6 魂を奪う者
声が出なかった。
女子トイレからもうもうと立ちこめる煙に混じった、何かの焦げる匂いと、花火の火薬に似た匂い。入り口付近に、無惨に転がっている「それ」を見て、俺は立っていられなくなった。
それでも這うようにして、俺は「それ」に近付いていく。
「それ」は床に横たわっていた。
うつろな眼には何も映っていない。半開きの口からは、今にも途切れそうなか細い息が漏れているだけだ。虫の息。まさにそれだ。本当に、酷い有様だった。小さい子供が壊してしまった人形をその辺に放り投げたかのような、見るに堪えない光景だった。千切れた両脚が向こう側にあった。形の残っている左腕が俺の足元にあった。
……なんで、こんなことになったんだろう。
現実を受け止められない。何度瞬きをしても、現実は変わらない。それでも、有り得ない期待に縋りたくなる。神様どうかお願いだから、こんな現実はなかった事にして下さい。お願いだから。お願いだから。小春がトイレに行ったのは俺がそう言ったからだ。だから小春は爆発に巻き込まれたんだ。小春がこんなになったのには、俺に責任があるんだ。だから神様。なんでもする。俺が代わりに死んでもいい。だから頼むから、こんな……こんなむごい事なんて、なかった事にしてくれよ。目の前がもう真っ暗だ。俺はもう碌に頭も回らない。全てが闇に落ちていく……。
「……る、くん」
何かが聞こえた。
「ノエル、くん」
何度も聞いた。小さい頃から何度も聞いて、最近聞くとソッポを向きたくなるその声は、騒がしい店内でも尚、俺の耳には確実に届いた。小春の切実に訴えるような声は、どんな場所でも良く聞こえた。俺はそれを思い出し、眼を開けた。
「ど、こ……?」
小春の右手が、宙を彷徨っている。目の前に俺は居るのに、もう見えていないのだろうか。俺は震える右手で小春の手を掴んだ。力一杯、自分の震えを押さえ込もうとしながら。
「俺はここだ! ここに居るぞ!」
「……痛い、よ……」
右手の事かと思って、思わず力を緩める。
「……苦しいよ……助……けて、のえ……くん……」
小春はうわ言のように呻いている。
こんな時は、俺は何をどうすればいいんだろうか。
俺は何が出来るんだ。俺は小春の手を握り続けた。それ以上に何かが出来ると思えなかった。酷い無力感を覚えた。
……こんな時、俺の人生の師匠達は、どうしていただろうか。不思議な力で彼女の傷を癒しただろうか。彼女の仇を討つ為に、事件の首謀者を退治しただろうか。でも俺にはそんな事は出来ない。俺はただの小学生だ。特別な力も無いし、悪人に立ち向かう勇気だってない。今だって怖くて震えている。そんな自分が嫌いで嫌いで仕方ない。俺ってこんな情けねぇ奴だったのか。
「寒い……よ……」
小春の手から力が抜け始めた。嫌だ。嫌だ。死なないで。死んじゃダメ。お願いだから、死なないでくれよ。お前が大好きなんだ、死なないでくれよ。まだこれから楽しい事一杯あるじゃないか。俺が一緒に遊んでやるから。我が儘言わないでお前の遊びに付き合ってやるから。だから、頼むよ。まだ教えてない事も沢山ある。教えてもらってない事だって、沢山あるじゃないか。
「頼むよ……死なないでよぉ……」
「それは、無理だ」
震える俺の声を遮るようにして、背後から声がした。どこか聞き覚えのある冷徹で野太い声だった。
振り返ると、そこにはフードコートのたこ焼き屋に居た、言語能力が怪しい若白髪の高校生らしき男が立っていた。無感情な瞳でこちらを芒洋と眺めている男の口にはタバコが挟まっている。男は白い煙を大きく吐き出して、吸い殻を吐き捨てて足で揉み消すと、頭を掻きながら無遠慮に俺と小春に歩み寄ってきた。
……なんだ、こいつは。なんでここに来たんだ?
「この娘はもう、助からない」
男は呟くような声でそう告げると、俺が握っていた小春の手を掠めとった。何が何だか分からない。突然の侵入者に、俺は唖然とするばかりだった。
「死神が迎えに来た」
小春の手を握り、男は眼を閉じた。そして低い唸りを上げて、まるで念じるように体を震わせている。
すると、どうだろう。男の体がうっすらと淡い燐光を発し始めた。燐光はやがて、乳白色の霧となり、周囲の景色を包み込む。柔らかくて穏やかで、それでいてどことなく冷たい空気が肌を撫でる。血の気の無かった小春の顔が次第に穏やかになっていき、虚ろだった目がハッキリと開く。
そして俺と男の顔を見て、キョトンと首を傾げた。
「……あれ? これは……?」
そして小春は、ハッキリとした口調でそう呟いた。まるで、そう、生き返ったかのような。
「小春!」
俺は神様に祈りが通じたんだと思った。この浮浪者みたいな高校生は神様の遣いか何かなんだ。だから小春を生き返らせてくれたんだ、と……そんな風に思ってしまった。
「の、ノエル君? あ、あれ、私の、体……」
小春は自分の身体の有様を見下ろして青ざめていくが、パニックを起こしてはいない。全く痛みを感じていないのだろうか。現実感が湧かないのかも知れない。小春は白髪の高校生の方を眺めると、男は乏しかった言語能力が嘘の様に、ハキハキと口を開いた。
「君は、『怪人』が仕掛けた爆弾によって体を吹き飛ばされた。間もなく死ぬ。今は俺が生命力を分け与え、君の痛みを掻き消し無理矢理意識を覚醒させている」
「え……」
それじゃぁこれは……生き返らせた訳じゃないのか……? 小春はやっぱり死ぬのか? もう、どうしようもないのか?
「……やっぱり、そうなんですか」
当の小春はあっさりと自分の死を認めた。おまけに他人事のように苦笑している。
「そんなあっさり認めるなよ……!」
「でもね……なんか、不思議なんだけど……実感があるの……」
小春は悲しそうに笑っている。歯にはもう青のりは残っていなかった。
「私はもうすぐ、この世の人間じゃなくなるんだな、ってのが、分かるの。すっごく悲しいけど……なんか、ちょっと安心してるかも。変な感じ」
小春の顔は確かに穏やかだ。嘘を言っている風でもない。……それを見ていると、涙が止まらなかった。もう本人が自分の死を受け入れているのに。俺だけがまだ、それを受け止められていない。そんな俺を放っておいて、男は話を続けた。
「君は間もなく死ぬ。ただ、その死は苦痛に満ちた物ではない。俺は君に、安らかで、眠るような死を与える事が出来る。もしそれを望むのであれば、協力してほしい」
「……協力?」
「君の魂を俺にくれ」
男の顔は真顔だった。
オカルトのような事を真面目に言うこの男は、しかし現に今オカルトのような能力を発揮して小春の苦痛を和らげている。妙にその言葉には真実味があり、切実な願いが込められているように思えた。
「魂とは単なる意識や意志ではない。もっと深くに眠る、人間の根本を成す全ての源。それ故に、魂の持つ力は莫大なもの。俺には、それが必要」
「必要って……どうして?」
「その力で……ぎゃふんと言わせたい奴らがいる」
男はそう言った。真面目な顔で、だ。真顔でぎゃふんは酷い。少し卑怯だ。気がつけば、小春はクスクスと忍び笑いをしていた。男は口を尖らせたが、文句は出てこなかったようだった。
「……そのぎゃふんと言わせたい人達って?」
「この爆破事件を起こした奴と、その仲間達。……この殺戮に相応しい罰を与える」
「そっか……それなら、良いよ。悪い人達をやっつけるため、なんでしょ?」
男は小さく頷いた。小春は小さく息を吐いた後、ゆっくりと目を瞑る。
「おい……小春?」
「ごめん、ノエル君……今まで、ありがとう」
小春と男は全てを理解していた。お互いが何も言わずに意志の疎通を取っていた。
男は小春の右手を握ったまま、開いているもう片方の手をそっと彼女の胸に当てて、ゆっくりと引き上げていく。男の手に引っ張られるようにして現れたのは、蝶だった。青く光る輪郭のぼんやりとした蝶が小春の胸から飛び立ったのだ。蝶は少しの間、俺と男の頭上を旋回したかと思うと、やがて男が差し出した左手に乗った。
「ありがとう。……君の魂、確かに受け取った。せめて安らかに……」
蝶は吸い込まれるように男の左手に埋もれていき、やがて青い光も見えなくなった。男は力強く左手を握り締め、静かに立ち上がる。男が小春の右手を離すと、彼女の手は力無く床に落ちた。
俺は慌ててその手を取る。先程握った時にまだ残っていた彼女の温もりは、もう消え失せていた。それが俺に、彼女の死を伝えていた。ついさっきまで生きていた者の死。もう、何も伝わらない。何も伝えない。……もう死んでいるんだから。
「…………」
小春の青い顔は、まるで暖かい布団に包まれて眠っているかのように穏やかだった。
結局俺は、こんな所で何をしていたんだ?
知らねえ男が小春と何か話して……俺が小春に何も言えないでいるうちに……。
小春の魂を。
奪い去った。
「もう死んでる」
言われなくても分かってる。分かってるよ。
「仇は討つ」
小春の体の半分を消し飛ばしたのは、きっとコイツじゃない。それは分かっている。
憎しみを向けるべき相手はコイツじゃない。それも分かっている。
でも、我慢が出来ないんだ。この男にとって小春の死が好都合だったって事が。コイツは、小春の魂の力を貰う為だけに、今にも命を落とす小春の前に現れた。この男から見れば、目の前で訪れた小春の死なんて、痛ましい事件を報道しているニュース番組を眺める感覚と大差ないのだろうと思うと、怒りと無念で気が狂いそうになる。
若白髪は無言で俺の髪をグシャグシャと撫でやってから背を向けた。先程まで憮然としていた表情は、何とも形容し難く歪んでいる。半開きの口からは興奮したような荒い息が漏れ、ぎらつく瞳は喜色に富み、眉は般若の様にしかめられている。
地獄からやってきた鬼だ、と本気でそう思った。猫背の男の背中が、数瞬前の倍は大きくなったように見える。コイツは、多分本当に、人間ではない何かなんだろう。
「……待てよ」
俺の声は、異様なまでに震えていた。小春を失った悲しみ、自分の無力感、そしてこの得体の知れない男への恐怖。
色々な事が一度に多く起こり過ぎて。色々な感情が心の中を巡り過ぎて。もう訳が分からないけれど……それでもこの男をこのまま行かせてはダメだ、と思った。ここで別れてしまえばこの男とはもう二度と、会う事もないだろうと、そんな直感があった。
「何処に行くんだ?」
男は無言で振り返る。悪鬼のような表情のまま、俺を嘲笑うように見下ろしている。
「……悪い奴らを、ギャフンと言わせに行く」
男は淡々と答えた。真顔で、ギャフン。改めて聞いたけど、今度はちっとも笑えやしねぇや。
「俺も行く」
俺は立ち上がった。膝が笑っているけれど、根性を振り絞った。男の顔を真っ直ぐに見上げるのは怖かったけれど、それ以上にこのままここに留まる事の方が怖かった。このまま何も出来ない自分を見ていたくなかったのだ。
「お前が、ちゃんと、悪い奴をギャフンと言わせに行くのかどうか、確かめてやる」
せめて、コイツに奪われた小春の魂が、小春の願いの通りに使われなければ、死んだ小春も浮かばれない。男は俺の言葉の意味をどう取ったのか分からないが、呆れもせず、驚きもせず、ただただ淡々と告げた。
「俺はお前を助けたりはしない。巻き込まないように遠慮したりもしない」
「構わねえ。俺が勝手に付いていくだけだ」
「……好きにしろ」
それだけ言うと、白髪男はすっかり避難が完了して無人と化したデパートを悠々と進んでいった。