プロローグ
ぬかるんだ大地に武器を持った500名程の男達が隊列を組んでいる。異様な熱気によって冷たい朝の空気は蒸され、武者震いする男たちの視線は、はるか先に霧で霞む森の方を離さなかった。
鼓舞するような太鼓の音が響いた。同時に馬の駆ける足音が近づいてくる。白馬に乗るのは美しい女騎士。女騎士は隊列の中央で止まると、兵士たちの方を向いた。
「構え!!」
男達は一斉に武器を構えた。
再び太鼓の音が響いた。女騎士も森の方に向きを変えた。
静寂が続いた。高鳴る自分の鼓動だけが聞こえる。
森から馬に乗った兵士が一人出てくるのが見えた。兵士は揺られるがまま、段々と前かがみになっていった。
男達の息遣いが荒くなっていくのがわかった。
兵士は力なく馬から転げ落ちた。そして乗り手を失った馬は、森から遠ざかるように逃げて行った。
僕は右手に持った剣を力いっぱいに握った。錆びて真ん中で折れてしまっている直剣。だが、それだけが今の僕の支えだ。
それは霧の先からゆっくりと姿を現した。怪物。紫色の巨体が不気味に蠢き、次の餌を品定めするようにこちらの様子を伺っている。
「進め!!」
女騎士が高らかに声を上げると同時に、男達は走りだした。誰も何も考えられない。男達は女騎士に言われるまま、雄たけびをあげ、怪物に向かって行った。
「イギャアアアアアアアアアアア!」怪物の咆哮は男達の雄たけびを簡単にかき消した。
僕は一度死んだ。そしてこの世界にやってきた。死んだ記憶はまだ鮮明だというのに、今そこに次の死が待っている。僕も他の男達のように、女騎士に命令されるがまま向かって行った。
僕の名前は鷹司礼一。30歳のサラリーマンだ。こんなことを言うのは気が引けるが、僕はかなり恵まれている。高名な神社の神主の長男として生まれ、いい大学を卒業し、有名な商社で働いている。身長は195cm、学生時代はバスケットボールで全国大会に出場したこともある。これまで何不自由なく生きてくることができた。
何よりも幸運だったのは心から愛する妻、知子と出会えたことだろう。敬虔なプロテスタントの家に生まれた彼女とは大学時代に出会った。家柄か、彼女とは宗教に関することでお互いに悩みを話し合ううちに意気投合し、お互いに社会経験を積んでから僕が28歳、知子が25歳の時に結婚した。
実家からは反対をされたが、僕たちの愛の前にはすべてのことが順風だった。お互いにやりがいのある仕事をし、そろそろ子供を作ろうという話もしている。
希望に満ちた毎日がこれからもずっと続くことを、僕は何の疑いもなく信じていた。今日までは……。
「レイ、準備はできた?」
「ああ、もうちょっと、もうちょっとだけ待ってくれ」僕は洗面所の鏡の前で、中々いうことを聞かないクセ毛と闘っていた。毎度いうことを聞かないクセ毛だが、今日に至っては特にひどくて、寝ぐせのように逆立った髪が濡らしても、アイロンをかけても全くいうことを聞かなかった。
「十分決まってるわよ。早く行きましょ。茉莉さん達を待たせるのは悪いわ」
鏡の向こうで知子は仁王立ちして、呆れるようにこちらを見ていた。
今日はこれから会社の同僚、田沼光一とその妻、茉莉さんと4人で、日本代表対オランダの女子バレーの試合を見に行くことになっていた。僕も興味はあったが、バレー好きの知子と茉莉さんがどうしても見たいということだったのだ。
「ああ、だけどさ、なんか決まらない気がするんだ」
「何よ、十分かっこいいわよ……もしかして、茉莉さんがいるからじゃないでしょうね!?」
「違うよ!ほら、光一って結構おしゃれだろ……だからさ、なんていうか」
「大の大人が何言ってんのよ。そんなことなら常日頃からファッションに気を遣うことね」
知子は肩をがっくり落とし、部屋の奥に消えていった。
少しだけ粘ったが、待ち合わせの時間もあるので、クセ毛をどうにかするのをあきらめて、僕は帽子を取って玄関へ向かった。
知子はいささか不機嫌そうに時計に目をやっていた。
「おまたせ……」
「すごいぼさぼさね」クセ毛は僕の意に反して、やればやる程反発したのだ。
「かっこいいって言ったろ」
「その帽子は?」知子はほくそ笑みながら言った。
「念のための保険さ」
玄関から出ると、知子は僕の左腕を掴んで身を寄せた。
「レイは十分かっこいいわ」知子は小さな声で僕に囁いた。
「待たせたな」
結局待ち合わせ場所に来たのは僕たちの方が早かった。
「待ってないよ。僕たちも今来たところさ。こんにちは茉莉さん」
「二人ともお久しぶり。相変わらずデコボコ夫婦ね」茉莉さんはにっこり笑って言った。
知子も165cmと女性にしては背が高い方だが、僕と並ぶとそう見えてしまうのは仕方がない。
「お久しぶりです」知子も挨拶をした。
待ち合わせ場所から徒歩で10分くらいの場所に会場はあるが、周りには想像以上の人だかりが出ていた。世界選手権の決勝戦だけあって相当の人が応援に駆けつけているのだろう。
「ねえ光一、ここから歩いていくわけ?」
「悪かったよ。お前が突然見たいっていうから、仕方ないだろ」
「コネはどこに行ったのよコネは!」
この大会の運営にうちの会社は関わっていなかったが、取引先のつてで、光一が何とか前日に4人分の席を確保したのだ。文句は言えない。
「まあまあ、いいじゃないですか。歩いていきましょう」
知子がそう言うと、茉莉さんも光一を一睨みすると折れてくれたようだった。
「礼一、お前めちゃくちゃ楽しみだろ!?」
「どういうこと?」光一が言うとすぐに茉莉さんが反応した。
「女子バレー好きだもんな」
「背の高い人にすぐ同情するからですよ」すかさず知子が言った。
知子の言う通りだ。僕は自分が背が高いせいか、同じように背の高い人が気になることがある。昔はこの高すぎる身長がコンプレックスだったからかもしれない。
「ああなるほど、お前よく会社の扉に頭ぶつけるからな」
「そうさ。小さすぎる社会で暮らす、僕と同じように背の高い人が頑張っているところを見るのは励みになるのさ」
「悪かったな小さくて」光一の身長は自称170cmだった。
「平均より少し低いだけだろ。気にするな」
「もういいでしょ二人とも。それより、すごい人ね。これじゃスタートに間に合わないんじゃない?」
知子の言う通りだった。会場に近づくにつれ、人だかりは段々と巨大になっていた。
「それなら抜け道があるからそっち行こうか」光一が言った。
「ここら辺詳しいのか?」
会場の周辺は住宅街になっており、会場に向かう人の波は大通りを埋め尽くしていた。
「うちで受注した宅地造成の場所がすぐそこだからな。あっちの方に行くと確かすぐにつくはずだ。会場に着きさえすればこっちのもんさ」
そう言って光一が指差した先は、薄暗い住宅街の方だった。閑静な住宅が並ぶ先に、確かに工事車両のようなものが何台か止まっているのが見えた。
三人とも言われるがまま、ついて行った。僕と光一が先頭を歩き、知子と茉莉さんがついていく恰好になった。
「なあ、やっと生の松田紗江が見れるな!」光一が後ろの二人には聞こえないように小声で話しかけてきた。松田紗江は日本代表のエースだ。美人過ぎるバレー選手とも言われるほどで、名実ともに有名な選手である。
「辞めろよ。聞こえるだろ」
「わかってんだよ俺は。お前がチケットとるために手伝ってくれたってこと」
「だから何だよ」
「へへへっ、まあ、松田紗江を見ればわかるさ。あの胸、あの脚……」
全く下劣な思考の持ち主だと改めて思った。とはいえ、こういう素直なところが光一のいいところでもある。
きっと茉莉さんと出会ってなければ、一生女性の尻ばかり追いかけていたに違いない。
宅地造成の工事現場に近づいた時、急にスマートフォンから緊急地震速報のサイレンが鳴った。
「噓でしょ!」
慌ただしいサイレン音に僕たちは道路の真ん中で立ち尽くした。サイレンの音から数秒後、ゆっくりと地面が揺れるのを感じた。
「おいおい、結構でかくないか」
「二人ともしゃがんで!」僕はとっさに知子達の方に向かって叫んだ。
二人とも互いに身を寄せ合ってしゃがみ、僕と光一もそれぞれ近づきながら、地震がおさまるのを待った。
地震は10秒ほど続いた。
「大丈夫か!?」
「大丈夫!」光一が二人に向かって言うと、揃って大きな声で答えた。
僕は安堵しながら立ち上がり、スマートフォンを見ると、震度4と記載されていた。震源が近かったのか、表示された震度以上のものを感じた気がする。
「レイ!」知子が言った。怖がっているような声色だった。知子の方を見ると、何かあったのか怯えるような眼差しでこちらの方を見ていた。
スマートフォンの通知音が鳴り、僕は視線をスマートフォンに戻した。
『お迎えだよ』
ブチッという何かが切れるような音が聞こえ、すぐに巨大な金属がきしむような音が響いた。
「知子!」それが言葉になる前に、僕の身体は巨大な何かにぶつかった。
「レイ!」
視界が暗闇に沈んだ。気づくと秋の冷えた空気の香りは地面の土の匂いに変わり、視界に移った知子と茉莉さんは90度傾いていた。血の味がする。
「レイ!」
巨大なクレーン車が横転しているように見えた。
「レイ!」
知子の声は段々と小さくなっていく。
『さあ、お迎えだよ』
最後に聞いた声はとても低く、暗く、冷たい声だった。