界後に父伯爵が再婚し、十年間も継母と腹違いの一つ下の妹に下働き同然に虐げられているって言う憐れな十六歳の少女――ケイトリン・シェフィールド伯爵令嬢。それが私。
彼女の父シェフィールド伯爵はほとんど家庭を顧みず養育を継母に任せて各地を飛び回る忙しいビジネスマンで、滅多に帰っても来ない。その上娘達を政略結婚のための道具としか思っていない冷血漢でもあった。
だからこそ、継母は屋敷の女主人として我が物顔で権力を振るえた。その娘も。
生母が他界したのはケイトリンがまだ五歳の時だから、で、異母妹は一つ年下だから、ははっ、一夫一婦制の国で育った人間からすると全く以てクソな父親ね。
伯爵の再婚後、ケイトリンの存在は客人達の目からは隠され書類上のみの存在になった。異母妹ジョアンナが唯一の娘とでも言うように屋敷の皆は振る舞っていたのよね。
気の毒にも幼い頃から冬は寒く夏は暑い過酷な屋根裏部屋で寝起きさせられていたし、豪勢な食事なんてマッチ売りの少女宜しく夢の中だけって環境に置かれていた。
たまにしか帰って来ないクズ父もそこはわかっていただろうに無関心と何もしなかった。
しかも、小さい頃からそんなのが当然だって環境で育つと、教育と一緒でそれが異常だって気付かず受け入れてしまうのか、ケイトリンは自分が折檻されるのは自分がとにかく至らないからだってずっと疑いもせずそう思っていた。
超絶良い子で超絶馬鹿。これが私のこのキャラへの感想だ。
髪色は綺麗な紫。長いその髪は光に透けると薄くなって菫色にも見えて幻想的。瞳は角度によっては金色にも輝く琥珀色。グラスに注がれたウイスキーみたいに滑らかに光を内包する。
使用人の服を着ていても際立つ生母譲りのその美しさにどこかの王子が惚れちゃったりなんてしたら、普段から着飾って豪華なドレスを着て美しさを保とう保とうって躍起な異母妹としては面目丸潰れ。だからやっかんでいた。
殺意さえ抱いてね。
それでもゲームに則して言えばケイトリンは十八歳までは確実に命は無事。
――で、そんな私のケイトリン・シェフィールド伯爵令嬢人生は、汚水シーンから始まったってわけ。
ケイトリンの出てくるシーンは脇役なだけにめちゃ少なくて、とりわけ継母と異母妹、彼女達に追従する使用人達に虐げられているところが多い。端的に言えば可哀想なシーンにしか登場しない。
そんな感じで急に回想に出てくるような役回りだから、どうなってたった今のこの状況に陥ったのかって細かい流れはわからない。
唯一わかるのは、私は頭から掃除か何かで使用後の臭い灰色の汚水を被っているって事。しかも廊下にへたり込んでいる。
「ねえちょっとあんた聞いてるの!?」
しばし状況把握に忙しくて無反応だった私に焦れて、汚水をぶっ掛けたメイドが声を荒らげる。転生前の私よりも五つは年下よねこのメイド。
「……はあ、クソガキが」
「え? 何よよく聞こえないわ」
まんま雑巾の臭いがする水が私の頭から滴り落ちている。ああ頭に雑巾が乗っかってたから余計に臭かったのね。道理で。
私は口の中にまで入った水をぺっぺぺぺっと空のバケツを持ったそのメイドの足に吐いてやった。
「きゃあっ汚いっ! ちょっと何するのよ!」
「ごぼごほっぺぺっうおっへん! ごっごめんなさっ、がはがはぺっ」
「いやあーっ!」
メイドは更なる悲鳴を上げた。雑巾臭い上におっさん臭いがさつな咳までし出した私に得体の知れない物でも見る目を向けてくる。いつもは虐待されるがままに儚く涙する姿からすると別人レベルの反応だからかな。その辺理解はする。けどこのままスルーできるかって言ったら別。
「急に気でも狂ったの!? さっさと床拭いて頂戴よっ!」
ポタポタポタと前髪から汚水が滴る。拭くための雑巾は立ち上がった拍子に頭から足元にべしゃりと落ちて中途半端に私のボロい布靴の上に乗っかった。布靴だからもう中までグショグショ。
私はその雑巾を敢えて踏み付けにしてやった。俯き加減だった顔をくわっと鬼のようにして持ち上げる……でもなくあーれーとふらついた。
次には雑巾で滑って咄嗟にメイドの胸ぐらを掴んだように装って、顔を近付けて瞬きもせずの悲壮感を浮かべる。
「役立たずでごめんなさいっ、でもどうして、どうしてどうしてどうしてこんな酷い事をするのおおおっ?」
「ひっ」
「だだだ誰に言われてやったのおおおっ?」
時に打ちひしがれる人間の読めない突飛な行動は怖気を誘う。ケイトリンのこれがまさにそう。狂気。頭から海藻を垂らした舟幽霊にでも遭遇したみたいにそばかすメイドはとうとう蒼白な顔で蚊の鳴くような声を出す。
「ジョ、アンナ、お嬢様よぅっ!」
あはっ、そうだよね。きっとこの光景も廊下の柱の陰辺りから盗み見て嘲笑ってんじゃないかなあ? ゲームじゃ大体そうしてたし。
私は冷めた顔でメイドから手を離す。
うーん、どうもこの流れには覚えがある。
ケイトリンが泣く泣く拭き掃除をしている所にジョアンナが待ってましたとばかりにやって来て、ケイトリンを心身ともに侮辱三昧するってあの場面かも?
「……あはっ、なら都合が良い」
「あ、あんた一体どうしたわけ?」
気味悪そうにこっちを見てくるメイドに、私はころりと態度を変えて縋るようにした。
「あのあの、ごめんなさいっ、すぐに片付けますからっ」
「え、な、なら早くそうしてよね、この愚図」
困惑しながらもいつもの調子を取り戻し、メイドは威張って腰に手を当てる。あはは、あなたにはもう少しこの茶番に付き合ってもらうわよ。
私は内心で小狡いキツネのように笑うと、もたもたと廊下を拭き始めた。
ビチャビチャ、ビチャビチャ、と廊下の汚水を手際悪く雑巾で拭く私。全然拭き取れていないどころか汚水の範囲を拡げている始末。てへっ勿論わーざーとっだおっ。
当然元凶のメイドは私を苛立たしそうにしているけど、文句は言わずにむしろどこか怯えたような目でも見てくる。また豹変しないかって警戒してるのね。うんうん無理もないわ。
と、ここで複数の足音が段々と近付いて来るのが聞こえた。
下を向いたまま手を動かす私は微かに口角を上げる。思った通りね。
直後、誰かのヒールの尖った先がピチャリと汚水を踏んで、それと同時にヒステリックな女の声が上がった。
「ちょっと廊下水浸しじゃないの! 汚い水をそのままなんてどういう了見よ! ちゃんと拭きなさいよ、――ケイト!」
そこにいたのは異母妹ジョアンナと腰巾着メイドな三人の仲間達!
ジョアンナに至ってはテンプレ悪役令嬢キャラに漏れなくふんぞり返って私を睨み下ろしている。猫背とは縁遠そうで何よりよ。それよりケイトじゃなくケイトリンお姉様でしょ? うふふ全く躾けのなっていない子ね。
「ああもうっ、折角の綺麗な靴が汚れちゃったじゃないのよっ!」
ジョアンナは絶対わざと汚水を踏んだくせにキッと私を睨み付けてくる。
「このままじゃ気が治まらないわ。この靴の責任取ってもらうわよ」
論理がおかしいのは日常茶飯事。つまり指摘しても無駄。この娘、アタマオカシイカラ。
「ケイトをそこに立たせて逃げないように押さえて頂戴」
はい、と計四人になったメイド達は喜々として私を取り囲んだ。
私は一切抵抗しないであっさり拘束されてやった。
そもそも今の私にそんな体力はない。ちゃんと食事をして体力と筋力を付けないとさすがに暴れたりなんてできないわ。無理にそうすれば体の大事な筋を痛めかねないから、将来のためにもそんな馬鹿な真似はしない。健康体は健全な生活維持のための大事な要素だから。
そんなわけで最終的にはがっちり三人掛かりでその場に押さえ込まれ身動きの取れなくなった私は強い目でジョアンナを見つめる。
何故かジョアンナはたじろいだ。
ああ、痩せこけていても輝くケイトリンの美貌に気圧されたのね。
本当は私の顔に生涯残るような傷を負わせたいんだろうけど、そんな真似をすれば政略結婚に使えないだろうと激怒した伯爵が容赦しない。現に過去に一度顔に怪我をさせられた際は烈火の如く怒ってジョアンナを震え上がらせた。幸い残らない傷だったけど。
伯爵にとって娘達は例外なく政略結婚の道具で、ケイトリンなんて磨けば容姿は抜群なんだから当然だ。権威ある高貴なエロジジイ様にでも嫁がせれば地位向上は約束されたも同然だから。
そこが余計にジョアンナには面白くないんだろう……っていけないいけないこっちだった。私は瞬き一つ後にはもう怯えた目で見つめる。
「なっ何するのジョアンナ? 放して?」
ふふん、迫真の演技でしょ。思った通りにジョアンナはすぐに優越に浸った表情を浮かべた。
コツリと高価そうな靴のヒールを鳴らして身を屈めると顔を近付けてくる。
「土下座して謝って更には私の靴の先を嘗めなさい。そうしたら赦してあげないこともないわよ?」
「あ、謝るって何を?」
「私の靴を汚したでしょ。そのためにわざとバケツを零させたのよね?」
「そっそれは誤解よ! バケツの水は事故で零れてしまったの! たぶん!」
わー言い掛かりも甚だしい。大体靴が汚れるのが嫌なら端を通りなさいよ。このハシ渡るべからずなんて看板はないわよ。
ここで最初に私に汚水を掛けたそばかすメイドが待ってましたとばかりに訴える。
「ジョアンナお嬢様、きっとわざとです! 私が運ぶのをわざと邪魔して汚水を零させたんです! 妬んでいたんですよ。旦那様からジョアンナお嬢様に贈られたその靴を。だから駄目にしてやろうって言っていました」
「なっ!? そんな事言ってないわ! ジョアンナその虚言癖メイドを信じないで!」
「キョゲンヘキって何よ?」
「……。うそつきって意味よジョアンナ!」
ケイトリンと一個しか違わないのに、こっちと違ってカテキョだって付けられているはずなのに、残念な娘……。
「うそつき。へえ。でもうそつきならそっちでしょ」
「本当に違うのジョアンナ!」
「使用人の分際で馴れ馴れしく呼ばないで頂戴! あなたの立場をよーく思い出させてあげるわ!」
ジョアンナは歪にほくそ笑み右手を振り上げた。
まだジョアンナって必死に訴えながら、内心じゃ私もにやりとした。
だってこの展開が欲しかったんだもーん。
彼女は酷く機嫌の悪い時にいつもよくやるように、躊躇いなんて一つもなく思い切り私の顔に掌を叩き付けた。
バシイィィッと肌表面を叩く音が上がって、メイド達までも唇を笑みの形に歪める。
ただし、今だけはいつもの音の他にくぐもってはいたけど何か硬いものが砕けるような音が同時にしていた。
「ぎぃいいいいいいいっ!」
刹那、ジョアンナは令嬢とは思えない野生動物的な声を上げた。
ゲームのストーリーに照らすなら、ケイトリンはジョアンナに殺される。
①馬車事故に見せかけて、デッドエンド。
②冤罪で断頭台行きにされて、デッドエンド。
③雇ったならず者達に物取りを装わせて、デッドエンド。
①~③はゲーム内の選択によっていずれかに決まるんだけど、とにかく、デッドなエンド!!
そうして名実ともにシェフィールド伯爵家の一人娘になったジョアンナは、王子アレクサンダーの婚約者になりたいがために今度は彼と仲の良いヒロインを陰湿に虐めて殺そうとまでする。一人殺すも二人殺すも同じって極悪な殺人令嬢なのよね。
私の役目は、後々如何に件の異母妹が悪どい女だったかを世間様に知らしめるための、要は生け贄。
そんな悪女の末路はテンプレートに漏れず断罪されて生涯幽閉もしくは処刑。末路はプレイヤーが選べる仕組みだ。
はん、ざまあ~。だけど私にとってそんな事は最早どっちでもいい。
だってその頃にはケイトリン死んでるし。
そう、死んでるし。
死 ん で る し っ !!
殺されエンドなんて冗談じゃないわってわけで、わたくし実は転生するにあたりチート能力をもらっておりましたの。
不運にも死んで魂の選別所みたいな場所にいた私に、天の声は「ごめん手違いだった。人生の埋め合わせにゲーム世界転生とかどう?」って提案された。それも知っているゲームに。
良くも悪くも野球少女だった私は、野球も、そして相棒たるバットもない世界に行くなんて気が進まず、面倒でもあったからこのまま天国に行かせてほしいってきっぱり言ったわ。
だけどそうしたら焦ったような間があって「では汝に一つチート能力を授けよう。それならどうか」って無駄に厳かなトーンで言われたの。
それでもゲーム内容を知っているだけに面倒臭いが勝って辞退したら「チート二つではどうか?」って食い下がられた。
また断ろうと思ったんだけど、それはそれで厄介な展開になりそうって直感が働いて、それなら……と不承不承と頷いて転生した。
一つ目を万能魔法使いが良いって言ったらそれは無理って却下だった。何がチート能力授けようよ全く。ケチ臭い。
仕方がなく妥協して、一つ目はいつでもどこでも対価なしで鋼鉄体になれるってチートにした。
普通は魔法力とか消費するからね。
もう一つは魔法収納能力。異次元空間に私の意思で自由に物体を出し入れできるって便利能力よ。勿論こっちも対価なし。
チート二つとも、私の自由意思でオンオフが可能だそうだ。
ただ転生寸前、天の声は一点だけこんな注意をしていた。
「転生する世界で死なないように上手く立ち回って大往生を迎えるのは構わないが、メイン登場人物達の顛末に影響を及ぼすのだけはやめた方がいい」
と。こっちだってわざわざ関わるつもりはないけど、何か影響を及ぼしちゃったらどうなるのかを訊いてみた。
「その世界が壊れ、皆が苦しみの中リセットの闇に消えていく」
あーなるほど。要はプログラムされたゲーム世界だから変えちゃあならない展開ってものがあるのね。絶対的達成条件って言ってもいい。
例えば「ヒロインは必ず聖女になる」とか「必ず悪役令嬢はざまあされる」とか「ヒロインは男性キャラの誰かとくっ付く」とか。
変わっちゃったらバグの連続発生で物語が立ち行かなくなってフリーズする。進まない世界なんて崩壊も同然だ。
そうなれば私もその世界ごと終わる。しかも苦しみの中って曖昧な表現なとこがかなり嫌だ。
無難に生きるためには世界そのものにまで配慮せにゃならんとかマジ面倒臭いわー。
まっ、選択した以上そこで生きていくしかないんだけど。
ジョアンナは私をビンタしたその手をもう片方の自分の手で庇うようにして悶絶している。金魚のフン達は何が起きたのかまだわかっていないからか、慌ててジョアンナの周りに駆け寄った。
一方、私は駆け寄ろうとしていたそばかすメイドの腕を掴んでやや真剣な目を向ける。
「ねえ、確認したいんだけど、私って今何歳かわかる?」
「は、はあ? いきなり何よ。十六でしょ。頭どうかしちゃった?」
そばかすメイドはこっちの手を振り切るとジョアンナへと駆け寄った。
十六歳。良かった私の記憶の通りね。なら今は十八歳で殺されるおよそ二年前か。
そのうちジョアンナはひいひい泣き言を言うように「痛いいいーっ手が、手があああぁぁぁ……っ」とメイド達へと訴えてその手を見せた。既に真っ赤になっている。
指の骨の一本くらいは砕けたかもね。暫くは利き手が使えないかな。お気の毒様。
「お嬢様これはどうなされたのですか!?」
「ケイト、ケイトよ! ケイトの顔が鉄のように硬かったのよ!」
信じられないって顔付きでジョアンナは私を見てくる。他方、メイド達は不可解そうにした。だって今までジョアンナはケイトリンに頬が腫れる程に何度もビンタをしているものね。メイド達からすれば常のように何の変哲もないビンタ光景でしかない。
私は敢えて打たれた頬をとても痛かった~って顔をして手で押さえると涙目になる。大成功で嬉し泣きよ。因みにこっちは痛くも痒くもない。
メイド達も単にジョアンナが私の頬骨にでも指が強く当たって不運にもこうなったと判断したらしく、こっちの頬がどうかしてるって風には考えてないようだった。ま、フツーそうでしょ。
「ジョアンナお嬢様、早く手当てしましょう」
結局メイド達から口々にそう言われて、痛みに悶えるジョアンナは従うしかない。彼女は自分でも不可解そうにはしていたけど泣きながらしっかりこっちを憎々しげに睨むのは忘れずに退散した。
その場に一人残された私はようやく一段落と息をつく。
一体全体何が起きていたのって?
お察しの通り、私は鋼鉄体になれるってチート能力を発動しただけ。ビンタされる直前にね。
これでいつでもビンタへのカウンターアタックができる。
加えて、このケイトリンが辿るデスルートには、馬車の事故やらギロチン処刑やら殴られたり刺されたりして死ぬやら、人間の体が軟らかいがために訪れる死があるから、鋼鉄体になればたとえ馬車で崖下に転落しても死なない。ギャグ漫画よろしく人型の穴が地面に深く開くかもしれないけど何とかその穴から這い出る事さえできれば生きていられる。ギロチンだって降ってきた刃が逆に砕けて終わる。周りにいた処刑人やら他人事と野次を飛ばしていた見物人達に飛び散った破片がぶっ刺さるかもね。撲殺刺殺だってされる心配もない。
ケイトリンが十八歳と二ヶ月の時に起きるその死亡イベントさえ回避できれば、私は一人この家を出て長生きできる。
そうは言っても独立するには色々と準備か要りそうだから、もうしばらくはこの屋敷で無難に立ち回っていくしかないんだけど。
その日のうちに、ジョアンナは右手に包帯ぐるぐるだった。
だけど彼女は自分の代わりに今度はメイド達に命じて私をビンタさせた。
カンカンカンカーーーーン! 勝者っケイトリーーーーン!
勿論、チートな私には効かない。
こっちも命令とは言え何度もケイトリンに嫌がらせを実行してきた相手に情けを掛けてやる義理もないから遠慮なく鉄の女になったわよ。
まあジョアンナ程には思い切ってはいなかったらしいメイド達は利き手を少し痛めたくらいで終わったけどね。
それには私もどこかホッとしてもいた。
その件が継母にまで伝わるのは時間の問題だった。
しかも誇張されてケイトリンが最愛の娘ジョアンナや彼女の侍女達に暴力を振るって怪我をさせたとか何とか。
継母は顔やら額やらに青筋を立ててその日の夜に屋根裏部屋に乗り込んできた。呼び付けるんじゃなくわざわざ足を運んだ。
ははーあ、手には鞭を持ってるし、私の血で他の部屋が汚れるのを嫌がったってわけだ。
「ケイトリン! お前っわたくしの可愛いジョアンナに怪我をさせたのだって? 何て性根の腐った娘なのっ。わたくしがきちんと躾けないといけないみたいね」
そう言った継母は邪悪で酷薄な笑みを浮かべた。
「お、お母様、少しもそんなつもりはなかったのです!」
「口ではどうとでも言えるわ!」
そこは同感同感。
「いや、お母様やめてーっ」
その夜、屋根裏部屋では継母がビシバシ何度も何度も鞭を振るった。痛っとかぎゃっとか醜い悲鳴が上がったけど、それらは全て継母のものだ。鋼鉄ボデイにまんまと鞭が弾かれて跳ね返ったその先が何度も継母本人に当たったおかげでそうなった。危うく失笑しそうになったっけ。
私はチートの他に服の下に仕込んだケチャップを上手い具合に滲ませて不自然じゃないように見せたから継母は疑いは持たなかった。本当なら血糊が欲しかったけど、そんなもの劇場でもないここじゃすぐに手には入らない。興奮でケチャップ臭さに疑問を持たれなかったのは幸いだった。
ぜえはあ息を切らして腕が相当疲れただろうボロボロの継母へと私は敢えて這い寄って、ごめんなさいもうやめてと彼女のドレスの裾をケチャップ塗れの手で握り締める。
高いドレスが駄目になった上に、忌み嫌っている継子から汚された腹立ちに激怒した継母は、こっちの予想通りに動いてくれた。
「その汚い手をさっさと放して頂戴っ! この疫病神っ……――アアアアアアア! 足がっわたくしの足がアアアアアアア!」
継母は思いっ切り私を踏み付けた。鉄宜しく硬いものを。足首辺りからグギッと嫌な音がしたのは聞こえた。
見れば確かに少しおかしな角度に曲がっている。
「アアアアアアアアアアアアアア!」
継母はその場にうずくまって、部屋の入口で控えていたメイド達が顔色を変えて駆け込んでくる。
「奥様! ああっ何て事でしょう足首の骨がっ!」
「ひいいいんっ痛いいいいっ、医者を早く呼んでえええっ!」
継母の元に残って介抱する者と医者を呼びに走る者とに分かれた。
メイドから両脇を支えられて立った際にまた変に動かしたようで娘同様獣みたいな絶叫を上げて、後はひいひい言いながら連れて行かれたよ。私はハラハラする演技をしながらも見えない位置でべっと舌を出してお見送りしてやった。
これで暫くはちょっかいを出して来ないはず。清々した。私はヒロインのような善人でも聖人でもないし、ジョアンナのような悪女じゃないから殺したいとまでは思わない。
また何かしてきたらやり返しはするけどね。
とりあえずは一時的にとは言え平和に過ごせるようになり、私はその間にこのゲームの知識を使って独立資金を稼ぐ事にした。
まず、変装して王都の情報屋に行った。価値ある情報を売るためと、そこから独自のコネクションを築くために。
更には、その情報を売ったお金で投資もした。
この先価値の跳ね上がる土地をキープしたり鉱山会社の株を買ったりと色々ね。
その他に、しっかり体を鍛えたら鋼鉄体を活用して冒険者をしようとも計画している。剣とか槍とかの正統派武器の扱いは得意じゃないけど鋼鉄体で体当たりするだけでそこそこ魔物にダメージを与えられるから。
そこまでできたら、このゲーム世界に隠された宝物を探しにも出るつもりでいた。
そして私は幸運にも冒険者ができるくらいにケイトリンの体を元気にする事ができた。
稼ぎも順調順調~。このままデスルートを鋼鉄体でやりすごしてトンズラバイバイハッピー人生を送るぞ~!