迎春
ぱちりと目を開けた。辺りはまだ墨を流したように暗い。さて、なぜこんな時間に起きてしまったのだろう。考えていると外から猫の「フ―フ―」と相手を威嚇する声が聞こえてきた。ああ、この声で目が覚めてしまったのか。会得し、再び眠りにつこうと上掛けを引っ張った。しかし猫の緊張感がこちらに伝わってくるからか、なかなか寝付けない。お香はしかたなく猫を追い払うため起き上がった。
音を立てぬように闇の中をそっと歩く。師走ともなると夜はぞくりとするほど冷える。下駄をつっかけ、そっと表戸を引いた。その途端むっとするような血の匂いが鼻をついた。思わず顔をしかめ、匂いの出所を探し足元に視線をやる。足元は闇がわだかまり、初めは何があるのかわからなかった。何か黒い物が横たわっている。目を凝らしそれが何か分かった瞬間、「あっ」と小さく叫んでしまった。思わず口を手で覆う。そうしないと夜の町に女子の悲鳴がこだましてしまう。
戸口に倒れていたものは人だった。傍らには必死に威嚇する猫の姿があった。
すぐさま家の内に駆け込み、父と母を呼んだ。真夜中に叩き起こされた父母は不機嫌そうだったが、表で倒れている人の姿を見て態度は一変した。父はすぐさまその人を担ぎ入れ、奥の座敷に横たえた。母は蝋燭に明かりを灯すと、水を張ったたらいとまっさらな布を持ってきた。
蝋燭の明かりで横にされた人の姿がはっきりした。二十歳前後の若い侍だった。父は侍に詫びを入れてから慎重に腰にある刀を帯から抜く。侍は荒い呼吸を繰り返すばかりだ。母は侍の帯を弛め、そっと上半身から衣を脱がした。藍色の衣は血を吸いこみ、黒く染まっている。侍の脇腹には深々とした刀傷があった。傷口からは赤い血がたらたらと滴り落ちている。
「お香、良庵先生を呼んで来い」
父に言われ、お香は夜の町へ飛び出す。良庵先生の家までは十町(約1㎞)程離れている。夜気は冷え冷えとしていたが、走り続けたせいで良庵先生の家に着いた時には背から汗が流れていた。
齢五十の医者は、事情を聞くとすぐに支度を整え早足で来てくれた。奥の座敷に横たわる侍を目にし、「むう」とうなったが、持ってきた道具ですぐに治療にあたってくれた。
良庵先生が治療をする間、父母の部屋に集まりどうしたものかと頭を抱えた。
「おっとつあん、あの方どうなるの」
「そうさなぁ」
父、籐兵衛は顎を撫で、うーんと唸った。懇意にしている岡っ引きに頼めば、あとはそちらでなんとかしてくれるだろう。しかし深い傷を負った者をさっさとほっぽりだすわけにもいかない。しばらくはうちで預かるしかないだろう。
「傷が癒えるまでうちで養生してもらう他ねえなぁ」
籐兵衛の言葉に承知しました、と母、おそのは頷いた。
「おめぇもいいか、お香」
「はい」
お香が神妙に頷くと、籐兵衛はお前はもう寝ろと、床へと促した。
寝ろと言われても寝むれるわけがない。布団にもぐったが、心の臓が高なり、目が冴えてなかなか寝付けなかった。一つ屋根の下に、脇腹を刺された侍が寝ているのだから無理もないだろう。
あの方は大丈夫かしら。ひどい傷だったし、死んでしまわないわよね。ここで心配していてもしょうがないのだが、気になってしかたがない。それでも、無理やり目を閉じると浅い眠りについた。ほんの束の間目を閉じただけだと思ったのだが、いつの間にか空が白じむ時刻となっていた。
※
浅くしか眠れなかったためか、起きても頭がぼうっとする。しかし凍るように冷たい水で顔を洗うと、途端すっきりと目が覚めた。
良庵先生は昨夜からつきっきりで看病をしていたようで、籐兵衛と共に茶を飲みながら語らっていた。
「良庵先生、お侍さまは大丈夫ですか」
良庵は優しく笑いかけ一つ頷いた。
「昨晩はひどい熱にうなされていたが、今朝方になってだいぶ落ち着いてきた。峠は越えただろう」
その言葉を聞き、ふうっと胸をなでおろした。それでも気になり様子を見に奥の座敷へ行った。襖をわずかに引き、そっと中を窺う。
「あっ」
思わず声をあげてしまった。寝ているとばかり思っていた侍は、むくりと上体を起こし、辺りをぼうっと見回していた。
急いで良庵を呼びに行く。良庵はすぐに来てくれた。
お香は良庵と共に侍の様子を見たかったが、店を開ける時刻となり、そちらの手伝いをしなければならなかった。表に店を構えてはいるが、まだ奉公人を雇うほどの余裕はない。人足が途絶えるまで働き続け、気づけば八つ時(二時)になっていた。
侍はいっときは起きたもののすぐまた横になり、寝入ってしまったようだった。良庵はいつまでもここにいるわけにもいかないので、侍が眠るとすぐに帰って行った。
遅い昼飯を急いで食べ、そっと侍の様子を伺う。侍は安らかな寝息をたてて眠っていた。
いったいこの方はなぜうちの前で倒れていたのだろう。侍の額に薄っすらと浮かぶ汗を拭いながら考えた。この方は一体誰なのだろうか。
ふと侍の瞼がぴくりと動き、ゆっくりと開いた。はっとして思わず腰をあげる。侍はついっとこちらに瞳を向けた。澄んだ双眸に見つめられ、腰を浮かしたまま動けなくなってしまった。
「あなたは…誰ですか」
唇をわずかに動かし、かすれた声で呟く。
「わ、私はお香です」
反射的に答えると侍はそっと辺りを見回し、今度は、「私は誰なんでしょう」
とつぶやき、不思議そうにこちらを眺めていた。
※
「これは記憶がふっとんじまっているな」
六つ時(六時)に来た良庵は、苦り切った様子でため息をついた。良庵の向かい側に座る籐兵衛も渋い顔をしている。良庵は侍の様子を見た後、部屋を移し、籐兵衛と二人きりで話し合っていた。
「強い衝撃が与えられると記憶が飛んじまうことがあるんだ」
「刺された時に記憶をなくしたんでしょうか」
籐兵衛は心配そうにちらちら侍の方に目をやりながら聞くと、良庵は「ああ」と頷いた。
「そうだろうよ。さて、これからどうする、旦那?」
「どうすると言われましても、とにかく傷が癒えるまではうちにいてもらい、その後は親分さんに相談しようかと思います」
「そうか。まあ早いとこ親分さんに来てもらった方がいいかもしれんな。厄介事に巻き込まれるかもしれんぞ」
籐兵衛は不安そうに良庵を窺った。
「何か、思う所があるのでしょうか」
「あぁ、まぁ勘なんだがな。浪人の身なりをしているが、どうにも目に強い意志が宿っているように見える。今まで幾人も浪人を見てきたが、他のやつらとは何かが違う。何か目的を達成するために浪人の身なりをしているような感じがするな」
「わかりました」
籐兵衛は顔を引き締め、深く頷いた。
※
「吉次郎さん、身体の調子はどうですか」
声をかけると、吉次郎は笑顔を返した。
「もう大丈夫ですよ」
吉次郎とは、自分の名すら忘れてしまった侍のために籐兵衛が付けた新たな名だ。吉次郎はしばらくの間まともに立つことも食べることもできず、床に就いたままだった。しかしやっとよくなってきたのか、最近では十分に食べられるようになり、自由に立って歩けるまでになった。
吉次郎が回復するまで世話は主にお香がしていた。食べる時の手助けをしたり、湯に浸した手拭いで身体を拭いたりした。そして時間がゆるす限り吉次郎の話相手をしていた。とは言っても話すのはもっぱらお香の方だったが。
「吉次郎さん、無理をなさらずまだ休んでいらしてもいいのに」
「そうはいきません」
吉次郎はゆっくりと頭を横に振った。
「いつまでも寝ていてばかりでは迷惑になってしまいます。少しでも助けて頂いた恩を返したいのです」
吉次郎は歩けるようになるとすぐ、籐兵衛に店の手伝いをしたいと申し出た。最初籐兵衛は良い顔をしなかったが、吉次郎が必死に頼むので、籐兵衛は渋々頷いた。
籐兵衛の着物を着た吉次郎は全く侍には見えず、大店の手代のような風情があった。店に出ると色白の肌で、精悍な顔つきの吉次郎は、すぐに女子の注目の的となった。小間物問屋を営んでいるので女子の話題になるのは嬉しい事だが、お香は吉次郎がもてはやされる度に砂袋がすとんと重く胸に落ちるような感じがした。
そんなある日、珍しい来客があった。
「お久しぶり」
笑顔で店にやってきたのは友達のお松だった。
「おまっちゃん」
仕事がひと段落しお茶をすすっていたお香は、文字通り飛び上がり、お松に駆け寄った。
「お久しぶり、お香ちゃん」
「おまっちゃん、最近顔見ないからどうしたのかと思ったよ。元気だった?」
「うん、元気だったよ。お香ちゃんは?」
「私は元気だけが取り柄だからね。それよりおまっちゃんどうしたの?急にうちに来るなんて珍しいね」
お松はお香を尋ねる時はいつも事前に文を送っていた。しかし今日に限って突然の来訪だったので、妙な感じがした。
「なんだか急にお香ちゃんの顔が見たくなっちゃって」
お松の言い方にも何かひっかかりを感じた。お香がそれをお松に言おうとしたその時、
「只今戻りました」
お松の背後で吉次郎の声が聞こえた。お松はびくっとして振り返る。
「いらっしゃいませ」
人の良い笑みで吉次郎はお松に笑いかけた。
「お帰りなさい、吉次郎さん」
使いから戻って来た吉次郎に声をかけ、それからお松を見ると、彼女は顔をこわばらせ吉次郎を凝視していた。それからふいに、「一馬様…」
呟くと身を翻し、店を出ていってしまった。突然のことで追うこともできず、吉次郎と二人顔を見合わせ、突っ立ったままだった。
その日の夜、お松の危篤を知らせる文が届いた。お香は父母に友が危篤の状態だから見舞いに行ってくると言うと、父母は了承してくれた。
「それならば吉次郎に一緒に行ってもらいなさい」
吉次郎は籐兵衛に言われる前に支度をしており、すぐにお香と共に家を出た。すでに木戸は閉まっている時間だったが、理由を言って通らせてもらった。
「吉次郎さん、本当は記憶を失っていないんじゃないんですか」
提灯を持ちお香の先を行く吉次郎に、努めて平たい声で尋ねる。お香は吉次郎が帰って来た時、お松を見てわずかに目を見張ったところを見逃さなかった。
吉次郎は返答にあぐねているのか何も言わない。
「お香さんは、お松さんとどこで会ったのですか」
しばらくして吉次郎はお香に尋ねてきた。
「おまっちゃんと初めて会ったのは、うちの前です。吉次郎さんのように、店の前に倒れていたんです」
そう答えると吉次郎はくすりと笑った。
「お香さんの家の前ではよく人が倒れるんですね」
「あなたで二人目です」
つんけんと返してから話を続けた。
「初めて会ったのは、私とおまっちゃんが十の時でした。彼女はその頃から遊郭で働かされていて、そこから逃げて来たんです。何も食べずずっと走り続けて力尽き、しまいにうちの前で気を失ってしまったというわけです。遊郭の主が迎えに来るまでの間に私とおまっちゃんはすっかり仲よくなり、遊郭に連れ戻されてからも時々主の目を盗んでうちに遊びに来るようになりました」
そこで一度言葉を切り、ほうっと息をついた。それからお松の器量好い容貌を思い浮かべながら言葉を続けた。
「そんな彼女も今では吉原一の花魁ですもんね」
お香の家を訪ねる時、お松はあまり化粧をしていなかったが、化粧をせずとも思わず振り返ってしまうほど美しかった。
「今度はあなたが答える番ですよ、吉次郎さん。いえ、一馬様」
お松は吉次郎の顔を見て「一馬様」と言葉を漏らした。この男の本当の名は一馬というのだろう。
「…お香さん達には謝らないといけませんね」
吉次郎はお香の方をわずかに振り返り、申し訳なさそうな顔をした。
「確かに私の名は一馬です。そしてお松は私の幼馴染なのです。私達の故郷はここからずっと南へ、京よりも南へ下ったところにあります。お松の家はとても貧しく、兄弟も多くいたので、器量の好いお松は売られてしまったのです。私はお松を探すために江戸に来ました。お松はすぐに見つかりました。まさか花魁道中の最中に見つけるとは思いもよりませんでしたが。
しかし見つけたはいいが彼女は私の手の届かぬ存在となっていました。私は浪人として江戸で暮らしながら、お松に会える方法を探していました。そんな折、何もかに襲われ偶然あなたの家の前に倒れてしまったという次第です。記憶を失っていたことは本当です。お松の顔を見て全て思い出しました」
「そうだったんですか」
答えたもののお香は釈然としなかった。なぜ一馬は襲われたのか。最近辻斬りが出るという話はとんと聞かない。お香が考えあぐねいていると、いつの間にか吉原に着いていた。
お松が働く店に行くと、店の前でお松に付いている禿が待っていた。禿に先導され店に上がる。お松は奥の座敷で横たわっていた。苦しそうに顔を歪め、ひゅーひゅーと喉で息をしている。
「おまっちゃん」
声をかけると、お松は薄っすらと目を開け、微笑んだ。
「お香ちゃん…」
呟いてから、ついとお香の隣に座る一馬を見た。
「一馬様」
「お松」
一馬はお松の手をそっと握った。お松は優しい笑みを残し、静かに目を閉じた。
「もう半年も前から肝の臓を患っていたのです。最近はもうずっと床にふせっていて…」
涙をはらはらと落としながら禿は話し出した。
「けれど今朝になって急に元気を取り戻したようで、外へ飛び出していきました。けれど帰ってくるとすぐ床に就き、そのままどんどん衰弱していって…。今思うと今日限りの命だと悟って、最期に外を見、親しかった人に会っておきたかったのでしょうね」
禿の言葉を聞き、喉が詰まった。
「おまっちゃん」
つぶやくと、あとからあとから涙があふれてきた。そんなお香の背を一馬はそっとさする。それからふいにお香の耳元に口を寄せた。
「今日はここに泊らせてもらってください。けっして外に出てはいけません」
はっとして一馬を振り返ると、一馬は険しい表情でお香を見た。
「ここに来るまで何者かにあとをつけられていました。多分、幕府の手のものでしょう」
「えっ」
「すみません、言わない方がいいと思ったのですが、私はお松を探すためだけに江戸に来たわけじゃないんです」
お香は目を見開いた。一馬の言いたいことはすぐにわかった。一馬は、幕府に仇をなすためにここへ来たのだ。あの傷も幕府の人間に正体がばれ襲われてつけられたものだろう。
「…なぜ」
「この国を終わらすために。お松が売られたのもこんな場所があったからです。この国を皆平等な平和な国にするために、私はここへ来たのです」
そう言って一馬はすっと立ち上がった。
「お腰のものがないのに大丈夫なのですか」
ここへ来る時、一馬はいつも通り町人の格好をし、刀は店に置いてきていた。
「これぐらい逃げおおせられます」
お香に笑いかけ、「お松をお願いします」と言うと座敷を出ていった。お香は禿に呼びかけられるまでずっと、一馬が出ていったあとを見つめていた。
※
「小春日和ですね」
夫の言葉にお香は頷いた。朝方はひどく冷え込んだが、昼になるとぽかぽかと暖かくなってきた。
「吉次郎さん、春は来たのでしょうか」
ふいに尋ねると夫はわずかに頭を振った。
「まだでしょうね」
明治の世になり、動乱はやみ、四民平等にもなった。しかし夫が目指す世とは別のものになりつつある。
「この子が生まれてくる時は良い世の中になっていてほしいです」
そっと大きくなった腹に手を当てた。
「ええ」
夫も頷きお香のお腹を撫でる。
「ハル、きっと良い国にしますから、元気に生まれてきてくださいね」
至らぬところも多々あるとは思いますが、気楽に読んで頂ければ幸いです。