血に染まる悪魔
エフェメラ・ヴィーシは空を眺めていた。
黒い津波は段々と青色の空を蝕み、視界を覆っていく。
津波を構成する黒い液体は、強い毒性を持ったペンキなので、かかれば間違いなく死に至る。
だがそんな死を濃縮した波を前にして、ヴィーシはまだ笑っていた。
もうヴィーシが出したことのある速度では避けられない所まできている。
助かる道は無いほどにーーーー追い詰められたと。
だからこそ、その胸は高鳴り、期待で溢れていた。
今までは本当の意味で危機を感じたのは、昔に一度、腹を裂かれた時だけだ。それ以外は全て、胸が高鳴るだけの、死にそうにない危機ばかりであった。
これだけやれば『星群』が発動して避けられると高をくくって、それなりに追い詰められて満足してしまっていた。
でも、今は違う。
五感の全てが訴えかける。
これが本物の死。これが本物の窮地。
──最高ね。
ヴィーシは、その思いを口に出さなかった。
正しくは、口に出す暇すらない程に追い詰められていた。
とくん、と心臓が高鳴る。
その瞬間燃えるような熱が胸に生まれ、全身に伝わっていく。
全ての細胞が、最大限以上の力を発揮すべく動き出す。
突然、ブチッという音と共に、脹脛の皮膚が裂けた。
原因は、中から除く異様なまでに膨らんだ筋肉を見れば直ぐにわかる。
皮膚の限界を超えて、筋肉が膨張したのだ。
同様に、腕の皮膚にも亀裂が走り、血が傷口から流れ出す。
それでもヴィーシは痛みに気付くことすらなく笑い続けていた。
状況を変える方法を思いついたのだ。
この苦境を変えて、もっと、もっと、限界まで追い詰められる方法を。
それはイチトとニコラと戦う内に学んだ、必殺技と言う名の行動制限。
特定の言葉を吐いた後、必ずそれに応じた動きをするという、危険かつ最高なものだ。
だがそういった技を考えるだけの知識や時間は、今のヴィーシには存在しない。
「貴方達の技、借りるわよ」
故に、借りる。
あの二人が作り出し、試し、そして使いどころがないと切り捨てた、効果の薄い行動を。
「太陽の子よ、我に眠れ」
その昔、太陽神の子パエトーンは、アポロンの戦車に強引に乗り、制御を失って世界を焼いた。
直後、その身は戦車ごと雷霆に貫かれ、曲がりくねった大河へと落ちて行ったという。
今は星群となって空へと浮かぶその河の名は、エリダヌス。
「日輪を喰らいし大河!」
ドガァンッ!
地面を、足跡が残る程強く蹴る。
それも一度や二度ではなく、繰り返し何度も何度も。もはや音すら置き去りにしてその体は進んでいく。
異常なのは蹴る強さや速さだけでなく、その軌道もだ。
ヴィーシは真っ直ぐに進むことなく、右へ、左へと、足をつく度に方向を変えて、まるでエリダヌス川のように曲がりくねった道を征く。
空から降る致死毒のことなど、すっかり忘れているかのように。
実際には忘れていないどころか、それを理解しているからこそ、こんな狂った動きをしているのだ。
ドンッ、ドンッと音がなる度、地面に足跡が刻み込まれる。
常軌を逸した走りは、もはや地響きのような音すら響かせた。
黒い帷を作り、勝ちを確信していたマカリは信じられないものを見た。
帷が閉じきる前に、何かがその中から飛び出したのだ。
そして直後、地面が揺れ、地響きが耳に入った。
その音と地響きは止まることなく伝わってくる。
それも帷から飛び出した何かが向かっていった方向から。
「お、おい、あれって……」
「そんなわけねえだろっ!」
部下の言葉を、聞き終わる前に否定する。
だが同時にマカリは、手に取ったペンキのタンクを、その音が聞こえる付近に投げ飛ばした。
何もいないのなら投げる必要もないのに、腕は止まってくれない。
部下も恐怖から一瞬でも早く逃れようと次弾を装填していく。
「アレは、錯覚だっ!」
言葉と行動が噛み合わない。
論理も理性も失って、マカリは必死でタンクを投げ続けた。
「あは」
その眼前に悪魔が現れた。
「うわああああああっ!?」
マカリはバイクから崩れ落ち、地を這って逃げ出した。
面子も何もかなぐり捨てて、離れるためだけに動く。
血に塗れ、狂ったように哄笑する悪魔から。
「あっははははは!随分と怖がりね!」
何の前触れもなくハンドルの上に降り立った悪魔は、逃げ惑う人間を嘲笑う。
四肢から肉を覗かせ、血を垂れ流し、それでも全く痛みを感じていないかのように笑う笑う。
「な、なんだよっ、なんなんだよお前はっ!」
震えてまともに動かない体の代わりに、マカリは口を動かしてその恐怖へと対抗する。
「何って、あははっ、名乗ってなかったかしら?」
土煙の中、ハンドルの上でしゃがむ悪魔は、ゆっくりと立ち上がる。
「私は、エフェメラ・ヴィーシよ」
赤くとろけた淫らな顔。
美しさで出来上がったような肢体と際どい服装も相まって、思わず生唾を飲んでしまうほど扇情的だ。
だが今のマカリは、いや、その場にいるどの人間も、それに情慾を抱けるような精神状態ではなかった。
「ひっ、やめろ、やめてくれっ、殺さないでくれっ!」
その心を埋め尽くしたのは恐怖のみ。
あらゆる欲求を生存本能が上回る。
あれだけの窮地に追いやっても死なない化け物を目の前にして、マカリは心が完全に折れてしまった。
薄ら笑いは消え失せ、楽しんで生きるという信条すら記憶の彼方に葬りさられる。残ったのは生に対する執着心のみだった。
「あっそ」
ヴィーシは自分を高鳴らせる可能性が無い相手には全く興味がない。
そして命乞いとはつまり、逆らうつもりは無いという意思表示だ。そこには決して追い込まれる余地はなく、関わるだけ時間を浪費するはめになる。
「じゃあ、もう用はないわ」
危険を楽しみ尽くしたヴィーシは悠々と去っていく。
「ク、クソッ、なめやがって」
そんな中、一人の男が震えながら銃を構えた。
大の大人がこれだけ集まって、たった一人の女に敵わないということが、どうしても認められなかったのだ。
ヴィーシに気付いた様子は無い。
引き金を引けば、殺せる。
「止めてくれ」
だがマカリは止めた。
「俺は、死にたくねえんだよ」
魂の抜けた、無様な顔で。
誰より楽しむことを求めていたはずの男は、恐怖に負けて部下に懇願した。
例え完全に背中を見せていても、あの化け物を殺す未来が想像できない。
逆らったことで、どれだけ酷い目にあわされるか、ということ以外、頭に浮かばない。
心が、完全に折られてしまったのだ。
「……」
普段とは全く異なる視線に、男は慄いてそっと銃口を地面に向けた。
張り詰めていた空気が弛緩する。
「余計なことしないでよ」
「っ!?」
だが一瞬でまた緊張は頂点に達した。
声がしたのは、マカリの耳元。
発したのは、自分達を見逃して去っていったはずの悪魔だった。
「なっ、戻って!?」
「私も戻ってくるつもりはなかったんだけど」
「っ!」
マカリは攻めるような視線で銃を構えた部下を睨む。
「何勘違いしてるの。私は貴方に言ってるのよ」
ヴィーシはそう言うと、マカリの首を掴み、両手で締め上げた。
「がっ!?」
咄嗟のことにマカリは一切反応できず、宙吊りにされてしまう。
「貴方が余計なことしなければ、もっと楽しめたのに」
両手に包まれた首から、ミシ、ミシと異音が鳴り響く。
苦しみ、何とかしてその手を離そうと躍起になって暴れるも、投擲に特化した『星群』と、それにかまけて鍛錬を怠った肉体では、禄な抵抗もできない。
「貴方には結構楽しませてはもらったけど、もう駄目ね。人の攻撃を邪魔する奴には、二度と最高の窮地は作れない」
ヴィーシはどれだけ腕に傷を受けようと、どれだけ蹴りを体に受けようと、決してその腕を離さない。
「貴方がちゃんと、私を殺そうとし続けてくれればこうする必要も無かったのに。だから」
やがてその抵抗は徐々に弱々しいものへと変わっていき、遂にピクリとも動かなくなった。
「全部、貴方が悪いのよ」
ヴィーシが手を離すと、ドサリと体が崩れ落ちた。
だが首が開放されたというのに、呼吸が戻る気配は無い。
真横にいた男は、恐る恐るその首筋に手を当てる。
「し、死んで、る」
鼓動は伝わってこなかった。
死体の名はマカリ・フランキスカ。
その命は犯した罪への贖いではなく、一人の女の身勝手な怒りの為に奪われた。
「当然でしょ。殺したんだから」
何を当然のことを、と言わんばかりにヴィーシは呟いた。
「っ、お前!よくもマカリさんをっ!」
「ええ、私が殺したわ。文句があるならかかってきなさい」
敵意を向けられ、ヴィーシは笑った。
殺人を終えた直後とは思えない、満面の笑みで。
自らの血で赤く染まった手足に、狂気に満ちた笑顔。その恐ろしい風貌は、男の心を折るのに十分だった。
「クソッ!」
一人がマカリの死体を拾い上げて逃げると、他の男も跡を追うように逃げ出した。
「興醒めね」
残された女は独り言つ。
不愉快な気分を吹き飛ばす為、ヴィーシは再び危機を探す旅に出た。




