5 無情のカウントダウン
昼食を終えた俺達はようやく重い腰を上げて、食品売り場に向かった。お菓子コーナーの広さは近所のスーパーとどっこいであったが、今更俺も小春も何も言いやしなかった。
「ノエル君、オヤツ何買うの?」
小春は興味津々にそう尋ねてきた。しかし、いつもならもう少し無邪気に笑う小春にしては笑みがぎこちない。理由は早々に察していたので、俺は小春の両頬を摘んで引っ張った。
「ふゅぁ! にゃにひゅるのぅ!」
小春の頬は、まるで大福のように柔らかかった。指で押し込めばその分だけ形が変わる。今はそんな事はどうでも良くて、俺が小春の頬を引き上げると、小春は慌てて両手で自分の口元を覆い隠した。
「……何で隠すんだよ」
「何で見ようとするのよ!」
「青のり付いてるの気にしてるんだろ」
「分かってるなら止めてよ、もう!」
小春は俺を突き飛ばして強引に離れる。口元をしっかり両手でガードする彼女は涙目だった。俺だって青のりくらい付いてるんだから、別に気にするなと歯を剥いてみたが、小春は嫌々と首を振る。
「そんなに気になるなら、トイレ行って取ってこいよ」
「……そっか」
そう言ってやると、小春は閃いた顔をして首肯した。
全く思いつかなかった、と言いたげなその目には溜息が漏れる。例え勉強が出来たとしても、小春はたまにビックリするぐらい間抜けになる性分だった。
トイレに向けて駆けていく小春の背中を見送り、俺は一人で菓子の吟味を開始する。オヤツの値段の上限は三百円まで、と遠足のしおりには記されていた。これはきっとどこの小学校も同じなのだろう。オヤツは三百円まで。バナナはオヤツに入りません。ポテトチップスの袋は、気圧の関係で山頂では破裂する恐れがあります。……常套句にも程がある。
だが……この『八つ三百円迄』と言うお触れは往々にして守られる事はない。別に先生も暇じゃないんだから、誰彼のリュックの中をひっくり返してオヤツを確認し、値段をネットで調べるような真似はしないだろう。クラスの男子も女子も、少しでも先生に反抗心を抱く奴なら確実に五百円分は堅い。
そんな奴らに、俺は声を大にして叫びたい。
「お前達は思考と忍耐を忘れた意地汚いハナタレだ」
学校、ひいては教育界が定めた不文律の真の狙いを分かっていないのだ。パッと見、適当に考えられたかのように思える三百円と言う上限。しかしこれは、実に絶妙な設定と言える。
例えば、三百円で一体何が買えるのかを考えてみる。
うまい棒なら三十本、カットよっちゃんなら十個、都こんぶなら五箱、キャラメルやポテチ、板チョコならおよそ三つと言った所だろう。
勿論、貴重な遠足オヤツラインナップを一種特化構成にする阿呆はそれこそハナタレの極みだ。うまい棒なぞ二本で飽きるし、カットよっちゃんは二袋目に手を伸ばす事なく、そして都こんぶは好みの問題だが一箱食べ切れない。
しょっぱいものばかり食えば当然甘い物が欲しくなる。だが甘い物ばかり食うと気持ちが悪くなってくる。重要なのはバランスだ。
三百円以内にコストを抑え、かつ自分がちゃんと満足できる配分を考えなければならない。途中で飽きて後悔する事の無いように、持っていく菓子を食うシチュエーションを想定し、その場面場面に合った菓子を選び取る。フルに頭を回転させなければ、待っているのは飽きた菓子をクラスの残飯処理係(バキューム君)に譲渡する惨めな未来なのだ。
持って帰れば良いじゃんって? 親に『やっぱり食べ切れなかったじゃない』と叱られたいならどうぞご勝手に。
つまりこれは、己の計画能力と想定能力を培うための教育の一貫。
学校がそうやって俺達に叩き付けた挑戦状、受けて立たぬ訳には行かないだろう。
……と、『オヤツは三百円まで。バナナは云々』からここまで、全て親父に散々諭された事である。俺自身は正直どうでも良かったりするが、少しでも出費を抑えたい親心を汲んで、俺は親に頂いた菓子代三百円をポケットの中でチャラチャラと鳴らした。
飴は長く味が楽しめるので、必ず一袋は買おうと決めていた。三個も食えば飽きるし値段も百円から足が出るが、小分けになっているので飽きたら誰かと交換できる。後は単純に好きでよく世話になる駄菓子、キャベツ太郎でも買おうと考えている。
残った端数は一つ三十円とか十円とかのお菓子で隙間を埋めていくように三百円を目指そうと、小さい菓子の並ぶコーナーに足を踏み入れた。
その時だった。
音が店内に響き渡った。遠くで鳴った轟音、と言った風の、大袈裟だけれど小さい音だ。まるでゲームの中で聞くようなチープな爆発音だったと思う。
「……何?」
足元が少し揺れ、異様な気配が立ちこめている。
まるで皮膚が裂けてしまいそうな程、空気が張りつめているのが分かる。
今の、何の音だ? 少なくとも昼過ぎの平和なデパートで聞こえていい音ではない。違和感がデパート全体を飲み込み、まるで時が止まったかのように周囲の客も動きを止めている。そのまま数秒後、思考が回り始めた時、もう一度音がした。
今度はさっきよりも近く。明確に、爆発音と分かる程。
店員が慌ただしく駆け回っている。ただ事ではない事を知る。店内放送が流れる。壮年の男の声が、取り乱して裏返っていた。
「お客様にご連絡申し上げます! 店内で爆発物が発見されました! 店員の指示に従い、速やかに避難して下さい! 繰り返します、お客様にご連絡申し上げます……」
店内が俄に叫び声に満たされる。
少し遅れて混乱した足音が四方八方から響き渡ってくる。蜂の巣を突ついたような、という表現がピッタリだ。あちらこちらで、小さい子の泣き声が聞こえ出した。大人達の怒鳴り声も聞こえてくる。誰より先に体を出口に捩じ込むため、恥も外聞も捨てて、顔も見た事が無い相手を罵り合っている。
……なんで俺は、こんな所でボーッと突っ立って、この事態を眺めているんだろう。もしかしたら今俺が何気なく手にしている菓子の袋に爆弾が仕込まれているかも知れないのに。
想像したら全身の血の気が引いた。俺は慌てて手にした菓子を投げ捨てた。足元に爆弾があるかも知れないようなこんな空間に1秒でも居られるか。
駆け出そうとして、もう一度爆発音がした。音はさらに近くから聞こえた。音のする方からやって来た青ざめた中年の女が、足をもつれさせ、震える声で何かを喚き散らしている。構ってられない。店員が彼女を支えてやっているが、その店員の足も震えている有様だった。
今度こそ、と思ったが、頭の端っこに何かが引っかかった。
……女はどこからやって来た? どっちの方向から?
「じょ、女子トイレが、ば、ば、ば……」
「お客様、落ち着いて!」
脳裏を掠める拗ねた少女の顔。閃いた笑顔と、覗く歯に付いた小さな青のり。そしてスキップを踏む後ろ姿。
嫌な予感が足元で血と混じり、体を登ってくる。喉元で止まる。息が苦しくなる。
トイレに行って、取ってこいよ。そう言ったのは俺だ。
小春は……小春は何をしているんだ? どうしてすぐに俺の所に来ないんだ?
「女子トイレが爆発したの!」
黙れババァ。
違う、いや、違う。きっと小春も、この混乱した空気に乗せられて、思わず俺を置いて逃げ出したんだ。全く薄情な奴だ。いやアイツはそんな薄情じゃない優しいし人を思いやれるし俺を心配してこっちに来る筈じゃ。
……いや、ダメだ。違うんだ。そんな事はない。小春は逃げた。こう言うときは人間誰しも自分の身が可愛いのだ。だから小春も逃げている筈だ。そうだ。それがいい。
きっともうデパートの駐車場にでも避難してて、騒ぎを聞きつけて駆けつけた警察から震える体に毛布とかかけられてて、そんで俺が周囲に居ないのに気がついて必死にキョロキョロ、親を見失ったアヒルの子みたいに慌てて泣きながらあちこち走り回ってるんだ。
そうだ、絶対に、そうだ。仕方ない奴だ、本当に。だから俺も、外に逃げないと。慌ててる小春の後ろから驚かしてやって、それで心配してた小春に泣きながら怒られる。そうだ。そうなんだ。絶対に、俺に待ってる未来はそんなホッとするような未来なんだ!
「トイレで、女の子が! ま、巻き込まれて、私、私……!」
「お、お客様、一先ず落ち着きましょう。何があったのか、ゆっくりと……」
俺は駆け出していた。このクソババアの妄言を信じている訳じゃない。
嘘っぱちだと信じているからこそ確認するために女子トイレに向かっていた。
頭の中に過るのは、幼稚園の頃からの小春の思い出だった。
ガキ大将に立ち向かったときの事。
小春に絵の描き方を教えてもらったけど、やっぱりヘタッピで笑われた事。
強引に鬼ごっこに誘って、小春が転んでしまって泣き出した事。
お受験に落ちたのに照れたように苦笑していた事。
大量に抱えたラブレターをどうしようか、と一緒に苦悩した事。
勇気を出して今日のお出かけに誘った俺を、優しい笑顔で迎えてくれた事。
様々な思い出がまるで走馬灯のように駆け巡る。畜生。なんでこんなに鮮明に思い出せちまうんだ。どうして涙が止まらないんだ。俺は何も心配しちゃいない。女子トイレには誰も居ない。そう信じているのに。
……信じていたのに。