第八話 王の意外な提案と、ワインの行方
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「聖女オーカよ。婚約破棄を考え直してくれぬか」
謁見の間、上座にはマクミラン王が座すのみだ。【守りの聖女】である王妃は、他人の邪魔が入らないところで夜通し集中して結界を張っているから。
そして目の前の王から今さっき出てきた言葉が意外だったので私は一瞬ぽかんとしてしまった。動揺のあまり、返答をオブラートに包むことも忘れてしまう。
「いや、考え直すも何も……破棄を言い出したのはクライヴ王子の方ですから」
王は国政に関してはわりと良い王様だと思う。日本ではたかが下っぱ社畜だった私じゃ上に立つ者の資質なんてちゃんと理解してないかもしれないけれど。でも少なくとも民の不満は抑え込んでるし、聖女のお陰もあって城下は平和だから今までは有能だと思ってた。
だけど、ひとりの父親としてはダメな部類かもしれない。
「いやいや、クライヴもな、きっと本気じゃ無かったんだろう。ここは一晩頭を冷やしてくれ」
「冷やすのもクライヴ王子の方では?」
「……」
黙り込んだ王の顔を見て0.1ミリくらいは罪悪感が湧いた。私も魔獣討伐前に(きっちり公の場で形つけてやるからな!)って思ってたから、ホントはクライヴ王子に婚約破棄の先を越されただけなんだよね……。
「それに、私が言わずともクライヴ王子はエメリン姫にギチギチに詰められてましたし、一部始終を騎士団と魔術師団の大勢に見られてるので王子が一晩頭を冷やしたところで婚約破棄を取り消すことは出来ないと思いますけど」
「む」
廊下でのさっきの出来事は今、私が初めて王に報告した。詳しいやりとりを知らなかったマクミラン王は無言でグリーンさんやアイルさん、カーンさんを睨む。彼らは静かに頷いた。次いで彼の視線は別のところへ向いたのでそれを追うと、何故かエメリン姫が謁見の間についてきている。彼女は王と目が合うとニコッと微笑み返すのみ。
おやおや、実の兄に詰め寄った事を正しいと信じ言い訳すらしないのね。今まで彼女はきゃわわだったけどカッコいい属性も完全に備えちゃってる……やっぱりクライヴ王子よりエメリン姫の方が王の器なんじゃない?
私が内心でそんな事を考えていると、渋いイケオジなマクミラン王は(昔は美男と謳われてたのは伊達じゃないわ)、そのご尊顔を苦虫を噛み潰したように歪め、深~いため息をついた。
「……わかった。だが今夜はもう休め。宴は明日行おう。正式な破棄と新たな婚約者探しはその後考えよう」
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「ふあぁ……」
私は猫足のバスタブに張られたお湯にのんびりと浸かり、手足を伸ばしていた。飲酒のあとの風呂なんてうっかり眠って溺れる危険があるから厳禁だ! と元の世界なら怒られそうだけど、私、元々ザルだからお風呂で眠くなったこともないんだよね。まあこっちの世界ではメイドさんが横で控えてるから万が一寝ちゃっても安心なんだけど。
バスタブを出るとそのメイドさんがフカフカのタオルを差し出してくれる。受け取って体を拭いている間に彼女が私の髪を拭いてくれた。この世界に来て最初はメイドさんが3人も付いて全身拭こうとしてくれたんだけど、流石に居心地が悪いので今は1人にだけお願いしている状態だ。寝巻きに着替え浴室を出て寝室に入る。
「ね、あなたもお風呂に入らない? 洗ってあげるから」
床に丸まっているチャッピーに声をかけたら、彼は眉間にシワを寄せた。
「ヴルル……」
「もう~そんなに嫌がるほどお風呂が嫌いなの? でもクサいのは嫌よ?」
「オンッ!!」
チャッピーは立ち上がり、失礼な! とでも言いたげに銀混じりの青灰色の背中を見せつけてきた。私は反射的にそのモフモフに手を伸ばす。柔らかくつやつやとした毛並みに指をすべらせながら顔を寄せてみると、お日様に晒されたような乾いた匂いがふわりとした。昔小学校の授業の一環で田植えとお米の収穫をしたことがあったのを思い出す。よく天日干しをした稲穂にも少し似た匂いだ。
「ふふふ、たしかにクサくはないわね」
「ワフっ!」
「あの、聖女様っ、お酒はこちらに用意してますので私は失礼しても……?」
珍しくメイドさんがおずおずと言い出すので何事かと思い顔を見たら、彼女は軽く青ざめながらチャッピーを横目で見ている。あっ、怖いのか。そりゃそうだよね。
「あ~、ごめんね。もう今夜はいいよ。ありがとう」
「失礼致します」
彼女を下がらせ、寝酒の果実酒を手酌で注ぐ。ひとくち含むと爽やかな香りが鼻に抜け、アルコールの刺激とわずかな甘味や酸味が舌の上で踊る。飲み下したあとほう、と息をついてはじめて気づいた。
「……あ、カーンさんに預けたワインを回収するの忘れてた……」
今日は色々あってそれどころじゃなかったからなぁ。主にあの大馬鹿たれのせいだけど。もう夜更けだし、お風呂に入った後の未婚の女が未婚の男に会いに行くのはこの世界では……うん。結婚する気でもなきゃ無理だわ。
でもこのまま私が寝ちゃったら、せっかく仕込んだ細工が消えちゃうから誰でもワインの栓を開ける事が可能になってしまう。
「うーん……ま、いっか!」
ひとしきり悩んだ後、私はそのまま放置する事にした。カーンさんは私から見ても四角四面の生真面目なタイプだから、細工が消えてもワインを開けるようなことはしない筈だもの。明日の朝に取りに行けばきっと大丈夫。
そう考えてから明日、という言葉に憂鬱になる。明日、正式にクライヴ王子との婚約を破棄するとしてその後どうなるんだろう。また私への求婚者がわらわら現れるのか。しかもマクミラン王は親バカでクライヴ王子と私を結婚させたがってるみたいだから破棄や新しい婚約など簡単には認めないかも。……考えただけで気が重い。
私は手に持った杯を一気に空ける。
「はー、もう寝よ! おやすみ!」
足元で丸くなっているチャッピーに声をかけると、彼は目を伏せたまま鳴きもせず軽く尻尾を揺らすだけだった。それでおやすみの挨拶に応えたつもりらしい。私はそれを見て大きく柔らかなベッドに潜り込む。枕元の灯りを吹き消すと、すぐに睡魔が訪れて夢の世界に誘われた。