ここが地獄でも構わない
目の前が、真っ白になった。
アルバーは生まれてから十五年、ずっと神の御意のままに生きてきた。
生まれつき咎を背負わされても、厚く信じ続ければ、きっと神は認めてくれるはずだと自分に言い聞かせて。
礼拝を欠かしたことはなかった。
隣人に何を言われても、耐え続けた。
食事も、蹄の分かれていない動物や、反芻をしない動物は避けてきた。
だが今、飲み込んだのは人の目玉。
例え強要されようと、霊長類──人を食らうのは戒律違反。
この瞬間、アルバーの十五年に渡る信仰は、完全に無に帰した。
「あ、ああ、ああ、あああああああああああ!」
慟哭が木霊する。
喉が焼ききれんばかりに、悲痛な声を上げ続ける。
それでも、喉に残った血の味は消えてくれない。
涙が溢れ落ちた。
ぐちゃぐちゃに割れ、荒れ果てた床は、ただその涙を割れ目の下へと流すだけだった。
「さてと、どうなったか、なぁ!」
目にも止まらぬ蹴りが、アルバーの腹に炸裂する。
そして三輪目の薔薇が壁に咲く。
神の如き防御力は、もはや見る影もない。
「やっぱりな!神の加護がどうこう言ってやがったから、そうだとは思ったが!」
神の加護がその硬さの理由ならば、神の加護を得られないようにしてやればいい。
無論、コーレスは神など信じていない。寧ろ宗教など唾棄すべき存在だと思ってすらいる。
だがアルバーの言動から、何の根拠も無く、神の加護を僭称しないであろうことは想像がつく。
「わざわざ弱点言いふらすとはな。神の加護は、脳には効いてねえみたいだなあっ!」
歪んだ笑みを浮かべ、何度も何度も投げ飛ばし、蹴り飛ばし、痛めつけ続ける。
目を食わせるだけで、防御自慢が雑魚に成り下がった。
さっきまで偉そうだった奴が、血と涙を垂れ流している。
コーレスの心に、爽やかな風が吹く。
人を殺すのは楽しいが、長引くのはつまらない。
それが彼の考えだった。
だから逃げるだけのイチトとニコラ、耐久だけでちっとも駆け引きのないアルバーとの連戦は、どうしようもなくつまらなかった。
だがそれを終わらせる術を見つけてしまえば、その不快感は全て快感へと変わる。
強かった者の心を殺し、そしてその体までも殺し尽くす。
それが楽しくないはずがない。
義足が圧し折れ宙を舞う。
血飛沫がその体を赤く染めた。
目の光はとうに消え失せている。
ああ────楽しい。
「ハハハハハハハッ!」
「何を、笑ってんだよっ!」
「……あ?」
悲鳴にも似た大声で、悦楽に浸るコーレスは現実に引き戻された。
声の主の少女は、そのか細い腕で上体を床から引き剥がし、血まみれの足で立ち上がった。
「……何だお前」
「笑ってんじゃねよ、このカス野郎!」
コーレスの額にぴくりと青筋が浮かぶ。
「また目潰されてえのか?大人しく死んどけ。無様なアホを笑って何が悪いてんだ」
発散したストレスが再び全て戻ってきたかのように、怒りに満ちた顔。
だがニコラは一歩も引かずに睨み返す。
「確かにあの男は、神がなんだとゴチャゴチャうるさいよ!でも、それでもっ、あいつの信仰は、お前如きが踏みにじって良いもんじゃないっ!」
「ゴチャゴチャうるせえのはテメエもだろ。何だ急にキレやがって」
コーレスは叫ぶニコラに更に苛立ちを募らせる。
享楽の邪魔をしただけでなく、上から目線の説教まで重ねられたのだ。
それも散々痛めつけ、立場をわからせてやったはずの、小娘にだ。
「あいつは、何も悪いことなんかしてないのに、誰より、正しすぎるぐらいに正しく生きてたのにっ!何で全てを奪われなきゃならないんだ!」
「俺の邪魔は大罪だ。それに、飲んだのはあのカタガワ男だろうがよ!」
「お前が飲ませたんだろうがっ!あいつの悲鳴を聞いて、何も思わないのか!」
「いい気分になったぜ。最高になっさけねえ、良い声だったからなあ!」
「ああそうか!お前には、わかんないんだな!自分の命と同じぐらい、何かを大切にするって気持ちが!それを奪われた人間が、どんな気分になるのかも!」
涙が、止めどなく流れる。
ニコラは、アルバーがどんな人生を送ってきたのかは知らない。
だがそれでも、わかることはある。
アドナイ教で神聖とされる、左腕の無い人であるということ。
にも関わらず、戒律とは真逆の殺人集団の宙域に入ったこと。
そんな中でも、常に戒律を守る為に努力し続けたこと。
そして今、その努力全てを否定されたこと。
それは、人生そのものの喪失。
その辛さがニコラには、痛いほど伝わってきた。
「知ったことかよくだらねえ」
「くだらねえのはお前だ!お前の思考も、人生も、全部が全部くっだらねえ!」
「殺さねえからって調子に乗ってんなあ?死ぬ覚悟してから喋れよゴミが」
「してねえとでも思ってんのか!」
「ならお望み通りすり潰してやるよクソアマがああああ!」
血管が浮き出るほどの力を込めて、コーレスの拳が放たれた。
ニコラはそれでも目を逸らさず、正面から睨みつけ続けた。
ドガアァァッ!と破裂音。床が割れ、拳の跡が刻まれる。
だがそこには、血も脳漿も撒かれていない。
寸前に、拳が避けるように横へとブレたのだ。
当たっていないのだから、血が出るはずもない。
「何で生きてやがんだよ」
「生き、てたの」
無理矢理引かれた腕には、手錠が一つ繋がれていた。
太いワイヤーで両の輪を繋いだ、人の命を繋ぎ止める為の神の鎖が。
マッザロート・アルバー。
神の僕だったその男は、体を砕かれ、心を壊され、信仰を潰されても尚、立ち上がった。
命も教義も失って、最後に残った信念のために。
「貴様が、人を傷つけるからだ」
人の命を、救うために。
「どこまで、強いんだよっ……」
ニコラの残った目から、壊れそうなほどに涙が流れる。
血の量が、体の曲がり方が、その命はもう長くないと示している。
それでも、彼は最後の瞬間まで、どれだけの苦痛に苛まれようとも、人の命を救うと決めたのだ。
「弱いさ。貴様がいなければ、折れたままだった」
アルバーは、自らの腕にかけた手錠に鍵を差し込んで外し、投げ捨てた。
「大人しく折れてりゃいいのによ!」
地面がめり込む程の助走を経て、コーレスは腹めがけて拳を叩き込んだ。
「がはっ!!!」
抵抗する間もなく、直撃。
背後には壁がそびえ立ち、威力を逃すことすら許されない。
アルバーは、苦悶の表情を浮かべ、黒い血を吐いた。
「……何?」
だがコーレスは顔を顰めた。
ただの人間が、この一撃を食らって血を吐く程度で済むはずがない。
骨の折れる音も、内臓が潰れる感触もしないのは、異常だ。
「お前、何をした」
「ぐっ、何も、していない」
「嘘をつくな!俺の一撃を、生身の人間が耐えられる筈がないだろう!」
「なら、生身では、ないのだろう」
「ああ?馬鹿言えよ。テメエの能力は、神への信仰で防御が上がるんだろうが!戒律を破ったテメエは、有象無象だろうが!」
拳に力を込め、壁が悲鳴を上げるぐらいに押し込む。
だがアルバーは死なない。
どころか時間が経つにつれて、腹が硬くなっているようにすら感じる。
「確かに、私の『星群』は、『信じる程に硬くなる』、信仰によって暴力を退ける力だ」
「だったら神とやらに見捨てられたテメエには使えねえだろうがよ!」
「いいや、使える。現に今、貴様の攻撃は、私には効いていない」
「う、る、せえええええ!!!」
あまりにも不快な言葉の連続に、コーレスは拳に力を加え続ける。
だがそれが効いた様子はなく、ビシリと音を立てて壁が崩れ落ちるだけだった。
「もう一度言おう。私の能力は、『信じる程に硬くなる』。私自身も誤解していたが、天に召します我らが父が私をどう考えていらっしゃるかは関係が無い」
「何を、わけのわかんねえことを!」
「わからないか。神が私を見捨てていようとも、私が神を信じていれば、それだけで良いということだ」
「なっ!?」
そう、勘違いだったのだ。
この能力は、神に認められれば防御の加護が与えられるいったものではなかった。
発動条件は文字通り、信じるだけ。
神の審判など、下っていなかった。
腕が無くとも信仰は届くというのは、唯の思い上がりだった。
ただこの『星群』は、一方的だろうと関係なく、ただその信心のみを糧にして敵の攻撃を防いでいたのだ。
「貴様のおかげだコーレス・ダルスター!」
「気安く呼ぶな血生臭坊主!」
「目を飲み込んだ後、私が戒律に反したと気付く前に投げ飛ばした時、私はまだ『硬かった』!それが無ければ、気付くこともなかっただろうな!」
「っ、そんな細けえことでっ!」
「当然だろう!神を信じるということは、聖書の一言一句、一文字の意味すら考えると言うことだ!細かさでは、誰にも負けぬと自信をもって言ってやる!」
耐える、耐える、耐える。
一度耐えられると気付いてしまえば、もう彼の耐久に限界は無い。
幾ら押そうとも、鋼を超える強度を持った肉体は傷の一つも付きはしない。
その代わり背中から羽根が生えるように、壁に亀裂が刻まれていく。
その姿は、神話に歌われる天使のようだった。
「大体、気付いたところで何だ!?結局神とやらがてめえを見捨てたのは変わりねえのによ!」
「確かに、一度はそう思った!だから『星群』が消え失せた!」
「そのままくたばっちまえば良かったじゃねえか!見捨てられたのに生きるのは、神に仇なす行為じゃねえのかっ!」
「違う!これは罰であり、試練だ!今、私の置かれた状況を認識させるためのな!」
「恵まれねえってか?」
「逆だ!恵まれ過ぎている!」
「はあ!?」
聞き間違いかとも思ったが、ここまで堂々と間違えるとは思えない。
だがコーレスの目は、恵まれている要素は何一つとして見つけられない。
信仰と骨と義足を折られ、生命を維持できないほどに全身を潰されて尚、何故恵まれていると思えるのか。
「何より大切なものを、踏みにじられる辛さを理解し、涙すら流してくれる仲間がいる!これを恵まれていると言わず何という!」
「……は」
聞いても、全く意味がわからなかった。
「わからんだろうな。貴様には、踏みにじられる側の気持ちなど!」
生まれてこの方ずっと、彼は神を信じる度に、誰かに罵倒されてきた。
ただ放っておいてほしいだけなのに、人は彼に何故か近づき、そして傷つけた。
神を信じぬものは、彼を愚かだと罵った。
神を信じるものは、人に切られた左足を欲の証として嘲笑った。
誰もが、青年の信仰を奪おうとしていた。
「ゴミの心なんざわかるかよ!俺は、テメエらを踏み潰すだけだ!」
「だろうな!私も、誰も理解できないと思っていた。ついさっきまでな!」
だが、ニコラは違った。
彼女は神への理解は無いが、その信仰を潰されたことに激怒した。
大切な物を奪われた者の為に、命すら捨てて怒り、涙を流したのだ。
立ち上がったのが、神を信じぬ彼女だったからこそ、アルバーの心は救われた。
信仰に価値があるのではなく、ずっと守り抜いたことそれ自体に価値があると、そう言って貰えたのが、どうしようもなく嬉しかったのだ。
「この奇跡のような巡り合わせを、神以外に誰が用意できようか!」
「はっ、バカバカしい!じゃあ何だ、あの女が天使だとでも言いてえのか?」
「侮辱するな!彼女は自らの意思で考え、発言した。神は私をここに導いたのみ!ニコラの勇気と心は、彼女自身の物だ!」
「いちいち言い返しやがってうざってえなあ!」
怒りに任せてアルバーを床に投げ飛ばす。
爆音が轟くが、アルバーは表情一つ変えない。
「こんな程度では効かないと言っているだろう!」
「その言葉、忘れんなよ!」
言うや否や壁を蹴りぬくと、巨大なコンクリートの塊となった壁を、叩きつける。
何度も繰り返し叩きつけることで、コンクリートは山のように積もっていく。
そして直ぐにアルバーは、巨大な瓦礫の山の下に埋まった。
だがコーレスはそれでも満足せずに、より堆く瓦礫を重ねた。
「う、ぐっ」
暫くして、山の下から呻く声がした。
コーレスは勝ち誇ったように笑うと、顔が見えるようにコンクリートを砕き足蹴にした。
「もうお前殴るのも飽きた。俺が出せる力を遥かに超えた重さで、ぶっ潰してやるよ」
即座に顔を蹴り飛ばし、再び壁の残骸を乗せていく。
積み上げる毎に、体にかかる力が増す。
コーレスの全力でも押しのけられない、暴力的なまでの重量が、その全身を押しつぶしていく。
一度だけでは終わらない、継続的な痛みが心を追い詰める。
「虫でもここまでしぶとくねえぞ。まだ岩が足りねえか?」
「「止めろ!」」
だがその最中、静止の声が聞こえた。
コーレスは手の中の岩を乗せると、鬼の形相で振り返った。
「喉潰れたんじゃねえのかよ」
鼓膜を揺らしたのは、二つの声。
コーレスと、瓦礫に埋まったアルバーを除けば、ここにいる人間は二人だけ。
「潰れてるよ。『星群』無きゃ喋れもしねえ」
その少年の名は、クロイ・イチト。
その少女の名は、ニコラ。
今にも倒れそうな体で、それでも尚二人は、確かにそこに立っていた。




