7 無敵のアンタッチャブル
煙と埃と瓦礫、そしていくらかの肉と血に染まった店内を一歩一歩進む事に人間離れした表情が更に歪む。俺はそれに並び立つ事は出来なかったが、半歩後ろ分を付いていった。
周囲は出来るだけ見たくなかった。ついさっきまで俺が見て回っていたデパートのあちらこちらが爆風で吹き飛ばされている。俺が小春の所に居た間にも爆発は続いていたようで、デパート店内は本当に、戦争でも起こったかのような有様だった。所々足の踏み場もなく、ちらりと目を脇に反らせば、小春より酷い目に遭っている人達が眼に入ってきた。
小春の死によって、感覚が麻痺しているのだろうか。この極限の状況に、異常なまでの興奮状態にあるせいか。俺は死体を見ているのに恐怖を感じなかった。ただ、こんな事件を起こした首謀者への怒りが募っていく。小さな赤ん坊を連れた家族連れだっていたし、やる事がなくて暇そうだけど、他愛なく談笑する高校生カップルだっていた。俺と同じくらいの小学生の集団や、二人仲睦まじく連れ添う老夫婦ともすれ違った。俺と小春みたいに、仲良し二人組だって、きっと居たのだろう。
それらが目の前で、文字通り血みどろと化し、粉々に砕け散った様を見て、いつの間にか手汗まみれの拳が堅く握られている。悲しみが徐々に怒りへと変換されていくのが分かる。
なんでそんな事をしたんだ。そんな事をして何が楽しいのか。俺には全く理解出来ない。それだけはきっと、目の前を歩く男と同じだったと思う。
「来た」
「え?」
男は足を止めた。釣られて俺も止まると、男と俺のすぐ目の前の床から爆炎が噴き出した。
爆音のせいで耳鳴りが止まらない。余波で前髪が少し焦げた。あまりにも突然過ぎて、恐怖する間もない。男は大きく舌打ちをすると、俺の首根っこを掴んで放り投げた。俺の体はまるでボールみたいに軽々飛んでいく。幸いか狙ったのか、家具コーナーのクッションの山に突っ込んだ。
そして息を付く間もなく、また爆音。ついさっきまで俺が居た足元からだった。
「そこに隠れてろ」
頷くしかなかった。まだ自分の命が危うかった事の実感が湧かない。……結局助けてもらってるし、俺。頭の中が混乱で掻き乱されて、俺は防衛本能のままに、そのクッションの山に潜り込んで縮こまった。ここで単に隠れているだけじゃ、着いてきた意味がない。小春が死んだ意味も分からないまま、逃げるのと同じ事。
何とか目だけは隙間からのぞかせて、様子を窺う。辺りは静まり返っている。さっきの爆発が嘘の様に。足元にまた爆弾がある気がして落ち着かない。堪え切れずに俺が立ち上がろうとすると、測ったようなタイミングで男が口を開いた。
「……馬鹿な奴だ」
一体誰に話しかけているんだ、とクッションを少し押して視界を広げると、すぐに理解出来た。
「お前達のエクストリーム自殺にこれ以上付き合わせるのは止めてくれ」
「死ぬのは貴様だ……『アンタッチャブル』」
もう一人、男がいた。それは一応、男だとは分かったが、果たして人類なのかどうかは俺には分からない。服は着ていなかった。土気色の肌の所々に赤黒い焦げ痕が残っている様が痛々しい。逆立った真っ青な髪の毛が炎のように揺らめいている。橙に染まった双眸には瞳が無い。鼻は削げており、口は耳元まで裂けていて、歯が剥き出しだ。出来の悪いお化け屋敷のゾンビのような顔のその男は、ケタケタと甲高い耳障りな笑い声を上げていた。
「今まで貴様が相手にしてきた雑魚と俺は違う」
「同じ」
「違う……! 俺は『ヘルフレイム二世』! 三ヶ月前、貴様に殺された『ヘルフレイム』のデータを元に、全ての基礎能力を数倍に引き上げた最新超人だ!」
「割とどうでもいい。マジで」
白髪は心底からそう言っているようだった。アンニュイな溜め息が緊迫した雰囲気をぶち壊す。ヘルフレイム二世はわなわなと震え、激昂した。
「今から貴様に見せてくれよう! この俺の力を!」
ヘルフレイム二世の全身から、まるでバーナーのような青い炎が噴き出した。熱気が俺の隠れているクッションの山にまで届いてくる。その青い炎はこのデパート内で散々見た爆炎に酷似していた。
白髪は涼しい顔で……いや、それ所か、ヘルフレイムを見つめて楽しそうに笑っていやがった。新しい玩具を買ってもらった子供のような無邪気な笑顔で、だ。
「死ね、アンタッチャブル!」
ヘルフレイムが唸りを上げて燃え盛る拳を振りかぶる。
数メートルはあった間合いが一瞬で詰められた。瞬きする暇もなく、ヘルフレイムが拳を白髪の顔面に打ち込む。右フックから左ボディ、勢いそのままに回転し裏拳、ハイキック。流れるような連撃で白髪男に何度も何度も炎を纏った高温の四肢を叩き付ける。俺は格闘技には詳しくない。年末にテレビでやっている格闘技番組を両親と共に見る程度にしか知らない。
しかしそれでも、ヘルフレイムが格闘技に熟練している事だけは分かった。打ち付けられる度に白髪男の体はのけ反り、くの字に折れ、なすがままだ。
「どうたアンタッチャブル! 俺はこんなにも貴様に『触れている』! そのあだ名は伊達のようだな!」
ラッシュは終わらない。どんどん加速していく。まるでマシンガンでもぶっぱなされているかのような打撃音と共に、白髪男の体が打ち震える。ヘルフレイムの速度は最早人間の眼で追えるスピードではない。蒼いぼんやりとした影にしか見えない。
そんなラッシュが十秒も続いた頃だろうか。
ヘルフレイムの表情に焦りが浮かぶ。俺も違和感を覚えた。目にも留まらぬ速度で無数の打撃を受けているのに、白髪男は未だに二の足で立っている。血の一滴も床に落ちてはいない。ヘルフレイムのラッシュが少しだけ緩むと、待っていたとばかりに白髪男がヘルフレイムの拳を掴み取った。
燃え盛る高熱の拳を掴んでいるのに、白髪男は顔色一つ変えていない。無傷の笑顔に、俺は鳥肌が立った。
やはりこいつも人間じゃない。
「……雑魚が」
「クッ……舐めるなっ!」
ヘルフレイムは仰け反る程に深く息を吸い込むと、目と鼻の先に居る白髪男に炎の息を吹き付けた。
吐息は床を焦がし、棚を焼き、天井に燃え移り、白髪男の背後にある全てを燃えカスと化していく。白髪男の姿はヘルフレイムのその豪火に隠れてしまい、まるで炭の人形のような黒い影しか見えていない。
もしも普通の人間がこんな火に囲まれてしまったら。想像だにするだけで凄惨な背景が出来上がっていく中、白髪男の影は動かない。
俺の心の中に奇妙な安心感と期待があった。
この白髪は、絶対に倒れない。絶対に負けない。どれだけ敵の攻撃を受けて膝をついても立ち上がった、俺の大好きなヒーロー達のように。必ず悪の怪人を倒してくれる。心の何処かで俺はそんな事を信じて、目の前の光景を見つめていた。
「……いつまでやってんだゴキブリ野郎!」
白髪男の怒声と共に、火炎の中から長く伸びた腕がヘルフレイムの顔面に突き刺さった。ヘルフレイムは弾かれたように宙に舞い、地面に叩き付けられる。そして呆然とした表情で白髪男を凝視している。
服が燃え尽きて全裸になっても、その肌には火傷一つ存在しない。
「お前がその力を手に入れるまでの苦労を想像してみよう。組織にいくら払ったんだ? 或いは拉致されたか? どれだけの戦闘訓練を積んだ? 改造手術は辛かったろう? お前を悼む家族は? 友人は? もしかしたら恋人も? 『無名の支配者』の居心地は悪くなかったか? 俺と戦うまでに一体何人の人間を殺した? 殺した事への罪悪感は? 或いはすぐに快感に変わった?」
「……さ、さっきからお前は、何を……」
ヘルフレイムは淡々と語り続ける白髪男に怯えていた。二人の異形はもういない。そこに居るのは、足を振り上げた象と、その足元に居る一匹のウジ虫だけだ。
「きっとその力を手に入れるまでに、お前の中で様々な感情が過った事だろう。怒り、悲しみ、喜び、苦痛と快楽、憎しみと妬み、親愛と性愛。だが、お前の最後の感情はたった一つ……恐怖だけだ。そして俺の感情はたった一つ……お前の惨め過ぎる末路に対する同情だけだ」
生き生きとした表情で、本当に楽しそうに、白髪男は嘲笑っている。先程のもそもそとしたハッキリしない喋り方とは全く違う。
「ヤク中のチンピラに殺される惨めな腐れゴミ虫が! あぁ、あぁ! なんと悲しき運命かッ!」
「ふ……ふざけるなっ!」
ヘルフレイムはすぐさま跳ね起きて白髪男に飛びかかるが、腕の一振りでまるで蝿のようにたたき落とされた。ヘルフレイムの頭が床にひびを入れる。負けずと起き上がろうとするヘルフレイムの後頭部を、白髪男が鷲掴みにして引き起こした。
「……『アンタッチャブル』を殺しに来たテメェには酷な話だがな」
「ぐ、お、ぉ……」
白髪男の指が、燃え盛るヘルフレイムの頭にめり込んでいく。ミチミチと、遠くに居る俺でさえ、頭蓋が軋む音を聞く事が出来た。
「お前を殺すのは……『アンタッチャブル』なんて無敵な怪物じゃねぇ」
「な、なん……ご、ぉ、ぁぁ……」
「ましてや安濃英斗とか言う、人間のクズでもねぇ」
「あ、ぁ……こ、の……お……」
ヘルフレイムはその状態にあってなお、もがいていた。力のない拳を白髪男に向けて振り回す。殺虫剤をかけて死にかけた蜂みたいに頼りない動きで。しかしそれでも尚、白髪男を睨みつけるのをやめない。
何が彼をここまで駆り立てているのか。恐ろしいまでの執念だと、素直にそう思った。しかし白髪男にとって、ヘルフレイムのその行動はただただ無意味なのだ。
「……テメェを殺すのはッ! 死ぬ間際でさえ自分の友を想い続けた、穢れなき魂の持ち主……芳野小春の無念ッ!」
片手でヘルフレイムの頭を持ち上げていた白髪男が、グッと指に力を入れて大きく腕を振りかぶった。
「地の底まで土下座しやがれエェェェッッ!」
まるで野球ボールをぶん投げるようにして、白髪男はヘルフレイムを地面に叩き付けた。ヘルフレイムの頭はまるで、プロレスラーがリンゴを握り潰すように、音を立てて弾けた。血が飛び散る。脳漿が弾け飛ぶ。ヘルフレイムは、本当に呆気なく死んだのだ。
半分に割れたヘルフレイムの頭を、白髪男は全力で踏みつけ、完全に粉砕した。タバコを踏み消すようにすり潰し、自分の足が血で汚れていく様を見て、白髪男は意地汚く笑っている。
よく『目を逸らしたくなるような凄惨な光景』と言う言葉を聞いた事がある。だが実際の凄惨な光景って言うのは、目を逸らす事が出来ない。むしろ釘付けになる。あまりの恐ろしさに体が硬直してしまう。細部にわたって見つめてしまう。記憶が鮮烈に脳に刻まれる。きっと人間の防衛本能がそうさせるのだと思う。今目の前で起きている事が、自分に害をもたらすかどうかを冷静に判断させようとしているのだ。
だから、俺はしっかりと見た。
弾ける返り血。怪人の死骸。見下ろし、笑う化物。
しっかりと聞いた。
肉の潰れる音。興奮と怒りと失望の混じった怪物の雄叫び。
「『炎と爆発を操る最強怪人』みてぇな強そうな設定だったのに、蓋を開けたら序盤に初めて炎の全体攻撃魔法を使ってくるウザッてぇ雑魚レベルじゃねぇか! 甘ぇんだよ! クソ溜まりにあるクソどんだけコネたってなぁ! 結局ソイツぁただのクソなんだよクソ共がァ!」
白髪は激噴しながら喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。これほど激しい感情の爆発を、俺は今まで見た事がなかった。負の感情を煮詰めて濃縮したようなどす黒い感情が男から伝わってくる。白髪は最後にヘルフレイムの粉々に砕け散った頭蓋骨の破片を蹴り飛ばすと、胸倉に指を突き刺して片手で軽々と持ち上げた。
「……くっだらねぇ!」
白髪は憎々しげに歯を向いて呟くと、ヘルフレイムの死体を、側の壁に向かって叩き付けた。ヘルフレイムの肉体が壁にめり込む。飛び散った肉片と血を浴びながら、白髪男は背を反らせて腹を抱えて大声で笑っている。地獄から這い上がってきた悪魔が、この世の破滅を喜ぶような、そんな笑い声が、いつまでもいつまでも耳に残っていた。
……どれだけ時間が経ったのだろう。
未だにクッションの山に埋もれていた俺は、いつの間にか現れた警察の突撃部隊に保護されていた。簡易的な事情聴取をされた俺は、事のあらましを全て語ったのだが、まるで相手にされなかった。「ショックで混乱している模様」……俺を保護した警官が、困った表情で無線に話す。
自分でも分かる。夢でも見ていたんじゃなかろうかと。でもだったら、あの壁にある人型のへこみはなんなんだ。夥しいまでに飛び散っている血糊はなんなんだ。俺はどうして生きているんだ。
その疑問に、警官は全員目を逸らしてしまった。