17歳の老人
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プロローグ
《こちら広報とよはしです。豊橋警察署から行方不明者のお知らせがあります。××町の篝雄介さん、一七歳の男性が、本日午後一時頃から行方不明となっています。特徴は、身長一四八センチ、やせ型、白髪混じりで、白いプリントTシャツ、青のGパンを身に着けており、腰には白黒のチェックシャツが巻いてあります。見かけた方は、最寄りの警察署までご連絡下さい。》
〇
ウェルナー症候群
一九〇四年、ドイツの内科医オットー・ウェルナーにより、アルプス地方居住の四人兄弟の臨床報告がされた。
本症は成人期以降に発症することが多いため、幼年期から好発する早老症であるハッチソン・ギルフォード・プロジェリア症候群に対して、「成年性プロジェリア」と称されることもある。
患者は低身長、低体重、白髪、皮膚の硬化……――。
一
私が老人ホームに入れられたのは一七歳の時であった。
通常老人ホームに入居出来るのは、六〇歳以上だったり、六五歳以上である。なのに私が入居できたのは、親とこの老人ホームとの繋がりが深いのと、私の見た目によるものだろう。
ウェルナー症候群の治療法は未だに分かっていない。
発症が分かった時に入院を勧められたが、親はそれを断った。私は高校を退学させられ、そのまま老人ホームへ強引に入居。
簡単に言えば、私は捨てられたのだ。
しかし老人ホームの環境は非常に良かった。本来入居出来るはずもない私を温かく迎えてくれているだけでも、胸が熱くなった。と同時に、申し訳ないという罪悪感に駆られた。
自室に戻ると、机には線の入っていない、白い紙があった。この紙は伝言があれば、ここに記しておくためのもので、認知症の人に対して置いてあるんだとか。
紙の横にはペンが転がっている。今無性にこの白い紙を汚したいと思う。
ペンを鷲掴むようにして取り、私はペンを走らせた。
…………。
ニ
老人ホームから逃げ出した私は、豊橋駅にいた。肺のあたりが痛い。息は上がりきっており、これ以上歩を進めることでさえ億劫である。
それでも私はここを離れたかった。喧騒の聞こえない静かなところに行きたかった。
駅構内で、一際注目を集める者がいる。
その者は何だか訳の分からないことを叫んでいた。周囲の人々は好奇の目を向けながら、その場を後にしていく。
私もまた同じようにするが、胸を冷たい風が通り抜けていく感じがした。
改札口まで着くと、窓口の方に行く。リュックサックの中のどこに財布をやったのか捜すのに手間取っていると、駅員に「そう焦らなくてもいいですよ」と言われる。笑顔ではあったが、眼光に輝きはないように思われた。
老人ホームからくすねたお金で、名鉄岐阜行きの切符を買う。私の所持金は四〇〇〇円。岐阜までの片道は一四七〇円なので、往復を買っても良かった。しかし、私はあえて片道を買ったのであった。
改札に切符を通し、三番線へと向かう。夕方頃の豊橋駅は人が多い。何度も人とぶつかり、その度に厭そうな顔をされながら、三番線に辿り着いた。
自分の乗る電車は既に来ている。なので急がねばならなかったのだが、私の目は電車の外観にくぎ付けだった。というのも生まれてからあまり電車というものを生で見る機会が少なかったからである。
自分と同じ施設にいた生粋の鉄道オタクである佐藤さんが、この名古屋鉄道――通称、名鉄はよく見せられていた。生で見るのは初めてであったが。
運転者のいる車体の正面、妻構と呼ばれる部分は黒を基調とした窓の真ん中に灰色の太い線が入っている。その線を基軸として下のほうには、左右対称に照明がついていた。
じーっと見つめていると、段々これが人の顔のように見えてきた。
私の頭に浮かんだのは、無表情。無表情の人がそこにはいる。
たらりと、私の頬を汗が伝うのがわかった。
風船がしぼむみたいに急に見る気が失せて、すぐさま電車に乗り込もうと思った。が、一号車と二号車は指定席なので、私は三号車まで行かねばならなかった。
ちょうど一号車と二号車の間を通り過ぎたあたりだったか。発車を告げる汽笛が鳴り、私の周りにいた人は走り出す。私もそうしたかったのだが、身体が思うように動いてくれない。なんとか間に合ったものの、車内の湿度の高さは異常であった。外はまだ寒さの残る乾いた空気であったため、この差には私も気持ち悪さを感じざるをえなかった。
人が多い。当然席も埋まっている。だが座りたい。目ん玉をかっぴらいて私は捜した。その行為が非常に不快だったのだろう。柄の悪い学生たちが、私に向かって舌打ちをした。
「あの……もしよろしければ……座りますか?」
おずおずと申し出る声がした。声主のほうへ振り向けば、申し訳なさそうな顔をした女の子がこっちの方を見ている。
光沢のある黒髪の短髪で、笑ったら思わず時めいてしまう、そんな顔だちをした女の子であった。
心音が早鐘のように高まっていく。頭の中で心音が響きに響いた。
なので、思考を切り替える。席を譲ってくれただけだ。この子は。せっかくの申し出を断る要素はない。礼を言って、席を譲ってもらえばいいだけの話。あとは何も考えない。ああそうしよう。
「ありがとう」
しかし、引っかかることが一つ――、
「……でも、私は……」
言いかけて止めた。言っても無駄なのは分かってる。なので、私はそこで言葉を止めたのだ。分かるはずがない。そう考えるだけで、暗い気持ちになった。もうかかわらないでくれ。拒絶の雰囲気を出してみる。すると、女の子は私から目線を外した。
これでいいのだ。
まだわだかまっている心中へ必死に言い聞かせた。
電車はもう動き出している。首が痛かったが後ろを向くと、目まぐるしく変化していく景色がそこにはあった。一つの景色に集中しようと、ぐいっと顔をよせる。が、あっという間に自分が見ていた景色は見えなくなってしまう。
長い橋に差し掛かった。
音が変わる。
と、同時に強烈な西日が私を照らす。まるで私の苗字のような、炎のような光だと、そう思った。
◇◇◇
「大変です! 篝さんがいません!」
老人ホームに慌ただしく叫ぶ従業員がいた。この従業員の名前は高橋結という。まだ入りたてで動きに所々落ち着きがない。
そんな高橋にとって、篝という人物がいないのはそれほど大事だろう。
「まぁまぁ高橋さん。落ち着きなさい」
それを優しく抑えるのが高橋の先輩の橋下である。橋下は高橋の呼吸が落ち着くのを待ってから問いを投げかけた。
「まずはいつ頃から見てないのか教えてくれる?」
「えっと、昼ご飯の時間まではいたのを見ています」
「なるほど。他に変わったことは?」
「ありましたよ! 事務室が荒れてました!」
「いや、篝さんに関して聞いているんだけど……」
橋下は頭を抱えた。
「えっ!? 変わったことって橋下さんが言ったじゃないですか!」
「はいはい。他には?」
「ないです!」
「全く……」
「……橋下さんや」
「はいなんでしょうか?」
橋下が反応した先には、彫りの深い顔のした佐藤がいた。若い頃にはさぞもてただろう。
「雄君がいないんだってね? ひょっとしたら儂が原因だったんじゃないかと思ってな」
「というと?」
事務室の照明が煌々と照らされている。
佐藤の顔が、黒い帳をかけたかのように、暗くなった。
「私は、呻吟の世界でひとり住んで居た。私の霊は澱み腐れた潮であつた――」
橋下と高橋は顔を見合わせる。ややあって橋下が聞き返した。
「なんですかそれ?」
「エドガー・アラン・ポーの言葉さ。『田園の憂欝』を彼に教えたんだ。最近蝉の抜け殻みたいに呆けた様子じゃったから刺激でも与えようと思ってな」
読書を日頃から嗜まない二人にとって、佐藤の言葉は呪文のようであった。
「『田園の憂欝』を読んだから篝さんは脱走したと?」
高橋が訊く。
「おそらくな」
儂のせいだったら悪かったな。そう言い残して佐藤さんは事務室を去っていった。
「とりあえず――」
「分かってる」
高橋が言葉を紡ぐのを制して、橋下は『一一〇』を押した。
◇◇◇
電車が東岡崎駅に着く頃には、私に席を譲ってくれた子は降りてしまっていた。
ふと思うことがあった。
そろそろ私がいなくなっていることに、施設は慌てふためいているはずだ。
いずれは足がつくだろうが、目的地に行くまでにつくことはないだろう。
汽笛が鳴り、再びゆっくりと電車が動き出す。自分が動かなくても電車が勝手に動いてくれる。私はこれに時間と似たものを感じた。
人生がいつも時間に追われている感じなのは、自分を勝手に動かしてしまうからではないかと……。
自分だけかもしれないが、各々の感じ方が大事なんだと佐藤さんが言っていた。だから間違いではないはずだ。きっと正しい。
人生とは予めあるレールの上で私という電車が走ることなのだ。
私の乗る快速特急はあっという間に名古屋駅に着いた。電車の乗り降りで辺りは騒々しくなっている。(実際は電車のエンジン音など色んなの要素があるが)
そんな中私は独り、自らの身体的な老いを実感していた。
溜息をつく。
どんなに切望してもこの事実だけは揺るがない。
知らず暗くなっていたのだろう。
他の席は人で埋まっているのに、私の両隣は空いていた。
◇◇◇
老人ホームの休憩室で佐藤は本を読んでいた。篝に薦められた本。
それだけでも佐藤の心は満たされていた。
普段は無口の篝。佐藤が話しかけなければ今でも彼とは赤の他人であっただろう。その彼が自分から本を薦めてきたのだ。喜ばないはずがない。
内容は少々夢のありすぎるものであったが、悪くはない。
思い出すだけで口元が綻んだ。
事務室はまだ慌ただしい様子である。これから篝の捜索が始まるといったところか。
しかし佐藤は予感していた。
篝がもうここに戻って来ることはないと。
夜の帳はもうすっかり落ちていた。窓から見える外の闇が佐藤を吸い込まんと手招きしている。佐藤は闇に染まっていく心地がした。
◇◇◇
「隣いいですか?」
こんなことを言われるとは思わなかった。
近寄り難い雰囲気を出していたのに。思い切り目ん玉をかっぴらいて、闖入者の存在を見た。
自分に席を譲ってくれた人ほどではない。しかし、右目の涙袋にある泣き黒子が似合っていて元ある可愛さを倍増させている。
あまりの不意打ちに、私は言い淀み、頭を下げた。
私の左側に先ほどまでなかった温かさが生まれる。
顔を起こして見遣ると、先ほどの女の子がいた。
「ありがとうございます」と礼を言われた。
もしかして頭を下げるという行為が、同意と取られてしまったのか。だったらそれは勘違いだ。あっちへ行ってくれ。
しかしそれを言葉にする勇気が私にはなかった。勇気がなかったというより、そう思う反面、この今の時間がどこか心地いいと感じるようになっていた。
なのでこんな馬鹿げた質問をしてしまったのかもしれない。
「あの……私……何歳に見えると思いますか?」
口にして後悔した。慌てて訂正する。
「いやいいんだ。どうせ答えは分かってる」
「二〇……んー一七ぐらいですかね……?」
「…………は?」
「え?」
何を言っているんだこの人。こんな風貌をしている私が一七? 巫山戯るな。
苛立ってるのが伝わったのか、彼女は申し訳なさそうに眉をひそめた。
「間違ってたらごめんなさい。ただ服装とかが若々しかったので。あと……あまり大きな声では言えないんですが……」
私の耳元に顔を近づけて、
「あなたは早老症なんじゃないかなと思ったんです」
余程間抜けな面をしていたのだろう。彼女は微笑んで、「当たりですね?」と言った。
心音が速くなる。電車がレールの上を走る音が遅く聞こえた。顔が熱い。恥ずかしい。こんな感情いつぶりか。もしかしたら初めてかもしれない。
長い沈黙の後、やっと私は答えた。
「当たりです」
両親からは小さい時からあまり良い顔をされず、動き辛くなった今は老人ホームに入れられてしまった。
老人ホームにいるのは優しい人ばかりであったが、やはり自分がまだ一七だと思うと、「ここにいるべきではない」としか考えられなくなっていた。
佐藤さんに教えてもらった『田園の憂欝』は、都会を逃れた田園生活での、主人公の憂欝で病的な心情や心象風景が描かれた作品であった。さしずめ私の田園は、老人ホームであった。
だから逃げ出して、このまま私は死する覚悟でいた。なのに――。
分かってもらえる人がいた。
誰かに自分の本当の歳を分かってもらえるのが、こんなに嬉しいことだとは思いもしなかった。
誰にも分かってもらえないという自己認識欲求が満たされてしまった今、私は本当に死ぬ必要があったのだろうか。
馬鹿だ。まだ大人ではない子供のすることだ。そしてそんな自分を外見でも子供と判断してくれた人がいた。
自然とこんな言葉が私からは零れ落ちていた。
「――ありがとう」
三
岐阜駅に着いた私はこの岐阜という地を目に焼き付けるため、少し散策することにした。今手に握り締めているのは先日書き記した紙である。
あわよくばこの紙も処分出来ると思ったのだ。
赤の他人にせよ、誰かにこれを読まれたくはない。人目のつかないところでこれは処分したかった。
駅を出てすぐは当初願っていたものとは違ったが、今の私には何も気にならない。路地に入ると、それまでの喧騒が嘘のように静まり返った。
黒と橙の配色が目立つ。
そのコントラストは少し不気味という言葉の似合う不思議な色合いであった。
先程より足が軽い感じがする。
歩くのも今なら苦ではない。もっと言えば走るのも……。
決心した。
足取りを速くしていく。
(走れる……!)
いつぶりに走れたのだろう。その感動に恍惚としてしまった。頬の筋肉がだらしなく弛緩している気がする。目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
再びを目を開けた時、私の目は驚きの色を隠せなかった。
夜ではなく、朝の光景がそこには広がっていた。
…………。
四
《こちら広報とよはしです。豊橋警察署から行方不明者のお知らせがあります。××町の篝雄介さん、一七歳の男性が、昨日午後一時頃から行方不明となっています。――見かけた方は、最寄りの警察署までご連絡下さい――。》
一部引用箇所がございます。
佐藤春夫『田園の憂欝』から。
『私は、呻吟の世界でひとり住んで居た。私の霊は澱み腐れた潮であつた』
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