序文・かつてヒーローだった者
男はいつだって、ヒーローに憧れている。
悪を挫き弱気を助けるヒーローの戦う姿は、勇ましく、美しく、逞しく、そしてなにより格好良い。
仮面ライダーもウルトラマンも戦隊レンジャーも見ないような男は……断言しよう、男じゃない。
画面の向こうで巨大な悪に立ち向かい、例え窮地に陥ろうとも逆転を演じる彼らは、俺達の心の師匠なのだ。
……俺がそんな夢想を抱いていたのは、小学六年生の秋口、安濃英斗に出会う前の事であった。
*
『安濃英斗』と言う名前が本名かどうか、俺は知らない。
その男は、およそ俺が抱いていた理想のヒーロー像の対極に居るような男だった。
彼の頭には若白髪が混じっており、フケまみれでボサボサだった。肉付きは悪くて頬は痩けていて顔色は土気色で、まるでゾンビみたいな造形をしていた。
しかし常にギラギラと飢えた狼のような血走った三白眼で、あらゆる物に鋭い視線を投げ掛けていた。
無口な男で、たまに口を開いたかと思えば、朴訥とした喋り方で愛想の欠片も無かった。
服装は常に私立松乃河原学園高等部の制服だった。学校指定のローファーは光沢もなく泥だらけで、踵は無惨に潰れていた。
外出着はそれしか持っていなかったのか所々ほつれており、碌に洗濯もしないのでかなり臭っていた。
いつも徹夜明けのような隈を目の下に張り付け、極度に曲がった猫背、酷いがに股で、時折思い出したようにポケットから無造作に錠剤を取り出して水無しで飲み込む姿は常習者にしか見えなかったし、実際そうだったのだろうと俺は思っている。
住処は四畳半のアパートで、未成年の癖に日に二箱もセブンスターの箱を握り潰し、ウォッカか睡眠薬がないと眠れないと震えながらそう零していた。
食事はカップ麺ばかりを一食に三杯食ったり、袋砂糖やホットケーキミックスの粉をおおさじですくって一袋食ったりしたと思ったら、翌日から丸二日も食わなかったりして、過食症と拒食症を行ったり来たりしていた。
意味もなく雄叫びをあげたり、血が出る程自分の指を噛む、ひたすら無言でメモ帳に憎しみの篭った言葉を書き連ねる等、猟奇的な奇行も目立った。
今はもう、彼は俺の隣には居ない。しかしそれでも、彼はかつて戦っていたのだ。己の命と心を削りながら、見る事さえ汚らわしい程の邪悪共に立ち向かっていたのだ。
そして、現実のヒーローとはかくも泥臭く、惨めで、意地汚く、憎たらしく、孤独と憎悪に取り憑かれた存在なのだと教えられた。
テレビでも新聞でも報じない、ネットで噂にもならない。誰に語られるような存在にもならない。
そんな男だったが、でも確かに安濃英斗は実在したのだ。
そして安濃英斗は、例え落伍者であっても、復讐鬼であっても、この世の爪弾き者であったとしても……俺にとっては、本物のヒーローだった。