1 芳野小春は如何にして世を去ったか
彼女の右手は、既に体温を失っていた。
殺虫剤でひっくり返ったゴキブリも、車に惹かれてペシャンコになったカエルも、飼育小屋の奥で眠るように息を引き取ったジイさんウサギも見た事はあった。死について学ぶ機会は、たかが十余年程度の人生でも余りある。
生き物はいつか死ぬ。死んでしまったら生き返らない。だからみんな、命を大切にしましょう。
道徳の教科書をなぞったような、事務的な担任の忠言を思い出した。でもそれは……『いつか』死ぬっていっても、それは『いつか』であって、『今』じゃないだろう。
「小春……」
艶やかで綺麗だった髪は砂埃に塗れていた。珠のように滑らかで、綿のように柔らかだった肌は無惨に焼け爛れてしまっている。体の半分が吹き飛んでいても、彼女の表情はまるで眠るように穏やかで、その異常な現実が苛む狂気と憎しみ、悔しさが胸の中で渦巻き、沸き上がる吐き気で頭がどうにかなりそうだった。
そして、彼女の手を握り締める俺を見下す、若白髪の男が呟く。目の前でまだ年端も行かない少女が死んだと言うのに、顔には何の表情も浮かんでいない。まるで実験用のマウスが死んだのを眺めているような冷めた視線だ。
「死んでる」
言われなくても分かってる。分かってるよ。
「仇は討つ」
小春をこんなにしたのは、コイツじゃない。それは分かっている。
憎しみを向けるべき相手はコイツじゃない。それも分かっている。
でも、我慢が出来ないんだ。この男にとって小春の死が好都合だったって事が。この男から見れば、目の前で訪れた小春の死は、どこか遠い地方の痛ましい事件を報道しているニュース番組を眺める感覚と同じなのだと思うと、怒りと無念で気が狂いそうになる。
若白髪は無言で俺の髪をグシャグシャと撫でやってから背を向けた。慰めにもならないその行動に、俺のはらわたは尚煮えたぎる。
見上げた男の表情は、何とも形容し難く歪んでいる。半開きの口からは興奮したような荒い息が漏れ、ぎらつく瞳は喜色に富み、眉は般若の様にしかめられている。
身が震えた。怒りが一瞬だけ掻き消される程の悪寒を感じた。
コイツは地獄からやってきた鬼だ、と本気でそう思った。猫背の男の背中が、数瞬前の倍は大きくなったように見える。多分本当に、人間ではない何かなんだろう。……本当に、そうなのだろう。